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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

秘密シリーズ

転生令嬢と側近の秘密

作者: 平奥


この物語は「幽霊令嬢と王子の秘密」の続編です。まずは「幽霊令嬢と王子の秘密」をお楽しみいただければ幸いです。


 

「お願いします!」

「お断りします!」


 わたしの目の前では、見目麗しい侯爵子息が両膝をつけて頭を下げている。窓から差し込む陽光を受けて、彼の紺色の髪が深い輝きを放っている。


 先程まで優雅な佇まいで我が家の応接室でお茶を飲みながら自身の状況を話していた彼は、わたしの協力が得られないとわかると、突然席を立ち、前世でいうところの土下座をした。


 わたしが否と答えたまま黙っていると、彼は顔を上げ、苦悶の表情を浮かべた。黒い瞳に真剣な光を宿して、わたしの同情を引くように訴えかけた。


「もうこの方法しかないんだ。どうか俺を助けてほしい……」


(ああ、面倒臭い……。やっとあの変た……いや、第二王子から解放されたというのに、再びわたしの時間を奪われてたまるか!)


 わたしは手にしたカップを置き、懇願する彼に小さく息を吐いた。


「ネイサン・クラーク侯爵子息様、そう言われましても、わたしにも都合というものがありまして……」


 わたしが再びお断りだと答えると、彼は従者に目配せをした。すると従者は、わたしの目の前にずっしりとした重そうな袋を置いた。袋の口からは、金色に輝くものがちらりと見える。


「ナタリー・ソネット男爵令嬢、これは謝礼の一部に過ぎない。成功した暁には、これの三倍の対価を支払おう」


 この侯爵子息様は、金にものを言わせてわたしを懐柔する気らしい……。


(しかし、わたしは金で動くような人間ではない!! ……わけではないので、考えてあげてもいいかしら。これだけあったら、ずっと欲しかった憧れのショップのドレスが買えるもの!)


 わたしは瞬時に考えを改めた。


「クラーク侯爵子息様、なんとか都合をつけられるか考えてみてもいいですが、まずはもう少し詳しくお話しください」


 わたしが食いついたことを察した彼は、椅子に戻り、コホンと咳払いをして話し始めた。




「俺の姉たちのことは知っているだろうか……」

「ええ、もちろん存じております」


 彼の四人のお姉様……つまり、クラーク侯爵家の四姉妹と言えば、その美貌と才知で有名で、国内で知らぬ者はいない。


 長女のイリス様は女性実業家で、大きな商会を経営している。

 二女のニコレット様と三女のサブリナ様は双子で、ニコレット様は王太子殿下の婚約者であり、サブリナ様は女性騎士で第二騎士団副団長の任に就いている。

  四女のシエラ様は、先日公爵子息との婚約が発表されたばかりである。


「その姉たちを、俺に近づかせないようにしてほしいんだ」

「……はい?」


 彼の言葉に、わたしは思わず瞬きを繰り返した。


「ソネット男爵令嬢、今、王都では手作りの菓子を意中の相手に渡すのが流行っていることを知っているだろうか?」


(そうなの? バレンタインのようなものかしら?)


 わたしは「いいえ」と首を振った。


「我が家の次姉、三姉、四姉もそれに倣っているんだが、姉たちの作るものは石か、良くて炭なんだ」


 彼は拳を強く握り、忌々しげな口調で顔を顰める。


「姉たちは、王太子殿下や公爵子息、それに三姉の想い人である第二騎士団長がそれを食べて体調を崩したらどうするんだと言って、俺に試食をさせるんだ。使用人たちに試食させようにも、彼らはそれを察するとサーッといなくなるんだ。俺は常日頃からあの四姉妹には理不尽な目に遭わされている!! だから、極力接触を避けるために離れで暮らしているというのに、姉たちは毎日のように石や炭を持ってやってくるんだ。俺が体調が悪いと言ってもお構いなしだ。あいつらは本当に質が悪い!! 唯一の救いはこの件に長姉が加わっていないことだ。四姉妹の中でいちばん質の悪い長姉がこれに加わっていたらと考えただけで、本当にゾッとする!!」


 はぁ、はぁと肩で大きく息をして、彼は続けた。


「だが、そんな姉たちにも苦手なものがある。それが……幽霊だ」


(幽霊……って、まさか……!)


