第二十六章 知らない空の、その先へ
目を覚ましたとき、最初に見えたのは青い空だった。
木々の隙間から広がっている空を見上げながら、ワッパはしばらく身体を起こさず、その色が以前にも見たものと同じなのかを確かめるように眺めていた。
最初にこの世界で目を覚ました日も、確かこんな空だった。
自分がどこにいるのかわからず、どうして森の中で倒れているのかも思い出せず、自分の名前以外にはほとんど何も残っていなかったあの日、最初に見えたものだけが、この知らない世界の青い空だった。
あのときとは違って、今は自分がどこにいるのかわかっている。
響界塔を出てから村へ戻り、そこで数日を過ごしたあと、バタコとガルドと一緒に東へ向かう街道を進み始め、昨夜は森の外れにある小さな野営地で眠った。
前の世界についても思い出している。
自分が統合失調症と診断されていたことも、その治療を受けながら声と付き合っていたことも、雨の道路で命を失ったことも覚えている。
エルナと出会ったことも覚えている。
そして、彼女がもういないことも知っている。
最初にこの空を見たときより、知っていることはずっと増えた。
それでも、わからないことはまだ残っていた。
自分がなぜこの世界へ来たのか。
以前の世界から聞こえていた短い声は何だったのか。
響界が別の世界とどのようにつながっているのか。
響界塔がワッパの転生そのものに関係していたのか。
そして、エルナが死んだあと響界へ残った情報が、いつか何かの意味を持つのか。
どれも答えは出ていない。
以前のワッパなら、その状態が怖かったかもしれない。
答えが見つかるまで考え続け、何か一つの説明へ無理に結びつけようとしていたかもしれない。
けれど今は、空を見上げたまま思うことができた。
わからないなら、今はまだわからないままでいい。
その言葉を最初に教えてくれたのが誰だったのかも、ちゃんと覚えている。
「朝からずっと空を見てるけど、何か変わったものでも見つけたの?」
少し離れた場所からバタコの声が聞こえた。
ワッパは身体を起こした。
バタコはすでに荷物をまとめ終えており、大きな鞄を背負いながら朝食用の乾いたパンをかじっている。
「最初にこの世界へ来たときのことを思い出してました」
「最初って、森でエルナに見つけてもらったときのこと?」
「そのときも、最初に見たのが青い空だったんです」
バタコも上を見た。
「空だけなら、たぶん今日とそんなに変わらなかったんじゃないかな」
「俺もそんな気がします」
「それなら変わったのはワッパの方だね」
ワッパは少し考えた。
「たぶん、そうなんでしょうね」
以前なら、その言葉にも答えを求めていたかもしれない。
自分は本当に変わったのか。
良い方向へ変わったのか。
それとも変わったと思い込んでいるだけなのか。
今でも考えようと思えばいくらでも考えられる。
けれど、今すぐ結論を出す必要はなかった。
「朝飯を食わないなら俺がもらうぞ」
ガルドが焚き火の近くから声を上げた。
「ちゃんと食べるから取らないでください!」
ワッパは残っていたパンを手に取った。
「返事が遅い奴の食料は旅人の共有財産だ」
「そんな決まりは聞いたことがありませんよ!」
「今決めたところだから知らなくて当然だな」
「勝手に変な決まりを増やさないでください!」
バタコが笑った。
響界塔を出てから、ガルドは以前より少しだけ話すようになった。
相変わらず自分の過去について詳しく語ることはなく、最初に黒い短剣を盗むため雇われていたことについても、必要以上に弁解しようとはしなかった。
それでもワッパは、もう彼を声の一言だけで疑うことはなかった。
人間は嘘をつく。
ガルドも嘘をついた。
バタコも最後には嘘をついた。
エルナも秘密を隠すために嘘をついた。
そしてワッパ自身も、これから一度も嘘をつかずに生きていけるとは思っていない。
だから嘘をついたという事実だけで、その人間のすべてが決まるわけではない。
何のためについたのか。
そのあと何をしたのか。
今何をしようとしているのか。
人間を見るためには、声が教えてくれる一つの事実より、ずっと多くのものを見る必要がある。
それは面倒だった。
でも、その面倒さこそが人間なのかもしれないと、今のワッパは思っていた。
朝食を終えると、三人は野営地を片づけて街道へ戻った。
