地平線
あれから十年の月日が経過した―――
訓練場の端で、イトはいつものように柱にもたれかかっていた。
だが、目だけは、真剣だった。
セツナは水の玉を指先に作っていた。
空気中に浮くそれは周りの水分をどんどん吸収し、家一軒分ほどの大きさになった。
10年前はここで暴発したが――
今度はその玉を圧縮し、どんどん小さくしていく。
そしてついにその玉はオレンジの種ほどに凝縮された。
その深い藍色の小さな玉は沢山の気泡を内包し、まるで夜空を凝縮したように美しかった。
ふいにその玉は上昇し始める。
セツナはそれを見上げながら、ある時パチンと指を鳴らした。
イトは何故か持っている傘をさす。
程なく、スコールの様な雨が降り注いだ。
「……いいだろう」
短く、そう言った。
「圧縮の解放タイミングを早くすると大爆発を起こす。タイミングを遅くすることで雨を降らせた。」
セツナはニヤリとして頷いた。
「お前は魔力を完全にコントロール下に置いている。
暴発もしないし、無意識に周囲を壊すこともない」
セツナは黙って聞く。
「正直に言う。
ここまで来たら、俺が教えることはもうない。よくぞその力を制御したな。」
少し間を置いて、イトは続けた。
「……それが、悔しいとか、寂しいとか思えるようになったのは、
我ながら成長だな」
照れ隠しのように、イトは視線を逸らした。
「行け。
ただし――」
「?」
「事象には前後がある。物事の流れを見極め、力の使いどころを見極めよ。むやみに干渉せぬことだ。」
それは助言であり、別れの言葉だった。
数日後
会議室の円卓には王を含め、全員が同じ距離で向き合う。
セファルドを中心に、
タイレル、ガルマン、ラシェル、ジン、レイチェル、ダイネ、そしてイトが居た。
かつて「昼行燈」と呼ばれていた法務官は、今や王都の魔術師達を束ね、セファルドの幹部の一角を担う人物になっていた。
「議題は一つだ」
セファルドが言った。
「セツナを、この国から送り出すか」
沈黙は短かった。
タイレルが頷く。
「ふふ 愚問です。」
ガルマンも続く。
「我々が育てたと言ったらおこがましいが、神が完成したと言っても過言ではないだろう。10年かかったがな。」
ラシェルは穏やかに微笑んだ。
「帰る場所があると分かっていれば、人は遠くへ行けるわ」
「だがアイツは女を知らねえ」
胸元のはだけたシャツに数本のネックレスをつけたダイネが乾燥肉をクチャクチャ嚙みながらニヤリと犬歯を見せた。
「ダイネ! 殿下の前よ! まったく… だけど、セツナ殿に関しては私も異論はありません。」
レイチェルがセファルドを見て言った。
「1000人組手も何度もこなした。最初は自分をコントロールできずにいたが、今は気配の消し方、感情のコントロール、全て息を吸うようにこなす。
もはやあの力を自由自在に操れる。暴走し、街を破壊する事も無いだろう。」
ジンは腕組みをしながら低い声で言った。
「それに、俺たちも含め兵士たちもセツナと修行するようになって、かなりの力をつけたのは紛れもない事実だ。」
珍しくダイネが真顔で口をはさむ。
最後に、イトが肩をすくめた。
「反対する理由がない。……あいつは、俺たちよりよほど大人だ」
「たしかに……」
ダイネが言うと同時に数人が頷いた。
全員一致だった。
セファルドは一度だけ、深く頷いた。
「では決定とする」
それで終わりだった。
◆
セツナは、王の執務室の扉の前に居た。
「セツナです」
「入れ」
セファルドの声は、以前と変わらない。
だが、その背にまとった空気は、確かに王のものだった。
「旅に出たいそうだな」
「はい」
即答だった。
セファルドは、しばらく何も言わず、書類から視線を上げた。
「止める理由はない。
……ただし、一つだけ聞いておきたい」
セツナは黙って待つ。
「また帰って来るか?」
「僕は……この国で生まれました。だから僕の故郷はここです。許されるならば。」
セファルドは小さく息を吐き、わずかに笑った。
「わかった。
この国は、お前に救われた。お世辞ではない。 セツナ
世界を見てこい。 そしてこの混沌とした世界に青空を見せてやってくれ。」
それだけで十分だった。
