表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
永劫のセツナ  作者: ALOE
9/42

奴隷

崩れ落ちる石の轟音は、街全体を揺らすほどだった。


 フェルザリア南門。

 セツナが反射的にはじき返したその一撃は、放った魔術師本人ではなく、厚い城壁そのものを粉砕していた。


 砕けた石片が雨のように降り注ぎ、

 兵士たちが叫び、

 門前に並んでいた荷車や屋台が次々と押し潰される。


「う、うわあああっ!」

「た、助け――!」


 悲鳴に続いて、遅れて土煙がどっと押し寄せた。

 視界が白茶け、砂の味が口に広がる。


 セツナは自分の掌を見つめていた。


(……やってしまった)


 衝撃を受け止めた瞬間、自然に力を返しただけ――そういう感覚だった。

 だが結果として、城壁の一部が崩壊し、その下敷きになった兵士や住民もいる。

 地面のあちこちに、動かない足や、うめき声をあげている影が転がっているのが見えた。


 胸の奥が、ずきりと痛む。


「な、何が起きた……!」


「けが人がいるぞー!」


 くぐもった声が、慌ただしく土煙の向こうから聞こえてくる。


 やがて風が流れ、視界が開けた。

 そこにあったのは、あり得ない光景だった。


 南門の白灰色の城壁は、大穴をあけられていた。

 まるで巨大な拳で殴り抜かれたように、中心から崩れ落ちている。


 数十人の兵士たちが、呆然とその前に立ち尽くしていた。


 そして、その視線が、一斉にセツナへと向けられる。


「……人間の子供!?」

「今の、見たか……?」

「人間が、やりやがったのか!?」


 誰かの叫びを皮切りに、空気が一瞬で凍りつき、次の瞬間には熱を帯びた。


「ふざけるなよ、奴隷風情がァ!」


 石が飛んできた。

 それはセツナの頬をかすめ、頬に一筋の赤い線ができた――


 鈍い音とともに、前へ躍り出たタイレルの肩を打った。


「ぐっ……」


 タイレルは無言でそのまま大きな体でセツナの前に立ちふさがる。

 その動きは、獣人の将として培った長年の戦場の反射だった。


「ありゃあ タイレルじゃねえか? 将軍だった」

「タイレル将軍……あんた、何を庇ってるんだよ」

「将軍なんかもう呼ばねえよ。今は奴隷管理人だろうが」

「落ちぶれたなぁ、英雄サマ!」


 兵士や住民たちの口から、嘲りと憎悪がどろりとあふれ出す。


 タイレルは低く唸った。

 怒りではない。これは、己自身を押さえつけるための唸りだ。


「……壁を壊したのは、正当防衛だ。責めるべきは――」


「正当防衛だぁ? そんな言い訳が通るかよ!」


 さらに石が飛んだ。今度は頭を狙っていた。

 だが、タイレルが腕で払う。


 セツナは無言で、その背中を見ていた。


 かつて帝都最強と謳われた獣人将軍。

 今は辺境に飛ばされ、人間奴隷の管理職に落とされた男。


(……タイレル)


 胸が、さっきとは違う意味で重くなる。

 この獣人は、自分を庇った。

 だが、その視線の奥に、「人間、いや自分への哀れみ」と「種としての優越感」が同居していることも、セツナにはなんとなくわかってしまっていた。


 その瞬間――城壁の上から、重い足音が響いた。


「やめろ」


 割って入るような低い声。

 土煙の向こう、高みから見下ろすその姿は、鉄の鎧に赤いマントを纏っていた。


 ガルマン=トゥルバ。


 フェルザリア獣人軍の副将にして、現在は帝都防衛を一手に握る男。


「今の攻撃は、防衛側の判断によるものだ。

 敵かどうかも分からん存在に対し、早期に対応するのは当然だろう」


 ガルマンの言葉に、周囲の兵士たちは一斉に黙り込む。

 だが、その沈黙は納得のそれではなく、服従の静けさだった。


 タイレルが顔を上げる。


「……ガルマン=トゥルバ。あの攻撃はたった二人に対してのものとは到底思えんが? セファルド様が、そのような命令を?」


 問いかけには、長年の戦友としての信頼と、微かな期待が混じっていた。

 しかし返ってきたのは、氷のような冷たさだった。


「細かな命令など不要だ。必要だった。それだけだ」


 短く、それだけを告げる。

 

