婚約者は血のつながらない妹の誕生日を祝うために私との婚約をすっぽかし、私は誰もいない会場に取り残された
婚約の顔合わせを一か月後に控えたころ、神崎蓮は帰国したばかりの九条莉花と再会した。
それ以来、彼は九条家へ来るたびに、なぜか「部屋を間違える」ようになった。
私の部屋と莉花の部屋は長い廊下の端と端にある。それなのに蓮は、いつも平然と言った。
「同じ家族なんだから、そんなにきっちり分けなくてもいいだろ?」
九回目にまた莉花の部屋へ向かったとき、私はとうとう聞いた。
「神崎蓮。あなた、本当に私と結婚する気あるの?」
蓮は、もう間違えないと約束した。
私は、それを最後にもう一度だけ信じた。
けれど両家の顔合わせを兼ねた婚約の食事会の日。
私はホテルで、一人きりのまま夜まで待ち続けた。
届いたのは婚約者ではなく、莉花の誕生日パーティーを映したSNSの動画だった。
薔薇の花束を抱えた蓮の胸へ、莉花が飛び込んでいく。
彼は拒まなかった。
しばらく動画を見つめたあと、私は別の番号へ電話をかけた。
「高瀬さん」
「前に話していた偽装婚約の件、受けます」
1
動画はまだ繰り返し再生されていた。
スマートフォンから流れる「莉花、誕生日おめでとう!」という歓声が、誰もいない宴会場に響いている。テラスから夜風が吹き込み、今日のために用意した白いワンピース姿の腕が冷たくなっていった。
そのとき、スマートフォンが鳴った。
莉花からだった。
【美月お姉ちゃん、どうして私の誕生日会に来なかったの?】
私は口元だけで笑い、返信しなかった。
今日が何の日か、本当に知らないとでもいうのだろうか。
すぐに次のメッセージが届く。
【蓮君がレストランを貸し切ってくれたの。みんないるよ。お姉ちゃんも来ない?】
続いて、一本の動画。
個室では、大勢の男女が酒を飲みながら盛り上がっていた。
神崎蓮はその中心に座っている。
「蓮、今日って美月との婚約の顔合わせじゃなかったの? 本当に行かなくていいのか?」
友人の一人が笑いながら尋ねる。
蓮はワインを開けながら、気のない様子で答えた。
「慌てる必要ないだろ」
「美月は気にしないよ」
「俺が結婚すると言っただけで十分喜んでるんだから」
赤いワインがグラスへ注がれる。
蓮はそれを莉花の口元へ差し出した。
「少し飲む?」
莉花は一口飲んだだけで咳き込み、拗ねたように蓮を軽く叩いた。
「もう、蓮君って意地悪。私がお酒弱いの知ってるくせに」
蓮が笑う。
「悪かったよ」
そして莉花が口をつけた場所から、そのまま残りを飲み干した。
周囲から一斉に冷やかす声が上がる。
「やっぱり蓮と莉花がお似合いだよな」
「小さいころからずっと一緒だし、九条家と神崎家も昔から付き合いがあるし」
「赤ちゃんの取り違えなんてなかったら、蓮と婚約してたのは莉花だったんじゃない?」
蓮は聞こえているはずなのに、否定しなかった。
莉花は少し寂しそうに笑った。
「美月お姉ちゃんが九条家の本当の娘だから」
「もともと両家の大人たちが話していたのも、九条家の娘と神崎家の結婚でしょう?」
「私がお姉ちゃんから蓮君を奪うなんて、できないよ」
そう言って、寂しげな目で蓮を見る。
すぐに周囲が莉花を慰め始めた。
それでも蓮は、最後まで一言も言わなかった。
――自分が好きなのは美月だ、と。
2
画面が滲んでいった。
スマートフォンを握ったまま、胸の奥が詰まるように痛んだ。
私は七年前、ようやく九条家に見つけられた実の娘だ。
十九歳になるまで、ずっと田村家で育った。
幼いころの私は、自分とあの夫婦に血のつながりがないことなど知らなかった。ただ、あの人たちは私が嫌いなのだと思っていた。
少しでも失敗すれば殴られた。
食事を多く食べただけでも怒鳴られた。
十九歳のある日、偶然二人の口論を聞いた。
「あの子はもともと九条家の子なんだぞ!」
「十九年も育ててやったんだから、もう十分でしょう!」
初めて、自分は田村家の娘ではないのかもしれないと思った。
私は傷だらけの体で九条家へ向かった。
あの日の私は、本当にひどい姿だった。
額には古い傷、腕にはいくつもの痣。服も何度も洗って色褪せていた。
九条家の人たちは、最初、どこからか金目当てで来た詐欺師だと思ったらしい。
「DNA鑑定をしてください」
「私があなたたちの娘じゃなかったら、すぐに帰ります」
泣きながら頼み続け、ようやく病院へ連れていってもらった。
結果が出たとき、九条家の全員が言葉を失った。
私こそが、九条夫妻の実の娘だった。
一方、十九年近く宝物のように育てられてきた莉花には、九条家の血が流れていなかった。
私は九条家へ迎え入れられた。
けれど莉花が追い出されることはなかった。
十九年近く積み重ねてきた家族としての情が、一枚の鑑定結果で消えるはずもない。
最終的に、莉花は養女として九条家に残ることになった。
そして九条家は、私の存在を外部へ大々的に公表しなかった。
だから青凪市の多くの人間は、今でも思っている。
九条家のお嬢様は一人だけ。
九条莉花だ、と。
3
九条家へ初めて入った日、私は莉花と神崎蓮に会った。
二人はリビングに並んで座っていた。
莉花は上品なワンピースを着て、愛されて育った少女らしい明るい笑顔を浮かべていた。その隣には、若く、整った顔立ちの蓮。
まるで物語の中で最初から結ばれることが決まっていた王子様とお姫様みたいだった。
一方の私は、傷だらけ。
古びた服を着て、部屋の入り口に立つだけで、この場所から浮いていた。
あとになって知った。
神崎家と九条家は長年付き合いのある家同士だった。
二人が子どものころから、両家の大人たちは半分冗談、半分本気で「将来は結婚させればいい」と話していた。
当然、誰もがその相手を莉花と蓮だと思っていた。
けれど私が戻ってきたことで、事情が変わった。
血縁と昔からの約束だけを考えれば、婚約する「九条家の娘」は私になる。