「まさか、アデライード様を階段から突き落とせって言うんですか!?」

「違う!! そんなことをしたら、ハインリヒ殿下に殺される!!」


 彼は慌てて否定し、わたしの顔色を窺いながら続けた。


「……あの人形を何体か作ってもらえないだろうか?」

「あの人形って、ハインリヒ殿下に作らされた球体関節人形ですよね? あれをどうするつもりなんですか?」

「その……幽霊のように作ってもらいたいんだ。それを使って俺の暮らす離れを幽霊屋敷のようにすれば、姉たちは近寄ってこないはずだ」


 彼の提案に驚きつつも、わたしは別の案を口にした。


「人形が必要なら、ハインリヒ殿下からアデリーズを借りればいいじゃないですか。衣装などを工夫すれば、それっぽく見えると思いますけど……」


 しかし、わたしの提案に彼は首を振った。


「無理だ。アデリーズは今、王城の宝物庫にある」

「えぇっ!?」

「カストィル侯爵令嬢の手によって収蔵された。ハインリヒ殿下でさえ出すことができないらしい」


 アデリーズ(わたしが作った人形)が国宝と一緒に保管されているとは……。


(確かに自信作だったけれど、まさか宝物庫に収められるとは思ってもみなかったわ……)


「お願いだ、ソネット男爵令嬢。俺はもう限界なんだ……!」


 わたしは目の前に置かれた金貨が入った袋に視線を向けた。頭の中ではチャリンチャリンという音が響いている。


「……わかりました。クラーク侯爵子息様。ご依頼を引き受けしましょう!」

「ありがとう! ソネット男爵令嬢。いや、ナタリー嬢。これからは俺のことをネイサンと呼んでくれ」


 彼は勢いよく席を立ち、期待に満ちた眩しい笑顔を浮かべ、わたしの両手を力強く握った。




 ハインリヒ殿下とアデライード様から解放され、これからは思う存分推し人形制作に没頭しようと思っていたのに、思わぬ依頼を引き受けてしまった。けれど、これも推し活だと思えば苦にならない。



 わたしは金貨が入った袋を見つめて、にんまりと笑った。





 ***





「で……できたわ……! これで完成よ……!」


 わたしは達成感に浸りながら、額の汗を拭った。


 ネイサン様の依頼を引き受けたわたしは、寝る間も惜しんで人形制作に取り組んだ。



 我がソネット男爵家は音楽に造詣の深い家系で、何人もの音楽家を輩出している。わたしも例外でなくチューバ奏者であり、いくつかの演奏会が控えていた。そのため練習を欠かすことはできず、正直、かなりのハードスケジュールだった。


 完成した人形は三体だ。


 一体目の人形は、長い黒髪を背中に垂らし、空洞の半開きの目が印象的だ。それは虚ろながらも、何かを追い求めているかのように見える。


 二体目の人形は、少しうつむき加減で、長い金色の前髪が顔を隠している。細長い指先は何かを掴もうとしているかのように伸びており、今にも動き出しそうだ。


 三体目の人形は、少し微笑んでいる表情をしているが、その笑みはどこか不気味だ。大きな空洞の目は輝く銀髪とは対照的に闇を映し、まるで死の世界へ誘うかのようだ。


 それぞれの人形は、幽霊のような青白い肌を持ち、内部に収縮性のある麻の紐を用いることで関節部分は滑らかに動き、自然なポーズを取ることができる。


 白いドレスをまとい、霧の中から現れた幽霊のようなその姿が、見る者に恐怖を与える。


「我ながら完璧だわ……!」






 ネイサン様に人形の完成を伝える手紙を送ると、その日のうちに返事が届いた。


『明日、迎えをやる』


 その素早い行動と短い一文に、彼の焦りと期待が滲み出ているように感じられた。


「切迫した状況なのかしら……」






 翌日、ネイサン様が手配してくれた馬車でクラーク侯爵邸に到着すると、その豪奢さに圧倒された。広大な敷地には手入れの行き届いた庭園が広がり、色とりどりの花々が咲き誇っている。大理石の噴水が中央にあり、水がきらきらと輝いている。我が家の何倍も大きな邸宅は白亜の壁に金色の装飾が施され、窓にはステンドグラスがはめ込まれている。


