記憶の残滓
出発の日まで、あと一週間。
セツナは、力が溢れて来た日以来ずっと胸にひっかかっていたものを確かめようと、家の片隅に置かれた――赤い表紙の本に手を伸ばした。
表紙の題名はかすれて読めない。
だが、背表紙に刻まれた文字だけははっきりと残っていた。
《著者:エクセシアス・E・ウィルウォード》
その瞬間、セツナの胸に何かがざわついた。
(……この名前、知っている)
二度目の人生――まだ“記憶”と呼べるほどはっきりはしていないが、確かにこの名を“父”と呼んでいた記憶がある。
セツナが本に触れた瞬間、赤い表紙が淡く光った。
「――え?」
本はページをめくることもなく、光の粒子となり、セツナの胸へ、吸い込まれるように溶けていった。
同時に、膨大な情報が嵐のように脳内を駆け抜けた。
◆
父さんと呼ぶ人物が、笑っている。
学びとは、生きるための“武器”だと言っていた。
世界が変わっても、知ることを恐れるな。
その声と共に、幾つもの景色が走馬灯のようにセツナに流れ込む。
目を開けると、自宅の薄暗い天井が見えた。
隣には両親が座っている。
「セツナ、大丈夫かい?」
父の声に応えようと口を開くと――セツナの身体から、無数の“文字”が光となって噴き出した。
「な、なんだこれは……?」
光を認識しているのはセツナだけのようだった。
両親には光は見えていない。ただ、父が光を吸い込むように胸に手を当て、顔を上げたとき――。
その瞳の色が変わっていた。
父の瞳が、意志と活力を取り戻し、まるで失われていた“何か”を思い出したかのように輝き始めた。
「……セツナ。これは‥‥‥ 私は、ずっと……忘れていたのか?」
父は立ち上がり、倉庫に走り、農具の残骸を引っぱり出すと、まるで職人のような手際で新しい農具を作り出した。
「これで……土地が起きる。土地は生きているんだ……!」
父は獣人族の監視を恐れるそぶりもなく、耕し、土を掘り返し、石を取り除き、古代の農法を思わせる精確な動きで畑を作り始める。
母も村人たちも同じだった。何かの衝動に追い立てられるように。
セツナから放たれた“本のデータ”が、波紋のように村人たちへ広がり――次々と、人間種本来の知性と技術を目覚めさせていった。
父が農具を振るう背中を眺めていて、セツナはひとつ妙な違和感に気づいた。
(……父さん、こんなに背が高かったか?)
いや、両親だけではない。
母も、近所の老人も、いつも杖をついていた女性も――。
どこか、身体が “大きく” なっていた。
ただの栄養回復では説明できない変化だった。
骨格そのものが変わり始めている。瘦せこけた体だったのに筋肉が自然な厚みを持ち、皮膚の色つやも、まるで別種族のように健康的だ。
村の誰も、その変化に気づいていなかった。
だがセツナは、はっきり理解していた。
(あの本と僕の魔力だ……)
かつてこの土地に押しつけられた“何か”――人間の身体能力を限界まで抑えつける強制的な呪縛。それが、セツナを媒介にして剥がれ落ちているのだ。
見た目こそ、まだ獣人ほどの威圧感はない。
だが背丈は以前の30%は高くなっている。筋肉は無駄なく締まり、顔つきにも“種族としての誇り”が宿っているようだ。
“奪われていたものが、戻ったのだ。
セツナは自然にその考えに行きついた。そして小さく息を飲んだ。
(……俺に触れた事がきっかけなんだ。)
村の大人たちは、まだ自分たちの変化に気づいていない。
だがタイレルは――。
◆
一週間ぶりにタイレルがセツナを迎えに村へ戻った瞬間、目の前の光景に固まった。
整った畑、規則正しく区画された道、人々の活力――そして何より。
人間の体格が明らかに変わっていた。
タイレルは知らず、喉を鳴らした。
「……こんなはずは……。お前たち人間族は、もっと……」
弱かった、とは言わなかった。
だが驚愕に震える声が、その意味を物語っていた。
セツナが近づくと、タイレルの瞳がさらに大きく開かれる。
「……背丈が……俺たち獣人と、ほとんど変わらない……」
「気のせいじゃないですよ。たぶん、元に戻っただけです」
「元に……戻った?どうしてそう思う?」
タイレルは眉をひそめた。
「それは…… 言えません」
セツナはどう説明すればいいか、わからなかった。
人間種が力を抑制されている事が固定概念として、自分の記憶に染み付いているとしか思えなかった。
そしてそんな突拍子もない事を班長に理解させることができるのかどうかも。
しかし、タイレル自身も自分の体の変調を認めない訳にはいかなかった。
力が湧き出て来るのだ。
こんな田舎の辺境の地に左遷されたのも、かつて将軍だった頃とは明らかに力が弱まり
兵士たちに示しがつかないからと半ば直訴に近い形の左遷であったのだ。
(……あの子供に触れた瞬間、何かの封印が……?しかし俺にはフーコーのような寄生生物はいなかった)
フーコーの身体から飛び出した寄生生物。
タイレルが過去に目撃した同じ“異物”。
そして自分のレベルが異様に低く抑えられていたこと。
(すべては……あの“使徒”と呼ばれる存在と、つながっているのか?)
