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永劫のセツナ  作者: ALOE
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バエト

早春の朝の冷たい空気の中

村にはどこか浮き立つ気配が残っていた。


満開になった桜は、今日も静かに花を散らしている。

薄紅色の花びらが風に乗り、苔むした屋根の上や石畳、

村人たちの肩にそっと降り積もっていた。


バエトはいつもより早く目を覚ました。

こめかみの奥に嫌な痛みが走った。


ぼんやりする頭で隣を見る。


そこにいるはずの小さな寝顔が、居ない。


「……ジュリ?」


寝床はもぬけの殻だった。

布団を触るとまだ少し暖かい。


まだ夜明けからそれほど経っていない。

外は白み始めたばかりだ。

妹がこんな時間から一人で出歩くことなど、今までなかった。


バエトは体を起こした。


「ジュリ?」


返事はない。


小屋の隅、戸口の近く、外に置いた桶のそば。

思いつく場所を見たが、どこにもいない。


胸の奥に、小さな棘のような不安が刺さる。


バエトは慌てて外へ飛び出した。


「ジュリ!」


冷たい空気が喉を刺す。

広場には、朝の支度を始めている者がちらほらいた。

桜を見上げている者、井戸へ向かう者、火を起こしている者。


「ジュリを見なかった!?」


近くにいた女に詰め寄る。


女は一瞬だけ目を伏せた。


「……見てないよ」


目が泳ぎ、声が妙に平坦だった。


「嘘だ、いつも朝はここに来るだろ!」


「落ち着きな、バエト」


別の男が言った。


だが、その声にも焦りはない。

まるで、子供の駄々を(なだ)めているようだった。


「落ち着いてられるかよ!」


バエトは叫んだ。


その声に、何人かが振り返る。

けれど皆、すぐに視線を逸らした。


不安が、確信に変わっていく。


何かを知っている。


皆、知っているのに黙っている。


「……どこ行ったんだよ」


バエトの声は、先ほどよりずっと低くなっていた。


誰も答えない。


その沈黙が、何よりも雄弁だった。


バエトの心に黒い影が落ちていった。



その頃、セツナは村の外れの荒地で、一人剣を振っていた。


獣人族のタイレルやジンに教わった型だ。


朝露に濡れた草が、足元で静かに揺れる。

草の上を這う小虫に露が落ちて藻掻いている。

剣を正眼に構え、目を閉じ集中する。


すると、朝露が静かに空中に浮きあがった。

楽になった小虫は再び歩き出した。


浮き上がった無数の朝露が朝日に照らされて

まるで宝石箱のように輝いていた。


頭の中では、昨夜の出来事が反芻(はんすう)されていた。


ヴァルクス・レグナス。

帝国の武人。

あれほどの力量を持ちながら、義を優先した。


(敵じゃない……けど、味方でもない。

タイレルやガルマンならどう見るだろう…)


