第二十一章 エルナ
最下層へ続く階段を下りるほど塔全体を震わせる低い振動は大きくなり、壁を走る白い線も脈打つような明滅を繰り返しながら、四人をさらに深い場所へ導くように続いていた。
背後から流れ込んでくる白い霧はすでに足首の高さを越えており、階段の途中では一時的に膝近くまで濃くなる場所さえあったため、ワッパたちは足元を確かめながら急いで下りていった。
「エルナ、腕の状態はまだ変わってない?」
ワッパが振り返りながら尋ねると、エルナは左腕を押さえたまま呼吸を整えた。
「さっきより熱くなってるけど、まだ自分で歩けるくらいだから大丈夫だよ」
「歩けることだけを基準にしないでくれ」
「それなら痛みもかなり強くなってきたって正直に言っておくね」
その答えを聞いた瞬間、ワッパは足を止めそうになった。
しかしエルナは先へ進んでいる。
今ここで戻ったとしても、接続が自然に弱まる保証はなく、むしろ境界反応が強くなる中で時間だけを失う可能性もある。
だからワッパは不安を抱えたままでも進み続けた。
ガルドが先頭で突然立ち止まった。
「階段が終わるぞ」
その先には巨大な円形空間が広がっていた。
天井はランプの光が届かないほど高く、床の中央には深い穴のようなものがあり、その周囲を何本もの黒い柱が取り囲んでいる。
そして穴の中央には、白い光の裂け目が浮かんでいた。
それは壁に刻まれた線とは違っている。
細い光ではない。
空間そのものが切り裂かれ、その向こうから白い光と霧が滲み出しているように見えた。
「何だよ、あれは……」
ガルドが低い声で言った。
バタコはすぐに壁の表示を探した。
「ここが境界炉で間違いないと思う」
「炉っていうより、穴みたいですね」
ワッパが答えた。
「たぶん普通の火を使う炉じゃなくて、境界を制御する中心部分なんだと思うよ」
エルナが白い裂け目へ一歩近づいた。
その瞬間。
左腕の黒い痕が一気に濃くなった。
「痛い!」
エルナが膝をついた。
「エルナ!」
ワッパがすぐに身体を支えた。
黒い痕は左腕だけではなく、肩の近くまで枝分かれするように浮かび上がっている。
「戻ろう!」
「まだ戻らないで!」
「でも痕が広がってるだろ!」
「ここまで来たんだから、せめて装置があるか確認したい!」
エルナは苦しそうにしながらも、ワッパの腕を掴んだ。
「第二方式を使えるかどうかだけでも確かめたいから、今すぐ戻るのは嫌だよ」
ワッパは何も言えなかった。
エルナを危険から遠ざけたい。
その気持ちは変わらない。
しかしここまで来た理由は、エルナ自身が生きる方法を探すためだった。
その本人が、苦しくても確認したいと望んでいる。
「わかった」
ワッパは答えた。
「でも本当に動けなくなったら、そのときは俺が連れて戻るからな」
「それなら約束するよ」
バタコが境界炉の周囲を調べ始めた。
「予備の補助制御装置を探そう」
四人はエルナの状態を確認しながら、円形空間の外周へ沿って進んだ。
壁にはいくつもの設備が並んでいる。
その多くは壊れていた。
黒い板が割れている。
白い線も消えている。
いくつかの装置は形そのものが崩れていた。
ワッパの不安が少しずつ強くなる。
本当に予備装置が残っているのか。
ここまで来ても壊れていたらどうするのか。
その先の方法はまだ何も見つかっていない。
「こっちへ来て!」
バタコが声を上げた。
円形空間の奥。
ほとんど崩れていない黒い装置が一台だけ残っていた。
中央制御区で見た主制御器より小さい。
しかし形はよく似ている。
表面には白い線が残っている。
「これが予備装置ですか?」
ワッパが尋ねた。
「表示では補助境界制御器って書いてあるから、たぶん間違いないよ」
エルナが短剣を近づけた。
装置の白い線が一斉に光った。
低い音が響く。
「動いてる」
エルナが呟いた。
ワッパの胸が強く鳴った。
壊れていない。
少なくとも反応はある。
「第二方式を使えるか確認してください」
「今調べるよ」
バタコは装置の周囲に残る文字を読み始めた。
表示の一部が白く浮かび上がる。
「接続解除手順を選べるみたい」
