奴隷
崩れ落ちる石の轟音は、街全体を揺らすほどだった。
フェルザリア南門。
セツナが反射的にはじき返したその一撃は、放った魔術師本人ではなく、厚い城壁そのものを粉砕していた。
砕けた石片が雨のように降り注ぎ、
兵士たちが叫び、
門前に並んでいた荷車や屋台が次々と押し潰される。
「う、うわあああっ!」
「た、助け――!」
悲鳴に続いて、遅れて土煙がどっと押し寄せた。
視界が白茶け、砂の味が口に広がる。
セツナは自分の掌を見つめていた。
(……やってしまった)
衝撃を受け止めた瞬間、自然に力を返しただけ――そういう感覚だった。
だが結果として、城壁の一部が崩壊し、その下敷きになった兵士や住民もいる。
地面のあちこちに、動かない足や、うめき声をあげている影が転がっているのが見えた。
胸の奥が、ずきりと痛む。
「な、何が起きた……!」
「けが人がいるぞー!」
くぐもった声が、慌ただしく土煙の向こうから聞こえてくる。
やがて風が流れ、視界が開けた。
そこにあったのは、あり得ない光景だった。
南門の白灰色の城壁は、大穴をあけられていた。
まるで巨大な拳で殴り抜かれたように、中心から崩れ落ちている。
数十人の兵士たちが、呆然とその前に立ち尽くしていた。
そして、その視線が、一斉にセツナへと向けられる。
「……人間の子供!?」
「今の、見たか……?」
「人間が、やりやがったのか!?」
誰かの叫びを皮切りに、空気が一瞬で凍りつき、次の瞬間には熱を帯びた。
「ふざけるなよ、奴隷風情がァ!」
石が飛んできた。
それはセツナの頬をかすめ、頬に一筋の赤い線ができた――
鈍い音とともに、前へ躍り出たタイレルの肩を打った。
「ぐっ……」
タイレルは無言でそのまま大きな体でセツナの前に立ちふさがる。
その動きは、獣人の将として培った長年の戦場の反射だった。
「ありゃあ タイレルじゃねえか? 将軍だった」
「タイレル将軍……あんた、何を庇ってるんだよ」
「将軍なんかもう呼ばねえよ。今は奴隷管理人だろうが」
「落ちぶれたなぁ、英雄サマ!」
兵士や住民たちの口から、嘲りと憎悪がどろりとあふれ出す。
タイレルは低く唸った。
怒りではない。これは、己自身を押さえつけるための唸りだ。
「……壁を壊したのは、正当防衛だ。責めるべきは――」
「正当防衛だぁ? そんな言い訳が通るかよ!」
さらに石が飛んだ。今度は頭を狙っていた。
だが、タイレルが腕で払う。
セツナは無言で、その背中を見ていた。
かつて帝都最強と謳われた獣人将軍。
今は辺境に飛ばされ、人間奴隷の管理職に落とされた男。
(……タイレル)
胸が、さっきとは違う意味で重くなる。
この獣人は、自分を庇った。
だが、その視線の奥に、「人間、いや自分への哀れみ」と「種としての優越感」が同居していることも、セツナにはなんとなくわかってしまっていた。
その瞬間――城壁の上から、重い足音が響いた。
「やめろ」
割って入るような低い声。
土煙の向こう、高みから見下ろすその姿は、鉄の鎧に赤いマントを纏っていた。
ガルマン=トゥルバ。
フェルザリア獣人軍の副将にして、現在は帝都防衛を一手に握る男。
「今の攻撃は、防衛側の判断によるものだ。
敵かどうかも分からん存在に対し、早期に対応するのは当然だろう」
ガルマンの言葉に、周囲の兵士たちは一斉に黙り込む。
だが、その沈黙は納得のそれではなく、服従の静けさだった。
タイレルが顔を上げる。
「……ガルマン=トゥルバ。あの攻撃はたった二人に対してのものとは到底思えんが? セファルド様が、そのような命令を?」
問いかけには、長年の戦友としての信頼と、微かな期待が混じっていた。
しかし返ってきたのは、氷のような冷たさだった。
「細かな命令など不要だ。必要だった。それだけだ」
短く、それだけを告げる。
(あのガルマンが殿下の命令無しに動くとは思えんが……)
ガルマンはタイレルの10歳下で、軍学校の後輩にあたった。
文武両道で、軍学校を首席で卒業し、人当たりもよく、無理難題も愚直にこなし
次の将軍に推薦したいと思っていた男だった。
ガルマンは城壁から飛び降り、石片を踏みしめながらセツナたちの前に降り立つ。
間近で見るその瞳には、獣人特有の金色の光が宿っていたが、その奥にもう一つ、冷たい計算の色が見え隠れしている。
「……人間のくせに、妙な力だな」
ガルマンは、まるで珍しい獲物でも品定めするようにセツナを眺める。
「お前、何者だ?」
セツナは口を開かなかった。
開けなかった、が正しい。
(俺は……何者なんだ?)