響界塔から離れるにつれて、白い霧を見ることは少なくなっていた。
以前なら朝方になると森の低い場所へ白い霧が溜まり、風とは違う方向へ流れることも珍しくなかったが、今朝は普通の朝靄が谷の方へ薄く残っているだけだった。
バタコはそれを見ても、響界塔を止めたから完全に解決したとは断定しなかった。
「もっと長い期間を見ないと、本当に減ったのかは判断できないよ」
「わかってます」
ワッパは笑った。
「もう何回も聞きましたからね」
「わかってるなら説明する必要もないかな」
「でもバタコなら、たぶんこれからも説明すると思います」
「記録する人間は慎重なくらいでちょうどいいんだよ」
ワッパはその言葉に頷いた。
旅を続けながら、バタコは響界塔から持ち出した記録を整理している。
いつか大きな町へ着いたら、それを複製し、同じような施設や記録が他にも残されていないか調べるつもりらしい。
ワッパも手伝うことにしていた。
短い声の正体を知りたい気持ちは残っている。
けれど、それだけが旅の目的ではない。
この世界を見てみたい。
自分が知らない町へ行きたい。
知らない人間と話してみたい。
食べたことのないものを食べてみたい。
以前の世界へ戻れるのかを調べることも、いつか必要になるかもしれない。
それでも今は、戻ることだけを目的にするつもりはなかった。
この世界で生きると決めたからだった。
昼前になると、街道は小さな丘へ差しかかった。
丘を越えれば、その先には今まで三人が歩いたことのない土地が広がっているらしい。
ガルドだけは以前に通った経験があると言っていたが、その話がどこまで本当なのかについて、バタコはまだ少し疑っているようだった。
「この先に町があるって話、本当に信用していいんですよね?」
バタコが尋ねた。
「俺がそこまで信用されてないことの方が驚きだな」
「最初に会ったときのことを思い出してから言ってください」
「もう随分前のことだろ」
「それだけで信用記録が消える仕組みにはなってないよ」
「お前たちは本当に面倒な二人だな」
ガルドが呆れたように言った。
ワッパは笑いながら二人のあとを歩いた。
そのとき。
森の方から風が吹いた。
木々の葉が一斉に揺れる。
どこかで鳥が鳴く。
その音の中に、ほんの一瞬だけ人間の声のようなものが混ざった気がした。
ワッパ。
足が止まった。
バタコがすぐに気づいた。
「どうかしたの?」
ワッパは森を見た。
木々が揺れている。
誰もいない。
もう一度耳を澄ませる。
聞こえるのは風だけだった。
けれど、その一瞬だけ聞こえたように感じた声は、エルナに似ていた。
胸の奥が強く痛んだ。
もう一度聞きたいと思った。
エルナなのかもしれない。
響界に残った情報が何かの形で届いたのかもしれない。
本当は死んでいないのかもしれない。
そう考えようと思えば、いくらでも意味を足すことができる。
でもワッパは、それをしなかった。
「今、何か聞こえた気がしました」
バタコが少しだけ表情を変えた。
「短い声だったの?」
「違うと思います」
「偽物の声?」
「それもわかりません」
ワッパはもう一度森を見た。
「エルナの声に聞こえた気がしました」
バタコは何も言わなかった。
生きているとも言わない。
気のせいだとも言わない。
ただワッパの次の言葉を待っている。
「でも今確認できるのは、風が吹いてたことだけです」
ワッパは答えた。
「だから今は、風だったことにしておきます」
「それでいいの?」
バタコが尋ねた。
ワッパは少し考えた。
「いいと思います」
そして、もう一度だけ森を見た。
「もし本当にエルナだったなら、いつかもう少しわかる形で確認できるかもしれません」
「確認できなかったらどうするの?」
「そのときは、わからないままでいいです」
バタコは小さく頷いた。
ワッパは再び歩き始めた。
それでも胸の奥では、エルナの声だったらいいと思っている。
その気持ちまで否定する必要はない。
願うことと、事実だと決めることは違う。
以前のワッパは、その境界を見失うことが怖かった。
だから声そのものを恐れた。
この世界へ来てからは、逆に声が正しいことを知り、すべてを委ねたくなったこともあった。
けれど今なら、そのどちらでもない場所を歩ける。
聞こえたものは聞こえたものとして受け止める。
わからないものはわからないものとして残す。
確認できるものは確認する。