(あのガルマンが殿下の命令無しに動くとは思えんが……)



 ガルマンはタイレルの10歳下で、軍学校の後輩にあたった。

 文武両道で、軍学校を首席で卒業し、人当たりもよく、無理難題も愚直にこなし

 次の将軍に推薦したいと思っていた男だった。


 ガルマンは城壁から飛び降り、石片を踏みしめながらセツナたちの前に降り立つ。

 間近で見るその瞳には、獣人特有の金色の光が宿っていたが、その奥にもう一つ、冷たい計算の色が見え隠れしている。


「……人間のくせに、妙な力だな」


 ガルマンは、まるで珍しい獲物でも品定めするようにセツナを眺める。


「お前、何者だ?」


 セツナは口を開かなかった。

 開けなかった、が正しい。


(俺は……何者なんだ?)


 そう問うと、頭の奥で、白い霧がぐるぐると渦巻く。

 その霧の向こう側には、無数の光景がちらついている気がした。

 泣き声。怒号。火の海。血。

 そして、今日とよく似た罵声。


 だが、すべてが遠い。


「……行くぞ」


 タイレルは短くそう告げると、ガルマンを睨みつけるように見上げた。


「セファルド第二王子への謁見の約は取りつけてある。

 お前の“判断”についても、そこで報告させてもらう」


 ガルマンは鼻で笑った。


「好きにしろ。ただ、覚えておけ。

 ――この帝都で、人間が城壁を壊したという事実は、消えん」


「ガルマン、オリヴィア(妻)は元気か?」


「……?」


「変わったな。ガルマン」




 配下の兵士たちがざわめくなか、タイレルは振り返らずに歩き出した。

 セツナもその後に続く。


 背後からなおも怒号と罵声が飛んでくる。


「人間を連れ歩くなんて、さすが落ちぶれ将軍だな!」

「奴隷管理にお似合いだ!」


 その一つ一つが、タイレルの背中に突き刺さる。

 セツナはふと、その背に小さな傷跡がいくつもあるのに気づいた。

 それが戦場のものなのか、石を投げられた結果なのか、判別はつかなかった。


 帝都フェルザリアの門をくぐると、空気はさらに濃くなった。


 鉄と血と汗と、湿った土の匂い。

 獣人たちの喉鳴りと笑い声。

 そして、その足元で引きずられる鎖の音。


 最初に目に飛び込んできたのは、荷車通りだった。


 太い鎖を首に巻かれた人間たちが、巨大な荷車を引いている。

 背骨が折れそうなほどの荷を、十人、二十人で押し引きしている。


 荷車の横を、鞭を持った獣人の監督が歩いていた。


「ほら! 早くしろ」


 乾いた音が響き、人間の背が跳ねる。

 誰も、声をあげない。あげるという発想が、もう抜け落ちているようだった。


 セツナは足を止めかけた。

 だがタイレルが振り返り、低く言う。


「見るな。立ち止まるんじゃない。」


 次の通りは、市場広場だった。


 獣人たちが果物や肉を売り買いする喧騒の片隅で、奇妙な遊びが行われていた。


「いくぞー、次は頭だ!」


 獣人の子供が弓を引き絞る。

 その先には、震えながら立たされている人間の子供が一人。

 胸元には粗末な木の盾。

 周囲の子供たちが、わくわくとした目で見守っている。


 矢が放たれた。

 盾に当たり、弾かれた。

 見物していた獣人の子供たちから歓声があがる。


「おー、今のいい音!」

「次、腹な。腹に当てろ!」


 人間の子供は、笑っていない。

 泣いてもいない。ただ、灰色の瞳で地面を見つめている。


 セツナの胸に、鈍いものが広がる。


(……知っている。この目を、俺は――)