そう問うと、頭の奥で、白い霧がぐるぐると渦巻く。
その霧の向こう側には、無数の光景がちらついている気がした。
泣き声。怒号。火の海。血。
そして、今日とよく似た罵声。
だが、すべてが遠い。
「……行くぞ」
タイレルは短くそう告げると、ガルマンを睨みつけるように見上げた。
「セファルド第二王子への謁見の約は取りつけてある。
お前の“判断”についても、そこで報告させてもらう」
ガルマンは鼻で笑った。
「好きにしろ。ただ、覚えておけ。
――この帝都で、人間が城壁を壊したという事実は、消えん」
「ガルマン、オリヴィア(妻)は元気か?」
「……?」
「変わったな。ガルマン」
配下の兵士たちがざわめくなか、タイレルは振り返らずに歩き出した。
セツナもその後に続く。
背後からなおも怒号と罵声が飛んでくる。
「人間を連れ歩くなんて、さすが落ちぶれ将軍だな!」
「奴隷管理にお似合いだ!」
その一つ一つが、タイレルの背中に突き刺さる。
セツナはふと、その背に小さな傷跡がいくつもあるのに気づいた。
それが戦場のものなのか、石を投げられた結果なのか、判別はつかなかった。
帝都フェルザリアの門をくぐると、空気はさらに濃くなった。
鉄と血と汗と、湿った土の匂い。
獣人たちの喉鳴りと笑い声。
そして、その足元で引きずられる鎖の音。
最初に目に飛び込んできたのは、荷車通りだった。
太い鎖を首に巻かれた人間たちが、巨大な荷車を引いている。
背骨が折れそうなほどの荷を、十人、二十人で押し引きしている。
荷車の横を、鞭を持った獣人の監督が歩いていた。
「ほら! 早くしろ」
乾いた音が響き、人間の背が跳ねる。
誰も、声をあげない。あげるという発想が、もう抜け落ちているようだった。
セツナは足を止めかけた。
だがタイレルが振り返り、低く言う。
「見るな。立ち止まるんじゃない。」
次の通りは、市場広場だった。
獣人たちが果物や肉を売り買いする喧騒の片隅で、奇妙な遊びが行われていた。
「いくぞー、次は頭だ!」
獣人の子供が弓を引き絞る。
その先には、震えながら立たされている人間の子供が一人。
胸元には粗末な木の盾。
周囲の子供たちが、わくわくとした目で見守っている。
矢が放たれた。
盾に当たり、弾かれた。
見物していた獣人の子供たちから歓声があがる。
「おー、今のいい音!」
「次、腹な。腹に当てろ!」
人間の子供は、笑っていない。
泣いてもいない。ただ、灰色の瞳で地面を見つめている。
セツナの胸に、鈍いものが広がる。
(……知っている。この目を、俺は――)
そこまで思ったところで、頭の中に霧が立ちこめた。
過去に伸ばしかけた手が、白く溶けていく感覚。
「セツナ」
タイレルの声が、その霧をいったん追い払った。
「先へ行くぞ」
さらに進むと、鉄格子の並ぶ区域に出た。
そこは街の一角を囲うように、檻が整然と並んでいた。
中には、人間がぎっしりと詰め込まれている。
誰もこちらを見ない。
壁を見つめる者、空を見上げる者、うずくまって動かない者。
檻の上部には、番号と用途が書かれた札がぶら下がっていた。
――魔術媒介用。
――供物。
――実験体。
「……媒介?」
セツナが思わず口にすると、傍らを歩いていた獣人兵が鼻で笑った。
「魔法陣を動かすには、血と魂が要る。
人間の体は脆いが、魔力と相性がいいのよ。つまり魔力は油、人間はロープさ。」
それは、まるで薪の質を説明するかのような口調だった。
タイレルが睨みつける。
「黙れ。よそへ行け」