「ただ、人間族の扱いは未だ奴隷であろう、それを力で御すか、対話をするか、見過ごすのか。それはお前が目で見、心で感じ、決めるのだ。」
「はい」
「待っているぞ、またいつか旅の話を聞かせてくれ。」
「僕はこの10年、幸せでした。 お世話になりました。」
◆
かつて第二王都と呼ばれていたフェルザリアは、今や名実ともに王都となっていた。
街路は広く、夜には魔力結晶の灯りが等間隔にともる。
人間の覚醒は王都に技術の革新ももたらした。
速い速度でインフラが整備されていった。
それにより他国からの来訪者も押し寄せた。
今や行き交うのは人間族や獣人族だけではない。
遠方から来た見慣れぬ種族、混血もいる。
他国からやってくる旅人たちの殆どは、人間族が獣人族と同じように社会を営んでいる事に驚き、その事を吹聴して回った。
ある獣人族の商人が他国の商人に言う。
「この国で人間は奴隷から一般市民に成り上がったが、 人間を奴隷として使うより今の方が何倍も利益を生んでくれる。」
商隊の往来は激しく、港と街を結ぶ輸送路は常に忙しそうだった。
かつて貧しかったこの国は、今では交易国家と呼ばれている。
開かれた国家は多くの世界情勢の情報も入って来る。
フェルザリアは閉鎖的な国が多いこの世界にいち早く文明を進化させた。
かつて奴隷だった人間族によって。
セファルドは、五年前に正式に国王に即位した。
兄の死後、空席だった王座は長く空白のままだったが、ようやく国が一つの形を得たのだ。
旧レオンファルトの居城があったレフェルザリアは、今だ廃墟のままだ。
だが、ゾンビや魔物が未だに湧き出し、冒険者たちの腕試しの場となっている。
取り壊すにも改築するにも金と人がかかる。
国はそれを理解した上で、優先順位から外した。
その一方で、レフェルザリアを観光地化してはどうかという意見もあり、いずれはそうなるのかもしれない。それを初めて提案したのはイトであった。
◆
セツナは、王都の外れで立ち止まり、空を見上げた。
その気になれば、国境を越え、山を越え、数日分の距離を一息で移動できる。
だが、視線を地面に戻す。
上から見る世界は、もう知っている。
だから、歩く。
地面を踏みしめ、同じ道を、同じ速度で進む。
商人と、労働者と、旅人と。
そうでなければ、見えないものがある。
◆
人間族の解放は、使命だと、セツナは感じている。
獣人族の支配圏において、人間はすでに奴隷ではない。
だが、それはこの国に限った話だ。
他の土地では、事情が違う。
労働力として囲われる場所もあれば、危険種として隔離される地域もある。
宗教の名の下に管理される国もあると聞く。
また、食料として家畜にされている国もあるという。
それぞれに、理由がある。
恐怖も、合理も、歴史も。誰かの都合に合わせて歪曲している。
しかし、だからこそ、セツナは焦らない。
力で壊せば、恐怖や憎しみを生む。
憎しみが増えれば、形を変えて、また同じことが繰り返される。
変わるべきなのは、人ではなく、理だ。
◆
旅の目的は、まだはっきりとは分からない。
ただ、断片的な記憶がある。
北へ と。
冷たい空気。
白い息。
遠くに見えた、凍りついた景色。
エントリ――
その名を口にすると、胸の奥がわずかにざわつく。なつかしくほろ苦い。
フェルザリアでは、ほとんど情報は得られなかった。
だが、寒い地域であることだけは、確かだと感じている。
理由は分からない。
それでも、歩けばいずれ辿り着く。
まだ夜も明けきらないうちにセツナは王都の門をくぐった。
10年前破壊してしまった門の上のやぐらに門番が居る。
「セツナ!」
「あ! イイズさん!」
イイズはずっと門番だった。セツナが初めてこの門をくぐった日も。
「出発かい? 見送りは? ひとりかい?」
「はい、挨拶はもう済ませたんで」
「そうか、寂しくなるな。 色々あったが……達者でな!」
そう言ってイイズは何かを投げてよこした。
セツナはハンドキャッチする。
「リンゴだ!ありがとう!」
「餞別だ!」
空と地面の境目がわずかに白み始めた。
セツナはリンゴをかじる。
(すっぱい!)
その味はいつもフェルザリアで食べるリンゴの味だった。
泣きそうな心に砂漠の風が吹き抜けた。