 そこまで思ったところで、頭の中に霧が立ちこめた。

 過去に伸ばしかけた手が、白く溶けていく感覚。


「セツナ」


 タイレルの声が、その霧をいったん追い払った。


「先へ行くぞ」


 さらに進むと、鉄格子の並ぶ区域に出た。

 そこは街の一角を囲うように、檻が整然と並んでいた。


 中には、人間がぎっしりと詰め込まれている。

 誰もこちらを見ない。

 壁を見つめる者、空を見上げる者、うずくまって動かない者。


 檻の上部には、番号と用途が書かれた札がぶら下がっていた。


 ――魔術媒介用。

 ――供物。

 ――実験体。


「……媒介?」


 セツナが思わず口にすると、傍らを歩いていた獣人兵が鼻で笑った。


「魔法陣を動かすには、血と魂が要る。

 人間の体は脆いが、魔力と相性がいいのよ。つまり魔力は油、人間はロープさ。」


 それは、まるで薪の質を説明するかのような口調だった。


 タイレルが睨みつける。


「黙れ。よそへ行け」


「はっ、失礼しました、()・将軍殿」


 兵はあからさまな皮肉を残して去っていく。


 セツナは、足が地面に縫い付けられたように動かなくなっていた。


 檻の隙間から、ひとりの人間が、こちらを見ている。

 やせ細った男。

 だが、その目にはまだ、かすかな光が残っていた。


 ――助けて。


 声にはならない。

 だが、そう言われた気がした。


 胸の奥で、何かが軋む。


「ハアハア……」動悸が早い。

(なんで、俺はこんなに……?)


