第一章 ・・・ 1
まるで見えない檻のなかにいるみたいだった。
最初は狭いものだった気がする。しかし徐々に拡大していった檻。
境は見えなくなったけれど、ただ広いだけで、確実に柵はあると思っていたんだ。
刺々しい有刺鉄線を絡ませて、もしかしたら電流まで流れているかもしれない。
その内側にあるのは期待という名の重圧感。
そしてあらかじめ用意されていた軌道。
やがて。
息ができないほど苦しくなっても、脱け出す、という頭はなかった。
だってその場所しか知らなかったから。
手段も、力も、そして勇気さえも持ち合わせていなかった。
あまりにも子供だったんだ―――。
* * *
都内近郊の小高い丘の上にある私立西龍学園高等学校。良家の子女が主に通う、いわゆるお金持ち学校だ。
学食では一流のシェフが作っていたり、スポーツ施設なみに立派な設備のグラウンドや体育館があったりする。まだ創立してから十年ほども経ってなく、とにかく全体的に綺麗な建物だ。
しかしこの学生の三割近くには、そんな待遇を夢見たり、制服に憧れたり、そして将来を考え自分もしくは親の希望で、エリートに近づくことを目的に在籍している者がいた。
俺は、この春からここの生徒になった。といってもウチは一般家庭に毛が生えた程度の中流階級だ。そう、三割の方。
中学までは、多少もてはやされたこともあったが、ここにいると、上には上がいることを痛感する。
(どうでもいいけど)
あまりに違いすぎる世界観を見せつけられると、笑うしかない。入学していちばん最初に学んだことだ。
俺は教室から見える空をぼんやりと眺めていた。窓側の後ろからニ番目のいつもの指定席。
発行源となる太陽はここからでは見えないが、オレンジ色に染まる空と巻雲が瞳に映る。
耳からは流行りのバンドの新曲。適当にiPodに詰め込んで、規則性もない楽曲をランダムに聴いていた。
教室には俺ひとり。
すでに本日の授業はすべて消化されている。クラスメートはとっくに部活やら塾やらで次の工程をこなしているはずだ。
(放課後、誰も教室にいないなんて信じらんねえ…)
ふつう友達とアホなこと喋ったりしないか?今までがノンキすぎたんだろうか。それともこの学校のやつらが忙しすぎるのか…。
とにかく俺は馴染めないでいた。入学して2ヶ月も経つのに、気の合いそうなやつが見つからない。
(俺に問題があるんだろうな)
ここでは俺が異端だから。
「何を聴いてらっしゃるの?」
イヤホンから流れるハスキーな女性アーティストの―――俺は考え事に集中していて、このときまで気づかなかったが、いつの間にか曲が変わっていた―――声に混じって、少し高めの声が聴こえた。
「またおまえか…」
視線を向けながら俺は言った。
そこには学級委員長の西龍院玲華が立っていて、俺のiPodを見ていた。
―――玲華はこの学校の理事長の娘で、財閥の孫という生粋のお嬢様だ。
整った顔立ちで、それを覆う枝毛ひとつない薄い茶色がかった髪の毛は毛先で巻いている。
いまは、なぜか真剣にディスプレイに注がれて伏せがちだったが、ぱっちりとした二重の目。そしてすっと通った鼻筋。透き通るような白い肌に、ふっくらとした唇。
彼女の美貌は学年、いや学校一だ。
短すぎず長すぎないチェックのスカート。衣替えが終わったばかりの、龍のシルエットをした校章が左胸にあるカッターシャツと、首元にある紅いリボンをきっちりと着こなしている。
成績も良くて教師の信頼も厚い―――。
………って隣の席のオギワラが評価してたな。…ハギワラだっけ?