恐怖ではない。
だがタイレルは本能で悟った。
――この子は、危険だ。
――だが同時に、救いにもなり得る。
◆
「準備はいいか?」
「はい」
巨大馬車が砂を巻き上げ、村を離れる。
セツナは振り返った。
すると村の人々の視線が、一人、また一人とセツナに集まり――。セツナに深く頭を下げた。
誰一人、何が起きたのか理解していない。それでも。
(……俺は一体何者なんだ)
セツナは胸の奥が疼くのを感じた。
「セツナ、こっちの事は心配するな。俺も母さんも今までの俺たちじゃない。 お前が何かの封印を解いたのかどうかはわからんが、あの時沢山の知識が流れ込んできた。その時の知識は衝撃的だった。そして得た知識で俺たちはこの土地を開墾し、村、いや街を作ろうと思う。」
「すごい!父さん」
「セツナ、お前がどんな目に合おうと、どんな境遇になろうと、俺たちはお前の味方だ。」
「セツナ、愛してるわ。 元気でいるのよ!」
「うん 二人とも、行ってくるよ。そして僕たちの解放を必ず実現して見せるね」
◆
王都では何が待っているのか。
“使徒”とは何者なのか。
人間が奪われた“本来の力”とは何なのか。
答えは、すぐ近くまで迫っていた。
「タイレル班長。準備、できました」
「……ああ。行くぞ。王都フェルザリアだ。第二王子殿下に、お前の望み――人間族の解放について、判断を仰がねばならん」
馬車は巨大な四頭馬に繋がれていた。肩までの高さは三メートルはあろうか。筋肉の塊のような獣が荒野を軽々と駆け抜ける。
風景が流れる中、タイレルが語り始める。
「セツナ。今だから話そう。俺はかつてこの国の騎士団の最高位、グランドジェネラルだったんだ。」
「え……? ではどうしてここに?」
「ある日を境に弱くなっちまったんだ。何をしても力が出ない。ある時、訓練で、生きの良い新人に一本取られちまったんだ。それも部下たちの見てる前でだ。」
「それって……」
「ああ 使徒のせいなのか寄生生物のせいなのかはわからん。が いずれにしても無敵の大将がこんなに弱くちゃ示しがつかんだろ。そこで半ば直訴して、グランドジェネラルの称号を自ら譲ったよ。」
セツナは班長が少し小さく見えた。
「だが…… お前に吹っ飛ばされて、何故か力が湧き出てくるんだ。なあ セツナ、あとでもう一勝負やってくれんか?」
「はい! 喜んで!」
◆
「今から向かう王都の空気は……良くない。病が流行り、空は濁り、王は……変わってしまわれた。あの“使徒”と呼ばれる奇妙な存在が現れてからだ」
「……使徒」
「ああ。第二王子――セファルド殿下は、それを憂えている。王族の中で唯一、人間にも公平な方だ。そして……王都の役所で働く私の妻、ラシェルも病で倒れている。レベルを計測する魔装機を扱う部署にいてな……お前の力も、そこで測れるはずだ。何よりお前を妻に会わせたい。」
セツナは静かに頷いた。
胸の奥で、微かな記憶の残滓がざわついた。
だが今はただ、前へ進むしかない。
巨大馬車は砂漠を貫き、王都フェルザリアへと向かう。
砂の荒野の果てに巨大な雲がそびえ立つ。
世界の運命が、静かに動き始めていた。