 ネイサン様の離れもまた豪奢さを誇っていた。離れとはいえ、その建物はまるで小さな宮殿のようだった。外観は美しい石造りで、蔦が絡まる壁が趣を添えている。


「ぼったくってもバチは当たらないんじゃ……」




 玄関の扉が開き、ネイサン様が出迎えてくれたが、彼の顔はやつれていて、表情は疲れ切っているように見えた。


「ナタリー嬢、ようこそ……」

「ど、どうも……お邪魔いたします……」


 玄関ホールに足を踏み入れると、広々とした空間が広がっていた。大理石の床は美しく磨き上げられ、高い天井には精巧な彫刻が施されていた。中央には大きな階段が左右に分かれてそびえ立っていた。


 応接室に案内され、わたしは三体の人形を披露した。人形を見た瞬間、そこにいたメイドが「ヒッ……!」と悲鳴をあげた。


「こちらがご依頼の品です。いかがでしょうか?」


 ネイサン様は目を見張り、一体ずつじっくりと人形を観察した。その精巧な作りに感嘆の声が漏れる。


「素晴らしい作品だ……! ナタリー嬢、君の技術には本当に驚かされる。これならあの姉たちを遠ざけることができる……!」


 ネイサン様は「ありがとう、本当にありがとう」と、わたしの手を握りブンブンと振った。その目には感謝と安堵、そして燃え上がる姉たちへの対抗心が映っている。


 そのとき、部屋をノックする音が響いた。


「お姉様方がいらっしゃいました」


 メイドがそう告げると、ネイサン様は焦りながら慌てて三体の人形を隠した。


「今日はいつもより早いな! ナタリー嬢、すまない。少し待っていてくれるだろうか?」

「わかりました」


 ネイサン様はそう言って、急いで部屋を出て行った。




 わたしは部屋に残され、テーブルの上のお菓子に目を向けた。豪華な銀のトレイに並べられたお菓子はどれも美しく、まるで芸術品のようだった。ひとつ手に取って口に運ぶと、甘さと香ばしさが口いっぱいに広がる。


「美味しい……!」


 メイドが次々とお菓子を勧めてくれるので、つい夢中になってたくさん食べてしまった。

 しばらくするとお手洗いに行きたくなり、わたしはメイドに声を掛け、案内してもらった。


 廊下を進んでいると、ふと開いたドアの向こうからネイサン様と女性たちの声が聞こえてきた。わたしは思わず足を止め、その様子を見てしまった。


「ネイサン、これを食べてみなさいよ!」

「そうよ、わたしたちの愛情がたっぷり詰まっているんだから!」

「美味いぞ?」


 ネイサン様は、彼と同じ紺色の髪と黒い瞳を持った、背の高い三人の女性たちに囲まれていた。


(ネイサン様のお姉様たち……?)


 ネイサン様は抵抗しつつも、渋々といった様子でそれを口に運んだが、すぐに顔を顰めた。


「こんなもの家畜も食わない、毒以下だ……! ぐがっ……!」


 ネイサン様が答えると、彼女たちは怒りに任せて黒い塊を彼に投げつけた。それは見事に彼の顔面に直撃し、彼はその場に倒れ込んだ。


「どうしてそんなことを言うのよ!?」

「わたしたちの気持ちを踏みにじるなんて許せないわ!」

「正直に答えるんだ。それとも後で稽古をつけてやろうか?」


 騎士服姿の女性が剣を抜き、倒れこんだネイサン様に剣先を向けた。


(第二騎士団副団長を務める三女のサブリナ様かしら……?)


