第一章 知らない空
目を覚ましたとき、最初に見えたのは青い空だった。
雲ひとつ見当たらないほど澄み切った空が、視界のほとんどを埋め尽くすように広がっており、その青さがあまりにも鮮やかだったせいで、ワッパは自分がどこにいるのかを考えるより先に、しばらく何も考えず空を見上げていた。
やがて頬を撫でる冷たい風と、背中へ伝わってくる湿った土の感触に気づいたことで、自分が屋外の地面へ仰向けに倒れているらしいことを理解し、ワッパは重たく感じる身体をゆっくり起こした。
周囲には見上げるほど高い木々が何本も立ち並んでおり、枝の隙間から差し込む白い光が地面へ複雑な模様を作り、その上を風に揺らされた木漏れ日がゆっくり動いている。
どこかで鳥の鳴き声が聞こえ、少し離れた場所からは水が流れるような音も聞こえていた。
静かな森だった。
少なくとも、今すぐ自分へ襲いかかってくるような危険は見当たらなかった。
「ここがどこなのか、本当に何もわからないな……」
自分の声を聞いたことで、ようやく頭の中が少しずつ動き始めた。
ワッパは服についた土や枯れ葉を払いながら立ち上がり、身体の状態を確かめるように腕や脚を動かしてみたが、大きな怪我も痛みもなく、身体そのものには特に問題がないようだった。
しかし、自分がなぜこの森へ倒れていたのかを思い出そうとした瞬間、それまでとは違う奇妙な感覚が頭の奥へ広がった。
何も思い出せなかった。
ここへ来る直前に何をしていたのかも、どこから来たのかも、自分がどこで暮らしていたのかも思い出せず、記憶が存在するはずの場所だけを深い霧で覆われているような感覚があった。
家族について考えてみても、誰かの顔は浮かんでこない。
友人について考えてみても、名前の一つさえ出てこない。
それでも、自分自身の名前だけは不思議なくらい自然に浮かんできた。
「俺の名前はワッパだったはずだ……」
その名前だけは間違っていないと思えた。
なぜそう確信できるのか説明することはできなかったが、自分がワッパという人間であることだけは、失われた記憶の中へ残された最後の杭のように、頭の奥へしっかり打ち込まれていた。
記憶がないという事実に気づけば、もっと取り乱してもおかしくないはずだった。
それなのにワッパは、自分自身を少し離れた場所から眺めているような妙な感覚のせいで、恐怖を感じながらも完全には混乱できずにいた。
どうして自分はこんなに落ち着いているのだろう。
その疑問について考え始めたとき、背後から草を踏み分ける音が聞こえた。
ワッパは身体を強張らせながら振り返った。
木々の間から現れたのは、淡い色の服を着た一人の少女だった。
年齢はワッパとそれほど離れていないように見え、肩のあたりまで伸びた髪を後ろでまとめ、片手には草や小さな花のようなものが大量に入った籠を抱えている。
少女はワッパを見つけると足を止め、怪しい人間を見るというより、道端で倒れている怪我人を見つけたような顔をした。
「こんな森の中で一人きりなんて、いったい何をしてるの?」
いきなり質問されても、ワッパ自身が答えを持っていなかった。
「俺にもよくわからないんだけど、気づいたらあそこで倒れてたんだ」
ワッパが自分の倒れていた場所を指差すと、少女はますます不思議そうな顔をした。
「森の中で眠ってたってことなの?」
「眠ってたのか倒れてたのか、それすら自分でもわからないんだよ」
「それなら頭でも打ったんじゃないの?」
少女は心配そうに近づいてきた。
ワッパは反射的に一歩下がりそうになったが、少女の手に武器らしいものはなく、少なくとも今のところ敵意を向けられている様子もないため、その場で動かず様子を見ることにした。
「自分の名前くらいなら覚えてる?」
「ワッパって名前だけは、ちゃんと覚えてるみたいだ」
「変わった名前だけど、覚えてるなら少し安心かな」
少女はそう言って笑った。
「私はエルナっていうの。この森の近くにある村で暮らしてるよ」
「それならエルナは、この場所がどこなのか知ってるんだよな?」
「もちろん知ってるけど、ワッパが知らないことの方がびっくりだよ」
エルナによれば、ここは村からそれほど離れていない森であり、奥深くまで入り込まなければ危険な場所でもないらしい。