 トゥランの村では少なくともこんな扱いではなかった。 


 初めて見るはずの光景なのに。

 初めて聞くはずの鎖の音なのに。


 どうしようもない“既視感”と、“堆積した怒り”が、心の中で絡まり合う。


 最後の角を曲がると、路地裏が見えた。


 そこには、檻にすら入れられていない人間たちがいた。

 ボロ布をまとい、壁にもたれ、うずくまり、目だけが虚空を彷徨っている。


 誰も、道の真ん中に倒れている老人を避けようともしない。

 獣人たちは躊躇なく跨ぎ、時には足で蹴って退かせる。


「……役目を失った奴隷だ」

 タイレルが低く言う。


「働けなくなった者は、売る価値もない。

 拾う者がいなければ、そのまま朽ちる」


 言いながら、その声にはわずかな痛みが混じっていた。


 帝都フェルザリアの中心、王城は、そんな街の上にそびえ立っていた。

 黒い石造りの塔と城壁が折り重なり、頂には獣人族の紋章が刻まれており、巨大な旗がはためいている。 重厚と威圧の象。


 城門をくぐると、一転して静寂が広がった。

 磨き上げられた石床に、赤い絨毯。

 高い天井には巨大なシャンデリア。

 フロアの真ん中には獣人族の始祖、メルテ=マッロの像が置かれている。

 獣人の衛兵たちが並ぶ。

 彼らの視線が、一様にセツナを刺す。


「人間だぞ……」

「タイレルは、人間を宮廷にまで連れてきたのか」


 ひそひそ声が、冷たい空気の中を泳いでいく。


「構うな」とタイレルは言った。「用件が最優先だ」


 謁見の間の扉が開かれる。

 その奥、玉座ではないが、一段高い席にひとりの獣人が座っていた。


 セファルド・フェルザリア。

 第二王子にして、現在実質的に帝都の政務を担っている男。


 金色の瞳はタイレルよりも淡く、冷静さを湛えていた。

 だが、その顔には疲労と焦燥の影が色濃く刻まれている。


 「タイレル、よく戻った。」


 「お久しぶりでございます。殿下。」


 「到着早々、問題を起こしてくれたな? 城壁が崩れたと聞いたが、この人間と関係が?」


 セファルドの視線が、セツナへと流れる。


「はい。セツナといいます。辺境で救出した特異個体です。

 その力を、セファルド様にお見せしたく……という矢先に、あの防衛魔術が」


 タイレルは膝をつき、頭を垂れた。


「確認したいことがございます」


「言え」


「南門での攻撃命令は、どなたの指示によるものですか。あれは戦魔級の敵に対する攻撃。我々だけに対する攻撃としてはあまりにも過剰。」


 セファルドの眉が、ぴくりと動いた。


「……私は、何も命じていない」


 玉座脇に控えていた侍従たちがざわめく。

 だがセファルドは静かに続けた。


「門番には、“不審な者あらば警告し、必要なら拘束せよ”とだけ伝えている。

 主砲級の攻撃を許可した覚えはない」


 タイレルは確信を深めた。

 ガルマンは、やはり独断で動いている。


「ガルマン=トゥルバの暴走と見てよろしいですか」


 問いかける声には、かつての部下への情と、現在の責任者への怒りが混ざっていた。


 セファルドはしばし黙し、やがて低く答えた。


「……断言はできぬ。が、あの男は最近、命令系統を無視しがちだ。

 “帝都を守るためには多少の犠牲は仕方がない”と、よく口にするようになった」


 侍従の一人が慌てて口を挟む。


「殿下、あまり軽々しく内なる情報を……」


「黙れ。ここは戦の場だ。

 城壁一つが落ちたのだぞ。言葉の飾りなど不要だ」


 セファルドは侍従を一喝すると、改めてセツナを見据えた。


「……お前は、何者だ?」


 その問いに、セツナの胸の霧がまた揺れた。


(――この問い。何度も、何度も、何度も……)


