牢獄塔
その日、帝都フェルザリアは、朝から「いつもと違う」空で始まった。
厚く垂れ込めていた灰色の雲が、ところどころ裂けている。
裂け目の向こうに――淡い、青。
何百年も“伝承の中にしか存在しなかった”色が、城下のあちこちから見上げられていた。
「な……空が……」
「絵巻物でしか見たことねえぞ……」
市場の獣人商人が、荷を運んでいた奴隷人間と一緒になって、ぽかんと天を仰ぐ。
奴隷の男は、いつもなら叱責と蹴りを覚悟して俯いているはずだった。
だが今は、叱る声も、蹴りも飛んでこない。
商人の耳も、震えていたからだ。
――昨夜の“光”を、誰もが見ている。
王宮の上空から溢れ、フェルザリア全体を包み込んだ緑の波。
それに触れた者は、全身を駆け巡る温かさに膝から崩れ落ち、同時に、心の中の何かが“ほどけた”。
重りのようにまとわりついていた疲労が消えた。
鉛のように重かった四肢に、力が戻った。
霧がかっていた思考が、急に澄み渡った。
――そして今、帝都中で、その余波が目に見える形になりつつあった。
やせ細り、鞭の跡だらけの身体。
自分で考える事は許されず、
死んだ魚のような目。呼ばれれば反射的に動くだけの生きた道具。
そう呼ぶしかなかった“奴隷人間”たちが――
「おい、立って荷を運べ。ぼさっと――」
怒鳴りかけた獣人の男は、言葉を途中で止めた。
目の前で、縄を握っていた人間が、こちらを見返していた。
怯えた小動物の目ではない。
底の暗い怒りと、戸惑いと、何かを問う視線。
「……今の労働の対価は、明らかに不当だ」
聞き慣れない言葉が、奴隷の口からこぼれた。
「は?」
「日当一枚の銅貨では、パンと水を買うだけで消える。くれない日もある。
家族も養えない。住居もない。
これがあんただったらどうなんだ?」
言いながら、男は自分の手のひらをゆっくり開いて見せた。
その掌には、縄や鎖で擦り切れた跡が何本も刻まれている。
だが今、その手には、皮が張り、筋肉が浮き始めていた。
周囲の獣人たちがざわめく。
「な、なんだ……あの体つき……」
「昨日まではもっとガリガリだっただろ?」
奴隷たちの体は、一晩で変貌していた。
背丈は、獣人より少し低い程度まで伸び、筋肉が浮かび上がり、骨の輪郭が見えていた痩せ細った顔にも、皮膚の血色が戻っている。
何よりも変わったのは――その目だった。
光を宿し、自分の置かれた状況を「理解している」目。
「契約書を見せろ」
別の奴隷人間が、堂々と手を伸ばす。
「お前、契約書なんて読めるのか?」
「読める」
昨日まで字すら知らなかったはずの口が、当然のようにそう言う。
頭の中で、無数の文字列が浮かび上がり、それが意味を伴って並び始めていた。
――これは、銅貨一枚の契約だ。
――これは、契約期間が無期限になっている。
――これは、奴隷所有権の譲渡条項。
「これ、まったく契約が履行されてないよな?」
「な・・・」
商人は開いた口がふさがらないといった表情を浮かべている。
知らなかったはずのものが、「知っているもの」として理解される。
それは、王都のあちこちで同時多発的に起きていた。
賃金の見直しを求める声。
暴力を振るう役人の手首を掴み返す手。
路地裏でうずくまっていた“役目を失った奴隷”が、ふらつきながら立ち上がり、「食べ物を寄越せ」とはっきりした声で言う。
最初は小さな軋みだったそれが、やがて帝都全体を揺らすうねりに変わっていく。
