反乱分子
王宮の廊下は、音がなかった。
キルヒードの姉、キリアンは弟を呼びに行った
衛兵がいつまでたっても戻ってこない事に
業を煮やし、自ら部屋を飛び出したのだ。
それに今日は何故か体の調子がいい。
いつもは忙しなく人が行きかう王宮が静まり返っている。
石床を打つキリアンの靴音だけが、やけに遠くまで届く。
壁に掛けられた古い旗が微かに揺れることもない。
風が入るべき場所に風がなく、
人がいるべき場所に人がいない。
――変だ。
キリアンは歩幅を速めた。胸の奥で焦りが鳴る。
弟を探している。
キルヒードを、王宮のどこかで見失ったまま、
時間だけが進んでいく。
キルヒードの部屋のドアを開ける。
「キルヒード!」
呼びかけても返事はない。
部屋に入り、見回すも、特に変わった様子はない。
それどころか、綺麗に整頓されている。
ベッドもメイドが仕立てたままの状態だ。
「初めから居なかった・・・?」
近衛の詰所の前を通り過ぎる。
いつもなら衛兵が一人二人は立ち、
形式ばった敬礼でもしてくるはずなのに、
今日に限っては空だった。
扉の隙間から、火の消えた灯明台が見える。
「……誰かいないの?」
キリアンが扉を押す。軋む音がして、中は暗い。
誰もいない。
机の上には開いたままの記録簿。羽ペンが転がっている。
杯に残った水の水面は静まり返っていた。
まるで――
まるで、人が一斉に息を止めたかのようだった。
キリアンは背筋に冷たいものを感じて廊下へ戻り、
さらに奥へ進んだ。
王宮の中枢へ近づくほど、気配が薄くなる。
いつもなら官吏たちが走り回り、伝令が怒鳴り、
靴音と声が交差している場所なのに、
今はそのすべてが削り取られている。
弟の名を呼ぶ声が、いつしか小さくなっていた。
呼べば呼ぶほど、ここでは自分の声が異物のように響く。
角を曲がった先で、キリアンは立ち止まった。
足元に、何かがある。
――人だ。
衛兵の死体が、廊下の中央に転がっていた。
腹を押さえたまま、痙攣の途中で止まったような姿勢。
血が乾き始め、石床に黒い染みを作っている。
キリアンの喉が詰まった。
この男は……自分がキルヒードを探しに行かせた衛兵だ。
命令を忠実に受けて、弟の行方を追っていたはずの。
「……」
王宮の中で誰かが剣を抜いたということだ。
しかも――これほど人目につく場所で。
キリアンは死体のそばに膝をつき、衛兵の目を閉じようとして
指を止めた。
彼の手の甲に、わずかな刺し傷がある。戦って負けたのではない。
抵抗する暇もない、背後からの一撃か、すれ違いざまの刺突。
「誰が……」
問いは宙に溶けた。
そしてキリアンは気づく。
――王宮から、人が消えているのではない。
人が「退いた」のだ。
誰かの意思で。誰かの命令で。まるで王宮そのものが、
空洞にされるのを待っていたように。
弟の名をもう一度呼ぼうとして、キリアンは声を飲み込んだ。
今この王宮で、声を出すことは、自分の居場所を知らせることになる。
彼女はゆっくりと立ち上がり、
廊下の壁に掛けてある剣を音を立てないようそっと掴んだ。
そして、靴を脱ぎ捨て、下着だけの姿になり
体の色を周りの景色と同化させていった。
◆
西門の空は、灰色だった。
クリシュは城壁の上で、遠眼鏡を握ったまま動けずにいた。
冬の風が頬を刺す。だが寒さより、胸の内の違和感の方が痛い。
「ジャヒード王は多数の民を見殺しにしている」
デモニウスはそう言って、クーデター計画を皆に打ち明けた。
あれから半年、計画は水面下で進められた。
そしてついに、その計画が実行される。
「この国は腐敗している。
一部の権力者がその利権を守ろうとする力学は
もはや修正できない。
一度壊すしかないのだ。
そして改めて民意を問うのだと。」
ムフティール将軍は声高らかに宣言した。
戦、飢え、無職、無秩序。
道端には孤児が徘徊し、盗賊、殺人、強姦…
こんな事が毎日どこかで起こっている。
自分の父親も権力者だ。
だが、このクーデター計画に裏で多額の寄付をしているのだ。
親に刃を向けずに済んだ。
最初はそう思った。
しかし、これでは本末転倒ではないか?