私は、莉花と何かを争いたかったわけではない。
あのころの願いは、ただ一つ。
生きていたかった。
けれど九条家へ戻ってみて初めて分かった。
実の両親が見つかったからといって、それだけで「家族」が手に入るわけではない。
両親は私と接するとき、どこかぎこちなかった。
莉花は今までどおり、二人が慣れ親しんだ大切な娘だった。
使用人たちも、この家で本当に大切にされているのが誰なのか、よく分かっていた。
ある日、物置で使用人の一人に腕を強くつねられ、罵られていた。
そこへ、莉花を訪ねてきた蓮が偶然通りかかった。
彼は眉をひそめ、そのまま私を自分の後ろへ引いた。
「何してるんだ?」
使用人の顔が青ざめた。
その日は夕食に間に合わず、長いこと何も食べていなかった。
よりによって蓮の隣で、お腹が鳴った。
恥ずかしくて顔を上げられない私を見て、彼は笑った。
「行こう」
「キッチンに何か残ってるはずだから」
こっそりキッチンへ連れていかれ、おにぎりや菓子を探してもらった。
九条家へ来てから、初めて誰かがはっきりと私の味方をしてくれた日だった。
それ以来、蓮が来る日は、少なくとも空腹のまま眠ることは減った。
彼は私を助けてくれた。
だから私は、どうしようもないほど彼を好きになった。
自分は九条家の実の娘。
いつか両親も私を受け入れてくれる。
そして神崎蓮も、本当に私を選んでくれる。
そんな夢まで見ていた。
九条家は私の存在を公表しなかったものの、教育だけは受けさせてくれた。
私は莉花と蓮が通っていた私立青凪学院大学へ編入した。
人生を自分の力で変えられるかもしれない。
初めてそう思えた。
4
大学でも、蓮は私によくしてくれた。
編入したばかりで何も分からなかった私を、講義棟や図書館、学生食堂へ連れていってくれた。
それまで十分な教育を受けられなかったため、授業についていけない部分も多かった。そんなときは蓮が丁寧に教えてくれた。
私は九条家が与えてくれた環境を、必死に使った。
最初は下位だった成績も、少しずつ上がっていった。
結果が出るたびに嬉しくなって蓮へ報告すると、彼は笑いながら私の頭を撫でた。
「よく頑張ったな」
あの手は、とても温かかった。
そのころの私は本気で信じていた。
努力さえ続ければ、いつかこの人の隣に立てるのだと。
5
二十三歳で大学を卒業する日。
私は数人の女子学生に女子トイレへ連れ込まれた。
頭を洗面台の水へ押し込まれる。
冷たい水が鼻や口へ入り、必死にもがいていると、耳元で笑い声がした。
「まさか、本気で神崎蓮があんたを好きだと思ってたの?」
「蓮があんたに優しくしたのは、全部莉花のためだよ」
息ができない苦しさの中で、ばらばらだった事実がつながった。
蓮は最初から、私が九条家の実の娘だと知っていた。
私の存在が、莉花の持っているものを奪うことを恐れていた。
だから私へ近づいた。
守って。
励まして。
自分を好きになるように仕向けた。
私が彼に依存すればするほど、蓮は私の選択を操りやすくなる。
莉花と争わないように。
九条家の決定へ逆らわないように。
莉花を脅かさない、都合のいい「実の娘」でいるように。
彼が昔かけてくれた言葉を思い出した。
「大丈夫。問題を一つ間違えたくらい、次にできればいい」
「美月はスタートが遅かっただけだよ」
「才能もあるし、努力もできる。きっと自分がなりたいものになれる」
私を温めてくれたはずの声が、冷たい水の中で消えていった。
それでも、あの時点では蓮と決裂するわけにはいかなかった。
私はまだ何も持っていなかった。
学歴も必要だった。
九条家の環境も。
そして将来自分の力で生きるためには、九条家の会社で経験を積む必要があった。
だから、何も知らないふりをした。
真相を知ってから見直してみれば、蓮の「優しさ」にはいくらでも不自然なところがあった。
私が幼いころ食事さえ満足にもらえなかったことを知り、学生食堂へ付き合ってくれた。
私はずっと、蓮も学食が好きなのだと思っていた。
実際には違った。
蓮は先に、莉花と家から届いた上等な弁当を食べていた。
そのあとで私のところへ来ていたのだ。
だから毎回、数口しか食べない。
昔、一度聞いたことがある。
「どうしてそんなに少ししか食べないの?」
蓮は笑った。
「美月が美味しそうに食べてるのを見ると、俺まで満足するんだよ」
私は本気で信じた。
大学でも、人前では私と距離を取った。
何年同じ場所にいても、多くの学生は私たちがただの知り合いだと思っていた。
対して蓮と莉花は、誰が見てもお似合いの幼なじみだった。
6
私と蓮が結婚するという話も、外部にはほとんど知られていなかった。
私は誰もいないホテルをあとにした。
九条家へ戻ると、広い家は静まり返っていた。
全員、莉花の誕生日会へ行っていたからだ。
けれど私は、不思議とその静けさを心地よく感じた。
余計な声を聞かずに済んだおかげか、その晩は久しぶりによく眠れた。
翌朝。
長年の習慣どおり早く目が覚め、階下へ下りると、九条家の人間はすでに朝食を取っていた。
蓮までいる。
莉花がコーヒーを一口飲み、すぐに顔をしかめる。
「苦い」
蓮はごく自然にカップを取り上げ、代わりに牛乳を渡した。
「苦手なら無理して飲むなよ」
母が笑う。
「莉花は小さいころから苦いものが苦手だものね」
和やかだった食卓の空気が、私の姿を見た瞬間だけ、わずかに止まった。
私は気づかないふりをして、テーブルの端に座った。
7
ここ数年、仕事で結果を出すようになったことで、九条家の私への態度も多少は変わった。
大学卒業後、九条グループへ入社。
一般社員として働き始め、三年かけてプロジェクトリーダーまで上がった。
目の前にコーヒーが置かれた。
蓮が手を離す。
「美月、コーヒー好きだろ?」
「淹れたてだから飲んでみて」
私はコーヒーが好きなのだろうか。