 喉元まで出かかった言葉は、自分でも理解できない音になりそうで、セツナは口を閉ざすしかなかった。


「……人間」


 絞り出した言葉は、それだけだった。


 セファルドはわずかに目を細める。


「正直だな。

 ガルマンの報告では、“危険な人間の怪物”とあったが……」


 侍従たちが一斉にざわめいた。

「ガルマン殿が、すでに……?」


「そうだ。今朝、狐耳の女奴隷を連れてな。

 “城に迫る危険な人間がいる”と進言してきた」


 タイレルは息を呑んだ。


「……狐耳?」


 セツナの脳裏には、一瞬、別の顔がよぎった。

 誰かの笑顔。泣き顔。

 だが、すぐに霧に飲まれていく。


「ガルマンの件は、私からも問いただそう。

 その前に――」


 セファルドは立ち上がり、玉座から一歩、二歩と階段を降りる。

 獣人としては線の細い体だが、その足取りには確かな威厳があった。


「人間。名はセツナと言ったな」


「……はい」


「この帝都で、人間が城壁を壊したという事実は、避け難い禍根を残すだろう。

 だが同時に、私はその力に興味がある」


「殿下、無礼を承知で言わせて頂ければ、これはいわば不可抗力です。先に手を出したのはガルマン将軍であります。」


「そんな事はわかっておる……」

セファルドはそう言うと、宰相に目くばせをし、かるく顎をしゃくった。


「はっ…」

宰相は軽く頭を下げ衛兵達は速やかに謁見の間から退席した。




「さて、人払いは済んだ。楽にしてくれ」

セファルドは両手を天に突き上げ大きく伸びをした。



「で?――セツナと言ったか。お前の扱いをどうするか。

 決める前に、見ておきたい。人としてか、道具としてか」


 謁見の間に、重い沈黙が落ちた。


 その時、脇の扉が静かに開いた。


「兄様」


 柔らかな声が、空気を変えた。


 姿を現したのは、白銀の毛並みを持つ獣人の少女だった。

 腰まで届く髪、猫科を思わせる耳と、揺れる長い尻尾。

 年頃はセツナと同じくらいか、少し下に見える。


「フィオラ。今は謁見の最中だと――」


「わかってるわ。でも、気になって」


 フィオラ――セファルドの妹は、兄の制止を軽やかにかわし、まっすぐセツナを見つめた。


「本当に、人間なのね」


 その目には、あからさまな嫌悪も、侮蔑もなかった。

 純粋な好奇心と、ほんの少しの警戒だけ。


 セツナはわずかに首を傾げる。


「……そう見えますか?」


 思わず出た言葉に、フィオラはぱちりと瞬きをした。


「変なことを言う人ね。

 ――兄様、この人、私が見ていてもいい?」


「勝手なことを言うな。あの城壁を見ただろう。警備上の問題がとかだな――」


「タイレルも一緒にいるんでしょう? だったら大丈夫よ」


 そこへ、さらにもう一人、別の扉から姿を現した。


「殿下。失礼いたします」


 低くよく通る声。

 タイレルが思わず顔を上げた。


「……ラシェル」


 現れたのは、獣人の女だった。

 落ち着いた茶色の毛並み、鋭いがどこか柔らかな目。

 かつて“獣人軍の目”と称され、物事を見極める事に長けた女将校――そして今は、タイレルの妻。


「お前も呼ばれていたのか」

 タイレルが小さく呟く。


「はい。南門の件で、ガルマン殿と意見が違うことを申し上げるために」


 ラシェルはセファルドに向き直る。


「殿下。

 あの攻撃は、明らかに“見せしめ”を狙ったものです。

 辺境から戻ったタイレル殿と、その同行者を、最初から危険視していました」


 タイレルは驚き、ラシェルを見た。

 ラシェルは一瞬だけ夫に視線を送り、その目で「後で話しましょう」と告げた。


 セファルドは顎に手を当て、しばし考え込む。


「……わかった。

 タイレル、ラシェル、フィオラ。

 ひとまずこの場は解散とする」


 視線がセツナに戻る。


「セツナ。お前は客人として城内に部屋を与える。

 ただし、“人間”に対する帝都の視線を忘れるな。

 タイレル、監督を頼む」


「はっ」


 謁見はそこで終わった。


 廊下に出ると、緊張が少しだけ解ける。

 だが、空気は相変わらず重い。


「……大変だったわね」


 ラシェルがタイレルに並び、セツナの方にも目を向ける。


「セツナといったか。

 夫が世話になっているようね」


「いえ、こちらが助けられてばかりです」


 セツナが頭を下げると、ラシェルはふっと笑った。


「礼儀は、悪くないのね。

 ――タイレル。この子、本当に人間?」


「お前まで変なことを言うな」


 タイレルが苦笑する。その声には、久しく忘れていた柔らかさがあった。


「私はセツナと話してみたいわ」

 フィオラが割り込んでくる。


「兄様も許可したし。

 ねえ、人間――じゃなくて、セツナ。

 帝都は、どう見えた?」


 問いかけに、セツナは言葉を探した。


 鎖に繋がれた人間たち。

 的当てにされる子供。

檻の中の番号札。

 路地裏に捨てられた肉の塊のような人間。


 その全てが、脳裏でぐるぐると渦を巻いている。


「……胸の奥が、重いです」


 そう言った瞬間、セツナの体から灰色の(もや)が湧き出し始めていた。


「セツナ!!」

そう言ってタイレルはセツナの肩に手を乗せた。


「ッ!」

その瞬間セツナの(もや)はスッと消えた。


 フィオラは小さく首をかしげる。


「今のは? タイレル?」


「いえ、なんでもありません。 いや、今は説明できません。お許しを。」


 タイレルはフィオラの目を見てゆっくり言った。。


(……やはり、こいつをここに連れてきたのは間違いだったか。 もしかすると王都の民全員を殺しかねない。)


 


「あなたは、怒ってるのね」

 ラシェルが静かに言う。


「自分ではまだ、気づいていないかもしれないけれど」


 セツナは自分の胸に手を当ててみた。

 鼓動は落ち着いている。

 だが、その奥で、熱い何かがくすぶっているのを感じる。


(そうか。これは――怒り、なのか)


 怒り。

 百回。千回。

 数え切れないほど繰り返し、また忘れてきた感情。


 窓の外から、遠く鞭の音が聞こえた。

 続いて、短い悲鳴。


 セツナは思わずそちらを振り向く。

 細い窓から見えるのは、城下の一角。

 そこでもまた、人間が鞭で打たれていた。


 その光景に、今度は霧がかからなかった。

 はっきりと見え、はっきりと胸を刺した。


「……セツナ?」


 フィオラが心配そうに覗き込む。


「大丈夫です。

 ただ――」


 セツナは目を細めた。


「この街は、あまり、長く居たくない。」


 その言葉は、まだ静かだった。

 しかし、その奥に潜む熱は、確かに増している。


 タイレルは、それが何を意味するのかを知らない。

 ラシェルも、フィオラも、まだ知らない。


 ――人間が受けてきた虐げと、蔑み。

 それらの真の意味を、セツナが理解したとき、この帝都フェルザリアの一角が、地図から消える未来を。


 ただ、今はまだ、誰も知らなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