「これ以上ないくらい正直なんだよ……!!」


 彼が悔しそうに答えると、サブリナ様は容赦なく彼を踏みつけた。



 その光景はわたしが想像した以上のもので、ネイサン様が日々どれほどの扱いを受けているのかを痛感させられた。




「待たせてすまない……」


 応接室に戻ってきたネイサン様は、ヨロヨロとした様子で椅子に腰を下ろした。


「大丈夫ですか……?」

「ああ、なんとか……。ナタリー嬢、できれば明日も来てくれないだろうか? 飾りつけを手伝ってほしいんだ」

「えっ!? いいんですか!? ぜひお手伝いさせてください!」


(ハロウィン好きの血が騒ぐわ! 前世では毎年家を飾りつけるの、楽しみだったのよね!)



 頭の中でどんな飾りつけをするか、どんな風に人形を配置するかを思い描き、明日を待ち遠しく思いながら、足取り軽くわたしは家路についた。





 ***





 翌日、クラーク侯爵邸を訪れると、ネイサン様は既に準備を整えていた。


「ナタリー嬢、来てくれてありがとう。さっそく飾りつけを始めよう」

「はい! 任せてください!」


 わたしは早々に飾りつけを始めた。まずは人形を配置する場所を決める。幽霊屋敷の雰囲気を出すためには、暗い角や影になる場所が望ましい。


「この人形はここに吊るしましょう。上から覗いているように見えて効果的です」


 わたしは金髪の人形を配置する場所を指差しながら、ネイサン様に説明する。同意した彼が使用人に指示をすると、彼らはさくさくと作業を進めた。


 黒髪の人形は、テレビから出てくる彼女のように、四つん這いの姿勢で家具の陰に配置した。顔を少し上げ、虚ろな目でこちらを見つめるその姿は、なんとも不気味である。


 次に、部屋全体を飾りつける作業に取り掛かった。わたしは前世の経験を活かし、麻や綿などの古びた布を使って蜘蛛の巣を作り部屋を装飾した。窓には黒いカーテンを掛け、薄暗い照明を使って不気味な雰囲気を演出した。


「ここにもう少し蜘蛛の巣を追加しましょう。そうすれば、よりリアルに見えます」


 わたしはネイサン様にアドバイスしながら飾りつけを進めた。彼も積極的に手を動かし、協力して幽霊屋敷を作り上げた。


「ナタリー嬢、この銀髪の人形はどこに置いたらいいだろうか?」

「それはですねぇ……」


 わたしはネイサン様と銀髪の人形をくっつけて、ロープでしっかりと固定した。人形がずれないように調整し、人形の両腕をネイサン様の肩に回して、まるで彼にしがみついているかのように見せた。最後に、人形の長い髪がネイサン様の肩に自然にかかるように整え、さらにリアルな雰囲気を演出した。


「こんな感じでどうでしょう?」


 わたしはニヤリと笑って言った。


「完璧だ……! 本当に幽霊に取り憑かれているように見える」


 ネイサン様は感心した表情を浮かべ、満足そうにその姿を鏡で確認している。


「ナタリー嬢、君には心から感謝している」


 完成した部屋を見渡しながら、ネイサン様は感慨深げに言った。わたしは達成感に満ちた気持ちでその言葉を聞き、嬉しくなり微笑んだ。


「っ……!」


 ネイサン様が突然真っ赤な顔をしているのに気づいた。人形が重いのかしら? と一瞬思ったが、すぐにひらめいた。


「ネイサン様、メイクしましょう!」


 わたしはネイサン様を椅子に座らせ、取り憑かれて生気がないように見えるメイクを施すことにした。まず、顔全体に薄い白いファンデーションを塗り、肌の色を青白く見せた。次に、目の周りに黒いアイシャドウを使って、深いくまを作り出した。頬骨の下に影を入れ、顔がやつれて見えるようにした。