体力も基礎知識も足りなかった昔の私は、人より何倍も時間をかけるしかなかった。
何度も深夜まで仕事をし、苦いコーヒーで眠気を追い払った。
彼らが当たり前のように手にしてきた場所。
私は必死にしがみついて、ようやく辿り着いた。
それでもカップを持ち、一口飲む。
そして蓮へ笑いかけた。
「美味しい。ありがとう、蓮」
彼は一瞬、目を止めた。
それから昔と同じ癖で、私の頭へ手を置く。
「昨日、顔合わせに行かなかったこと」
「美月、怒ってる?」
私はさらに笑った。
「どうして?」
「莉花の誕生日のほうが大事でしょう?」
蓮が眉を寄せた。
何か言おうとした瞬間、莉花が食器を置く。
「ごちそうさま」
「蓮君、今日会社まで送ってくれる?」
蓮はすぐに立ち上がった。
ただ、出ていく直前に私を振り返る。
「美月も会社だろ?」
「一緒に行く?」
「うん」
口元を拭き、素直に答えた。
車に乗ると、莉花は当然のように助手席へ座った。
私は何も言わず、後部座席のドアを閉めた。
8
車内で、莉花は仕事の資料を膝の上に広げ、分からないところを次々と蓮に聞いていた。
蓮は運転しながら、一つずつ答えていく。
莉花が間違えると、わざと甘えた声を出した。
「また間違えちゃった。私、本当に覚えられないよ」
蓮は苛立つこともなく、もう一度説明する。
昔、私へ教えるときは、こんなに優しくなかった。
間違えれば、間違えたとはっきり言われた。
「もう一度考えて」
「これくらいできなくて、仕事するようになったらどうするんだ?」
バックミラー越しに二人を見る。
前の座席と後ろの座席。
まるで別の世界だった。
九条グループと神崎商事には共同事業がいくつもある。
その中でも今扱っているのは、両社が力を入れている大規模プロジェクトだった。
蓮は神崎商事側の統括責任者。
さらに父は、彼が提案した人員配置にもほとんど口を出さず了承していた。
莉花が九条グループへ入社すると、蓮は共同事業を理由に、私のチームへ彼女を入れた。
私は何も言わなかった。
自分が新入社員だったころは、最も基本的な仕事から始めた。
けれど莉花は入社したばかりなのに、最初から特別扱いだった。
仕事には慣れておらず、一日で何度もミスをした。
それでも蓮は笑顔で周囲に言う。
「まだ入ったばかりだから、少し助けてやってください」
私が入社したころは、簡単な書類一枚を間違えただけでも上司に厳しく叱られた。
同じチームの森川葉月が、こっそり近づいてきた。
「美月さん、あの人って誰なんですか?」
「神崎さん、すごく面倒見てません?」
私は顔を上げない。
「知らない」
新しいファイルを送信した。
「そんなこと気にする時間あるの?」
「これ、今日の午後まで」
葉月が悲鳴を上げた。
「うそー! 美月さん、ひどい!」
私は仕事へ戻った。
もう蓮と莉花のほうは見なかった。
9
昼休み。
社員食堂へ行こうとすると、蓮に呼び止められた。
「一緒に行こう」
「今日の日替わり定食、何だろうな」
大学時代と同じように、私と食堂へ行くつもりらしい。
けれど少し前、九条家の使用人が弁当を持って彼のいる部屋へ入っていった。
莉花も一緒だった。
私は黙って食事をした。
ご飯粒一つ残さず、全部食べる。
子どものころから知っている。
お腹いっぱい食べられることは、決して当たり前ではない。
蓮はやはり、数口食べただけで箸を置いた。
そして私を見ている。
「何でずっと私を見てるの?」
蓮は笑った。
「美月が食べてるのを見ると、なんか美味しそうに見えるんだよ」
私は返事をしなかった。
どうせ莉花と先に食べたばかりで、お腹が空いていないだけだ。
少しして、蓮はようやく本題に入った。
「莉花の能力が今の美月より下なのは分かってる」
「でも、あいつにも経験が必要なんだ」
一度言葉を止める。
「プロジェクトリーダーを、数か月だけ莉花に任せてくれないか」
私は顔を上げた。
蓮は続ける。
「そのあとは美月に戻す」
「埋め合わせもするから」
まるで大きな譲歩でもしたような口ぶりだった。
「正式に結婚するときは、美月が俺の妻だって周囲にもきちんと紹介する」
「それでいいだろ?」
爪が掌へ食い込む。
もう彼がどんな人間なのか分かっている。
それでも、何年も必死に積み上げたものを、当然のように莉花へ渡せと言われると胸が痛んだ。
「……分かった」
蓮は目に見えて安心した。
「やっぱり美月は物分かりがいいな」
手がまた頭へ触れる。
今度は、寒気しかしなかった。
その瞬間、ふと気づいた。
蓮は子どものころから何度も九条家へ来ている。
あの廊下を、十年以上歩いてきた人だ。
そんな彼が、九回も部屋を間違えるはずがない。
――一度だって、間違えてなどいなかった。
蓮は毎回、自分から莉花のいるほうを選んで歩いていただけだ。
もう待てない。
私も、動かなければ。
10
自分の席へ戻ると、長いこと連絡していなかった番号へ電話をかけた。
「高瀬さん」
「前に言っていた、私が偽装婚約を受けるなら九条家を離れる手助けをしてくれるって話」
「まだ有効ですか?」
電話の向こうが一瞬静かになった。
高瀬直哉の低い声が届く。
「もちろん」
「ずっと返事を待ってた」
午後。
莉花がヒールの音を鳴らしながら、私たちの部署へやってきた。
彼女は、昨日まで私が使っていたリーダー席へ当然のように座った。
私の荷物は、オフィスの端にある一般社員用のデスクへ移されていた。
葉月の顔が真っ赤になる。
「ひどすぎる!」
「そこ、美月さんの席ですよ? 入社して何日目ですか。どうしていきなりリーダーになれるんですか!」
ちょうど莉花にも聞こえた。
彼女は笑顔で葉月を見る。
「蓮君が言ったの」
「美月お姉ちゃんが自分から私に譲ってくれるって」
「これからも私のチームで手伝ってくれるんだよね?」
私へ顔を向ける。
「そうでしょう? お姉ちゃん」
自分から?