しかし村の名前を聞いても、周辺の土地について説明されても、ワッパの記憶には何一つ引っかからなかった。
「本当に何も知らないみたいだね」
「自分でもだんだん心配になってきたよ」
「それなら一人で森にいる方が危ないから、とりあえず村まで来た方がいいと思うよ」
知らない少女についていくことへ多少の警戒はあったが、このまま森を歩き回ったところで状況が良くなるとも思えなかった。
「それなら村まで案内してもらえると助かるよ」
「最初からそのつもりだったから、ちゃんとついてきてね」
エルナはそう言って歩き始めた。
ワッパも少し距離を空けながら後へ続いた。
森の中を歩き始めると、先ほどまで気づかなかった違和感が次々に目へ入ってきた。
地面の近くには淡く青白い光を放つ苔が生えており、頭上の枝には見たことのない形をした赤い実がぶら下がっている。
さらに木々の間を青い鳥が横切ったが、その鳥には身体より長い尾があり、飛ぶたびに尾羽が細い布のように空中へ広がった。
ワッパが思わず足を止めると、少し先を歩いていたエルナも振り返った。
「どうしてミラ鳥をそんなに珍しそうに見てるの?」
「あれはミラ鳥っていうのか?」
「村の小さい子でも知ってる鳥だよ」
「どうやら俺の知識は、村の小さい子どもより下らしいな」
ワッパがそう答えると、エルナは声を上げて笑った。
その笑い方には警戒も嘲笑もなく、本当に面白かったから笑っているだけに見えた。
それから二人は森を歩きながら、目に入るものについて何度も話した。
エルナにとって当たり前の植物や動物が、ワッパにとっては何もかも初めて見るものばかりだった。
知らないことが増えるたびに不安も大きくなったが、それと同時に、自分が置かれている状況を少しずつ理解しているような感覚も生まれていた。
やがて木々の密度が低くなり、森の向こうへ開けた土地が見えてきた。
そこには石と木材を組み合わせて作られた家々が並び、その周囲には畑が広がっていた。
村の中央には大きな井戸があり、何本かの煙突から白い煙がゆっくり空へ昇っている。
道は舗装されておらず、土の上には人や荷車が何度も通った跡が残されていた。
「ここが私たちの村だよ」
エルナに説明されなくても、村であること自体は理解できた。
しかしワッパが知っているはずの生活というものと、目の前の景色との間には、説明できないほど大きな隔たりがあるように感じられた。
建物の形も違う。
服装も違う。
道具も違う。
それなのに、何と比べて違うと感じているのかを思い出すことができない。
村へ入ると、何人かの住人がワッパへ視線を向けた。
その瞬間、胸の奥へ嫌な感覚が広がった。
自分が見られている。
何かを疑われている。
そんな考えが反射的に浮かんだが、ワッパはすぐに村人たちの様子をもう一度確認した。
一人の男は少し見たあと、そのまま薪割りへ戻った。
井戸の近くにいた女性もエルナへ軽く手を振っただけで、ワッパについて誰かと話し始める様子はない。
子どもたちは珍しそうに見ているが、知らない人間が村へ入ってきたのだから、それくらいは普通の反応なのかもしれない。
「考えすぎる必要はなさそうだな……」
ワッパは小さく呟き、呼吸を整えた。
エルナはその独り言には気づかなかったらしく、そのまま村の中央にある少し大きな建物へ向かった。
集会所らしい建物の中では、年配の男がワッパを待っていた。
エルナから事情を聞いた男は、ワッパへ名前や出身地を尋ねたが、名前以外について答えられることは何もなかった。
「記憶が戻るまでは、この村で休んでいけばいいだろう」
老人はそれ以上追及しなかった。
「腹が減っているなら、まず何か食べた方がよさそうだな」
その言葉へ答えるより先に、ワッパの腹が大きな音を立てた。
隣にいたエルナが笑いを堪えきれず、口元を手で押さえた。
「身体の方は正直みたいだから、ちゃんと食べた方がいいね」
しばらくして運ばれてきたのは、野菜と肉の入った温かいスープと、少し硬い黒いパンだった。
ワッパがスープを口へ運ぶと、温かさが喉から腹へ落ちていき、それまで現実感の薄かった世界がほんの少しだけ自分の身体へつながったような気がした。
