23.5話 エレナの思い
教会の重い扉が閉まる音が、背中に突き刺さった。
シビさんの背中がどんどん遠ざかっていく。
最後に言われた「ありがとうな」が、耳の奥で何度も響いて、どうしても消えなかった。
あの言葉はきっとお別れの挨拶だと思いますわ。
まるで硬直の呪文をかけられたように、私はその場に立ち尽くしていた。
指先の震えとともに視界が滲み、現実が遠く、曖昧なものになっていく。
そのただ中で、ヴァレリウス司祭は静かに報告書を閉じると、ため息をひとつだけ、深くついた。
「エレナ」
その一言が、わたしを現実に引き戻した。
「……はい」
「君は最後まで反対していたそうだね」
「……はい。わたくしは、あの実験体も試薬も、すべて教会で管理すべきだと信じていました。シビ様のおっしゃったのもわかりますが、どうしても、受け入れられませんでした」
「信仰とは、時に毒を呑む覚悟が必要だ。だが、君はまだ……その毒を呑みたくなかったのだろう」司祭様は、遠くを見るような、どこか寂しげな目で言った。
わたくしは唇を噛みしめた。噛んでも血の味がしても、胸の痛みはますます強くなるばかり。
「……シビさんは『人は弱い』と、何度も何度もおっしゃっていました。でも、わたくしは……信じたかった。アウリス様の教えを守れると、教会が正しいと、わたくしたちは悪用などしないと。それなのに、最後まで……わたくしはシビさんを説得できませんでした」
司祭様は静かに微笑まれた。その笑みは、優しいけれど、どこか寂しげで、心にぽっかりと穴が開いたような気がした。
「エレナよ、そなたの言うことはわかりますが、もう少し人間を知りなさい。そなたは優しくて、他人に手を差し伸べられる素晴らしい人ですよ。知っているのと、理解しているのでは天と地ほど違います。きっとシビとあなたの考えの溝は、そこなのでしょう」
「なら司祭様も、シビさ……まの方が正しいとおっしゃるのですか?」
「そうは言わぬよ。ただお主が悩んでおるようだからな。勝ち負けという言葉はあまり好かぬが、お主は反対をした。そして引いたのじゃ。納得できないうちになぜ?」
わたくしは、司祭様が何をおっしゃりたいのか、すぐにはつかみ切れませんでしたわ。
アウリス様を信じてくれなかったから?
信仰は自由なはず。では、なぜあそこまでわたくしは反対をしたのかしら。
「よくわかりませんわ。それでも、あれを見たり、わたくしは読んではおりませぬが、そのレポートを見たら、使おうなんて思いませんわ。人はそれほど愚かではありません」
「そうじゃな。私もそう信じておるよ。そこまでシビに言ったのか?」
「いえ、そこまでは言いませんでしたわ。ではどうすればよかったんですの」
「だからこそ言葉を交わす必要があるのじゃ。相手の言いたいことを理解して、自分の意見もはっきり伝えて相談するのが必要なんだよ。お主たちは、言い分だけ言って結果を出してしまった」
「なら、わたくしが間違っていたってことですの?」
「何が正しくて何が間違いかなど、神ではないわしには、全ては答えられぬよ」
司祭様のおっしゃることが、頭ではわかるのに、胸の中ではうまく形になりませんわ。
「エレナよ、立派に務めを果たしたよ、これからも、君の信じる道を進みなさい。きっとそなたなら気づくことでしょう」
「……はい」
そのまま自室に戻り、鍵をかけると、すぐに法衣を脱ぎ捨て、ベッドに倒れ込んだ。
胸が、裂けるように痛い。
息が苦しくて、喉が焼けるように熱くて、涙が止まらない。
シビさんはもう、わたくしの隣には戻らない。
あのとき地下で、「エレナと戦うことになっても、俺は引かない」と言われた瞬間、悔しさが込み上げてきた。
ただ俯いたまま何も言えなかった。
先ほどのお別れの時も、立ち止まったままで、言いたいことがあったはずなのに、声が出なかった。
本当はもっと、伝えたかったのに。
「ごめんなさい」も、「ありがとう」も、「一緒に行きますわ」言えなかった。
枕を抱えたまま、わたくしは何度も自分を責めた。
信仰に縛られて、シビさんの気持ちを考えなかった。
でも、シビさんもまた、わたくしの思いを無視していた気がする。
何が正しいのでしょうか?