三十九度の熱があっても、コーヒーを飲み続けてプロジェクトを終わらせた。
最も下の仕事から、一つずつ積み上げてここまで来た。
そんなものを、自分から誰かへ渡す?
笑いが漏れた。
蓮の中では、私の努力はそれほど軽いものらしい。
葉月が怒鳴り返そうとした。
11
その瞬間、莉花がこちらへ一歩近づいた。
次の瞬間。
「きゃっ!」
声を上げ、後ろへ倒れる。
蓮がほとんど同時に駆け寄った。
莉花を抱き止めると、もう一方の手で私を強く押す。
私は後ろへよろめき、デスクの角へ顔をぶつけそうになった。
葉月が咄嗟に手を差し込んでくれなければ、目元をまともに打っていた。
強い痛みで視界が暗くなる。
それでも蓮は、最初に私の怪我を見ることさえしなかった。
「ちゃんと埋め合わせするって言っただろ?」
「莉花は入社したばかりなんだ。そこまで大人げなく張り合う必要あるか?」
蓮は莉花を抱いている。
私は葉月に支えられて立っていた。
葉月が怒りで声を震わせる。
「神崎さん、いい加減にしてください!」
「今のはどう見ても莉花さんが自分で――」
私は葉月を止めた。
目元を押さえながら、蓮を見る。
「神崎蓮」
「本当に、九条莉花を私の代わりにするの?」
蓮の視線が、ようやく私の傷へ向いた。
わずかに揺れる。
声も少しだけ柔らかくなった。
「数か月だけだ」
「莉花も経験を積みたいんだよ」
「美月が譲ってやればいいだろ」
また私の頭へ触れようとする。
今度は避けた。
「分かった」
「じゃあ、辞める」
蓮の笑顔が一瞬止まった。
すぐに、子どもの癇癪でも聞いたような顔になり、肩へ腕を回そうとする。
「辞める?」
「美月、嫌な思いをしたのは分かる」
「でも、そんな言い方して俺を困らせる必要ないだろ」
その手を払った。
「退職届は今日中に人事へ提出します」
「神崎さんには関係ありません」
蓮の顔から笑みが消えた。
「後悔するなよ」
私はまっすぐ彼を見る。
「しない」
12
その日の午後、私は正式に退職届を提出した。
人事から手続きの説明を受け、あとは規定どおり引き継ぎを済ませるだけになった。
自分の資料を整理して、チームのみんなにも挨拶した。
ところが、思っていたのと違った。
メンバー全員が私の周りへ集まってきたのだ。
最初に口を開いたのは葉月だった。
「美月さん、本当に辞めるんですか?」
「うん」
彼女は他のメンバーと顔を見合わせる。
「じゃあ、私たちも辞めるつもりです」
思わず目を見開いた。
「私のことで勢いだけで決めないで」
葉月は首を横に振る。
「美月さんだけが理由じゃありません」
「今日みたいに、入社したばかりの人が簡単にリーダーの席を奪える会社なら、次に同じことをされるのは私たちかもしれない」
「それに、ずっと私たちがリーダーとして認めてたのは美月さんです」
その日のうちに全員が辞表を出したわけではない。
けれど数日をかけ、十五人のメンバーがそれぞれ自分で考え、人事へ退職の意思を伝えていった。
莉花は、ようやく欲しかったリーダーの席を手に入れた。
その代わり。
その席についてきたはずのチームは、もう彼女を残そうとしていなかった。
莉花は慌てて蓮のもとへ駆け込んだ。
「蓮君!」
「美月お姉ちゃん、本当に辞めるの?」
蓮は彼女をなだめたあと、まだ余裕の笑みを浮かべていた。
「ただ拗ねてるだけだ」
「チームの連中も、美月と仲がいいから一緒になって騒いでるだけ」
「心配するな」
「美月は俺から離れられない」
13
会社を出ると、外は気持ちいいほど晴れていた。
後ろにはチームのみんながいる。
葉月が聞いた。
「美月さんは、このあとどうするんですか?」
私は笑った。
「高瀬開発から前に声をかけてもらってる」
「そっちへ行くつもり」
周囲が静かになった。
「高瀬開発?」
「この数年、うちとずっとプロジェクト争ってる、あの高瀬開発ですか?」
私はうなずいた。
みんなが顔を見合わせる。
私は続けた。
「もしみんなも本当に転職を考えてるなら、向こうに募集してるポジションや面接の機会がないか聞いてみる」
「でも、私が採用を決められるわけじゃない」
「今と同じ役職や条件になる保証もないよ」
葉月が最初に私の手をつかんだ。
「面接してもらえるだけで十分です」
「もし本当に一からやり直すことになっても、私は挑戦したい」
目が少し赤くなっていた。
「美月さんがいなくなった会社で、今までみたいに働ける気がしません」
他のメンバーも次々と口を開いた。
私はしばらく答えられなかった。
子どものころ。
田村夫妻に殴られて育った私は、いつも古い服を着ていた。
体のどこかに、必ず傷があった。
友達なんていなかった。
九条家へ来ても、実の両親とは距離があり、使用人からも軽く扱われ、莉花には嫌われていた。
だから長い間。
蓮が昔、私の頭へ置いてくれた手。
あれが人生で唯一知っている温かさだと思っていた。
たとえ、その優しさの最初の目的が莉花を守ることだったとしても。
14
私が黙ったままでいると、葉月が腕にしがみついてきた。
「美月さん!」
「嫌って言っても、みんなでずっとついていきますからね!」
思わず笑った。
それから全員を見渡す。
「本当に決めたの?」
「高瀬開発へ行けたとしても、今までと同じポジションとは限らない」
「最初からやり直すことになる人もいるかもしれないよ」
ほとんど同時に返事が返ってきた。
「後悔しません!」
私は一人一人の顔を見た。
新人だった彼らをどうやって選び、どんなふうに仕事を教えてきたか、今でも覚えている。
胸の奥へ、ゆっくり温かいものが広がった。
この世界にはもう。
本当に私を大切にしてくれる人がいる。
神崎蓮。
あなたはもう、私が知っている唯一の温もりじゃない。
私は高瀬直哉へ電話をかけた。