食事をしているうちに、集会所の入口から何人もの子どもが顔を覗かせ始めた。
「ずいぶん人気者になったみたいだね」
「珍しい動物でも見るような目をされてる気がするけどな」
「ワッパの顔が面白いだけかもしれないよ」
「初対面の人間に言うことじゃないだろ」
二人がそんな話をしていると、子どもたちの中から小さな女の子が前へ出てきた。
手には小さな白い花を持っている。
少女はしばらく迷ったあと、その花をワッパへ差し出した。
理由はわからなかった。
それでもワッパは花を受け取った。
「ありがとう、大事に持っておくよ」
少女は嬉しそうに笑い、そのままほかの子どもたちのところへ戻っていった。
その光景を見ているうちに、ワッパの中で張り詰めていたものが少しずつ緩んでいった。
夕方になると、村の外へ沈み始めた太陽が空を橙色へ染め、家々の影が長く伸びていた。
エルナは、村長からしばらく集会所へ泊まっていいと許可が出たことを伝え、明日から一緒に記憶や出身について調べればいいと話した。
「今日は本当に助かったよ。エルナが来なかったら、今でも森を歩き回ってたかもしれない」
「それなら見つけられてよかったよ。明日になったら何か思い出すかもしれないしね」
「そんな簡単に戻ってくれたら助かるんだけどな」
ワッパは空を見上げた。
知らない空だった。
それでも今は、不思議とその空を怖いとは思わなかった。
名前以外の記憶がなくても、この村で少しずつ自分のことを調べていけばいい。
この世界について知らないなら、これから一つずつ覚えていけばいい。
少なくとも、ここで出会った人々はワッパを追い出そうとはしなかった。
だから、この場所でもう一度自分が何者なのかを探していけるのかもしれない。
少なくとも、そのときまでは本気でそう思っていた。
突然、村の中央から鐘の音が響いた。
最初の一度だけなら、夕方を知らせる鐘だと思ったかもしれない。
しかし少し間を置いて二度目の鐘が鳴った瞬間、それまで穏やかだった村の空気が明らかに変わった。
畑にいた人々が一斉に道具を置き、家の外で遊んでいた子どもたちは親に抱えられるように建物の中へ連れていかれ、男たちは倉庫から槍や斧を持ち出し始めた。
窓へ板を打ちつける音が村のあちこちから聞こえ、それまで笑っていた人々の表情から余裕が消えていく。
何も知らないのは、ワッパだけだった。
遠くからエルナが走ってきた。
先ほどまでの穏やかな表情は消え、息を切らしながらワッパの腕を掴んだ。
「ワッパ、今すぐ集会所の中まで戻って!」
「いったい何が来るのか説明してくれないか?」
エルナは答えるより先に森の方角を見た。
ワッパもその視線を追った。
森の奥から、白い霧が流れ出していた。
風は村から森へ向かって吹いているはずなのに、白い霧だけは風へ逆らうように木々の間から村へ近づいてくる。
昼間に見た穏やかな森とは、まるで別の場所に見えた。
「白い霧が出てきたら、何か危険なことが起きるのか?」
「霧だけならまだいいけど、今日は何かが一緒に来てるみたいなの」
エルナが言い終えた直後、森の奥から低いうなり声が聞こえた。
狼の声に似ているようにも思えたが、それより遥かに低く、身体の奥まで震わせるような音だった。
村人たちは槍を構え、森へ向かって並んだ。
エルナはワッパの腕を強く引いた。
「ここにいたら危ないから、今すぐ私と一緒に走って!」
ワッパが走り出す直前、白い霧の中に巨大な影が浮かんだ。
四本の脚を持つ獣のような形だった。
しかし普通の狼と呼ぶにはあまりにも大きく、その背中は人間の胸ほどの高さまであるように見えた。
霧の中で二つの赤い目が開いた。
獣が地面を蹴った。
重い足音が急速に近づいてくる。
ワッパはエルナに引かれながら走った。
なぜ自分がこの世界へいるのかはわからない。
失った記憶の中に何があるのかもわからない。
目の前に現れた怪物が何なのかさえ、まだ何一つ知らなかった。
それでも一つだけ理解できた。
知らない世界で始まった自分の新しい人生は、穏やかな空の下で静かに始まってくれるほど優しいものではなかった。
白い霧の向こうから聞こえてきた低いうなり声とともに、ワッパの新しい人生は動き始めた。




