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小さな来客

 あるじの呼吸、ペンの走り、そして椅子の軋み。

 そうした「上の世界」の音色を解読することに慣れてきたクリンにとって、机の下の静寂は、もはや退屈な無音ではなく、幾重にも重なる情報の海だった。


 しかし、その日の午後に聞こえてきた音は、これまでのどの記憶にも該当しない異質な響きを伴っていた。

 カサ、カサカサッ……

 それは、主が立てる規則正しい生活音でもなければ、ルルの柔らかな弾力音でもない。もっと乾燥した、それでいて鋭利な節々が床を叩くような、微細で不規則な音。

 電気コードの迷宮を抜け、壁際にある小さな隙間――主がかつて家具を配置した際にできた、ほんの数ミリの暗い裂け目――から、その「影」は忍び寄ってきた。

「ルル、隠れて……! 何か、生き物みたいなのが来る!」

 クリンは銀色の体を鋭く光らせ、ルルの前に出た。

 ルルもまた、桃色の体を限界まで縮め、いつでもバネのように逃げ出せる姿勢を取る。

 隙間から這い出してきたのは、長く細い触角を左右に揺らし、光沢のある黒褐色の甲羅を纏った小さな「旅人」だった。

「……やあ。そんなに肩を張らなくても大丈夫だよ。僕はただの通りすがりだ」

 現れたのは、小さなコオロギだった。

 彼はこの殺風景な机の下の世界において、驚くほど生命力に満ち溢れ、その羽は使い込まれた革靴のように渋い光沢を放っている。

 彼はクリンたちの数センチ手前でぴたりと止まると、前脚で丁寧に触覚を掃除し始めた。

「君たちは……ふむ、クリップと輪ゴムか。なるほど、この『机の下の港』に新しく漂着した落とし物だね」

 コオロギの声は、秋の夜風のように涼やかで、どこか遠くを見つめるような響きがあった。

「こんにちは。ぼくはクリン。こっちはルル。あなたは、主の飼っている生き物なの?」

 クリンが恐る恐る尋ねると、コオロギは愉快そうに羽を小さく震わせた。

「飼われている? とんでもない。僕は自由な旅人さ。壁の隙間、換気扇の奥、そして時にはあの大地を吹き抜ける風に乗って、あらゆる場所を渡り歩いているんだ」

 コオロギ――クリンたちは心の中で彼を「旅人さん」と呼ぶことにした――は、自慢の脚を一本伸ばし、窓の方を指し示した。

「君たちは、あのガラスの向こう側がどうなっているか、知っているかい?」

 クリンとルルは顔を見合わせた。

「ガラスの向こう……ときどき、眩しい光が差し込んでくる場所のこと?」

「そうだ。あの先には『外』という名の大海原が広がっている。机の脚なんて比じゃないほど巨大な『木』が立ち並び、天井なんて存在しない、どこまでも突き抜けた『空』という名の青い屋根があるんだ」

 旅人さんが語る「外の世界」の話は、机の下の住人たちにとって、御伽噺おとぎばなしよりもさらに荒唐無稽で、それでいて強烈に惹きつけられるものだった。


「空は、毎日色を変える。朝は真珠のように白く、昼は透き通った青、夕方にはルルの体よりも鮮やかな赤に染まり、夜には……そう、クリン、君の銀色の体のように、無数の星が瞬くんだ。そして何より、そこには『本物の風』が吹いている」

「本物の風……」

 クリンは、掃除機の暴力的な突風や、主が動いたときに生じる生暖かい気流を思い出した。

 旅人さんの言う風は、きっとそれらとは違う、もっと優しくて、自由な香りがするものなのだろう。

「そこでは、誰も誰かに挟まれたり、何かを束ねたりする必要はない。ただ、そこにあるだけでいい……もっとも、雨という冷たい涙が降ってきたり、鳥という巨大な天敵に狙われたりすることもあるがね。それでも、あの広大さを一度知ってしまえば、この暗がりに戻るのが惜しくなる」

 ルルが、夢を見るような眼差しで尋ねた。

「旅人さん。どうしてそんな素敵な場所から、こんな暗くて埃っぽい机の下に来たの?」

 コオロギは少しだけ寂しそうに触角を垂らした。

「旅には休息が必要だからさ。それに、この机の下は……ふふ。不思議と、外の世界よりも優しい音が聞こえるんだ。主の鼻歌や、君たちのような新しい住人が語り合う声がね。僕は世界中の音を集めているんだよ」

 旅人さんはひとしきり毛づくろいを終えると、再び壁の隙間へと向かい始めた。

「さて、僕はそろそろ行くよ。月の光が一番綺麗に見える時間に、庭の草むらに辿り着かなきゃならないから」

「待って! また、お話を聞かせてくれる?」

 クリンの問いに、旅人さんは一度だけ力強く羽を鳴らした。

「ああ。君たちがここを『自分の場所』だと決めたなら、いつかまた会えるさ。覚えておくといい、小さな友達。世界は君たちが思っているよりもずっと広くて、そして、君たちが思っているよりもずっと、君たちの味方なんだ」

 カサカサ、と再び乾いた音が響き、旅人さんは暗い裂け目の中へと消えていった。


 あとに残されたのは、いつもの静かな机の下と、これまで一度も意識したことのなかった「外」への、淡い憧れだった。

 クリンは、自分の銀色の体に反射する僅かな光を見つめた。

 この光は、あの「空」から届いているものなのだろうか。

「外の世界……」

 隣でルルもまた、まだ見ぬ赤い夕焼けの色を想像しているようだった。


 小さな来客が残していったのは、ただの情報ではない。

 それは、机の下という閉ざされた世界で生きていた二人の心に、初めて「自由な風」の種を蒔いていったのだった。

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