第十六章 聞いてはいけない声
白い霧の中で迎えた朝は、夜の冷たさをまだ地面へ残しており、火を消したあとにも湿った空気が服へまとわりつくように感じられた。
ワッパはほとんど眠れなかったわけではない。
けれど深く眠れたとも言えなかった。
目を閉じるたび、前日の夕方に聞こえた長い声が思い出され、その言葉そのものよりも、以前の世界で何度も聞いていた声に近い感触が胸の奥へ残り続けていた。
その女を、塔へ連れていくな。
短い声ではなかった。
説明するような長さがあり、耳元へ誰かが近づいて囁くような感覚があり、聞いた瞬間に自分の感情へ触れてくるような気配があった。
それだけなら、単に新しい種類の声が現れただけだと考えることもできる。
しかしワッパが警戒している理由は、それ以上に自分自身の過去と似ていたからだった。
以前の世界で聞いていた声は、ただ情報を告げるだけではなかった。
誰かを疑わせる。
不安を大きくする。
相談させない。
周囲から離れさせる。
その結果として、自分が一人きりになっていく方向へ考えを押してくることが多かった。
だからこそワッパは、今回の長い声をすぐに偽物だと決めるつもりはなかったが、少なくとも今までと同じように扱うべきではないと感じていた。
「朝からもう記録を見てるの?」
エルナが近くへ座った。
「昨日の声をもう一回整理してたんだよ」
「気になって眠れなかった?」
「少しは眠れたけど、前の世界の声と似てるところがあるから気になる」
エルナは少し真面目な表情になった。
「昨日言ってた、長くて不安になる声っていうやつ?」
「そういう感じだった」
ワッパは紙を見せた。
「ただ似てるって感じただけで、同じものだとは決めてない」
「それなら今日はどうするの?」
「また聞こえたら、その場で全部伝える」
エルナは頷いた。
「それなら私も聞いた内容を一緒に確認できるね」
「内容がエルナについてでも、そのまま言うつもりだよ」
「そこは絶対に隠さないでね」
「わかってるよ」
少し離れた場所では、バタコもすでに起きて昨日の記録を広げていた。
ガルドは森の周囲を確認している。
いつもの現実がそこにある。
ワッパはそれを意識的に確認した。
朝食を終えたあと、四人は黒い境界柱の並ぶ方向へ進み始めた。
昨日見つけた柱は森の奥へゆるやかな弧を描くように続いており、その配置を追えば、何らかの施設や区域へ近づける可能性があるとバタコは考えていた。
白い霧は昨日と同じ程度だった。
エルナの黒い痕も反応しているが、急激に濃くなるほどではない。
「今日は昨日より熱くない?」
ワッパが確認した。
「少し熱いけど、歩けないほどじゃないよ」
「変化があったらすぐ言ってくれ」
「ちゃんと言うから大丈夫だよ」
ガルドが前方を見ながら口を挟んだ。
「お前たちは毎朝その確認をするのか?」
「必要なうちは続けます」
ワッパが答えた。
「毎日聞かれる方も大変そうだな」
「もう慣れてきたよ」
エルナが笑った。
その普通の会話を聞いている間だけは、昨日の長い声について考えずに済んだ。
森へ入ってしばらくすると、地面の黒い筋が以前より増え始めた。
木の根。
岩。
古い切り株。
どれにも同じような黒い線が走っている。
自然の模様には見えない。
しかし生き物の血管とも違う。
何かが地面の下を通り、その形だけが表面へ浮き出ているように見えた。
「この線、全部同じ方向へ伸びてる気がする」
バタコがしゃがみ込んだ。
「どの方向ですか?」
ワッパが尋ねた。
「だいたい東へ集まってるね」
ガルドも周囲を見た。
「境界柱も同じ方向だ」
「それなら塔へ近づいてる可能性は高そうだね」
エルナが言った。
その瞬間。
耳元で声が聞こえた。
『エルナは、お前に本当のことを全部話していない。』
ワッパの足が止まった。
前日と同じだった。
長い。
近い。
感情が含まれているように感じる。
「今また聞こえました」
ワッパはすぐに言った。
三人が振り返った。
「何て言ったの?」
エルナが尋ねた。
ワッパは隠さず答えた。
「エルナが俺に全部本当のことを話してないって言った」