玲華の素性を知った時は、いまどきいるのかそんなやつ、と目をむいたが……俺には多少やっかいな人物だった。
玲華は思い出したかのように、たまに俺に話しかける。それは決まって俺が一人でいる、この放課後の教室でだった。
さすがに声と喋り方で顔を見なくてもわかるようにはなるほどに。
「またあの話?」
不機嫌丸出しで俺は玲華からiPodを取り返した。とくに驚きもせず彼女は優雅に笑った。
「ええ。神崎さま」
玲華は……いや、ここの生徒のだいたいが同級生だろうとなんだろうと様をつけて呼ぶ。
親しくなれば別みたいだが、それはなんだか躾の厳しい上流階級の証みたいに俺には思えた。嬉しがってかなんなのか、真似するやつも多いからそれはさらに染み渡る。
でも俺は慣れない。
(ムシズ…は言いすぎだな…そう、寒気が走る。ってやつか)
「神崎さまは学校一の運動神経の持ち主ですもの。ぜひ運動部に入っていただきたくて」
「あのなあ…。だから俺はおまえが言うほどのもんじゃねえんだよ!なんっかいも言ってるけど!」
そう玲華はいつもこんなことを言う。
なにを勘違いしているのか、何でもいいから部活に入れと、けしかけるために教室に戻って来るのだ。
たぶん教師にでも言われているのかも知れない。いつも孤立して問題児の要素がある俺を、なんとかしたくて責任感のある玲華は引き受けたのだろう。
いい迷惑だ。
「いいえ。テニスのときなど素晴らしかったですもの」
テニス………。体育のときに試合形式でやらされたんだ。
「俺、あんとき負けたはずだけど」
「あれは本気ではありませんでしたわ」
そうでしょう、とにっこり玲華は笑う。俺はiPodを鞄に押し込むと、ため息をついて席を立った。
「もういいよ」
そのまま席から離れる。
「また、お逃げになられるんですの?」
後ろから掛けられた声は、責めるでもなく諭すでもない、ただの質問だった。それは逆に意外で、俺は振り向いた。
初めて彼女に言われた言葉。
玲華は澄んだ瞳だった。だけど読めない。
「なんとでも言えば。とにかく俺は…やりたいようにやるだけだから」
放っておけばいいのに。
玲華だってなんかの部活に入っていることは聞いてる。それを中断させてまで、俺に構わなくていいから。
俺が教室から出るまで、玲華はもう何も言わなかった。
(よく言うよな、俺も)
やりたいこともないくせに。
教室を出て角を曲がるとそこに一人の女生徒が立っていた。まっすぐに俺を見つめて…いや睨みつけている。
―――浅霧世羅。
玲華ほどの派手さはないが彼女も美人だ。
首のあたりで切り揃えられた黒く艶々しい髪の毛。薄い切れ長の瞳。長身でモデル並みにスタイルが良い。
玲華が陽に例えるなら、世羅は影。
(オギワラが言うには…)
よく喋りよく笑う玲華に比べて世羅は無口だ。
世羅は学級委員の副委員長でもあるから、ということもあるかもしれないが、真逆のふたりは仲がよく、いつも一緒にいることが多かった。
我がクラスのツートップ。
顔と家で選ばれたとしか思えない。
世羅も由緒ある家のお嬢様だとかいう話だ。
「あいつなら教室にいたぜ」
玲華を探しているのかも知れない、と思って俺は言った。すると世羅の表情が変わった。瞳に力がこもる。
あ、と俺は気づいた。
ああー、これが睨まれてる表情か。先ほどまでのはただ目つきが悪かっただけだったのだ。
世羅は何も言わずにまっすぐ長い足をこちらに伸ばした。俺もとくに立ち止まる理由がなくて、世羅に向かって歩を進める。というか出口に。
その間、視線は一度も合わなかった。そしてすれ違いざまポツリと世羅は吐き捨てるように呟いた。
「無礼者」
少なからず驚いたが俺は振り返らなかった。おそらく世羅も、こちらは見ていないと思ったから。
まさかこんな芝居めいた台詞を、校内でしかも同い年の女子に言われるとは思わなかった。
(でもまあ…、何でも有りなんだろうな。ここでは…)
無礼ってなんだろう。
やっぱり西龍院様とか呼ばないといけないのだろうか。舌噛みそうだ。
(玲華様ってんならちょっと良いかもしれない)
アホなことを考えながら俺は学校を後にした。
* * *
居場所がない……。
家にはあまり居たくなくて教室で時間を潰していたのに、そこにも居れなくなると途端に行き場を失う。
ゲーセンもそろそろ飽きたし、立ち読みするために行く古本屋も店主に睨まれるようになった。金もない。
(やば…、ネタ切れ)
とりあえずぶらぶらと繁華街を歩く。
居場所は自分でつくるものだ、と何かの本で呼んだことがある。だけどつくり方は載っていなかった。
だいたい世の中とはそんなもんだ。
見出しに注目して雑誌を買ったとしても、引っ張られるだけ引っ張った挙げ句、最終的には期待を裏切られる。