「本当にあるんですか?」
「あるよ」
エルナが息を呑んだ。
ワッパも装置へ近づいた。
「危険性については何か書いてありますか?」
「待ってね」
バタコは表示を順番に読んだ。
「通常手順なら接続痕を三段階で解除して、最後に境界側の痕跡を閉鎖するみたい」
「成功すれば痕は消えるんですよね」
「記録どおりなら、その可能性が高いよ」
「失敗した場合は?」
バタコの表情が少し硬くなった。
「途中で装置が停止した場合、接続が不安定になって急激な境界反応が起こる可能性があるって書かれてる」
ワッパは装置を見た。
「それって危険なんですか?」
「かなり危険だと思う」
「エルナ本人にも?」
「接続者側にも境界側にも影響が出る可能性があるみたい」
エルナが装置へ視線を向けた。
「それでも成功する可能性はあるんだよね」
「あると思うよ」
「だったら私はやりたい」
ワッパはすぐにエルナを見た。
「もう少し記録を調べてからでもいいんじゃないか?」
「時間があるならそうしたいけど、この痕はどんどん熱くなってるよ」
エルナは左腕を見せた。
黒い痕はさらに濃くなっていた。
「塔の境界反応も強くなってるし、待てば安全になるとは限らないでしょ」
それは正しかった。
安全な選択肢がどこかに残っているわけではない。
今あるのは、危険の種類が違う選択肢だけだった。
「私は第二方式を使いたい」
エルナはもう一度言った。
「これはワッパに言われたからでも、短い声に言われたからでもなくて、私が自分で選びたいんだよ」
ワッパは何も言えなくなった。
第十五章でも同じだった。
右の安全な道へ行くのか、左の危険な森へ入るのか。
あのときエルナは、死ぬためではなく生きる方法を探すために左へ進むと決めた。
そして今も同じだった。
怖くないわけではない。
危険を理解していないわけでもない。
それでも生きるために選んでいる。
「わかった」
ワッパはゆっくり答えた。
「俺はエルナの選択を手伝う」
エルナは少しだけ笑った。
「それならお願いするね」
バタコは第二方式の手順をもう一度確認した。
中央の円形区域へ接続者が立つ。
黒い短剣を補助制御器へ接続する。
第一段階で外部との接続を弱める。
第二段階で身体へ残った接続痕を分離する。
第三段階で境界側に残った痕跡を閉鎖する。
すべてが完了するまで、接続者を中央区域から動かしてはいけない。
「黒い短剣は接続調整器として使われていたみたい」
バタコが言った。
エルナが短剣を見た。
「母さんが持ってたのは、このためだったのかな」
「可能性は高いと思う」
「母さんも第二方式を探してたのかもしれないね」
ワッパは答えた。
エルナは少しだけ目を伏せたが、すぐに中央区域へ視線を戻した。
「それなら私が続きをやるよ」
補助制御器へ黒い短剣を近づけると、装置の中央に細い隙間が開いた。
「ここへ差し込むみたいだよ」
バタコが確認した。
エルナが短剣を慎重に差し込む。
白い光が装置全体へ広がった。
同時に境界炉の黒い柱が一本ずつ目を覚ますように光り始める。
中央の白い裂け目も大きく揺れた。
「反応が上がったぞ!」
ガルドが声を上げた。
「まだ手順の範囲内だと思う!」
バタコが表示を確認する。
「エルナ、中央へ移動して!」
エルナが円形区域へ入った。
床から白い線が浮かび上がる。
エルナの足元から腕、肩へ光が伸びる。
黒い痕が強く浮かび上がった。
「痛いけど、まだ大丈夫だよ!」
ワッパは円形区域のすぐ外側へ立った。
「少しでも駄目だと思ったら止めるからな!」
「勝手に止めたら駄目だからね!」
「危険なら止める!」
「手順を無視して止めた方が危険かもしれないでしょ!」
バタコが二人の間へ割って入った。
「表示を見ながら判断するから、二人とも今は手順に集中して!」
装置の音が高くなる。
壁へ白い文字が浮かぶ。
「第一段階が始まるよ!」
エルナの身体を覆っていた黒い痕が、一瞬だけ大きく脈打った。
そして少しずつ薄くなり始める。
ワッパは息を止めた。
「消えてる」
エルナも自分の腕を見た。
「本当に薄くなってるよ」
