ある日、見知らぬ鍵が玄関に置いてあった
なんだ、この鍵は。
玄関の靴箱の上に、見覚えのない鍵が置いてあった。
どこの鍵か分からない。
いつからあったのかも思い出せない。
気味が悪いが、鍵だから捨てるわけにもいかない。
まあいいか、と家を出た。
⸻
職場で、同僚に声をかけられる。
「そういえば彼女さん、元気?」
「……彼女?」
思わず聞き返す。
「何言ってんだよ。婚約したって言ってただろ」
笑われる。
笑い返したが、頭の中は空白だった。
彼女なんて、いない。
はずなのに。
ふと、左手を見る。
指輪がはまっている。
自分のものじゃないみたいに、しっくりこない。
外そうとして、やめた。
理由は分からない。
⸻
帰宅する。
玄関には、あの鍵。
あるはずのない記憶。
いるはずのない婚約者。
何かが、おかしい。
その時、母から電話がかかってきた。
「元気にしてる?」
「してるよ。……なあ、俺さ」
言葉が詰まる。
「彼女なんて、いたっけ?」
電話の向こうが、静かになる。
長い沈黙のあと、母が言った。
「あんた……事故に遭って、記憶なくしたのよ」
息が止まる。
「一緒にいた子がいてね」
声が震えている。
「あの子は……助からなかった」
⸻
電話を切ったあと、しばらく動けなかった。
気づくと、玄関に立っていた。
鍵を手に取る。
冷たい。
けれど、不思議と手に馴染む。
この部屋で。
誰かと笑って。
一緒に暮らしていた。
そんな気がする。
でも、顔も声も思い出せない。
何も残っていない。
それでも。
ここに、誰かがいたことだけは分かる。
主人公は小さく呟く。
「……悪い」
誰に向けた言葉か、自分でも分からなかった。
鍵を、元の場所に戻す。
捨てることは、できなかった。
部屋に入る。
誰もいないはずの空間が、
少しだけ、温かい気がした。




