レフェルザリア
レフェルザリアの城壁は、まるで巨大な獣に噛み砕かれたかのように崩れていた。
街の随所から蔦が伸び、赤い花が咲き乱れていた。
茎は建物を締め上げ、脈打つ巨大な根が王宮に向かって蜘蛛の巣のように張り巡らされている。
レイチェル率いる騎馬隊と、遊撃隊長ジンの一千騎。
その中央で馬に揺られながら、セツナは荒れ果てた街並みを黙って見つめていた。
石畳には血が乾き、壁には爪痕。
風が吹くたび、花びらが舞い、道は赤い絨毯の様だ。絨毯の下には何人もの人影が見える。
先行していたジン直属の斥候部隊「カラス」の副長ヴォリスが、青ざめた顔でジンの前に膝をついた。
「町の様子は?」
ジンの深い皺の向こうにある瞳が、冷たくヴォリスを見据える。
「町は……もう終わってます。
獣人も、人間も、皆……見境なく襲ってくる化け物に成り果てました。
噛みつき、血をすすり……。あれはもう、人ではありません」
声が震えていた。
「さらに……人の口から、ウナギのような生物が何度も……」
ヴォリスは言いながら、震える手を押さえつけた。
「王宮入り口には巨大な蔦が絡みつき、内側から脈打つ根が所々突き破っており……とても近づける状態ではありません」
レイチェルは短く息を吸い、部隊を見渡した。
「目的はただひとつ。レオンファルト陛下とご家族の救出だ。
戦闘ではなく保護が最優先だ。いいな」
そして、そっとセツナに視線を向ける。
「セツナ殿……癒しの力、できそうか?」
セツナは、わずかに首を横に振った。
胸がざわつき、何かが“止まっている”感覚だけがあった。
「……そうか。無理を言ったな」
その瞬間だった。
ヴォリスの体が、ぶるりと震えた。
「……っ、あ……あああああッ!」
汗が噴き出し、目を剥き、胸を掻きむしる。
喉元がぐぐ、と膨れ上がり――
ドチャッ
口から、ぬらりと黒いウナギのような生物が飛び出した。
次の瞬間。
シュッ――!
ジンのクナイが、迷いなくその生物を両断した。
斬られた生物が痙攣し、黒い液体を撒き散らして地面に沈む。
ヴォリスは瀕死の状態でジンの足元に縋りついた。
そしてジンを見上げながら
「お…おかしら……やってくれ……自分が自分でいられるうちに……
俺ぁ…………あんたの下で……幸せだった。」
涙を浮かべ、笑っていた。
ジンは表情ひとつ変えず、静かに頷いた。
――シュパン!
ひと振り。
苦痛も、後悔も、恐怖も、すべて断ち切る一閃だった。
*****
倒れたヴォリスの首を見て、セツナの心臓がひとつ、強く脈を打った。
――まただ。
奴隷たちの首が刎ねられていく光景が、鮮明に蘇る。
握りしめた拳が震え、呼吸が乱れ、視界が歪む。
(頭が痛い)
「大丈夫だ、セツナ殿」
レイチェルがそっと肩に触れた。
その声は、鎧の硬さとは似つかわしくないほど柔らかかった。
「ジン殿は……一見ああだが……
彼の隊には、過去に罪を犯した者や、行き場をなくした者が多い。
それを拾って、生きる場所を作ったのがジン殿だ。
だからこそ……彼らは命を預けられるのだ」
セツナは何も言えず、ただレイチェルの言葉を胸に落とし込んだ。
◆
突然、路地の影から、人影がふらりと集まり始めた。
獣人も、人間も、老いも若きも、皆、濁った目でこちらを見ている。
「うわああ…」
一人が悲鳴を上げた瞬間、堰を切ったように襲いかかってきた。
「下がれ!! 構えるな、まずは押し返せ!」
レイチェルの指示で兵たちは刃を立てずに応戦したが――
「きゃあぁッ!」
ガブリッ。
噛みつかれた若い兵の首筋から血が噴き、そしてその兵は、数十秒後には同じ濁った瞳をして仲間に襲いかかった。
「くそっ……止まらない!しかし一般人……」
ゾンビのように増え続ける住民。
そこには昨日、門前で荷車を直していた獣人の青年の顔があった。
仲間がひとり噛まれる度に、地獄は加速していく。
レイチェルは静かに剣を抜いた。
「……切り捨てよ」
その言葉は、王国第二軍の幕僚としてではなく、
“この悲劇を延ばさないための最後の慈悲”として発せられたのだ。
そして、地獄の幕が上がった。
悲鳴。嗚咽。怒号。
守るべき市民たちが切り裂かれ、倒れ、赤い花弁がその上に散っていく。
――なんで。
セツナの胸の底で、何かがぷつりと切れた。
心にたまっていた泥の水たまりに、一滴の深い悲しみが落ちた。
それは静かな音も立てず、ただ境界線を越えた。
トクン…
セツナの体から、灰色の靄があふれ出し始めた。
「な、なんだ……これっ……!」
靄は兵士たちの身体に絡みつき、胸に吸い込まれるように集まり――
心臓を掴んだ。
「ぐっ……が……ッ!」
「心臓が、にぎり……潰され……!」
倒れる兵士たち。
レイチェルもまた苦悶の表情だが、それでもセツナを後ろから抱きしめた。
「セツナ殿……! 大丈夫……大丈夫……!」
「やめて、僕、こんな……こんなこと……したくない……!」
◆
――静かに、黒い世界が割れた。
仄暗い闇の中で、風が吹いた。
白い光の粒が舞い、その中心に少女が立っていた。
「セツナ」
(君は…エントリ)
淡い髪が風に揺れ、彼女はそっとセツナの胸に触れた。
「今は“奪う力”じゃない。
今必要なのは……“与える力”だよ」
温かいものが胸に満ちていく。
黒い靄が溶け、代わりに緑の光が染み出し始める。
「戻っておいで。
これから始まる」
意識が遠のき、色のない世界に一筋の光が差した。
どこの景色だろうか。美しい森の向こうに湖が見える。色とりどりの鳥が飛んでいる。その鳥達と一緒飛んでいく。どこまでも続く雲の上を。光り輝く方向に。
そして世界が光に包まれる。
◆
セツナが目を開けると、
自分の体から溢れた緑のオーラが、ゆっくりと街へ広がり始めていた。
(あれ…心が苦しくない…黒い靄が消えてる)
それは王宮を覆いながら、どんどん広がってゆく。
流れ出す、癒しと再生の気配。
空気が微かに震え、赤い花弁がその光に焼かれるようにしおれていく。
レイチェルは胸を押さえながら、それを見上げた。
「……これが……セツナ殿……あなたの……力……ありがとう」
そう呟いた彼女の頬には、涙が伝っていた。
その光は、破滅した王都にわずかな希望を灯していた。