「人間が……言い返している……?」
「おい、衛兵を呼べ! 暴動になるぞ!」
獣人たちの声には、怒りよりも“恐れ”が混じっていた。
しかし、暴力に出た戦いを知らない人間たちはことごとく兵士や衛兵に捕縛された。
王宮の巨大な高窓から、その光景を見下ろしている者たちがいた。
第二王子セファルド。
将軍タイレル。
妻ラシェル。
妹姫フィオラ。
そして数名の重臣たち。
「……想像以上だな」
セファルドは、乾いた声で言った。
城下には、いつもと違う“ざわめき”が満ちている。
怒号。
笑い声。
泣き声。
祈りの声。
すべてが混じり合い、空へ立ち上っていく。
その上を、裂けた雲の隙間から覗く青空が、淡く覆っていた。
「殿下、奴隷人間たちが各所で“権利”を訴え始めています。
市民との間で小競り合いも……」
「知っている」
報告に来た文官に、セファルドは短く答えた。
昨夜の“緑の光”――あれがセツナの力であることは、もはや疑いようもない。
「タイレル、つくづく大変なものを持ち帰ったな……」
セファルドは腕を組み、人差し指を額に当てながらそう言った。
タイレルは何も言えず、後頭部を掻いている。
兵士たちの傷が癒え、死にかけていた者たちが息を吹き返し、
奴隷人間たちの体と心が変化した。
その代償として、王都の「秩序」は根本から揺らいでいる。
「……そして、青い空か。
なんだ…何が始まろうとしているのだ」
セファルドは、空に目を細めた。
記録の中でしか知らなかった色。
いつからか永遠に閉ざされたと思っていた天。
それが今、再び顔を出している。
「タイレル」
「はっ」
「昨日の中庭で起きたこと――特に“あの光”について、後ほど詳しく報告を聞かせてもらう。
……だが、その前にやるべきことがある」
セファルドの声音が、軍議の時のものに変わる。
「臨時査問委員会を開く。
使徒事件に関わった者たち全員の処遇を、早急に決めねばならん」
タイレルは唇を引き結び、静かに頭を垂れた。
その横で、ラシェルもまた、夫の横顔を見上げながら、目だけで問いかける。
――ガルマンは。
――セツナは。
タイレルは、短く一度だけまぶたを伏せた。
夜。
王城の一室、高い天井の小窓から霞に隠れたぼんやりとした
月の光が射している。灯りは少なく、空気は硬かった。
臨時査問委員会。
上座にセファルド、王族の代理として数名の貴族。
軍からはタイレルを含む将軍数名。
法務官僚、文官たち。
そして宗教施設から派遣された“審問官”。
分厚い石造りの長机を囲む全員の顔に、疲労と緊張が刻まれている。
中には頭に包帯を巻いた者もいた。
セツナの癒しのオーラを浴びたとはいえ、治ってないという事はかなりの重傷だったのだろう。
机には水の入ったコップと、資料が人数分置いてある。
「皆、お疲れのところ集まってもらい感謝する。ではイト法務官続きを。」
セファルドのその言葉に全員が軽く頭を下げる。
「手元の資料を。まずは本件に関わった主要人物について、順に扱う」
イト法務官が紙束を繰りながら読み上げた。
「髑髏使徒の器となっていたガルマン=トゥルバ元将軍。
その配下であり、使徒召喚に協力したと目される兵士三名。
そして――」
一拍置かれる。
「人間の子供、セツナ」
部屋の温度が一瞬下がったような気がした。
「ガルマンは、現在魔術的暴走およびそれに伴う傷害、器物破壊の責任が問われている。
だが同時に“重要参考人”でもある。