ンディマ家の抹殺……
大義の為には仕方ないと思っていた。
「キルヒード……」
あの時の怯えた目をしたキルヒードが
頭から離れなかった。
◆
ジャヒードの部屋に、ギモンが通されたのは昼前だった。
息を切らしている。汗をかいている。報告のために走ってきたのが分かる。
「陛下、敵の動向について――」
「まず落ち着け」
ジャヒードは静かに言った。王としての声だ。だがその声にも、どこか疲労が混じっている。
ギモンは膝をつき、報告を続けた。
「西門方面、ムフティール軍の先遣が確認されました。数、規模、詳細は――現在精査中。しかし、こちらの防御陣形は整いつつあります」
「よくやった」
ジャヒードが頷く。その仕草が、いつもの威厳を装っているように見えた。
ギモンは口を開きかけて、躊躇した。
「……陛下」
「言え」
「王宮内が、静かすぎます」
その瞬間、部屋の空気が薄くなったように感じた。
ジャヒードの目がわずかに細まる。
「静か?」
「はい。本来いるべき官吏、伝令、衛兵……ほとんど見当たりません。詰所が空で、廊下も――」
ギモンは言葉を飲み込んだ。今言うべきか迷う。だが隠していいことではない。
「……血の跡もありました」
ジャヒードの顔から、ほんの一瞬、色が抜けた。
だが王はすぐに平静を装い、短く命じた。
「デモニウスを呼べ」
「……既に伝令を出しました。しかし返答がありません」
その返答のなさが、王の部屋に見えない穴を開けた。
ジャヒードは椅子の肘掛けに指を置き、静かに息を吐いた。
「……ギモン。お前は西門へ戻れ。そこで、軍の動きだけを見てこい。王宮内のことは――」
言葉が止まる。
王宮内のことは、誰が見るのか。
ジャヒードの目が一瞬、宙を泳いだ。
ギモンはその迷いを見た。王が迷う姿は、兵にとって最悪の兆候だ。
「陛下、私は――」
「戻れ」
命令は強かった。だが、その強さの裏にある焦りも、ギモンは感じ取ってしまった。
ギモンは頭を下げ、部屋を出た。
扉が閉まったあと、ジャヒードの部屋はまた静かになった。
静けさが、今度は重かった。
◆
南の獣人族との国境付近で、歩兵隊長シシルは泥を踏みしめていた。
「敵影なし。痕跡もなし。見張り塔も静かだ」
斥候の報告は簡潔だった。
暫くすると、獣人族側から、旗を掲げた兵士が3騎かけて来る。
ある程度の距離を保ち、立ち止まり、大きな声が聞こえた。
「我の名前はシュキ族のレイ・ビハインド。
これより先は獣人族領である。この先に進むならば、
相応の対応をせねばならん。むやみに血を流す事は
あるまい。早々にお引き取り願いたい。」
「シシル様、如何いたしますか。」
シシルはしばらく考えたのち
「ドゥーケ、スパルツ、ついてこい」
シシルは相手と同じ3騎でレイの方へ駆けだした。
レイとの距離10mほどの場所にシシルは馬を止めた。
「我が名は
リザード領タンゲット族シシル・タンゲット大将である。
獣人族のレイ殿、わざわざの出迎え恐れ入る。
我らはこの近くのリザード領の村が襲われていると聞き、
派兵された。何かご存じか?」
「お初にお目にかかるシシル殿、質問の答えだが
はて、この辺りに村など聞いたことはありません。
人の去った集落なら至る所にありますが。
それに、遠くに煙も見えず、
この数日平和なものでしたが。」
「シシル様、あの者の言う事は嘘かもしれません」
スパルツは囁いた。
その時、レイの耳が少し動く。
「あのレイという武人、礼節を欠いたようには
思えません。ここは一旦退くのがよろしいかと。」
ドゥーケが進言した。
シシルはしばらく考えた後
「レイ殿、貴殿の言う通り、
我らも何も確認できない。
ここは退く所存。無礼を許されよ。」
レイは頷いた。
シシルたちは踵を返そうとした瞬間
自軍からざわめきが起こった。
「反乱だ―!」
部隊から土煙が上がっている。
その時
「シシル殿!!」