「第一段階は進んでる!」
バタコが言った。
白い裂け目の光も少し弱くなった。
それまで境界炉へ漂っていた霧が一瞬だけ薄くなる。
「これならいけるかもしれない」
ワッパが呟いた。
しかし次の瞬間。
――手を離すな。
短い声が響いた。
ワッパは周囲を見た。
「短い声が、手を離すなって言いました!」
「何の手だ?」
ガルドが尋ねた。
「まだわからない!」
エルナは中央にいる。
ワッパは彼女へ近づこうとした。
「待って!」
バタコが止めた。
「第一段階中は中央区域へ入らない方がいい!」
ワッパは足を止めた。
短い声は具体的な対象を言っていない。
今すぐエルナの手を握れという意味なのか。
別の場面を示しているのか。
わからない。
だからその場では勝手に意味を決めなかった。
第一段階が終わった。
エルナの黒い痕は半分近くまで薄くなっている。
「次が第二段階だよ」
バタコが表示を確認した。
「身体へ固定された接続痕を分離する」
「続けて大丈夫なの?」
ワッパがエルナへ尋ねた。
「続けたい」
エルナは即座に答えた。
「ここまで薄くなったんだから、最後までやりたいよ」
第二段階が始まった。
装置から伸びる白い線がエルナの身体へ集まる。
黒い痕が一つずつ光へ変わるように消えていく。
腕。
肩。
首元。
ワッパの目から見ても、明らかに接続が弱くなっていた。
エルナは痛みに耐えながらも立ち続けている。
「もう少しだよ!」
バタコが言った。
表示が変化する。
第二段階完了。
残っていた黒い痕が、ほとんど消えた。
エルナが自分の腕を見た。
長いあいだそこにあった黒い線が見えない。
「消えた……」
エルナの声が震えた。
ワッパも笑いそうになった。
ここまで来た。
本当に切れる。
生きたまま。
母親と同じように消えなくてもいい。
「まだ第三段階が残ってる!」
バタコの声で、ワッパは意識を戻した。
「境界側の痕跡を閉鎖するよ!」
第三段階が始まった。
その瞬間。
白い裂け目が大きく開いた。
境界炉全体が激しく揺れる。
「何が起きた!」
ガルドが叫んだ。
バタコが表示を確認する。
「境界反応が急上昇してる!」
「手順どおりじゃないんですか?」
「接続解除そのものは成功してるけど、境界側が不安定になってる!」
エルナの足元から白い光が吹き上がった。
身体が後ろへ引かれる。
「エルナ!」
ワッパが中央区域へ飛び込んだ。
「ワッパ、入ったら危険だよ!」
エルナが叫んだ。
「そんなこと言ってる場合じゃない!」
ワッパはエルナの右手を掴んだ。
その瞬間。
――手を離すな。
短い声が再び響いた。
今度は意味がわかった。
ワッパは握る力を強くした。
「絶対に離さない!」
「装置がまだ動いてる!」
バタコが叫ぶ。
「第三段階を途中で止めたら、接続がまた不安定になるかもしれない!」
「あとどれくらいなんですか!」
「表示が乱れててわからない!」
境界の裂け目から強い風のような力が吹き出している。
エルナの身体が少しずつ裂け目の方向へ引かれる。
ワッパは両足を床へ踏ん張った。
ガルドが後ろからワッパの身体を掴んだ。
「一人で支えるな!」
「助かります!」
「礼は終わってから言え!」
白い光がさらに強くなる。
視界が揺れる。
耳元へ偽物の声が響いた。
『手を離せば、お前だけは助かる。』
ワッパはすぐに言った。
「偽物が、手を離せば俺だけ助かるって言ってます!」
「無視しろ!」
ガルドが叫んだ。
「最初からそのつもりです!」
しかし偽物の声は続いた。
『エルナはもう接続から切れた。ここで消えても結果は同じだ。』
ワッパの胸が強く揺れた。
接続は切れた。
痕も消えた。
それならここでエルナが境界へ引き込まれても、目的自体は達成されている。
そんな考えが一瞬だけ頭へ浮かんだ。
しかしすぐに違うと気づいた。
目的は痕を消すことだけではない。
エルナを生かすことだった。
彼女自身がそう選んだ。
「エルナを消して成功なんてことにはしない!」
ワッパは叫んだ。
エルナの指がワッパの手を強く握り返した。
「私も消えるためにここまで来たんじゃないよ!」