「いかがでしょうか?」

「見事だ……! まるで生気が感じられない……!」


 驚くネイサン様に、わたしは満足げに頷いた。これでネイサン様の計画は完璧だ。






「ネイサン様……お姉様方がいらっしゃいました……」


 完成した幽霊屋敷を見て顔を引き攣らせたメイドがそう告げ、ネイサン様は拳を握り立ち上がった。


「今日こそ、決着をつけてやる!」


 銀髪の人形と共に、ネイサン様は彼女たちのもとへ向かった。わたしはその様子を陰から覗くことにした。


「ネイサン、今日こそ……」

「今回は自信作……」

「さあ、これを食べ……」


 彼女たちはそう言ったきり言葉を失った。



 ゴン、ゴトッ、ゴロゴロゴロ……。



 彼女たちの手から落ちた黒い物体が床を転がる。


「ごきげんよう……姉上方……」


 ネイサン様はふらふらとした動きで、ゆっくりと彼女たちに近づいて行った。


 彼女たちはネイサン様……というより、ネイサン様に括り付けた銀髪の人形を見て目を見開き、ガタガタと震え出した。


「ニ……ニコ姉様……あ、あ、あれ……」


 四女のシエラ様は二女のニコレット様にしがみつきながら、家具の陰から覗く黒髪の人形を指差し、震えた声を出す。



(今よ!)



 わたしの念が通じたのか、そのとき、金髪の人形が突然動き出した。陰に隠れていたネイサン様の侍従が、仕掛けた糸で人形を動かしたのだ。


「きゃぁぁぁぁぁ!!!!」

「いやぁぁぁぁぁ!!!!」

「うわぁぁぁぁぁ!!!!」


 彼女たちは顔を青くして、転びそうになりながら、我先にとその場から逃げ出して行った。



 廊下に響く悲鳴と足音が次第に遠ざかり、邸内はまるで嵐が過ぎ去った後のように静まり返った。



「やった……!! ついにあの姉たちを追い返すことに成功した……!! 俺はやっと平穏な日常を取り戻したんだ!!」



 ネイサン様は両手をあげ、部屋中を飛び跳ねながら駆け回った。生気のないメイクだが……には満面の笑みを浮かべ、目には涙が光っている。時折くるんと回転しては、勝利の喜びを全身で表現していた。背負った銀髪の人形の不気味なはずの笑顔までもが、心残りを晴らし、成仏しそうな笑顔に見える。


「ナタリー嬢! 本当に君には感謝してもしきれない。君がいなかったら、こんなにうまくいかなかった」


 ネイサン様は、そう言ってわたしを抱きしめた。驚きと共に、わたしの顔は一瞬で熱くなった。


「ネ、ネイサン様……!?」


 彼の胸を軽く押すと、わたしの声にはっとしたネイサン様は、慌ててわたしから離れた。


「すまないっ! 嬉しくてつい……」


 ネイサン様は照れくさそうにしながら、再び感謝の言葉を述べた。


「この計画が成功したのは、君のおかげだ。本当にありがとう」


 ネイサン様はわたしを見つめてにっこりと笑った。おかしなメイクをしているのに、その顔は晴れ晴れと輝いている。


「いいえ、お姉様方には申し訳ないですが、ハロパみたいで面白かったです」

「はろぱ?」

「オホホ、なんでもありませんわ。ではわたしはこれで失礼いたしますね」



 成功報酬は後日届けてくれるということなので、わたしはネイサン様に挨拶を述べて、クラーク侯爵邸を後にした。





 ***





 後日、約束通りネイサン様から成功報酬が支払われた。豪華な箱の中には金貨がぎっしり詰まっており、わたしはその重みを感じながら、憧れのドレスショップへはいつ行こうかと考えていた。



「さてと、練習しなきゃ」



 ネイサン様の依頼を終えて一段落したけれど、まだいくつかの演奏会が控えている。


 この世界の音楽家は、王侯貴族の庇護のもと、宮廷や教会、また貴族の邸宅で頻繁に行われる演奏会で活動していた。特に祝宴や舞踏会などのイベントでは演奏が重要な役割を果たしていたため、重宝されているのだ。