あの骸骨の化け物――“使徒”について、知り得ることをすべて吐かせねばならん」
「セツナの方は?」
静かな声で尋ねたのは、タイレルだった。
法務官は、短く咳払いする。
「現段階では、“極めて危険な未知の力を持つ存在”として扱う。
髑髏使徒が狙った対象であり、またあの規模の暴発も起こしている。
王都から離れた牢獄塔――最下層第八十七階に拘束し、魔封じの鎖と拘束衣で完全に隔離。沙汰が出るまで、外部との接触を禁じる」
「……罪状は?」
「今のところ、“保護拘禁”だ。
ただし、今後の調査結果次第では、“帝都転覆の危険因子”として正式に裁かれる可能性もある」
タイレルの拳が、膝の上で静かに握られる。
気配でそれを感じ取ったラシェルが、机の下でそっと夫の手に触れた。
――今、ここで声を荒げても、何も変わらない。
そう言っているようだった。
セファルドは、しばらく沈黙していたが、やがて口を開いた。
「……よかろう。
だが、セツナへの聴取には、私も立ち会う。
彼の扱いを間違えると危険だ、今回の様な事があってはならぬ。私が直に真実を知る
必要があるのだ。」
「殿下、しかし――」
「異議があるか?」
セファルドの淡い金の瞳が、冷たく光る。
誰も、それ以上は口を開かなかった。
「ガルマンの取り調べにも、立ち会う。
あれは兄上の治める第一帝都レフェルザリアとも深く関わっているはずだ。
……“死の病”と、あの怪しい旅人共と共に」
兄レオンファルトの名が出た瞬間、空気が微かにこわばった。
口に出すことすらはばかられるものが、この帝国にはいくつもある。
そのひとつが、“第一帝都で何が起きているのか”という話題だ。
「よろしいですね?」
セファルドの問いに、委員たちは口々に「異存なし」と頷いた。
こうして──
セツナとガルマンは、グロック牢獄塔の最下層に送られることになった。
帝都から少し離れた岩山の麓に、その塔はあった。
自然にできた縦穴をくり抜き、石で補強した牢獄塔。
外壁は地上に顔を出しているが、内部は深く、地の底まで落ちていくような構造になっている。
グロック牢獄塔最下層――第八十七階。
そこに、向かい合う形で二つの房があった。
間には分厚い岩盤の壁。声を張り上げれば、かすかな響きくらいは届くかもしれない。
一方の房では、粗末な寝台に、簡素な囚人服を着たガルマン=トゥルバが横たわっていた。
下半身は、動かない。
使徒に体を乗っ取られた反動。
徹底的に暴れ、そして打ち倒された結果、魔術と肉体の均衡は崩壊した。
かつて重装備を纏い馬を駆った将軍の脚は、今、ただ冷たく重い塊に成り果てている。
鉄格子の向こう側で、看守の獣人兵士が気まずそうに立っていた。
「……水を」
ガルマンが言った。
声には、かつての威圧感はない。
だが、奇妙な静けさがあった。
「あ、ああ」
兵士は慌てて、水を入れた木の椀を差し出した。
兵士の手は少し震えている。
ガルマンは上半身だけを起こし、それを受け取る。
ガルマンは胸の奥に、重い石が沈んだような感覚があった。
(あの骸骨の中で、俺は……何をしていた?)
覚えている。
白い光線で壁を消し飛ばし、人を溶かし、悲鳴を笑い声として味わおうとしていた自分。
同時に、どこか遠くで「やめろ」と叫び続けていた、自分。
それらが、ぐしゃぐしゃに混じっている。
(俺はあの使徒の中ですでに元の体と魂は消滅しかけていた。それが再生されている‥‥?)