誰かと話す。
記録する。
そして最後に、自分で決める。
それは特別な能力ではなかった。
むしろ、以前の世界で医師から教えられ、この世界でエルナやバタコと一緒に何度も繰り返してきた、ごく地味なやり方だった。
その地味なやり方が、最後までワッパを支えていた。
丘の頂上へ近づく。
空が広くなる。
木々が減る。
そして三人は、丘の一番高い場所へ出た。
その先には広い平原が続いていた。
遠くに川が見える。
さらに向こうには、今まで見たことのない大きな町らしき影がある。
街道は丘からゆっくり下り、その町へ向かって長く伸びている。
ワッパは立ち止まった。
「ここから先は知らない場所ですか?」
バタコが尋ねた。
「俺にとっては、この世界のほとんどがまだ知らない場所ですよ」
「それもそうだね」
ガルドが先へ進む。
「日が暮れる前に次の宿場まで行くなら、そろそろ急いだ方がいいぞ」
「ちゃんと宿場はあるんですよね?」
ワッパが尋ねた。
「まだ疑ってるのか?」
「確認してるだけですよ」
「バタコに似てきたな」
「それなら悪くないと思います」
バタコが少し得意そうに笑った。
三人は丘を下り始めた。
ワッパは歩きながら、もう一度空を見上げた。
青い空だった。
最初の日と同じように。
知らない世界の空。
でも、あの日とは違う。
あの日のワッパは、知らないことを恐れていた。
自分が誰なのか。
ここがどこなのか。
聞こえる声は何なのか。
何を信じればいいのか。
答えがなければ動けないような気がしていた。
今も答えのないことはたくさんある。
短い声の正体は最後までわからなかった。
自分がなぜ転生したのかもわからない。
響界が他の世界へまで届く理由もわからない。
エルナの情報が響界に残ったあと、どうなったのかもわからない。
それでも歩ける。
知らないものがあることと、前へ進めないことは同じではない。
ワッパは耳を澄ませた。
短い声は聞こえない。
それでよかった。
危険がないから黙っているのかもしれない。
もう役目を終えたのかもしれない。
いつかまた聞こえるのかもしれない。
それさえ、今はわからない。
けれどワッパは、声が次の道を教えてくれるのを待たなかった。
自分の足で街道を下る。
バタコが少し前を歩いている。
ガルドはさらに先で振り返り、遅いと文句を言っている。
その向こうには、まだ名前も知らない町がある。
ワッパは少しだけ歩く速度を上げた。
生きろ。
最後に声から告げられた言葉を思い出す。
けれど、今歩いている理由はその命令に従っているからではない。
生きたいから歩いている。
明日を見たいから歩いている。
エルナが見ることのできなかった景色を代わりに見るためだけでもない。
誰かのためだけではなく、自分自身の人生として、この世界の続きを見てみたいと思っている。
それだけで十分だった。
丘を下りきる直前、もう一度強い風が吹いた。
草原が大きく揺れる。
ワッパは今度こそ足を止めなかった。
エルナの声は聞こえなかった。
短い声も聞こえなかった。
ただ風だけが吹いていた。
それでも少しだけ笑った。
エルナがいたことは知っている。
一緒に歩いたことも知っている。
彼女が生きたいと願ったことも知っている。
最後まで自分で選ぼうとしたことも覚えている。
だから、もう声に確かめてもらう必要はなかった。
ワッパは前を向いた。
知らない道が続いている。
知らない町が待っている。
知らない人間がいる。
きっとこれからも、嘘をつく人間に出会う。
間違えることもある。
疑うこともある。
怖くなる日もある。
そして、自分自身が何かを間違える日もきっと来る。
それでも、そのたびに確かめればいい。
一人で決められなければ誰かに話せばいい。
答えが出なければ、わからないまま明日まで持っていけばいい。
そして最後には、自分で選べばいい。
ワッパは歩いた。
バタコとガルドのあとを追いながら、自分の意思で一歩ずつ知らない世界の先へ進んでいった。
頭上には、どこまでも青い空が広がっている。
目を覚ましたあの日と同じ。
けれど、もう同じ空ではなかった。
知らないから怖いだけの空ではない。
この先に何があるのかわからなくても、自分で歩いていける空だった。
ワッパはその空を一度だけ見上げると、もう立ち止まらずに歩き続けた。
知らない空の、その先へ。




