【魔大陸】1話:虚無の子
魔大陸の空は、いつも灰色だ。
俺——ヴェインは、岩山の上から荒野を見下ろしていた。
地平線まで続く不毛の大地。点在する魔物の群れ。遠くに見える四天王たちの領地。
魔大陸。人間どもが恐れる、魔族の故郷。
だが、この地に統一者はいない。
四天王はそれぞれの領地に引きこもり、互いに干渉しない。覇権は奥地で領土拡大に夢中。修羅は強者との戦いにしか興味がない。探究は人間の世界で何やら実験をしているらしい。
そして、虚無。
最古にして最強。始祖の魔王の伴侶だった男。
だが、始祖が死んでから数百年——あの男は何もしない。何も望まない。ただ存在しているだけだ。
野良魔人たちの間では、虚無を嘲笑う声が絶えない。
「臆病者め」
「最強の力を持ちながら、何もしない」
「腑抜けだ」
もちろん、面と向かって言う馬鹿はいない。虚無の力は本物だ。逆鱗に触れれば、一瞬で消し炭にされる。
だから皆、安全な場所で陰口を叩く。
俺も、その一人だった。
***
虚無には、息子がいる。
始祖との間に生まれた子供。最強の血を引く魔人。
名を、ライゼルという。
銀色の髪。紫の瞳。端正な顔立ち。
だが、印象は薄かった。
虚無の息子。それだけ。特に目立つこともなく、何をするでもなく、ただ存在しているだけの男。
親父に似たのか、と思った。
虚無の居城の近くで、ぼんやりと座っている姿を、何度も見かけた。
俺たち野良魔人は、そんなライゼルを気にも留めなかった。
虚無の息子。だから何だ。何もしない、何も持っていない、ただの出来損ない。
そう思っていた。
——あの日までは。
***
ある日、ライゼルが変わった。
急に、だった。
それまでのライゼルは、どこか虚ろだった。目に光がなく、覇気もなく、まるで抜け殻のような男だった。
だが——その日のライゼルは、別人だった。
虚無の居城の近くで、一人で笑っている。
自分の手を見つめ、握ったり開いたりしながら、にやにや笑っている。
「はは、すげえ。マジですげえ」
声が聞こえた。
「この体、マジで最強じゃん。魔力やべえ」
何がそんなに嬉しいのか、俺には分からなかった。
最強の血統を持っているのは、生まれた時から同じだろうに。
だが、まるで初めてその力に気づいたかのように、ライゼルは自分の体を確かめていた。
手を握る。魔力が溢れる。岩が砕ける。
「おおっ、マジか。こんな簡単に壊れんの?」
また笑う。子供が新しいおもちゃを手に入れたような、無邪気な——いや、無邪気という言葉は似合わない。
あの目は、もっと飢えていた。
「見てろよ。俺の時代だ」
そう呟いて、ライゼルは歩き出した。
足取りが軽い。あの虚ろだった男が、鼻歌でも歌いそうな調子で。
***
ライゼルは、片っ端から野良魔人に喧嘩を売り始めた。
最初は、近くにいた中堅どころの魔人だった。
「よお。暇だろ? ちょっと付き合えよ」
声をかけて、返事を待たずに殴りかかった。
結果は一方的だった。
「うっわ、弱。マジで弱いな、お前」
倒した相手を見下ろして、心底つまらなそうに言った。
次の日も。その次の日も。
腕に覚えのある野良魔人が束になっても、ライゼルには傷一つつけられなかった。
「はは、次は? もっと強い奴いねえの?」
楽しそうだった。
本当に、心から楽しそうだった。
まるで——生まれて初めて、何かを楽しんでいるかのように。
俺は遠くからそれを眺めていた。
ライゼルが強いのは確かだった。虚無の血を引いている以上、当然だと言えば当然だ。
だが、それだけでは説明がつかないものがあった。