ああいう人が帝国にいる。


それは少しだけ救いのようでもあり、同時に厄介でもあった。


空を見上げる。


巨大飛空戦艦の影は、もうない。

だが、帝国の視線まで消えたとは思えなかった。


剣を下ろした時、遠くから誰かの叫ぶ声が聞こえた。

浮き上がっていた露がザっと地面に落ちた。


「ジュリ!」


バエトの声だった。


セツナは眉をひそめた。


朝の稽古にはまだ早い時間なのに。


その声にはただならぬ響きがあった。


剣を鞘に収め、その声のする方へ向かう。



広場には、すでに小さな人だかりができていた。


その中心で、バエトが一人の男の胸ぐらを掴んでいる。


「知ってるんだろ! なんで誰も教えてくれない!」


男はされるがままだった。

抵抗もせず、ただ困ったように視線を逸らしている。


「バエト、やめなさい」


年配の女が口を挟む。


「やめるかよ! ジュリはどこだって聞いてるんだ!」


セツナが人垣を割って中へ入ると、バエトが振り向いた。


目が真っ赤だった。


「先生……」


その一言で、胸の奥に嫌な予感が走る。


「ジュリがいないんだ」


「……いつから?」


「朝起きたら、もう……」


バエトは唇を噛みしめる。


「皆、知ってるみたいなんだ。でも誰も言わない」


セツナは周囲を見回した。


(うつむ)く者。

視線を逸らす者。

あからさまに関わりたくないという顔をする者。


奇妙だった。


子供が一人消えたにしては、静かすぎる。


あまりにも静かだった。


「ルモルグ長老は?」


誰かに聞くと、答えたのはシロンだった。


「……小屋にいる」


その声も重かった。


セツナはバエトを見る。


「一緒に来る?」


バエトは強く頷いた。



ルモルグの小屋の扉は、半ば開いていた。


中に入ると、老人は椅子に腰かけたまま、深く目を閉じていた。

まるで、来ることを分かっていたかのように。


「長老!」


バエトが叫ぶ。


「ジュリはどこだ!」


ルモルグは、すぐには答えなかった。


ゆっくりと目を開き、二人を見る。


その目には、驚きも戸惑いもなかった。


ただ、古く重い諦めだけがあった。


「……バエト」


「どこなんだよ!」


「落ち着け」


「落ち着けるかよ!」


バエトは一歩踏み出した。

だが、その肩にセツナがそっと手を置く。


「長老。何があったんです?」


静かな声で問うた。


ルモルグはしばらく黙り込んだあと、やがてゆっくりと口を開いた。


「……迎えが来た」


その言葉の意味が、バエトにはすぐには分からなかった。


「迎え……?」


「帝国じゃ」


部屋の空気が止まる。


「この村の者は皆、帝国の帳簿(ちょうぼ)の中にある」


ルモルグの声は淡々としていた。


それが逆に、異様だった。


「家畜や荷と同じようにな」


セツナの目が細くなる。


「何を言っているんですか」


ルモルグは立ち上がった。


ゆっくりと背を向け、首の後ろから衣服をずらす。


そこには、焼き付けられた黒い紋があった。


茨の中で(いなな)く、黒いユニコーン。


セツナは息を止めた。


「これは……」


「帝国の所有物である印じゃ」


ルモルグは振り返らないまま言った。


「この村の者は、皆これを背負って生きておる」


バエトは呆然と立ち尽くした。


意味が、まだ頭に入ってこない。


だがセツナだけは分かっていた。


それがどれほど歪んだ意味を持つのか。


どれほど長く、この村の人間を縛ってきたのか。


「ジュリは……」


バエトの声は震えていた。


「どこへ行ったんだ」


ルモルグは目を閉じた。


「帝国に献上された」


その瞬間、バエトの顔から血の気が引いた。


「帝国の者が来た気配は無かったけど?」

セツナが口を開いた。


「それは…」

ルモルグは口をつぐんだ。


張りつめた沈黙——


その時、ドア越しに声が聞こえた。


「俺だよ


連れて行ったのは」


ドアが開かれ、立っていたのはシロンだった。


「どういう事?シロン!」

泣きそうな顔でバエトはシロンに詰め寄る。


「昨日、お前たちのミルクに薬を混ぜた。」

シロンはぼそりと言った。


バエトは昨日を思い返していた。

ヤギ小屋にミルクを取りに行くのがジュリの日課だった。

だがなぜか昨日はシロンが持ってきてくれたのだ。


ウォォォォ!!

バエトはシロンに飛び掛かった。

勢いでテーブルの上の食器が飛び散る。


馬乗りになったバエトはシロンの頬を両手で殴打した。


「バエト!!」

ルモルグの制止も聞かず、殴り続ける。


拳が、痛いはずなのに止まらなかった。


だがシロンは無抵抗だった。

そして、シロンは泣いていた。


「すまねえ…バエト…すまねえ…」

ただそう言うだけだった。


その時、ふと、バエトの手が止まった。


シロンが目を開けると、バエトの手を

セツナがつかんでいた。


セツナは何も言わず、バエトを見ている。

仮面越しの目は、深く澄みきった黒だった。

その視線だけでバエトは止まった。


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