「偽装婚約とは別に、一つお願いしたいことがあります」
「言って」
チームの将来がかかっていると思うと、つい早口になる。
「私の元チームに、転職を希望している十五人がいます」
「みんな能力のある人たちです」
「高瀬開発に合うポジションがあるなら、通常の採用面接を受けさせてもらえませんか?」
電話の向こうで直哉が笑った。
「美月」
「そんなに緊張しなくていい」
「条件に合うなら、人事にきちんと面接を組ませる」
「本当に能力がある人なら、高瀬開発が断る理由はないよ」
ようやく息をついた。
その後、メンバーたちは順番に退職手続きを終えた。
面接を通過した者から、高瀬開発の内定を受け取っていく。
九条グループのオフィスでは、かつて人で埋まっていた一帯が急に静かになった。
莉花は、私が使っていたリーダー席に座りながら、初めて知っただろう。
「リーダー」という肩書きだけでは。
誰かがついてきてくれるわけではない。
15
葉月から「退職祝いで朝までカラオケしましょう!」と誘われたが、丁重に断った。
私は一人で九条家へ戻った。
屋敷は相変わらず静かだった。
荷物をまとめるには都合がいい。
ここへ来て七年。
自分のものが驚くほど少ないことに気づいた。
莉花が何か欲しがれば、両親も蓮もすぐに用意した。
私は一度も、そんなふうに無条件で与えられたことがない。
空っぽの部屋を見て、少し笑ってしまった。
莉花はあれだけ多くの愛を持っていた。
なのに私は。
蓮からたまにもらえるわずかな優しさだけで、彼を人生のすべてにしていた。
最後の服をスーツケースへ入れた。
それでも。
九条家が田村家から私を連れ出してくれたことまで否定するつもりはない。
もしここへ来られなかったら、私はとっくに田村夫妻に殺されていたかもしれない。
だから、全部を壊したいほど憎んではいなかった。
ただ最後に部屋を振り返る。
心の中で告げた。
ずっと受け入れきれなかった娘は。
これからは、もうあなたたちを困らせません。
静かにドアを閉めた。
振り返らなかった。
16
新しい部屋は、自分で借りた。
広くはない。
でも家具もカーテンも食器も、すべて自分で選んだ。
自分だけの場所というものが、こんなに安心できるとは知らなかった。
ベッドへ倒れ込み、そのまま翌朝まで眠った。
耳障りな着信音に起こされる。
昔、蓮だけのために設定した専用の着信音だった。
一秒でも早く彼の電話に出たかった。
そんな自分が、確かにいた。
画面を数秒見つめてから、電話に出る。
「もしもし。どちらさまですか?」
向こうが一瞬黙った。
蓮の声には怒りが滲んでいた。
「九条美月。遅刻してるぞ」
「辞めたから」
「まだそんなこと言ってるのか?」
「莉花も謝るって言ってる。それで満足だろ?」
「戻ってこい」
私は同じ言葉を繰り返した。
「辞めたの」
蓮もついに苛立ちを隠さなくなる。
「いつまで意地張ってるんだよ」
「美月。俺のそば以外、どこへ行ける?」
「他に誰がお前を必要とするんだ?」
昔なら胸をえぐられた言葉。
今は、不思議なくらい何も感じなかった。
「私がどこへ行くか」
「あなたには関係ない」
電話を切る。
すぐにまた着信が来た。
今度は出なかった。
指を数回動かし、何度も何度も押した番号を着信拒否へ入れる。
学生時代。
私はこの専用着信音が鳴ることを、毎日楽しみにしていた。
蓮が自分から私へ連絡してくれた。
ただそれだけで嬉しかった。
内容のほとんどが勉強の話でも。
最後に「莉花は最近どう?」と付け加えられても。
それでも幸せだった。
今。
神崎蓮の番号が、着信拒否リストへ入った。
九条家の連絡先も。
莉花も。
全部。
事情を聞いた直哉は、「正式入社まで少し休め」という理由で一週間の休暇をくれた。
17
一週間後。
私は高瀬開発へ初出社した。
オフィスへ入った瞬間、小さなクラッカーが何本も鳴る。
髪に紙テープが落ちてきた。
「これは?」
髪から紙を取りながら高瀬直哉を見る。
彼は真面目な顔で答えた。
「会社の文化」
「新人は全員やる」
「そうなんですね」
納得しかけた瞬間、葉月が耳元へ寄ってきた。
「美月さん、騙されてます」
「私たちのとき、こんなのありませんでしたよ」
何と答えればいいのか分からず、私は平静を装ってうなずいた。
直哉を見ていると、ずっと昔の記憶が蘇った。
青凪学院大学へ移ってすぐのころ。
最初のうちは蓮がいろいろ教えてくれた。
でも次第に、ほとんどの時間を莉花と過ごすようになった。
私はまた、一人で過ごすことに慣れていった。
裕福な家庭の学生が多い大学だった。
昼休みには学外の店へ食べに行く人も多く、家から弁当を届けてもらう学生もいた。
だから学生食堂はいつも比較的空いていた。
ただ、一人だけ。
ほとんど毎日、私と同じ時間に来る学生がいた。
黙って定食を買い。
黙って食べる。
そして必ず全部きれいに食べ切る。
最初は思った。
この大学にも、私と同じような変わった人がいるんだ。
あとになって、彼が同じ専攻だと分かった。
試験でもレポートでも、私と彼はいつも上位にいた。
図書館の閉館時間まで残っているのも、何度となく私たち二人だけだった。
生活の軌跡は何度も重なった。
それなのに、まともに話したことはほとんどない。
ただ黙ったまま。
お互いの孤独な時間を、同じ空間で過ごしていただけだった。
卒業後、私は九条グループへ入社した。
仕事で毎日が埋め尽くされるうちに、あの無口な青年のことも忘れていった。
18
再会したのは、それから二年以上経ったころ。
大型再開発プロジェクトの説明会後に開かれた業界交流会だった。
高瀬開発の代表として、直哉が出席していた。
ここ数年で急速に成長した企業だ。
人混みの中で彼を見つけた瞬間、思わず思った。
――あの人?