ガルマンは、乾いた喉を湿らせると、天井を仰いだ。
石を通して、かすかな轟きが伝わってくる。
王都からの騒めきが、地の底にまで染み込んでいた。
その真向かいの房では――
セツナが、床の上に座っていた。
薄い拘束衣。
手首と足首には、魔封じの刻印が刻まれた鉄の輪。鎖が壁につながれている。
それでも、彼の姿勢は崩れていなかった。
背筋を伸ばし、ただ静かに、目を閉じている。
気配が近づいた時だけ、そっと瞼を開く。
鉄格子の向こうには、セファルドとタイレル、そして数名の文官が立っていた。
「……窮屈ではないか?」
セファルドが問う。
セツナは、少し考えてから首を振った。
「食事と水はもらえています。
眠る場所もある。
……生きるのに必要なものは、足りています」
その答えに、文官のひとりが妙な顔をした。
普通、こんな場所に放り込まれて最初に出る言葉ではない。
「セツナ」
タイレルが低く呼ぶ。
「これから、お前の“話”を聞かせてもらう。
いや、お前自身のためにも、整理しておいた方がいい」
「……はい」
セツナは、ゆっくりうなずいた。
王城の一室。
先ほどの査問会議とは別の、小さな部屋が聴取の場として用意された。
セツナは鎖を繋いだまま椅子に座らされ、向かいにはイト法務官と文官。
横にはセファルド。壁際にタイレル。
記録係が筆を走らせる準備を整えている。
程なくして記録係がセファルドにうなずいた。
「では、初めから話してもらおう」
セファルドが促した。
「ほんのひと月前まで、お前は“ただの奴隷”だったと言ったな」
「はい」
セツナは、遠くを見るような目で語り始める。
――帝都から遠く離れた辺境の村。
――副長フーコーの行為と寄生されていた事。
――殴り殺されかけた瞬間、何かが「切り替わった」感覚。
――自分が、別の自分を上から見ているような奇妙な感覚。
――気づけば、獣人たちが倒れていたこと。
――あの日を境に、両親や他の奴隷たちが変わり始めたこと。
――夢のこと。
「夢、というのは?」
「時々、見ます」
セツナは、目を閉じる。
「白い場所です。
何もない、平らな床と、遠くまで続く白い霧。
その中に……エントリという少女がいます」
「エントリ?」
一斉に視線が動いた。
「名前を、名乗りました」
「どんな娘だ?」
タイレルが思わず口を挟む。
セツナは、少しだけ口元を緩ませた。
「最初に見たのは……透明な容器に入れられて、体は半分。朽ちかけていました。
だけど、その時の記憶はとても断片的で曖昧です。」
「その後に現れた時、姿が違っていました。年は……ぼくと、同じくらいに見えます。
髪は白くて、時々七色に光ります。目は……少し、怖いです」
「怖い?」
「全て見透かされているようで。」
部屋の空気が、微かに冷たくなる。
「その娘は、何か言うのか?」
「“またね”とか、“今度はもう少し頑張ろうね”とか」
セツナは、そこで一度言葉を切った。
「そして……私を探して と」
胸の奥で、白い霧が渦を巻いている。
そこから、数え切れないほどの光景が、ちらりと覗きそうになった。
火の海。
崩れ落ちる城。
首を刎ねられる奴隷。
同じ光景を、何度も、何度も。
だが、すべてが遠く、霞んでいる。
「……既視感もあります」
「既視感?」
「初めて来たはずの場所なのに、“知っている”と感じます。
初めて会ったはずの人なのに、“この人とは前にも話した”と感じます。
でも、思い出そうとすると、霧がかかります」
セファルドは、腕を組んでセツナを観察していた。
子供の話としては、合理的に話を組み立てている。
かといって、大人が作った嘘のような“薄さ”はない。
「赤い本のことも、話していたな」
イト法務官が紙をめくりながら言う。
「はい。
あれは……言葉では説明しづらいです。
本当に“本”だったのかどうかも、分かりません」
「というと?」
セツナは、自分の掌を見下ろした。
「ただ、それに触れた時、“自分の中に別の何かが流れ込んでくる”感覚がありました」
「ワイバーンの件は?」
「ぼくが、殺しました」
その言葉に、記録係の筆が一瞬止まる。