あの豹変ぶり。あの昂揚。あの——「初めて力を手にした」かのような喜び方。
何かがおかしい。
だが、何がおかしいのか、俺には分からなかった。
***
野良魔人たちの間で、ライゼルの噂が広がった。
「虚無の息子が暴れてる」
「手がつけられない」
「近づくな」
表では警戒し、裏では陰口を叩く。いつもの光景だ。
「あれだけ強けりゃ俺も調子乗るわ」
「親父の七光りだろ。血統がいいだけじゃねえか」
「イキってるだけだ。四天王にでも喧嘩売ったら一発で終わる」
虚無を直接馬鹿にする度胸はなくても、その息子なら——そういう心理だろう。
ある夜、酒場でいつものように陰口が始まった。
「虚無の息子さあ、今日も荒野で暴れてたぜ」
「マジで? 懲りねえな」
「誰か止めろよ。迷惑なんだわ」
「お前が止めろよ」
「やだよ。殺されるだろ」
下卑た笑いが広がる。
俺は隅の席で酒を飲みながら、聞くともなしに聞いていた。
と——酒場の扉が開いた。
銀色の髪。紫の瞳。
ライゼルだった。
酒場が、一瞬で静まり返った。
ライゼルは、にやにや笑いながら酒場を見渡した。
「よお。盛り上がってんじゃん。何の話?」
誰も答えない。
「あ、俺の話か。聞こえてたわ」
軽い声だった。
ライゼルは、さっきまで一番大声で笑っていた魔人の前に立った。
「お前さ、今なんつった? 『迷惑なんだわ』?」
「い、いや、俺は——」
「いいよいいよ、怒ってねえし」
ライゼルは笑った。
次の瞬間、魔人の首が飛んだ。
誰も、動きが見えなかった。
首のない体が、どさりと倒れる。
「あ、ごめん。嘘。ちょっと怒ってた」
血のついた手をひらひらと振りながら、ライゼルは倒れた体を見下ろした。
「えー、弱すぎだろ。もうちょい耐えてくれよ」
残念そうだった。殺したことではなく、あっけなさに。
ライゼルが酒場を見渡した。
全員が固まっている。
「あ、別にお前ら殺す気はねえよ。こいつが目の前で言うからさ。裏で言ってる分にはどうでもいいし」
肩をすくめた。
「つーか、酒くれ。喉渇いたわ」
誰も動かなかった。
「……マジで? 酒も出ねえの? ケチだな」
ライゼルはカウンターの奥に回り、勝手に酒瓶を取って口をつけた。
「ぷはっ。まっず。何これ」
瓶を置いて、出ていった。
「じゃーね。あ、そいつ片付けといて」
死体を指差して、ひらひらと手を振る。
扉が閉まった。
酒場に残された俺たちは、しばらく動けなかった。
***
その後も、ライゼルは暴れ続けた。
野良魔人を見つけては試し斬り。「お、こいつは三発持ったぞ」「こいつは一発か。つまんね」。
感想が、いちいち軽い。
命のやり取りを、遊びのようにやっている。
だが、妙なことに——殺す時と殺さない時がある。
向かってきた奴は容赦なく殺す。
逃げた奴は、追わない。
陰口を叩いた奴でも、面と向かって言わなければ放置する。
基準はよく分からない。だが、でたらめに殺しているわけでもない。
ある時、倒した魔人が地面に転がっているのを見て、ライゼルがふと呟いた。
「いやー、強いってのはいいな。マジでいい。何でも出来る気がするわ」
そう言って、空を見上げた。灰色の空。
「全部、俺のもんだ」
その横顔は——笑っていた。
だが、満たされた笑いではなかった。
もっと欲しい。もっと強い奴と。もっと派手に。
この男は、止まらない。
俺はそう思った。
この男は、どこまでも加速していく。
誰が止めるのか。何が止めるのか。
——それとも、何も止められないのか。
答えは、まだ出ない。
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