視線に気づいたらしい。
離れた場所にいた直哉が、正確にこちらを見る。
驚いた私に向かい、グラスを少し持ち上げて笑った。
私も会釈した。
その後、競合企業同士として会うたび、遠くから軽く挨拶するようになった。
そしてある日。
直哉のほうから私へ連絡してきた。
提示された条件はかなり良かった。
新規事業プロジェクトの責任者。
十分な裁量。
将来の昇進も含めた待遇。
さらに、もう一つ。
かなり変わった提案までついていた。
偽装婚約。
直哉の説明は単純だった。
高瀬家にも、家族から結婚を急かされる事情がある。
一方の私は、九条家と神崎家の縁談から逃れたい。
ならば、お互い都合のいい婚約者になればいい。
そのときの私は、ほとんど本気にしていなかった。
高瀬直哉は、私を引き抜くためにずいぶん大げさな理由を考えたものだと思っていた。
けれど、その後。
彼が私へしてくれたことは、最初に提示された条件以上だった。
19
一か月が過ぎた。
私は高瀬開発の環境にも慣れ、元のチームと一緒に最初の新規案件を成功させた。
葉月が祝賀会を提案する。
そこへ高瀬直哉が「偶然」通りかかり。
そのまま当然のように参加した。
みんなで賑やかにレストランへ向かった。
そして入り口で、神崎蓮と九条莉花に鉢合わせた。
「九条美月!」
蓮がこんな声で私の名前を呼ぶのは初めてだった。
以前の彼は、いつだって穏やかで余裕があった。
けれど今目の前にいる男は、明らかに疲れている。
目の下には隠しきれない隈まであった。
「俺を着信拒否にしたのか?」
周囲など気にせず、手を伸ばしてくる。
その前に、別の手が私を引いた。
直哉が一歩前へ出る。
「神崎さん」
「人前で無理に女性の腕をつかむのはやめてください」
蓮の表情が険しくなる。
「俺は美月と話してる。お前には関係ないだろ」
直哉は落ち着いたままだった。
「美月は俺の婚約者です」
「関係ありますよ」
私は思わず目を見開き、直哉の背中を見つめた。
蓮は一語ずつ噛みしめるように繰り返した。
「婚、約、者?」
そして私を睨む。
「九条美月」
「お前は俺と結婚するはずだっただろ!」
「それなのに、もう別の男と婚約したのか?」
私は遮った。
「蓮」
「あなた、いつ私を正式に『自分の婚約者』だって周りに認めたの?」
彼の顔が止まる。
「両家で婚約を確認するはずだった日」
「あなたは来なかったよね」
「会場にいたのは、最初から最後まで私一人だった」
蓮は何も言えなくなった。
九条家は私の存在をほとんど公表していない。
外から見れば、神崎家と昔から深い縁がある九条家の娘は莉花だった。
そして唯一、私との婚約を正式に確認するはずだった日。
蓮は私ではなく。
莉花の誕生日を選んだ。
20
私はもう彼を見ず、レストランへ入ろうとした。
それまで黙っていた莉花が突然口を開く。
「なんだ」
「美月お姉ちゃん、好きな人ができたから家を出たんだね」
薄く笑う。
「何か大変なことでもあったのかと思った」
「ただ男の人についていっただけだったんだ」
「あなた……!」
葉月が飛び出しかける。
私と直哉が同時に止めた。
直哉は莉花を淡々と見る。
「九条家のお嬢さんは仕事が苦手だとは聞いていました」
「言葉遣いまでその程度だとは思いませんでしたが」
莉花の目があっという間に潤む。
蓮の腕へしがみついた。
「蓮君、この人ひどい……」
けれど蓮は莉花を見なかった。
ずっと私だけを見ている。
「九条美月」
「もう一度だけ選ばせてやる」
「本当に、そいつを選ぶのか?」
「俺じゃなくて?」
思わず笑いたくなった。
「神崎さん」
「私が退職届を出した日から、私たちはもう何の関係もありません」
それだけ言って横を通り過ぎる。
背後で蓮の怒った声がした。
「分かったよ」
「九条美月、後悔するな」
「お前が泣いて戻ってきても知らないからな!」
葉月が歩きながら呆れた顔をする。
「美月さんが泣いて戻るって」
「どこからその自信が湧いてくるんですかね」
思わず笑った。
振り返ると。
同じように笑っている深い色の目とぶつかった。
少し居心地が悪くなって視線を逸らす。
「さっきは、ありがとう」
直哉はごく自然に答えた。
「どういたしまして」
蓮や莉花について根掘り葉掘り聞くこともしなかった。
どうして突然「婚約者」と言ったのかも説明しない。
そのことが、逆にありがたかった。
21
それから私は、ほとんど仕事だけに集中した。
高瀬開発はもともと成長期にある会社だった。
そこへ元のチームが加わり、競合していた案件を次々と獲得していった。
反対に、九条グループと神崎商事は苦しくなった。
私が率いていたチームは、それまで複数の重要案件を担当していた。
引き継ぎ自体は終わっている。
けれど中心メンバーがほぼ同時期に離れたことで、能力の穴を短期間で埋めることは難しかった。
さらに莉花は、ずっと欲しがっていたリーダーの席を手に入れたものの、その責任を果たせるほどの実務能力がなかった。
高瀬開発も遠慮しない。
新しい案件が出るたびに本気で取りにいった。
神崎蓮は、初めて仕事で追い詰められた。
オフィス。
莉花が紅茶を持って彼の後ろへ立ち、こめかみに手を伸ばす。
「蓮君」
「マッサージしてあげようか?」
蓮はその手を払った。
「今は邪魔しないでくれ」
最近では、社員から莉花への不満も増えていた。
蓮自身、莉花の顔を見るだけで、失った案件や辞めていったメンバーを思い出すようになった。
莉花は部屋から追い出される。
ドアの前で長いこと立っていた。
やがて唇を噛み、スマートフォンを取り出した。
何年も連絡を取っていなかった番号へ電話をかける。
「九条美月……」
「私がうまくいってないのに」
「あなただけ幸せになれると思わないで」
22
九条家を出て、高瀬開発へ移ってから。
私は以前よりずっと気楽に暮らせるようになった。
毎晩遅くまで残業しなくていい。
午後にちゃんと休憩する時間もある。
この日も、一階のカフェで黒糖ロイヤルミルクティーを買い、飲みながら会社へ戻っていた。
最近気づいた。
私は、本当は苦いコーヒーが好きだったわけではない。
ただ昔は、それで眠気を飛ばすしかなかったのだ。
今は甘いものをゆっくり飲める。
なのに、わざわざ毎日舌が麻痺するほど苦いコーヒーを飲む必要がどこにある?