「タイレルさんと旅をしている途中で、私は死にかけました。気が付いたらワイバーンの死骸が
ありました。」
「死にかけた とは?」
セファルドは片眉を少し上げてセツナの目を見た。
「それは‥‥」
とセツナが言いかけた所で、タイレルが割って入った。
「殿下!‥‥それについては私から説明させて頂きます。よろしいでしょうか?」
タイレルは少し慌てた様子でそう言った。
「申せ」
「実は、このセツナの実力を試そうと、少し本気で殴りました。実はトゥランの村でフーコーの一件のあと、私はセツナに挑みましたが、一撃でやられました。平手打ち一発で私は吹き飛ばされたのです。」
「ほーぅ それで? その仕返しという訳か?」
「そうではないと言えば噓になりますが……ただ私の胸中は複雑でした。この少年を王都に連れて行ってよいものかと。 ここでこの子を殺しておけば、その必要は無くなるのだと。しかし、この再生の力。不思議な力は国益になるかもしれないと。心が揺れておりました。」
「なるほど。またお前の悪い癖が出たのだろう。強者を見ると挑みたくなる。」
口角をあげて少しにやついた顔でセファルドが言った。
「面目もございません……」
タイレルは床に額をつけた。
「それで、ワイバーンは何故死んだのだ?」
「これについても私から。 野営場所から少し先にワイバーンの巣があります。夜は眠っておりますが、私とセツナの戦闘行為により目を覚ましたのでしょう。おそらく敵だと思われたのです。しかし、またしてもセツナの不思議な力により……私は戦闘不能になり、その力がワーバーンにも……ワイバーンは恐らく全滅かと……」
「全滅だと!?」
「あそこには100頭以上は居るはずだ!」
その場の誰もが驚きを隠せず、ざわついた。
「まだ死骸はあるはずです。皮と骨は重要な資源。回収しに行かれるのがよろしいかと……」
ざわめきの中、イト法務官は額に手をやり、目をつむっている。
(まったく……無茶苦茶だ。できればこいつらと関わりたくない)
「ワイバーンの件は理解した。タイレルは後で個別に話をしよう。」
タイレルは冷や汗をかきながらまた それで頭の上に数字が見えると言っていたが?」
「今も、見えています」
セツナは、部屋にいる全員を見渡した。
それぞれの頭上に、淡い白い数字が浮かんでいる。
タイレルの上には「270」。
ラシェルの上には「89」。
セファルドの上には「143」。
「それが“レベル”と呼ばれるものだと、知っています。
知っている理由は、分かりません。
ぼく自身の数字は……」
言いかけて、セツナは口を閉じた。
「八千九百五十二」
代わりに口にしたのは、タイレルだった。
部屋の空気が、明確にざわめく。
それは冗談にしては悪質すぎる数字であり、
しかし実際に測定された数値でもあった。
「……あの日からのことを、全部話しました」
セツナは、静かに締めくくった。
「ぼくが何者なのかは、自分でも分かりません。
でも、人間が無慈悲に殺されるのを見ると、怒りを抑える事ができません。」
鎖が、かすかに鳴る。
その音が、彼の言葉の余韻を切り取った。
少し時間が経った後——
ガルマンが、別の“聴取”に臨んでいた。
彼の前には、イト法務官とガルア審問官、数名の文官。
そして、セファルドとタイレル。
「……もう一度、最初から話してもらおう」
ガルア審問官の低い声は、まるで罪の重さを量る秤のようだった。
ガルマンは、重く息を吐く。
「あれは……死の病が流行り始めた頃だ」
淡々と、だがどこか呟くように語り出す。
――第一帝都レフェルザリアに、原因不明の病が広まり始めたこと。
――罹った者は徐々に衰弱し、理性を失い、やがて死ぬこと。
――同じ頃、王都の至る所に“赤い花”を咲かせる蔦植物が現れたこと。
「赤い花とは なんだ?」
タイレルが表情を変えずに質問する。
「あの赤い花ね。最近このフェルザリアでも見かけるわ。いい匂いがする。塀や壁に蔦をめぐらせて咲いてるわね。
あなたは遠くに赴任してたから知らないのよ。」
ラシェルが、説明する。
ガルマンはうなずいた。
