1:始まり
三年前の春、藤代詠の心は、永遠に氷の檻に閉じ込められた。
燃えるような朱色に染まった国境の森で、最愛の兄は倒れた。
その身に宿していた強力な霊力も、一族が代々受け継いできた結界術も、全ては眩い「光」に打ち砕かれていた。
兄の胸を貫いたのは、古びた西洋の武具ではない。
それは、隣国アヴァロン王国が擁する、騎士だけが振るうことを許されたという、魔剣の光であった。
「宵、お前は……生きて、この国の、呪いと、誇りを……」
血に濡れた兄の最期の言霊は、憎悪という名の呪縛となって、詠の魂に絡みついた。
そして、その呪いは今も、毎夜、彼女の肺を焼いた。
現在、詠は18歳。彼女に、また一つの過酷な運命が押し寄せた。
敵であるアヴァロン王国の若き王太子との政略結婚が、大和皇国の行く末を左右する形で確定したのだ。
「詠様。まことに、まことに慶事にてございます」
付き人の老女が、恭しく頭を垂れる。
目の前の豪華絢爛な書簡には、見知らぬ王太子の紋章が不遜に輝いていた。
詠は、自室の縁側に座り、書に目を落としていた。顔を上げることもなく、静かに応じる。
「慶事、ですか。老いて、目が霞んだようですね。
これは、わが一族への降伏勧告。言うなれば生贄の要求です。」
老女は息をのんだ。
「私は、売られるのですね…。」
詠が、兄の死以来、感情を露わにすることは滅多にない。
だが、その声に滲む冷たさは、都の冬の空気よりも厳しかった。
詠の姿は、大和皇国の貴族の象徴であった。
漆黒の髪は艶やかに広がり、纏った衣は夜の帳を思わせる藍色。
その端正な顔立ちと、一切の感情を読ませない黒い瞳は、公家の血が持つ「黒曜石」の美しさを体現していた。
誰も、この藤代家の嫡女が、心の奥底で煮えたぎるほどの憎悪を抱えていることなど、知る由もない。
その夜、詠はいつものように豪華な絹の着物から、動きやすい簡素な白衣に着替え、顔の半分を隠す覆面を纏う。
腰には、兄の遺品である「言霊を封じた小さな札束」を忍ばせた。
身を隠すように王宮の裏門を抜け、彼女が向かうのは、大和皇国とアヴァロン王国の国境に広がる「呪われた森」である。
そこは大和の呪術とアヴァロンの魔法が混ざり合い、異形の魔物や、精霊と呼ばれる存在が跋扈する、危険な場所だ。
彼女はそこで治癒師として戦火から逃れてきたものを癒してきた。
詠が治癒師として活動する理由は、表向きは「修練」だが真の目的は、兄を殺した魔剣の影を追い、戦火に苦しむ民を密かに救うことで、兄の遺志を継ごうとする、彼女自身の贖罪であった。
月明かりだけが頼りの森の道は、湿った土と、大和の結界が放つ霊力の匂いが混ざり合っている。
詠は、一歩も足音を立てぬよう、慎重に奥へ進む。
その時、森の静寂を切り裂くような、獣の咆哮が響き渡った。
詠は立ち止まり、霊力を集中させる。
これは、この森で最も危険な、魔物の気配だ。
そして、その魔物の咆哮に交じって、人間が苦痛に呻く微かな声が聞こえた。
「――っ」
詠は駆け出した。
命を助けるため、戸惑いはなかった。
湖畔のほとりに、その光景はあった。
巨大な魔物の前で、血に濡れた一人の男が倒れている。
その男は、銀色の甲冑を身に着けたアヴァロンの騎士であった。魔物は騎士の体を踏みつけ、再び咆哮を上げる。
詠は即座に懐から札を取り出し、言霊の呪術を放った。
《封》
呪符は光となり、魔物の足元に一時的な結界を張る。
一瞬の隙。詠は騎士のもとに駆け寄り、その体を抱き起こした。
騎士の顔は兜で覆われ、素顔はわからない。
しかし、彼の側には、夜の闇の中でも鈍く光る、一本の剣が転がっていた。
その剣が放つ冷たい光は、三年前、兄の命を奪った「魔剣の光」と同じ色をしていた。
憎むべき、アヴァロン王国の騎士。
兄の仇に繋がるかもしれない存在。
詠の手に力がこもる。
救いたいと思う気持ちと、公家としての憎悪が、彼女の心臓を激しく打ちつけた。
しかし、その仮面の下から漏れる、男の苦しそうな息遣いは、彼女の復讐心を一瞬だけ上書きした。
「……ここでは、死なせません」
詠はつぶやき、憎悪を押し殺して、騎士の傷口に治癒の呪術をかけた。
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