エルナは少しだけ驚いたが、怒ることはなかった。
「それだけ?」
「今はそれだけだよ」
バタコがすぐに紙を出した。
「まず内容を分けよう」
「どう分けるんですか?」
「エルナが何かを隠しているという事実部分と、だから信用するなという意味が含まれているかどうかは別だよ」
ワッパは頷いた。
確かに声は、信用するなとは言っていない。
しかし聞いた瞬間、自分の中では自然に疑いが生まれた。
そのこと自体が気になった。
「エルナ、何かまだ話してないことはある?」
ワッパは直接尋ねた。
エルナは少し考えた。
「全部って言われると、細かいことまで全部話してるわけじゃないよ」
「例えばどんなこと?」
「母さんと森へ入ったときのことも、まだ思い出せてない部分があるし、痕が熱くなったときにどんな夢を見るかまでは話してないね」
バタコが顔を上げた。
「夢を見るの?」
「ときどき白い霧の中を歩いてる夢を見るよ」
「それは初めて聞いた」
ワッパも知らなかった。
長い声が言った内容は、完全な嘘ではない可能性が出てきた。
エルナは確かに、すべてを話していたわけではない。
しかしそれは、意図的に重大な事実を隠しているとは限らない。
「声の言い方だけ聞くと、何か大きな秘密を隠してるみたいに感じた」
ワッパが言った。
「そこが重要だね」
バタコは紙へ書いた。
「内容の一部が事実でも、聞いた人が受け取る意味まで正しいとは限らない」
ガルドが呆れたように言った。
「本当に面倒な声だな」
「今までの声より面倒だと思います」
ワッパは答えた。
さらに進んだ。
しばらく長い声は聞こえなかった。
代わりに、いつもの短い声が響いた。
――右。
ワッパはすぐに止まった。
「今度はいつもの声で右って言いました」
バタコは記録した。
前方には道らしい道がない。
しかし少し進むと、森が左右へ分かれているように見える。
左側は地面が比較的平らで歩きやすい。
右側は根が多く、少し遠回りに見えた。
「見た感じなら左の方が歩きやすいな」
ガルドが言った。
「それならまず右側に何があるか確認しよう」
ワッパたちは周囲を調べた。
右側にはすぐ危険は見つからない。
左側にも異常はない。
「今のところわからないね」
バタコが言った。
「どうしますか?」
エルナが尋ねた。
「右へ少し進んでみよう」
ワッパは答えた。
今回は声だけが理由ではない。
右へ進んでも大きな危険が見つからず、迂回できる範囲だったからだ。
四人が右側へ入ってしばらく進んだところで、後ろから低い音が聞こえた。
振り返る。
左側の森で地面が崩れた。
大きな木の根が土ごと落ち、その下から深い空洞が見えている。
「左へ行ってたら巻き込まれてたかもしれないな」
ガルドが言った。
バタコが記録した。
「少なくとも今回は、右という指示と危険回避が一致したね」
ワッパは短い声の記録へ結果を書き加えた。
その直後。
長い声が聞こえた。
『その短い声を信じ続けたら、いつか必ずお前を殺す。』
ワッパは反射的に立ち止まった。
胸の奥が冷たくなる。
「今度は何を言ったの?」
エルナが尋ねた。
ワッパは少しだけ言葉に詰まったが、そのまま伝えた。
「短い声を信じ続けたら、いつか俺を殺すって言った」
バタコはすぐに尋ねた。
「何か理由は言った?」
「何も言ってない」
「それなら予測なのか警告なのか、単に怖がらせようとしているのかはわからないね」
「でも短い声が今まで全部正しかったとしても、未来まで安全とは限らないですよね」
ワッパが言った。
「その可能性は否定できないよ」
バタコは答えた。
「ただし今の長い声が正しいと考える証拠もまだない」
エルナがワッパを見た。
「怖い?」
「正直に言えば少し怖い」
「それでも隠さないで話してくれたなら、それでいいよ」
ワッパは頷いた。
以前の世界では、声が誰にも話すなと言うたび、本当に相談できなくなっていった。
今は逆だった。
聞こえたら話す。
怖くても話す。
それだけでも以前とは違う。
昼前になったころ、森の中で小さな石造りの遺構が見つかった。
壁の一部だけが残り、屋根は完全に崩れている。
表面には黒い線が走っている。