(…って何のハナシだ、そりゃあ)
仕様もない思考回路に嫌気を感じながら、結局俺はいつもの古本屋に来ていた。店主の視線を感じながら構わず物色する。
意外と俺の神経は図太いかもしれない。
いつものように少年漫画のカテゴリー。
(あ、続き入ってる)
俺は目当ての漫画を見つけて手を伸ばすと、隣に別の客がすっと立った。多少気が散るが贅沢は言えない。タダ読みだからな。
「よお、ちゃんと飯食ってるか?若者」
一コマ目も読まないうちに隣から声が降ってきた。低いバリトンの男の声。
つい周りを見渡すとこの棚には俺しかいなかった。
やっぱり俺に言ってるんだよな。
「……………」
無視だな。
俺は漫画の続きを優先してページをめくった。
「無視すんなよ。神崎悠汰くん」
はっきり名前を呼ばれて、つい顔を上げた。
三十前後の優男。それが第一印象だった。声や喋り方から、もっとおっさんだと思ったのにどこかミスマッチだ。
そいつは分厚い眼鏡をかけていて、髪は男にしては長めで後ろに束ねている。服装といえばジーンズにTシャツという、ラフと言えば聞こえはいいがそうとはお世辞にも言えない、つまりだらしない格好をしていた。
見た目で何者か想定出来ない。
もちろん俺の知り合いにはこんな怪しい奴はいない。
「誰あんた。誘拐でもしようってんの?」
「―――…。それも良いかもな、ラクそうだ」
ニヤニヤ笑って男は俺を下から上まで見ながら言った。男より下に評価されたみたいでムカつく。
俺は漫画を棚に押し込めるとさっさと古本屋から出た。
漫画の続きという誘惑はわずかに心残りだったが、不愉快な人物と一緒にいるほど物好きな性格ではない。
「あ、でも違う違う」
後ろから男も追ってきて、あっさり俺の横に並ぶと構わず話の続きをしだした。
「逆なんだよな」
「逆?」
怪しいと思いながらも俺は聞き返してしまっていた。身長は俺より少しだけ高かった。
少しだけなのだ。
なのに脚は間違いなく長くて、俺は振り切ろうと必死に早歩きしてるのに難なく男はぴったりとくっついてくる。
会社や学校帰りの人がたくさんいたが、苦にもならないようでスリムにすり抜けていた。やっぱりムカつく。
「オレ、探偵してる久保田修次ってんだ」
「………………ホントにいたんだ。んなもん」
探偵なんて、やっぱりめちゃくちゃ怪しい奴だったのだ。
「いたんだなあーこれがぁ。…しかも最強に男前で頭のキレる優秀な探偵が!」
「恥ずかしいノリやめろよ」
男の、久保田の顔を見たら冗談なんてこれっぽっちもない、真剣な表情で言っていた。うげっ。
「そんでさー、今回はおまえを護るのがオレの仕事なワケ」
「は?」
「三日前見てはいけないモノ見たろ?それでおまえの母ちゃんからの依頼。事件解決までおまえの護衛」
俺の足が思わず止まった。
(三日前―――)
心当たりは嫌になるほどある。
久保田はうっすら笑んでいた。ほらみろ、だから言っただろ?と言いたそうだった。
「………」
「だからさ、おまえ大人しく俺に護られろよ」
俺は完全に頭にきて、さらに速く歩いた。
「いらねぇよ!そんなもん!」
「あらら。反抗期?」
「うっせえ!」
ウルサイ。反抗期と呼べるほど単純なものじゃない。こんな今日会ったような男に解ってたまるか。解られたいとも思わない。
(なんで…あの女!)
気分が悪かった。いまさら母親面したいわけでもあるまいに。
「つーか、なんでついて来るんだよ!」
本気で逃げてるのに息切れひとつせず、久保田は横にいた。
「言ったろ?護るためだって」
「俺も言ったと思うけど…いらねえって!」
怒鳴ると想像したより怒りの声色が含まれた。悔しくなってとうとう俺は走って逃げた。人混みを利用して意味もなく角を曲がる。
悔しかった。あんな男にすべて負けた気がした。身長や脚の長さだけじゃない、心の余裕も俺にはかなわない。
そして未だに親の保護下にいなくてはならない俺自身にも、腹が立った。
気づいたら久保田はどこにもいなかった。逃げ切れたとは、不思議にも思えない。久保田が追うのをやめただけだ。
(くそっ…)
俺は完全に居場所をなくして、家に帰らねばならなくなった。
* * *
三日前―――俺は非日常な場面に遭遇した。
中学時代の友人宅に久しぶりに遊びに行った帰りだった。ゲームして馬鹿話をたくさんして……雨がかなり降っていたけれど、高校生になってから初めて心が晴れていたんだ。
なのに……。
まるでその安らぎをぶち壊すように、その場面は目に飛び込んできた。
いつもは歩かない道のり。夜はかなり更けていた。深夜といってもいい。すべてのものが寝静まっているんじゃないかと思った。