「ああ。とても甘い香りがする。
その花びらを煎じて作った化粧品が女たちの間で流行った。
王都中が、あの香りで満たされていた」
「その頃から、奴隷への扱いが変わっていったと?」
「ああ。
元々、良い扱いではなかったが……あの頃から、露骨になった。
笑いながら殴る者、遊びで殺す者。
まるで、何かに“許されている”とでも言うように」
ガルマンの声には、かつての怒りと、自責が混じっていた。
「同じころ、“旅人”が現れた。
黒いローブをまとい、素顔も見せぬ素性も分からぬ怪しげな連中だ。
『死の病に効く薬を、無償で配ろう』と触れを出していた」
「無償で、だと?」
貴族のひとりが舌打ちする。
「妻が、その病にかかった」
ガルマンの眼差しが、少しだけ揺れた。
「医者も魔術師も匙を投げた。
そんな時に、兄上――レオンファルト陛下から直々に手紙が来た。
“旅人に会わせてやる。城まで来い”とな」
第一帝都の玉座の間。
そこに座る兄王レオンファルト。
その側らに立つ、数人のローブ姿の“旅人”。
「最初は、人型に見えた」
ガルマンは、眉間に皺を寄せた。
「ローブを脱いで体を露にしたんだ。奴らは人ではなかった。」
ガルマンの脳裏に、あの日の光景が蘇る。
ぬらぬらと光る、植物とも肉ともつかぬ枝分かれした体。
一本一本の枝に、生々しい“目”がいくつも付いている。
全身が、脈動していた。
「……あれは、何と呼べばいいのかわからない」
ガルマンは、自嘲気味に笑う。
「神か、悪魔か、化け物か。
少なくとも、見たこともない形だったよ」
部屋の誰かが、喉を鳴らした。
「奴らは言った。
あなたの“妻を治してやれる。だが代わりに、あなたに我が一部を宿さねばならぬ”と」
「一部?」
「……寄生だよ」
ガルマンは、自分の胸を拳で軽く叩いた。
「その時は、それでも構わないと思った。
妻が生きるなら、自分の体などどうなってもいいと」
誰かがごくりと唾をのみ込んだ。
「その時、レオンファルト王もまた、満足げに笑っていました。
王はいつの間にか民よりも“自分だけの永遠”に興味を持つようになっていた。
王もやつらに懐柔されていたのです。
私は……王の異変よりも妻の病を優先してしまった。奴らの言葉を信じたのが、すべての間違いだった」
ガルマンは続ける。
「そして、旅人の“欠片”を体に宿した途端、奴らは条件を変えた。
“第二帝都のセファルドから実権を奪え。クーデターを起こせ”と」
セファルドの瞳が細くなる。
「お前は、従った」
「ええ。
……いや、従わされた、が正しいかもしれません。
自我が徐々に薄れていき、気づけば“別の何か”が、俺の体を動かしていた」
タイレルの脳裏に、巨大な骸骨がよぎる。
あの異様な力と、叫び声の奥に混じっていた、ガルマンの声。
「この国に蔓延している死の病は、奴らが撒いたものだ。
赤い花も、死の病も、それを癒すあの薬も、奴らの“餌”だ。
甘い香りに惹かれた女たち、薬に縋った者は、精神を歪められる。そして、奴らはその者達から何かを吸い上げている。それこそが死の病かもしれない。」
「吸い上げる?何を?」
ラシェルの問いに、ガルマンは、言葉を選ぶように沈黙した。
「……私には分かりません。
だが、病に冒された者の目は、どこか奴隷たちを思わせる。
逆に、昨夜、セツナの光を浴びた連中の目は――失ったものを取り戻したような…」
そこで、彼は口を閉じた。
セファルドが、ゆっくりと息を吐く。
「分かった。
ガルマン、お前の証言は記録する。
……ただし、その罪が消えるわけではない。ただ、尋問に協力した事は考慮しよう。」
「は…」
ガルマンは、素直に頷いた。
「私がやったことは、自分の罪だ。
使徒に操られていようがいまいが、結果として、多くを傷つけた。
それから目を逸らすつもりはない」
その言葉だけは、紛れもなく、かつての“将軍”のものだった。
数日後——
臨時査問委員会は結論を下した。
――人間セツナ。
王都フェルザリア南門および王城中庭における大規模破壊の中心となった存在。
しかし、意図的ではなく、また同時に“王都を救う力”を示したことに鑑み、処刑は保留。