「昔の施設の一部かもしれないね」
バタコが近づいた。
「文字らしいものがあるよ」
石壁の一部へ、古い文字が刻まれている。
ほとんど削れていたが、バタコなら少し読めるらしい。
「接続者って書いてあるように見える」
エルナが左腕へ触れた。
「私みたいな人のことかな?」
「まだそこまで結びつけない方がいい」
バタコは慎重に答えた。
「でも人間との接続って記録は前にもあったから、関連する可能性はあるね」
ワッパは遺構を見た。
この場所で何が行われていたのか。
誰が接続されたのか。
その人たちがどうなったのか。
答えはまだない。
耳元で、長い声がまた囁いた。
『エルナは、自分が何者なのか知っている。』
ワッパはすぐに言った。
「またエルナのことです」
エルナが振り返った。
「今度は何を言われたの?」
「エルナは自分が何者なのか知ってるって言った」
「私はそんな大げさなこと知らないよ」
その瞬間。
――本当。
短い声が響いた。
ワッパは固まった。
「今、いつもの声が本当って言いました」
エルナもバタコも驚いた。
「何に対して本当なの?」
エルナが尋ねた。
「今の会話の流れなら、エルナが知らないって言ったことが本当だって意味に聞こえる」
バタコがすぐに整理した。
「つまり長い声の内容と、短い声の判断が食い違った可能性があるね」
ワッパは記録した。
長い声。
エルナは自分が何者なのか知っている。
エルナは否定。
短い声。
本当。
「これで長い声が嘘をついたってことですか?」
エルナが尋ねた。
「かなり強い材料にはなるけど、まだ解釈の問題は残るよ」
バタコは答えた。
「自分が何者なのかという言葉が曖昧だから、完全な矛盾と断定するには少し足りない」
ガルドがため息をついた。
「そこまで慎重にする必要あるのか?」
「今後もっと危険な内容が出てくる可能性があるなら、ここで雑に決めない方がいいです」
ワッパが答えた。
午後へ入るころには、長い声の出現回数が明らかに増えていた。
最初はエルナについてだった。
次は短い声について。
その次はワッパ自身について。
そして少しずつ、言葉の内容が具体的になっていった。
『バタコは、お前を調べるために一緒にいる。』
ワッパはそのまま伝えた。
バタコは少し笑った。
「それなら半分くらいは本当だね」
「確かに記録を取るのが好きですよね」
「でも調べるだけが理由じゃないよ」
「そこは何で判断すればいいんですか?」
「行動を見てもらえばいいと思うよ」
バタコは淡々としていた。
少し後。
『ガルドは、まだ短剣を盗むつもりだ。』
ワッパが伝えると、ガルドは露骨に顔をしかめた。
「そこまで言われると腹が立つな」
「念のため確認しますけど、本当に盗むつもりはないんですよね」
「今はない」
声は何も言わなかった。
完全には確認できない。
だから記録へ未確認と残した。
さらに後。
『エルナは、お前が怖い。』
ワッパは一瞬だけ黙った。
以前の世界なら、その一言だけで相手の表情や態度を疑い始めていたかもしれない。
しかし今は違う。
「エルナ、俺のこと怖い?」
そのまま尋ねた。
エルナは驚いた。
「急にどうしたの?」
「長い声がそう言った」
エルナは少し考えた。
「ワッパのことを怖いと思ったことはあるよ」
胸が少し痛んだ。
「いつ?」
「声がエルナは死ぬって言ったあと、ワッパが一人で無茶しそうだったとき」
エルナは続けた。
「それと森で声が間違ってるって証明したくて危ないところへ進んだときは、少し怖かった」
ワッパは黙った。
長い声はまた、一部だけなら本当だった。
しかし聞いた瞬間には、エルナが今も自分を恐れているように感じた。
「今も怖い?」
「今はそこまで怖くないよ」
エルナは笑った。
「何でも聞こえたら話してくれるようになったからね」
ワッパは息を吐いた。
長い声は、本当の材料を使っている。
ただし、その材料をどの時点の話なのか、どの程度の意味なのか説明せず、不安が最も強くなる形で投げてくる。
「少しわかってきたかもしれない」
ワッパが言った。
バタコが尋ねた。
「何がわかったの?」