「はっ、失礼しました、元・将軍殿」
兵はあからさまな皮肉を残して去っていく。
セツナは、足が地面に縫い付けられたように動かなくなっていた。
檻の隙間から、ひとりの人間が、こちらを見ている。
やせ細った男。
だが、その目にはまだ、かすかな光が残っていた。
――助けて。
声にはならない。
だが、そう言われた気がした。
胸の奥で、何かが軋む。
「ハアハア……」動悸が早い。
(なんで、俺はこんなに……?)
トゥランの村では少なくともこんな扱いではなかった。
初めて見るはずの光景なのに。
初めて聞くはずの鎖の音なのに。
どうしようもない“既視感”と、“堆積した怒り”が、心の中で絡まり合う。
最後の角を曲がると、路地裏が見えた。
そこには、檻にすら入れられていない人間たちがいた。
ボロ布をまとい、壁にもたれ、うずくまり、目だけが虚空を彷徨っている。
誰も、道の真ん中に倒れている老人を避けようともしない。
獣人たちは躊躇なく跨ぎ、時には足で蹴って退かせる。
「……役目を失った奴隷だ」
タイレルが低く言う。
「働けなくなった者は、売る価値もない。
拾う者がいなければ、そのまま朽ちる」
言いながら、その声にはわずかな痛みが混じっていた。
帝都フェルザリアの中心、王城は、そんな街の上にそびえ立っていた。
黒い石造りの塔と城壁が折り重なり、頂には獣人族の紋章が刻まれており、巨大な旗がはためいている。 重厚と威圧の象。
城門をくぐると、一転して静寂が広がった。
磨き上げられた石床に、赤い絨毯。
高い天井には巨大なシャンデリア。
フロアの真ん中には獣人族の始祖、メルテ=マッロの像が置かれている。
獣人の衛兵たちが並ぶ。
彼らの視線が、一様にセツナを刺す。
「人間だぞ……」
「タイレルは、人間を宮廷にまで連れてきたのか」
ひそひそ声が、冷たい空気の中を泳いでいく。
「構うな」とタイレルは言った。「用件が最優先だ」
謁見の間の扉が開かれる。
その奥、玉座ではないが、一段高い席にひとりの獣人が座っていた。
セファルド・フェルザリア。
第二王子にして、現在実質的に帝都の政務を担っている男。
金色の瞳はタイレルよりも淡く、冷静さを湛えていた。
だが、その顔には疲労と焦燥の影が色濃く刻まれている。
「タイレル、よく戻った。」
「お久しぶりでございます。殿下。」
「到着早々、問題を起こしてくれたな? 城壁が崩れたと聞いたが、この人間と関係が?」
セファルドの視線が、セツナへと流れる。
「はい。セツナといいます。辺境で救出した特異個体です。
その力を、セファルド様にお見せしたく……という矢先に、あの防衛魔術が」
タイレルは膝をつき、頭を垂れた。
「確認したいことがございます」
「言え」
「南門での攻撃命令は、どなたの指示によるものですか。あれは戦魔級の敵に対する攻撃。我々だけに対する攻撃としてはあまりにも過剰。」
セファルドの眉が、ぴくりと動いた。
「……私は、何も命じていない」
玉座脇に控えていた侍従たちがざわめく。
だがセファルドは静かに続けた。
「門番には、“不審な者あらば警告し、必要なら拘束せよ”とだけ伝えている。
主砲級の攻撃を許可した覚えはない」
タイレルは確信を深めた。
ガルマンは、やはり独断で動いている。
「ガルマン=トゥルバの暴走と見てよろしいですか」
問いかける声には、かつての部下への情と、現在の責任者への怒りが混ざっていた。
セファルドはしばし黙し、やがて低く答えた。
「……断言はできぬ。が、あの男は最近、命令系統を無視しがちだ。