当面は牢獄塔最下層にて、保護拘禁とする。
――ガルマン=トゥルバ。
使徒憑依を許し、多大な被害をもたらした責任は重い。
ただし、自我の一部を保ち続け、最終的に使徒の核破壊に協力した事実、および兄王レオンファルトと旅人の関係、死の病の情報を提供した功をもって、即時処刑は保留。
同じく牢獄塔最下層にて拘禁。
以後、“第一帝都レフェルザリア奪還計画”に関する情報提供の義務を負う。
――使徒に協力したとされる獣人兵士数名は、軍規違反および謀反の疑いで拘束。後日、正式な裁判にかける。
城内の一室で、その結果を聞かされたタイレルは、しばらく拳を握りしめたまま黙っていた。
「……最悪では、ない」
ラシェルが、そっと口を開いた。
「少なくとも、今すぐ首を刎ねられるわけじゃない。
セツナも、ガルマンも」
「そうだがな」
タイレルは、部屋の窓から遠くの牢獄塔を見やった。
あの少年が、冷たい石の上で座っている姿が、頭に浮かぶ。
「殿下は、よく踏みとどまった方よ。処刑肯定派が多数の中で。
あれだけ王都中が混乱している中で、“人間ひとり”にここまで譲歩したのだから」
ラシェルの言葉に、タイレルは小さくため息をついた。
「譲歩……か。
あいつにとっては、むしろ“賭け”だろう」
「殿下にとって?」
「そうだ。
セツナを殺せば、確かに脅威は消える。
だが同時に、あの“光”も失われる。
この先、第一帝都と戦うことになるなら……あれほどの力を、完全に捨てるわけにはいかん」
ラシェルは、黙って夫の横顔を見つめた。
そこには、戦場に戻った将軍の険しさと、ひとりの友を案じる男の迷いが同居している。
しばらくして――
王城の一室に、簡易の魔術計測器が設置された。
「レベル測定を行う」
魔術師が淡々と告げる。
対象は二人。
タイレルと、セツナ。
ラシェルとフィオラ、数名の兵士が見守る中、タイレルが最初に測定器の円の中に立った。
「やり方は、覚えているな?」
「ああ。昔はよくやった」
「手前のレバーを握って。」
タイレルは軽く息を整え、レバーを握り、意識を集中させる。
赤いオーラが微かに体を包む。
計測器の上に浮かぶ数字が、ぐんぐんと上昇していく。
150。
180。
200。
230――260――
「……270」
魔術師が、驚きと興奮を押し殺した声で告げた。
「獣人族の平均値は22。記録に残っている獣人族の最高レベルは……197。
百二十年前の兵士、ウーマ・ロンだが……殿はそれを大きく上回っております」
兵士たちから、どよめきが起きる。
「さすがタイレル様だ……!」
「魔人タイレルが帰ってきた……!」
ラシェルは、誇らしげに、どこか安堵したように夫を見つめた。
フィオラも、ぱちぱちと無邪気に手を叩いている。
「ねえねえ、その数字ってすごいのよね?」
「ああ、すごいわよ」
ラシェルが笑う。
「帝都最強の数字だもの」
「じゃあ、次は――」
フィオラの視線が、牢獄から一時的に連れ出されたセツナに向かう。
拘束衣はそのままだが、鎖は外されている。
彼は、少しだけ不思議そうに、計測器を見つめていた。
「ぼくも、そこに立てばいいんですか?」
「ああ。怖がることはない」
タイレルが頷く。
セツナは、円の中心へ歩み出た。
タイレルがやったように地面から突き出したポールを両手で握る。
計測器の紋が淡く光り、その光がセツナの体を舐めるように巡る。
数字が浮かび上がる。
最初は、ゆっくりだった。
100。
200。
300。
600。
1000。
「……」
魔術師の手が止まった。
数字は、そこで終わらない。
2000。
3000。
5000。
7000――8000――
やがて、計測器が、かすかな悲鳴のような音を立てて震え始めた。
「ま、待て、これは……!」
魔術師が慌てて術式を調整する。
「測定器の限界値を越えかけている……! これは、本当に――」
数字が、最後にひと跳ねした。
「これ以上は!!」
魔術師があわてて機械のスイッチのレバーを下げた。
測定器の水晶は、今にも砕けそうな音を立てている。
