3:溶けはじめる
東の空が白み始める前に、詠は皇城の自室に戻った。
夜の記憶を封じるように冷たい水で顔を洗う。
(……愚かな真似をした。敵国の騎士を、なぜ助けた)
鏡に映る詠の顔は、完璧な皇女の顔を取り戻していた。
しかし、騎士が口にした「恩は必ずお返しする」という言葉が、心の奥底で奇妙な引っかかりとなっていた。
彼の声は、どこか素朴な誠実さを帯びていたのだ。
(どうでもいい。私は命を助けたいだけ…)
詠は兄を亡くすまでは、心優しい皇女だった。
しかし、今となっては過去のこと。優しさばかりでは兄の穴埋めはできない。
だから詠は森へ行く。
憎悪の炎を秘める彼女にとって救いを求める者に慈悲を与える行為は、自身を蝕む呪いからの一時的な救いであった。
翌日の夜、詠は再び森へ向かった。
湖畔に着くと、騎士の姿はない。
(やはりな。敵国の人間。私は何を期待していたのか…)
詠は安堵しつつも、心の奥底で僅かに落胆した。
その瞬間、背後から声がかけられた。
「巫女殿」
振り返ると、騎士が立っていた。
昨夜の甲冑ではなく、動きやすい服装で薪を抱えている。
顔には仮面を被っていた。剣は腰に収められており、敵意はない事が見てとれた。
「あなたは……なぜここにいるのです。まだ傷が癒えていないのですか?」
詠は彼の仮面に手を伸ばし、そこにあるかもしれない傷を確認しようとした。
「いや、大丈夫だ。この仮面は昔の傷を隠すためなんだよ。
それより、あんたの呪術は、本当に驚いたよ。俺たちの国の治癒魔法より、ずっと体が楽になる。
ありがとう」
騎士は深々と頭を下げた。
「俺は、あんたに礼を言うために来たんだ」
「礼など、必要ありません」
詠は冷たく返す。
「恩義など、その場限りのものです。私はただ、傷ついた者を見過ごせなかっただけ」
騎士は静かに笑った。
「わかっている。ただ、俺があんたに感謝してんだよ」
彼は一歩踏み出した。二人の間の距離が、僅かに縮まる。
「巫女殿。あんたは、この森で、戦火に苦しむ人々を助けている。
隠れ里の連中に聞いたよ。敵味方関係なく、あんたが一人で動いていることもな」
詠は驚き、目を見開いた。
「なぜ、それを知っているのですか?」
「俺もこの森の隠里をしっている。奴らから聞いたんだよ。
俺はアヴァロン側の呪いの森に配属された騎士だからな。
たまに、大和側まで行くこともある。」
騎士の青い瞳が、仮面の下で光る。
「別に偵察ってわけじゃなくて、たた単に俺がこの森が好きってことだけど。」
「好き?この東西の魔力が混じり合って歪んだ生態系を持つ、この場所が?」
彼は笑った。
「ああ、それでも。」
彼は湖畔の岩に詠に座るように促し、火を起こし始める。
辺りを見ると、近くの木の根元に彼の鎧が昨夜の血をしっかりと綺麗に落とされ並んでいた。
「あんた、この森で危ない目に会ったことはないか?
そんな非力そうな腕で…」
「非力ですって?」
詠は反発した。
「あなたの剣が、私の呪術より優れているとでも?」
「優劣の話じゃない」
騎士は否定した。
「俺の剣は、破壊と守護のため。役に立つぞ?。
あんたの恩に報いるため、俺にも手伝わせてくれないか」
詠は眉をひそめた。
「手伝い、ですか。あなたは敵国の騎士。
あなたの剣は、私にとっては脅威でしかない。どうやって信用しろと?」
騎士は一瞬沈黙した。そして、躊躇なく腰の剣を抜き、湖畔の湿った土に深く突き立てた。
「これは、俺の誓いの証だ。」
騎士は力強い声で言った。
「この剣は、多くの血を吸ってきた。だが、俺は誓う。
救われた命、あんたのために使いたい。
もし俺が嘘をついていると判断したなら、その時は、この剣で俺を討ってくれて構わない」
騎士の言葉には、貴族の慇懃な言葉にはない、命を懸けた真摯さが込められていた。詠は、その言葉の重みに、動揺を隠せなかった。
「……期間は、私の婚姻まで」
詠は、低い声で、最大限の譲歩を突きつけた。
「近い将来、私は政略結婚することになっている。
それまでの間、あなたが嘘をつかないのなら、その日まで…」
「わかった。その日まで、あんたの盾になろう。俺の名はルーク。」
「私は、白よ」
詠は、昔飼っていた猫を思い出した。
自分とは対極の白くてふわふわとした子猫の名前。
「白。よろしくな!」
彼が仮面の下で笑うのがわかった。
今思えばこの時からもうすでに、詠の心は溶け始めていたのかもしれない。