白い光が二人の間を走った。
バタコが装置の表示を見た。
「第三段階の閉鎖処理が進んでる!」
「あとどれくらいですか!」
「もう少しだけ続けて!」
境界炉が再び大きく揺れた。
天井から破片が落ちる。
ガルドがワッパを支えながら周囲を確認する。
「長くは持たないぞ!」
エルナの身体がさらに引かれる。
ワッパの腕が痛む。
手が滑りそうになる。
それでも離さない。
短い声は何も言わなかった。
ただ先ほどの言葉だけが残っている。
手を離すな。
ワッパはそれを命令としてだけ受け取っているわけではなかった。
現実側にも、離さない理由がある。
エルナは生きたい。
自分も生きていてほしい。
だから握っている。
「閉鎖処理、完了するよ!」
バタコが叫んだ。
装置の白い光が最大まで強くなる。
エルナの身体に残っていた最後の黒い線が消えた。
壁の表示が変わる。
「接続解除完了!」
バタコの声が響いた。
「成功したんですか!」
「エルナとの接続は切れてる!」
ワッパはエルナを見た。
左腕には何もない。
黒い痕が完全に消えている。
「やったな!」
エルナも笑った。
「本当に消えたよ!」
その瞬間。
補助制御装置から異常な音が響いた。
白い光が赤黒く変わる。
「何が起きた!」
ガルドが叫ぶ。
バタコが表示へ駆け寄った。
「装置が停止しそう!」
「接続解除は終わったんですよね!」
「エルナ側は終わったけど、境界の安定化処理が残ってる!」
補助制御装置の外殻へ亀裂が走った。
内部から白い光が漏れる。
「離れろ!」
ガルドが叫んだ。
爆発するような音が響いた。
装置の一部が弾け飛ぶ。
境界炉の白い裂け目が一気に広がった。
「エルナ!」
ワッパは手を離さなかった。
しかし今までとは比べものにならない力が二人を引き離そうとした。
ガルドも踏ん張る。
バタコが別の装置を操作しようとする。
「制御が効かない!」
「どうすればいいんですか!」
「主制御器が必要なのかもしれない!」
「上の装置は壊れてたでしょう!」
「だから止められない!」
白い霧が境界炉全体へ吹き出した。
視界が真っ白になる。
ワッパにはエルナの顔さえ見えなくなった。
それでも手の感触だけは残っている。
「エルナ!」
「ここにいるよ!」
声が聞こえる。
「手は離してない!」
「私も握ってるよ!」
ワッパはその言葉を頼りに握り続けた。
白い光。
霧。
轟音。
何も見えない。
その中でエルナの手だけが現実だった。
「ワッパ!」
エルナが叫んだ。
「何だ!」
「もしここから戻れたら、村へ帰りたい!」
「当たり前だろ!」
「それから温かいものを食べたい!」
「何でも食べればいいだろ!」
「前に食べたスープがいい!」
「それなら村長に作ってもらおう!」
「あと、まだワッパと話したいことがいっぱいある!」
「だったら全部戻ってから話せ!」
エルナが笑ったような声がした。
「そうするよ!」
ワッパも笑いそうになった。
こんな状況で何を話しているのだと思う。
それでも、その会話が必要だった。
死ぬ人間の言葉ではない。
帰る人間の会話だった。
白い光がさらに強くなる。
エルナの手の感触が少しだけ薄くなった。
「エルナ?」
「ちゃんといるよ!」
「手の感触が弱くなってる!」
「私も少し変な感じがする!」
ワッパは握る力を強めようとした。
しかし手応えが薄い。
指先が触れているはずなのに、何か遠くへ離れていくように感じる。
「バタコ!」
「今調べてる!」
「エルナが消えそうです!」
「接続は切れてるから、響界へ引っ張られてる理由がわからない!」
白い裂け目が脈打つ。
境界反応がまだ収まっていない。
ワッパの中へ恐怖が押し寄せた。
短い声は何も言わない。
偽物の声も消えている。
誰も答えを持っていない。
「エルナ、俺の手がわかる?」
「まだわかるよ!」
「絶対に離すな!」
「ワッパも離さないでね!」
「離すわけないだろ!」
エルナの声が少し遠くなった。
「私、自分で選べてよかったよ!」
「何の話をしてるんだ!」
「ここへ来たことだよ!」