「この長い声は、全部適当な嘘を言ってるわけじゃない」
「私もそう思う」
バタコは頷いた。
「本当の事実を混ぜてる可能性がある」
「だから余計に怖いんだと思います」
ワッパは続けた。
「全部嘘なら無視しやすいけど、一部が本当だと残りまで信じたくなる」
バタコはその言葉を記録した。
夕方が近づいたころ、四人は大きな黒い門のような構造物へ辿り着いた。
森の中へ二本の黒い柱が立ち、その上を横長の石材がつないでいる。
表面には無数の細い溝が走っていた。
「これも響界塔の施設の一部かな」
バタコが近づいた。
「正面に何かある」
エルナが門の中央を見た。
薄い白い線が浮かんでいる。
エルナが一歩近づいた瞬間、黒い痕が大きく反応した。
「熱い!」
エルナが腕を押さえた。
ワッパがすぐに近づいた。
「無理に進むな!」
黒い門の溝が次々に白く光った。
低い鐘のような音が森の中へ響く。
第六章で黒い構造物が反応したときと似ている。
「エルナが近づいたから反応したのか?」
ガルドが言った。
「一度離れてみよう」
バタコが指示した。
エルナが後ろへ下がる。
光が少し弱くなった。
もう一度近づく。
光が強くなる。
「少なくともエルナの距離と反応の強さには関係がありそうだね」
バタコが記録した。
「私が鍵みたいになってるのかな」
エルナが呟いた。
ワッパは答えなかった。
まだわからない。
そのとき。
――待て。
短い声が響いた。
「待てって言いました」
全員が動きを止めた。
門の光は消えない。
何も起こらない。
数秒。
さらに少し時間が過ぎる。
すると門の中央に細い亀裂が入り、内側から白い霧が流れ出した。
ガルドが剣へ手をかける。
「近づかない方がいいな」
ワッパも同意した。
短い声は待てと言った。
実際に待ったことで、門の変化を安全な距離から確認できた。
しかし次の瞬間。
長い声が聞こえた。
『今すぐ入らなければ、エルナはここで死ぬ。』
ワッパの心臓が強く鳴った。
「長い声が、今すぐ入らないとエルナがここで死ぬって言ってます」
エルナが自分の腕を見た。
「痕は熱いけど、今すぐ倒れそうな感じはないよ」
バタコも周囲を確認した。
「短い声は待てと言ったばかりだね」
「どうしますか?」
ワッパが尋ねた。
「今の状況なら待った方がいい」
バタコは即答した。
「エルナ本人の状態も今すぐ死にそうには見えないし、門の中から霧が流れ出してる」
ガルドも同意した。
「急いで入る理由がない」
ワッパはエルナの顔を見た。
苦しそうではある。
しかし意識ははっきりしている。
呼吸もできている。
「もう少し待とう」
ワッパは決めた。
一分ほど経った。
エルナは死ななかった。
さらに時間が経った。
門から出ていた霧が薄くなった。
やがて光も弱まった。
「長い声の言った今すぐっていう部分は、少なくとも現時点では外れた可能性が高いね」
バタコが記録した。
ワッパは少しだけ胸の奥が軽くなるのを感じた。
初めて、長い声の具体的な説明が現実と明確に合わない例が出た。
それでも完全には安心できない。
なぜなら声はまだ続いていたからだった。
『短い声は、お前を騙している。』
ワッパは伝えた。
誰もすぐには答えなかった。
『エルナも、お前を利用している。』
ワッパはまた伝えた。
エルナは目を逸らさなかった。
『バタコは、お前を人間として見ていない。』
ワッパはそのまま伝えた。
バタコも否定を急がなかった。
『ガルドは、お前を裏切る。』
ガルドは舌打ちした。
「今度は俺かよ」
そして。
『結局、お前のことを本当に理解できる人間なんて、どこにもいない。』
ワッパの呼吸が止まりそうになった。
以前の世界で何度も聞いた言葉と、ほとんど同じだった。
誰にも理解されない。
話しても無駄。
一人で考えろ。
周りは敵だ。
その方向へ、自分を追い込んでいく声。
ワッパは拳を握った。
エルナがすぐに気づいた。
「今のは何て言ったの?」
「俺のことを本当に理解できる人間なんて、どこにもいないって言った」
エルナは少しだけ悲しそうな顔をした。
「それは私は嫌だな」
「どうして?」
「全部理解できるなんて言えないけど、理解しようとはしてるから」