今のわたくしには、わかりませんわ。
それに、あの人を一人にしてしまった。
「一人がいい」と言っておきながら、本当はつらいはずなのに、それをわかっていながら。
あんなに辛そうな顔をしていたのに、わたくしは何もできなかった。
ただ見ていることしかできなかった自分が、どうしようもなく悔しくてたまらなかった。
「シビさん……ごめんなさい……」
その言葉が口から漏れたとき、涙が止まらなくなった。
修道女として泣くのは恥ずかしいのに、嗚咽が漏れ、枕を濡らしながら、夜通し眠れなかった。
心の中で、あの人にもっとできたことがあったんじゃないか、と思い続けていた。
翌日も、教会の仕事はまったく手につきませんでした。
朝の祈りでは、聖句を三度も間違えてしまい、司祭様に眉をひそめられました。
孤児たちへの聖典の読み聞かせでは、ページを飛ばしてしまい、子どもたちに「エレナ様、今日は変だよ?」と不思議そうに見上げられました。
薬草を調合しているとき、眠気と涙で手元が狂い、貴重な月光草を床に落として割ってしまった。
「エレナ様、大丈夫ですか……?」
「顔色が悪いですよ。熱でもあるのでは?」
「今日は休んだほうが……」
みんなに心配されるたび、笑顔を作ろうとするけれど、頬が引き攣るだけで、涙がこぼれそうになった。
……このままじゃ、いけませんわ。
シビさんはきっと、今もひとりで危ない橋を渡っている。
多分、昨日の件で何か起きているに違いないと思いますわ。
何が起こっているのかはわかりませんが、嫌な予感がしてどうしても胸が締め付けられますの。
やっぱりもう一度、ちゃんと話したいですわ。
謝りたいし、わかち合いたい。
あのとき、言えなかったことを全部、ちゃんと伝えて、一緒に旅をしたい。
この気持ちは、まだよくわからないけれど、でも確かに本物だと思いますわ。
夜、わたくしは外套を羽織り、フードを深くかぶって、教会の裏口から静かに抜け出した。
冷たい夜風が頬を刺すけれど、その冷たささえ、今は心地よく感じた。
癒しの炉端へ向かう道を歩くと、扉を開けると、いつもの賑やかな喧騒と酒の匂いが迎えてくれた。
カウンターのリリアさんが、わたくしに気づくと、少し驚いたような顔をして目を丸くした。
「珍しいわね、鈴の聖女のエレナさんが来るなんて?」
「その呼び名はやめてほしいですわ。それよりも、シビさんはいらっしゃいますか?」
リリアさんは少し困ったように眉を寄せて、口を開いた。
「……いたわよ。さっきまで。急にみんなに酒をおごって、『劇場跡の調査なら俺一人で十分だ』って依頼を受けて、先ほど出てったきり。まだ戻ってきてないわよ」
その言葉を聞いて、わたくしは何か、よくない予感がしてたまらなかった。
「今夜ですか?」
「ええ。まだ一時間も経っていないわね。何があったかは把握していないけど、行くのなら気をつけなさい」
わたくしは小さく頷き、すぐに店を出ました。
劇場跡へ向かう道を、全力で走りながら、石畳を蹴る音が、夜の静寂の中でやけに大きく響いた。
冷たい風が頬を刺すたび、鼓動がますます速くなる。
息は白く、肺が焼けるように痛み、胸が圧迫されるような感覚に襲われる。
でも、止まれなかった。目の前にシビさんがいる。
あの人が危険な目に遭っているかもしれないのに、何もできないなんて絶対に嫌ですわ。
その時、遠くの空が、一瞬、昼のように白く輝いた。
凄まじい爆発音が響き渡り、夜空が揺れ、地面が震える。
わたくしの鼓膜まで震え、体中がその衝撃を感じた。
あそこにシビさんがいますわ!
焦げ臭い風が一気に吹き抜け、髪が乱れ、頬が熱くなった。
目の前がぼやけて、ただひたすらに走り続ける。
何も考えられなかった。
ただ、シビさんを、あの場所から守りたい一心で走っていた。
どうか、無事でいてください。
どうか、まだ間に合いますように。
そして、わたくしの前には、危機一髪のシビさんがいた。
次回12/11 18:00UP予定です 第1部終了予定です
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