「そんな話はあとで聞く!」
「死ぬためじゃなくて、生きるために来たってことは忘れないでね!」
「忘れるわけないだろ!」
「ワッパも自分で選んでね!」
「だから戻ってから言え!」
返事が聞こえなかった。
ワッパの顔から血の気が引いた。
「エルナ!」
手の感触がさらに薄くなる。
「エルナ、返事をしてくれ!」
かすかな声が聞こえた。
「まだいるよ」
「だったらもっと強く握ってくれ!」
「握ってるつもりなんだけどね」
その声があまりにも静かだった。
ワッパは必死に腕を引いた。
しかし何も近づいてこない。
むしろエルナの指の感触だけが少しずつ消えていく。
――手を離すな。
短い声がもう一度響いた。
「離してない!」
ワッパは叫んだ。
「ずっと握ってる!」
それでも手の感触は戻らない。
エルナの声が最後に聞こえた。
「ワッパ、ありがとう」
「そんな言葉はあとで言え!」
返事はなかった。
白い光がすべてを飲み込んだ。
どれくらい時間が経ったのかわからなかった。
大きな音が止まった。
白い霧が薄くなる。
ワッパは床へ倒れていた。
右手を強く握っている。
しかし、その中には何もなかった。
「エルナ?」
身体を起こす。
周囲を見る。
ガルドが近くで倒れている。
バタコも装置のそばで咳き込んでいる。
境界炉の白い裂け目はまだ残っているが、先ほどより小さくなっていた。
エルナだけがいない。
「エルナ!」
ワッパは立ち上がった。
中央区域。
装置の裏。
床。
黒い柱の周囲。
どこにもいない。
服もない。
短剣もない。
血もない。
身体の痕跡そのものが見つからない。
「エルナ!」
何度呼んでも返事はなかった。
バタコがふらつきながら立ち上がった。
「ワッパ、少し待って」
「エルナがいない!」
「わかってるから、今装置の記録を確認する!」
「接続解除は成功したんですよね!」
「成功してる!」
バタコが表示を確認する。
「エルナの接続は完全に切れてる!」
「だったらどうしていないんですか!」
「それがわからない!」
ワッパは境界の裂け目を見た。
「向こうへ引き込まれたんですか?」
「わからないよ!」
「死んだんですか?」
バタコは答えなかった。
ワッパは短い声を待った。
何も聞こえない。
「エルナはどこにいる?」
声は返ってこない。
「生きてるのか?」
沈黙。
「答えてくれよ!」
何も聞こえなかった。
これまで事実を告げてきた声が、今は何も言わない。
その沈黙が、ワッパには何より恐ろしく感じられた。
ガルドがゆっくり起き上がった。
「上の記録を全部調べるぞ」
ワッパが振り返った。
「でもエルナが……」
「だから調べるんだ」
ガルドは荒い呼吸を整えながら続けた。
「身体がないなら、ここで勝手に死んだって決める理由もないだろ」
バタコも頷いた。
「境界反応の記録が残ってる可能性がある」
「本当に調べればわかりますか?」
「わかるとは言えないよ」
バタコは答えた。
「でも今あるものを確認しないまま結論を出すのは、今までやってきたことと違うでしょ」
ワッパは何も言えなかった。
死んだと決めるのは怖い。
生きていると決めるのも怖い。
どちらも今の自分には確認できない。
だから一度だけ目を閉じた。
そして、もう一度境界炉を見た。
「まだ決めない」
ワッパは言った。
「エルナが死んだのか、生きてるのか、今はまだ決めない」
バタコは静かに頷いた。
「それでいいと思うよ」
ワッパは自分の右手を見た。
さっきまで、確かにエルナの手を握っていた。
接続解除は成功した。
黒い痕も消えた。
エルナ自身も最後まで生きたいと言っていた。
それでも今、彼女はここにいない。
事実として確認できるのは、そこまでだった。
だからワッパは、希望だけで生きていると決めることも、恐怖だけで死んだと決めることもしなかった。
エルナが自分に教えてくれたように、わからないものはまだわからないままでいい。
答えを見つけるまでは。
ワッパは壊れた境界炉の奥へ視線を向けた。
そして右手に残っているはずのない温度を確かめるように、ゆっくり拳を握った。