会社の入り口が見えたとき。
二人の男女が泣き叫びながら飛びついてきた。
「親不孝者!」
「育てた親を捨てるのか!」
大声に、周囲の人が一斉に振り返る。
「こっちは苦労してお前を育てたんだ!」
「金持ちになった途端、親まで捨てやがって!」
通行人が立ち止まり始める。
私は眉をひそめて二人を見た。
最初は、本当に誰だか分からなかった。
女が突然叫ぶまでは。
「こんな恩知らずになるなら、あのとき殺しておけばよかった!」
体が一瞬で硬直した。
昔の記憶が押し寄せてくる。
「居候のくせに!」
「殺してやろうか!」
「痛い……」
「やめて……お願い……」
体のほうが、恐怖を覚えていた。
もう私は、殴られても何もできなかった子どもではない。
それなのに。
田村夫妻の手が再び私へ伸びた瞬間。
体がまったく動かなかった。
23
「離れろ!」
人混みの向こうから、大きな影が走ってくる。
高瀬直哉が私をつかんでいた人間の腕を外し、そのまま自分の胸元へ引き寄せた。
大きな手で震える背中をゆっくり叩く。
「大丈夫」
「美月、俺がいる」
「もう大丈夫だから」
服から、いつの間にか覚えていた淡い香りがした。
限界まで固まっていた体が、ようやく動く。
私は無意識に彼の服を強くつかんだ。
田村夫妻はまだ叫んでいた。
「お前が娘をたぶらかした男か!」
「お前も殴ってやる!」
会社の警備員が駆けつける。
二人はすぐに取り押さえられた。
直哉が冷たい目で見下ろす。
「警察にはもう通報しました」
「話があるなら、警察でしてください」
その後、私は念のため病院へ連れていかれた。
診断は軽い打撲。
大きな怪我はない。
昔の暴力に比べれば、今日のことなど大したことではない。
そう思うと、少し笑えてしまった。
けれど直哉はまったく笑わなかった。
医師から注意事項を細かく聞き。
診察室を出てから、ようやく私を見る。
「美月」
「もう少し、自分の体を大事にしてくれないか」
私は俯いた。
この人と向き合うと、どう答えていいか分からなくなる。
最後に言えたのは、一言だけだった。
「ありがとう」
こんなふうに守ってもらったのは初めてだった。
神崎蓮でさえ。
ここまで私を守ってくれたことはない。
24
警察の調べで、二人が田村姓であることはすぐに分かった。
名前を聞いた瞬間、私もすべて理解した。
七年前。
DNA鑑定で私の身元が確認されたあと、九条家は事実を公表しなかった。
田村夫妻を厳しく追及することもしなかった。
代わりに示談金を支払い、二度と私や九条家へ近づかないという約束をさせた。
二人は金を受け取ると消えた。
七年間、一度も私の前へ現れなかった。
それなのに。
突然、高瀬開発の会社前へ正確に現れた。
私も直哉も、示談で済ませることを拒否した。
警察は傷害事件として捜査を始める。
その過程で、田村夫妻は自分たちの責任を少しでも軽くしたいのか、別の事実を供述した。
連絡してきたのは九条莉花だった。
金を渡された。
私の勤務先を教えられた。
会社の前で騒ぎを起こし、私の評判を落とすよう頼まれた。
警察は通話履歴、送金記録、録音などを確認した。
莉花も事情聴取を受けることになった。
九条家は大騒ぎになった。
両親はずっと思っていたからだ。
莉花は田村夫妻と接触したことなどない。
なら、いつから知っていたのか。
25
さらに捜査が進み。
田村夫妻は、長年隠していたもう一つの秘密を明かした。
私と莉花が生まれたころ。
両家は同じ、当時管理の甘かった小さな私立産院を利用していた。
これまで九条家は、赤ちゃんの取り違えは事故だったと思っていた。
違った。
田村夫妻が意図的にすり替えていた。
九条家の全員が言葉を失った。
私も、この日初めて知った。
田村の女は俯いたまま、冷たい恨みのこもった声で言った。
「病院で見たのよ」
「あの女が、あんなに高そうなブレスレットをして」
「一番いい部屋に入ってた」
顔を上げる。
「どうして?」
「どうして金持ちの子どもは、生まれた瞬間から全部持ってるの?」
そして笑った。
「だから入れ替えたのよ」
母の顔から血の気が消えた。
田村の男は興奮するように叫ぶ。
「九条家のお嬢様がよ!」
「うちじゃ犬みたいに殴られて育ったんだ!」
「お前ら金持ちなんだろ?」
「それが何の役に立った?」
莉花が叫ぶ。
「黙って!」
田村夫妻が彼女を見る。
「お前に何を言う資格がある」
「あとから俺たちを探し出したのは、お前じゃないか」
「九条美月に本当の娘の座を取り返されるのが怖かったんだろ」
「金を渡して、昔のことを黙っていろって言った」
「今回もそうだ」
「高瀬開発へ行って騒げって言ったのはお前だろ」
莉花の顔が真っ白になった。
九条夫妻は信じられないものを見るように彼女を見ている。
蓮でさえ。
初めて見る別人を前にしたような顔だった。
莉花は耐えきれなくなったらしい。
叫びながら田村夫妻へ飛びかかる。
周囲が一気に騒然とした。
母も、あまりのショックに気を失った。
私はそこに座っていた。
むしろ、不思議なくらい静かだった。
何年も欠けていた最後の一片。
ようやく、それまであったはずの場所へ戻った。
26
その後の法律関係の手続きは、直哉が弁護士を手配してくれた。
田村夫妻は今回の傷害事件だけでなく、調査で判明した複数の事情を含めて刑事責任を問われた。
最終的に有罪判決を受けることになった。
莉花も、田村夫妻をけしかけて会社前へ行かせ、実際に私へ怪我を負わせた件について責任を問われた。
過去の金銭のやり取りも、すべて調べられた。