“帝都を守るためには多少の犠牲は仕方がない”と、よく口にするようになった」
侍従の一人が慌てて口を挟む。
「殿下、あまり軽々しく内なる情報を……」
「黙れ。ここは戦の場だ。
城壁一つが落ちたのだぞ。言葉の飾りなど不要だ」
セファルドは侍従を一喝すると、改めてセツナを見据えた。
「……お前は、何者だ?」
その問いに、セツナの胸の霧がまた揺れた。
(――この問い。何度も、何度も、何度も……)
喉元まで出かかった言葉は、自分でも理解できない音になりそうで、セツナは口を閉ざすしかなかった。
「……人間」
絞り出した言葉は、それだけだった。
セファルドはわずかに目を細める。
「正直だな。
ガルマンの報告では、“危険な人間の怪物”とあったが……」
侍従たちが一斉にざわめいた。
「ガルマン殿が、すでに……?」
「そうだ。今朝、狐耳の女奴隷を連れてな。
“城に迫る危険な人間がいる”と進言してきた」
タイレルは息を呑んだ。
「……狐耳?」
セツナの脳裏には、一瞬、別の顔がよぎった。
誰かの笑顔。泣き顔。
だが、すぐに霧に飲まれていく。
「ガルマンの件は、私からも問いただそう。
その前に――」
セファルドは立ち上がり、玉座から一歩、二歩と階段を降りる。
獣人としては線の細い体だが、その足取りには確かな威厳があった。
「人間。名はセツナと言ったな」
「……はい」
「この帝都で、人間が城壁を壊したという事実は、避け難い禍根を残すだろう。
だが同時に、私はその力に興味がある」
「殿下、無礼を承知で言わせて頂ければ、これはいわば不可抗力です。先に手を出したのはガルマン将軍であります。」
「そんな事はわかっておる……」
セファルドはそう言うと、宰相に目くばせをし、かるく顎をしゃくった。
「はっ…」
宰相は軽く頭を下げ衛兵達は速やかに謁見の間から退席した。
「さて、人払いは済んだ。楽にしてくれ」
セファルドは両手を天に突き上げ大きく伸びをした。
「で?――セツナと言ったか。お前の扱いをどうするか。
決める前に、見ておきたい。人としてか、道具としてか」
謁見の間に、重い沈黙が落ちた。
その時、脇の扉が静かに開いた。
「兄様」
柔らかな声が、空気を変えた。
姿を現したのは、白銀の毛並みを持つ獣人の少女だった。
腰まで届く髪、猫科を思わせる耳と、揺れる長い尻尾。
年頃はセツナと同じくらいか、少し下に見える。
「フィオラ。今は謁見の最中だと――」
「わかってるわ。でも、気になって」
フィオラ――セファルドの妹は、兄の制止を軽やかにかわし、まっすぐセツナを見つめた。
「本当に、人間なのね」
その目には、あからさまな嫌悪も、侮蔑もなかった。
純粋な好奇心と、ほんの少しの警戒だけ。
セツナはわずかに首を傾げる。
「……そう見えますか?」
思わず出た言葉に、フィオラはぱちりと瞬きをした。
「変なことを言う人ね。
――兄様、この人、私が見ていてもいい?」
「勝手なことを言うな。あの城壁を見ただろう。警備上の問題がとかだな――」
「タイレルも一緒にいるんでしょう? だったら大丈夫よ」
そこへ、さらにもう一人、別の扉から姿を現した。
「殿下。失礼いたします」
低くよく通る声。
タイレルが思わず顔を上げた。
「……ラシェル」
現れたのは、獣人の女だった。
落ち着いた茶色の毛並み、鋭いがどこか柔らかな目。
かつて“獣人軍の目”と称され、物事を見極める事に長けた女将校――そして今は、タイレルの妻。
「お前も呼ばれていたのか」
タイレルが小さく呟く。