どこまで伸びたのか――それを確かめる余裕は、誰にもなかった。
「は……8122……」
部屋が、静まり返る。
誰も、声を出せない。
フィオラが、ぽつりと言った。
「……いっぱいだ」
「ふふっ」
ラシェルが、乾いた笑いを漏らす。
タイレルは、ただ目を閉じて、額に手を当てた。
「規格外にもほどがあるな……」
セファルドは、腕を組んだまま、その数字とセツナを見比べていた。
不思議なことに――心のどこかで、「納得」している自分がいた。
あの緑の光。
青空。
奴隷たちの変化。
この世界の“枠組み”を揺らした存在が、この程度で済むはずがない。
「……分かった」
セファルドは、静かに告げた。
「この数字が何を意味するのか、今は分からん。
だが一つだけ確かなのは――」
彼は、セツナをじっと見つめた。
「お前は、この帝国にとって、“脅威”であると同時に、“希望”でもあるということだ」
セツナは、ただ、黙って聞いていた。
自分が脅威であると言われることには、何の感慨もなかった。
希望であると言われることにも、特別な何かは湧いてこない。
ただ一つ。
昨日見た光景だけが、胸の奥に刺さったままだった。
鎖。
鞭。
檻。
路地裏で捨てられていた人間の体。
――あれを、放ってはおけない。
「セツナ」
セファルドが、少し声を和らげる。
「お前の処遇は、先ほど決まった。
しばらくの間、牢獄塔で過ごしてもらう。
ガルマンもそこだ。
……その間に、我々は“第一帝都レフェルザリア奪還計画”を詰める」
「第一帝都を……取り戻すんですか?」
「ああ」
セファルドは、窓の向こうの方角を見た。
そこには、まだ目には見えないが、兄が治めているはずだった“もう一つの王都”がある。
「兄上は、もはや正気ではない。
赤い花と、旅人と、使徒……。そして、街は死の病が蔓延し、亡者のごとき市民が
徘徊しているという。
このまま放置すれば、帝国ごと食い潰される」
「ぼくに、何か、できることはありますか」
セツナの問いに、場の全員が息を呑む。
鎖につながれた少年は、今、自分から“関わろうとしている”。
「今は、まだ何もするな」
セファルドは、ゆっくり首を振った。
「お前は、自分の力も、この世界も、よく知らないままだ。
力を使いこなせていない今、動けば、善意であろうと、また何かを破壊し人々を傷つけるだろう。」
セツナは、少しだけ黙り込んだ。
それは、痛いほど理解できる理屈だった。
自分は、まだ“全開かゼロ”しか知らない。
中間も、調整も、交渉も。
「……分かりました」
やがて、彼は頷いた。
「沙汰が出るまで、ここにいます。
その後のことは――その時、自分で決めます」
“自分で決める”。
その言葉は、セツナ自身にとっても、初めて口にするものだった。
奴隷として生きてきた彼は、これまで選択というものを持たなかった。
命じられたことをこなすだけの人生。
だが今――
何百回も、何千回も繰り返してきたはずの時間の、その「次」を、
自分で選ぶ時が来ようとしている。
その夜。
牢獄塔の最下層。
石壁の向こう側で、ガルマンが静かに笑った。
「……聞こえているぞ、セツナ」
当然、返事はない。
だが、かすかな気配の揺れがあった。
「俺も、まだ死ねんらしい。
この体じゃあ、槍を振るうことも、馬に乗ることもできんがな」
石に背中を預け、ガルマンは天井をにらむ。
「第一帝都を、取り戻すそうだ。
兄上を止められるのは、第二王子だけだ。そしてお前の力がきっと必要になる。
お前の悲願がかなうかもな。」
遠く、王都の方角で、ざわめきが続いている。
奴隷たちの目覚め。
獣人たちの動揺。
死の病の影。
赤い花の甘い香り。
そして――青空。
帝都フェルザリアは、もう昨日のままではいられない。
その変化の中心には、鎖につながれたひとりの少年が、静かに座っていた。
目を閉じ、胸の奥で何かを量りながら。
――自分は、何者なのか。
――世界は、何を求めているのか。
――そして、どこへ向かうのか。
その答えを、自分で決めるために。
物語は、静かに次の段階へと歩み始めていた。