住宅街と繁華街の外れを繋ぐ簡素な歩道橋を俺は歩いていた。そして何気なく、本当に何気なく下の道を見たんだ。人通りはそのときまったく無かった。車はたまに通る程度。
そんなとき、人影が二つ見えた。暗かったし傘もあったから男か女かも判らない。そいつらは俺から見て左側の歩道を歩いていた。最初は離れていた人影。
俺もそちら側に向かって歩きながら、なんとなくそこを見ていた。こんな時間にどんなやつだ?と自分を棚に上げて思っていたかもしれない。
後ろを歩いていた影がだんだん手前の影に近づき…重なった、と思ったらふたつの影は見えなくなった。あれ?と思って眺めていると、やがてひとつの影が現れた。あとから思い出すと、こちらは傘を持ってなかった気がする。大手を振って走って逃げていたから。
片方の影がもう一人を路地に引きずり込んだんだ、とゆっくりした頭で導き出したときには俺は走り出していた。ただ事ではない何かを感じ取ってとにかく走った。
動機がヤバかった。予感があった。見てはいけないものがそこにある予感。
怖い、見たくないと思ったのに、走る脚は自分の意志とは切り離されて、ただ倒れたやつに向かって行ったんだ。
それは男だった。五十すぎぐらいの。
うつ伏せに倒れていて、背中から赤いものが流れていた。血は雨と混ざり合って道路をどこまでもつたっていた。
俺は頭が真っ白になって、そこからの記憶があまりない。気づいたら警察が駆けつけてきて、話を聴かれていたから俺が通報したんだとは思うけど…。
何回もしつこく刑事に同じ質問をされた。
そこで、最近起こっている通り魔事件と同じ殺害方法だったことを知ったんだ。それは深夜の雨の中、無差別に人を殺している事件だ。どれも背後から正確に心臓をひと突きされている。四件目で俺が初めての目撃者らしい。
そんなこと知るか、と思った。殺された人には申し訳ないけれど、俺の許容範囲を遥かに超えている。俺は、忘れることにしたんだ―――。
* * *
(なのに…護衛だと?)
余計なことを、俺に断りもなく。一言ぐらい文句を言ってやろうと思ったのに、家に帰っても母親は居なかった。いつものことだ。
家政婦の咲田さんがいつものように両親とも今日は帰らないと伝えてきた。四十歳くらいのふくよかな女性だ。
あの日、警察から俺の身柄を引き受けたのも咲田さんだった。
「なあ、あの人に言った?あの日のこと」
「まあ、お母様のことあの人だなんて…。はい、逐一報告するように言われてますので」
咲田さんは恐縮した表情を見せながらも俺を責めた。自分では責任がとれない、ということか。
黙っていてくれと頼んだのだけど…仕方がない。雇っているのは俺じゃなくて親だ。
「あっそ」
「夕食の準備ができてますので好きなときにお召し上がりください」
素っ気なく部屋に帰ろうとした俺に事務的に咲田さんは言った。それには適当に答えて2階に上がる。
隣の兄貴の部屋にちらりと目をやった。
居るか居ないのかいつも分からない。だいたいは塾に行ってるが、部屋に居たとしても勉強してるようで、あまり出てこない。
俺は自分の部屋に入るとそのままベッドに寝転がった。
落ち着かない部屋。
机もベッドも洋服でさえ親が与え、すべて親の趣味で置き場から何もかも決められている。物心ついた頃から俺は何に対しても兄貴に勝てたことが無かった。そんな俺に、両親は哀れむような蔑むような目でいつも詰った。
―――何故出来ないんだ。こんな簡単な問題が。
―――ダメね悠ちゃん。お兄ちゃんを見習いなさい。
―――悠汰、惣一の邪魔だけはするな。
―――いい子にしてなさいよ。あんたは一人で何も出来ないんだから。
飽きるほど聞いた言葉。この中で俺に決定権はなに一つない。
学校も親が選んだ。学のない俺にせめてハクがつくようにでもしたかったのか。俺は家のなかでいつしか孤独を感じるようになった。それでいて、いつも少し離れた場所から見張られている気分。うんざりだ。
だから俺は見切りをつける。ここはただ衣食住を与えてくれるだけのところ。
―――お前にはがっかりだ。
小学校の頃そう言われたきり、父親とはまともに話してない気がする。父親は医師だ。別にでっかい総合病院の院長とかそういうものではなく、ただのひとりの医師。いつも病院にいて帰ってこない。父親は息子二人にも医師になってほしいようだった。
兄貴は男子校で進学校の高三だ。おそらく医学部の道へ進むのだろう。
俺はきっと諦められてる。
それでいい。だれも俺に期待をするな。
そして母親は……。
(なんで探偵なんか………どういうつもりだ)
母親はなにをしているのかはっきり知らない。執筆的なことを以前していたと思うが、そんなに家を開けなければならない仕事ではないはずだ。 だから……、知らない。
知らないでいたかった。