「はい。南門の件で、ガルマン殿と意見が違うことを申し上げるために」
ラシェルはセファルドに向き直る。
「殿下。
あの攻撃は、明らかに“見せしめ”を狙ったものです。
辺境から戻ったタイレル殿と、その同行者を、最初から危険視していました」
タイレルは驚き、ラシェルを見た。
ラシェルは一瞬だけ夫に視線を送り、その目で「後で話しましょう」と告げた。
セファルドは顎に手を当て、しばし考え込む。
「……わかった。
タイレル、ラシェル、フィオラ。
ひとまずこの場は解散とする」
視線がセツナに戻る。
「セツナ。お前は客人として城内に部屋を与える。
ただし、“人間”に対する帝都の視線を忘れるな。
タイレル、監督を頼む」
「はっ」
謁見はそこで終わった。
廊下に出ると、緊張が少しだけ解ける。
だが、空気は相変わらず重い。
「……大変だったわね」
ラシェルがタイレルに並び、セツナの方にも目を向ける。
「セツナといったか。
夫が世話になっているようね」
「いえ、こちらが助けられてばかりです」
セツナが頭を下げると、ラシェルはふっと笑った。
「礼儀は、悪くないのね。
――タイレル。この子、本当に人間?」
「お前まで変なことを言うな」
タイレルが苦笑する。その声には、久しく忘れていた柔らかさがあった。
「私はセツナと話してみたいわ」
フィオラが割り込んでくる。
「兄様も許可したし。
ねえ、人間――じゃなくて、セツナ。
帝都は、どう見えた?」
問いかけに、セツナは言葉を探した。
鎖に繋がれた人間たち。
的当てにされる子供。
檻の中の番号札。
路地裏に捨てられた肉の塊のような人間。
その全てが、脳裏でぐるぐると渦を巻いている。
「……胸の奥が、重いです」
そう言った瞬間、セツナの体から灰色の靄が湧き出し始めていた。
「セツナ!!」
そう言ってタイレルはセツナの肩に手を乗せた。
「ッ!」
その瞬間セツナの靄はスッと消えた。
フィオラは小さく首をかしげる。
「今のは? タイレル?」
「いえ、なんでもありません。 いや、今は説明できません。お許しを。」
タイレルはフィオラの目を見てゆっくり言った。。
(……やはり、こいつをここに連れてきたのは間違いだったか。 もしかすると王都の民全員を殺しかねない。)
「あなたは、怒ってるのね」
ラシェルが静かに言う。
「自分ではまだ、気づいていないかもしれないけれど」
セツナは自分の胸に手を当ててみた。
鼓動は落ち着いている。
だが、その奥で、熱い何かがくすぶっているのを感じる。
(そうか。これは――怒り、なのか)
怒り。
百回。千回。
数え切れないほど繰り返し、また忘れてきた感情。
窓の外から、遠く鞭の音が聞こえた。
続いて、短い悲鳴。
セツナは思わずそちらを振り向く。
細い窓から見えるのは、城下の一角。
そこでもまた、人間が鞭で打たれていた。
その光景に、今度は霧がかからなかった。
はっきりと見え、はっきりと胸を刺した。
「……セツナ?」
フィオラが心配そうに覗き込む。
「大丈夫です。
ただ――」
セツナは目を細めた。
「この街は、あまり、長く居たくない。」
その言葉は、まだ静かだった。
しかし、その奥に潜む熱は、確かに増している。
タイレルは、それが何を意味するのかを知らない。
ラシェルも、フィオラも、まだ知らない。
――人間が受けてきた虐げと、蔑み。
それらの真の意味を、セツナが理解したとき、この帝都フェルザリアの一角が、地図から消える未来を。
ただ、今はまだ、誰も知らなかった。