九条家の評判は大きく傷ついた。
直哉は「しばらく長期休暇を取ったほうがいい」と言ったが、私は断った。
子どものころの傷が消えたわけではない。
ただ。
もう、あの出来事にこれからの人生まで決められるつもりはなかった。
秋になってから、私はますます会社近くのカフェへ行くようになった。
甘いミルクティーを一杯頼み。
窓際で少し音楽を聴く。
そんな午後。
隣の椅子が引かれた。
顔を上げる。
神崎蓮だった。
何か月も会っていない。
彼は以前よりずっとやつれていた。
いつも完璧で、何があっても余裕を失わなかった男とは別人のようだった。
長いこと私を見たあと、蓮は小さな声で言った。
「……元気そうだな」
「うん」
ミルクティーを一口飲む。
「高瀬開発、いい会社だから」
蓮の唇が少し動いた。
なかなか次の言葉が出てこない。
ようやく言った。
「あのあと」
「おじさんもおばさんも、急に老けた」
「美月が会いたくないのは分かってる」
「二人から……謝っておいてほしいって言われた」
私は淡々と答えた。
「そう」
蓮が目を伏せる。
「俺も」
「美月」
「……ごめん」
私は何も言わなかった。
傷つけた側の「ごめん」で。
受けた傷まで、なかったことにはならない。
27
長い沈黙が続いた。
ミルクティーを飲み終え、時間を見る。
そろそろ仕事へ戻らないといけない。
立ち上がったとき。
蓮が私を呼んだ。
声が、わずかに震えていた。
「美月」
「俺たち……もう一度やり直せないか?」
迷わなかった。
「無理」
それだけ答え、私は歩き出した。
休憩時間がもうすぐ終わる。
蓮は椅子に座ったまま。
長いこと、離れていく私の背中を見ていた。
昔はいつも、先に背を向けるのは蓮だった。
だから彼は、今日まで知らなかった。
好きな人が自分の世界から少しずつ遠ざかっていく姿を見ることが。
こんなに痛いものだとは。
自分は、いつから美月を好きだったのだろう。
きっと、自分が認めていたよりもずっと前だ。
何年も前の午後。
蓮は莉花を探して九条家へ来ていた。
廊下で、押し殺した泣き声を聞いた。
音を辿る。
そこには、痩せた少女がいた。
使用人に腕を強くつかまれ。
目には涙を溜めながら。
それでも必死に泣くのを我慢していた。
その目が、驚くほど綺麗だった。
蓮は一瞬だけ思った。
――綺麗な目だ。
気づいたときには、少女を自分の後ろへ引いていた。
「怖がらなくていい」
「俺が守るから」
その日から。
あの少女はずっと、自分の後ろを追いかけてきた。
必死に勉強し。
必死に働き。
自分の隣へ立とうとしていた。
なのに蓮は。
彼女から向けられる愛情に甘えながら。
莉花を守るためという理由で、何度も何度も美月へ譲らせた。
最後には。
自分だけを見ていた少女を。
自分の手で遠くへ押しやった。
蓮は、美月の姿が見えなくなるまで見つめていた。
視界が滲む。
やがて俯き。
初めて声を上げて泣いた。
「美月……」
「幸せになれよ」
28
年末が近づき、高瀬開発のオフィスにも季節の飾りが増えていた。
休暇前最後のプロジェクトが無事終了する。
高瀬直哉は、いくつかのプロジェクトチームへ四泊五日の社員旅行を用意した。
そして本人まで。
ごく自然な顔で、私たちのチームのバスへ乗り込んだ。
もう誰も驚かない。
目的地は北部にある雪深い町、白雪町。
バスを降りた瞬間。
普段青凪市で暮らし、これほどの雪を見慣れていないメンバーたちが一斉に騒ぎ始めた。
いい大人なのに。
雪合戦をし。
雪だるまを作り。
人の服の中へ雪を入れようとして追い回している。
私は少し離れたところで、その様子を笑いながら見ていた。
直哉が隣へ来る。
「美月は行かないの?」
「寒いから遠慮する」
次の瞬間。
まだ体温の残るマフラーが、頭からすっぽりかぶせられた。
顔の半分まで埋まる。
「高瀬直哉!」
「息できない!」
直哉が声を上げて笑う。
「ごめん、ごめん」
マフラーを巻き直してくれる。
その指が、偶然頬へ触れた。
温かい。
直哉の手が止まる。
私も避けなかった。
周囲の音が、一瞬だけ遠くなった気がした。
彼がゆっくり顔を近づける。
温かい息が頬へかかる。
少しくすぐったい。
その瞬間――。
雪球が一つ。
直哉の後頭部へ見事に直撃した。
雪原が静まり返る。
遠くで。
葉月がまだ投げ終わった姿勢のまま固まっていた。
周囲のメンバーたちが、一斉に彼女から離れる。
「終わった」
「葉月、終わったな」
「社長に直接当てる人、初めて見た」
「クビにならないよね……?」
「何してるの!」
「早く逃げろ!」
一斉に散っていく。
直哉はその場に立ったまま。
怒るどころか、呆れて笑っていた。
ゆっくり雪を一つ握る。
「森川葉月」
「全力で逃げたほうがいいよ」
次の瞬間。
直哉が走り出した。
雪原に悲鳴が響く。
私はマフラーへ顔を埋めたまま、しばらく笑っていた。
やがて自分もしゃがみ。
雪球を一つ作る。
直哉を追いかけた。
一緒になって、みんなへ投げる。
周りでは誰かが笑っている。
私の名前を呼ぶ声がする。
辛いとき、前へ立ってくれる人がいる。
これから先も一緒に歩こうとしてくれる人がいる。
昔の私は。
神崎蓮がたまにくれる少しの優しさこそ。
一生で受け取れる愛のすべてだと思っていた。
今なら分かる。
大切にされるために。
譲り続けたり。
耐え続けたり。
自分を小さくして、相手へ合わせ続けたりする必要なんてない。
長い冬は、もう終わった。
私の春が。
ようやく始まった。