レイが叫んだ。
シシルが振り返ると、ドゥーケはスパルツに
後ろから心臓を刺されていた。
立て続けに、スパルツはシシルに襲い掛かる。
その時、シシルの肩に矢が刺さる、
続けて2の矢3の矢は剣で
振り落としたが、スパルツの刃がシシルの首に
到達しようとした
瞬間、スパルツはどさりと地面に倒れた。
シシルが見ると
レイの放ったククリナイフがスパルツの
こめかみに命中していた。
「レイ殿…この借りはいずれ…!!」
シシルは単騎、自軍へ駆けだした。
◆
西門の前で、槍の森が揺れた。
ムフティール軍が見える。
遠くの地平線から、黒い帯のように迫ってくる。
太鼓の音が空気を震わせる。
ンディマ軍一万二千。防御陣形。盾列。
弓列。槍列。規律は保たれている
――表面上は。
クリシュは城壁の上で、息を止めていた。
サイラスの声が飛ぶ。
「構えろ。第一列、盾を固定。
槍の角度を下げろ。弓兵、合図を待て!」
兵が動く。命令が伝わる。陣形が硬くなる。
――大丈夫だ。
そう思いかけた瞬間だった。
防御陣形の内側で、何かが閃いた。
刃が、光った。
次の瞬間、前列の兵がひとり、
二人、三人と、崩れた。
腹を押さえ、膝をつき、盾を落とす。
血が盾の縁から溢れる。
何が起きたのか理解する暇もなく、
次の兵が崩れる。
クリシュの喉が凍った。
「……なに?」
敵の矢ではない。
ムフティール軍はまだ届いていない。
では――誰が刺した?
視線を落とすと、後列にいたはずの兵が前へ滑り込み、
同じ軍服の仲間の腹を刺している。
迷いがない。躊躇がない。
まるで、その瞬間を待っていたかのように。
「内通……!」
誰かが叫ぶ。だが叫びは遅い。
盾列が崩れる。槍の森が折れる。
弓兵の視界が乱れる。命令系統が詰まり、
怒号が重なり、誰の声が誰の命令か
分からなくなる。
サイラスが剣を抜いた。
「止めろ! 裏切り者を斬れ!
陣形を立て直せ!」
彼の声は鋭い。正しい。速い。
だが、秩序は一度割れると戻らない。
ムフティール軍の突撃が始まる。
黒い波が、崩れた盾列に向かって突っ込んでくる。
太鼓が近づく。地面が揺れる。
クリシュの手が震えた。
――これは戦争ではない。
しかしクリシュの迷いは消えつつあった。
◆
「クリシュ!」
サイラスの声が背後から届く。
クリシュは答えられなかった。眼下で、
同じ旗の兵が同じ旗の兵を殺している。
敵が来る前に、味方が崩れていく。
信じてきた秩序が、紙のように裂けていく。
サイラスは城壁の縁に立ち、
戦場を睨みながら叫び続ける。
「前列を捨てるな! 退くな! 立て直せる!」
彼は信じている。
秩序を。
国を。
命令を。
自分たちの剣を。
クリシュはその横顔を見て、胸の奥が痛くなった。
――あなたは、どうして迷わないの。
迷いがないことが、今は怖い。
その迷いのなさが、妄信を呼び、利用される。
キルヒードの顔が浮かぶ。
洞窟に消えた婚約者。
行方不明の王子。
英雄になれない人。
あの人は、迷う。弱い。逃げる。否定する。
それでも――
いまこの瞬間、正しさを信じて叫び続ける
サイラスより、迷って消えたキルヒードの方が、
少しだけ「人間」に見えた。
クリシュは自分の手を見た。
剣の柄に指がかかっている。
抜けば、戦える。守れる。殺せる。
だが、誰を守る?
国か。
王か。
秩序か。
それとも――自分の心か。
「クリシュ、剣を!」
サイラスが叫ぶ。
クリシュは、剣に手をかけたまま、抜けなかった。
抜いた瞬間、何かが決まってしまう。
決まってしまったら、もう戻れない。
風が吹いた。
城壁の旗が、遅れて揺れた。
眼下では、最初の盾列が完全に崩れ、
黒い波がそこへ雪崩れ込んでいた。
クリシュは一歩、後ろへ下がった。
それは退却ではない。
逃走でもない。
――ただ、今はまだ、選べない。
そのことを認めた瞬間、胸の奥で何かが崩れた。