バタコも静かに言った。
「私も全部はわからないよ」
「それでも記録を手伝ってくれてます」
「わからないから調べてるんだよ」
ガルドが肩をすくめた。
「俺なんてお前のことをほとんど理解してないぞ」
ワッパが思わず顔を上げた。
「そこはもう少し良いこと言えませんか?」
「でも一緒に歩いてるだろ」
ガルドはそう答えた。
ワッパは少しだけ笑った。
長い声が言ったことを否定するために、誰かがすべて理解している必要はない。
理解できない部分があっても、隣にいることはできる。
それだけで十分なのかもしれない。
四人は門の近くから少し離れ、安全そうな場所で野営することにした。
夜になる前に、バタコは今日の長い声についてまとめた。
「一つ提案があるよ」
ワッパが顔を上げた。
「どんな提案ですか?」
「この長い声が聞こえたときは、内容を一人で考えない」
「すぐ話すってことですか?」
「そういうことだよ」
バタコは紙へ書いた。
長い声が聞こえた場合。
内容を即座に仲間へ共有する。
事実部分と解釈部分を分ける。
確認できるものは現実で確かめる。
一人で結論を出さない。
「以前の世界でも、話さないようにする声が多かったんですよね」
バタコが尋ねた。
「そういう声が多かったと思う」
「それなら今回は逆にしよう」
ワッパはその言葉を見た。
聞こえたら話す。
一人にならない。
それだけでも、長い声の影響をかなり小さくできるような気がした。
「この声は聞いてはいけないってことですか?」
エルナが尋ねた。
バタコは少し考えた。
「耳を塞いでも聞こえるなら、聞かないこと自体は難しいんじゃないかな」
ワッパも頷いた。
「聞こえるものを完全に止める方法はわからない」
「それなら、聞こえても一人で信じ込まないって方が近いね」
エルナが言った。
「そうだと思う」
ワッパは答えた。
夜が深くなった。
ガルドが見張りに立ち、バタコは今日の記録を整理している。
エルナは少し離れた場所で左腕へ薬草を巻いていた。
ワッパは火の前へ座り、自分の記録を読み返した。
長い声には特徴がある。
長い。
感情へ触れてくる。
不安を強くする。
人間関係へ疑いを向ける。
本当の事実を混ぜる。
その事実へ最も怖い意味を足して伝える。
そして、今日初めて具体的な説明が現実と合わない例が出た。
一方で短い声は、今日も右と待てという言葉で現実の危険と一致した。
それでもまだ結論は出さない。
長い声が偽物だと断定するには、もう少し証拠が欲しい。
短い声が絶対に安全な存在だと決める必要もない。
ただ記録する。
確認する。
仲間へ話す。
そして最後は自分で決める。
そのとき。
耳元で、長い声が聞こえた。
『もう一つだけ、本当のことを教えてやる。』
ワッパの身体が固くなった。
すぐにエルナたちへ伝えようとした。
しかし声は続いた。
『エルナを生かしたいなら、お前が先に殺した方がいい。』
ワッパは息を忘れた。
火の音が遠くなる。
目の前ではエルナがこちらを見ている。
「ワッパ、今また聞こえた?」
ワッパは口を開いた。
言いたくなかった。
そんな言葉をエルナ本人へ伝えたくなかった。
けれど隠せば、この声が望む方向へ一歩近づくような気がした。
だからワッパは、震える声でもそのまま伝えた。
「今の声が、エルナを生かしたいなら、俺が先に殺した方がいいって言った」
誰もすぐには動かなかった。
エルナも逃げなかった。
ただワッパを見ていた。
「それでワッパはどう思ってるの?」
エルナが静かに尋ねた。
ワッパは拳を強く握った。
「そんなことをする理由は何一つない」
その答えだけは迷わなかった。
声が何を言おうと。
どれだけ本当の事実を混ぜようと。
どれだけ不安を刺激しようと。
エルナを殺すことが、生かすための正しい方法だと判断できる現実の証拠は一つもない。
ワッパはエルナから目を逸らさなかった。
「俺はその声には従わない」
長い声は、それ以上何も言わなかった。
しかし森の奥から流れてくる白い霧は、まるでその言葉を聞いていたかのように、黒い門の向こうで静かに揺れ続けていた。