 わたしは気を引き締め、楽譜を広げて練習に取り掛かった。






 わたしは控えていた演奏会をこなしていった。演奏会の後には貴族たちとの交流もあり、わたしはその中で妙な話を耳にした。


「お聞きになって? クラーク侯爵家の……」

「ええ、幽霊が出るとか……」


 わたしは耳を澄ませ、その話に聞き入った。


「クラーク侯爵家のご嫡男というとネイサン様ですわよね?」

「そうですわ。ネイサン様が幽霊に取り憑かれて、お姉様方が幽霊に追いかけられたとか……」

「まぁ……! 恐ろしいわ……」

「お姉様方が必死になって霊媒師を探しているそうですわ」



 ご婦人たちは、手に持った扇子を揺らしながら、ひそひそと噂話に興じていた。彼女たちの表情には恐怖と不安が浮かび、時折顔を見合わせては小さく息を呑んでいた。


「サーギ子爵がご紹介なさったんでしょう?」

「隣国の高名な霊媒師で、数々の霊を払った方なのですって」

「なんでもその方が特別な力を込めた壺や水晶、それにアミュレットやロザリオを持っていると運気も向上するそうですわよ」

「サーギ商会が復活したのも、そのおかげかもしれませんわね」

「わたくしも手に入れたいわ」

「けれど今はどれも品薄で、手に入りにくいそうですわ」



(ネイサン様、大丈夫かしら……)



 ネイサン様の様子が気になり、わたしは彼に手紙を送った。すると、すぐに「至急来てほしい」という返事が届き、わたしは急いでクラーク侯爵邸へ向かった。


 クラーク侯爵邸へ到着すると、裏口から入れてもらうよう手配されていた。ネイサン様の侍従に案内され、わたしは静かに彼の暮らす離れへと足を踏み入れた。


「ネイサン様、ご機嫌よ……ぅ……」


 部屋に入ると、彼は以前にも増して疲れた様子で、ソファーに座り両手で頭を抱えてうなだれていた。


「ナタリー嬢、俺は見通しが甘かったのだろうか……。まさかこんなことになるとは……。退路を塞がれた気分だ。激マズ菓子を食わされないだけマシなのか……?」


 彼の声には諦めと苦悩が混じり、深いため息が部屋に響いた。


 わたしはそっと窓から外を覗いた。玄関前にはネイサン様のお姉様たちが集まっていた。


 彼女たちは皆、首から十字架を下げており、ニコレット様は聖書とガーリックの束を、サブリナ様は塩と思われる白い粉が入った瓶と銀の鏡を抱え、シエラ様は香が焚かれた柄香炉を持っていた。



(それ、効かないんです!! ※実証済み!!)



 彼女たちの前には大きな壺が置かれ、その横には水晶とロザリオを持ったいかにも怪しげな初老の男性が立ち、芝居がかった声で叫んでいた。


「なんと強大な力か……! この三体の霊は、封印が解かれ、長い眠りから目覚めてしまった者たち……! このペテン・イーカの力をもってしても、もはや手に負えぬっ……!」



(三体の霊……いや、人形には、何やら壮大な物語が作り上げられているようだった)



「お願いします、イーカ様! どうか弟をお救いくださいませ……!」

「イーカ様だけが頼りなのです……!」

「どうか、頼む! ペテン氏!」


 お姉様たちは涙ながらに懇願し、霊媒師にすがりついていた。



「うーん……。()()()()の出番ですかねぇ……」





 ***





「お願いします、アデライード様! アデリーズを貸してください!」

「カストィル侯爵令嬢、どうかお許しいただけないでしょうか?」


 わたしとネイサン様は、離れの裏口からこっそりと抜け出し、カストィル侯爵邸へやってきた。


 カストィル侯爵邸は、クラーク侯爵邸に負けず劣らずの豪奢さを誇っていた。広大な敷地には幾何学模様に整えられた庭園が広がり、緑豊かな芝生が広がっている。中央には大理石の彫像があり、その周りには小川が流れ、静かな水音が響いている。邸宅の屋根には尖塔がそびえ立ち、まるで城のような威厳を放っていた。


 わたしたちはアデライード様に事情を話し、王城の宝物庫にあるアデリーズを貸してほしいと頭を下げているのだが……。



「嫌よ」



 アデライード様はエレガントなソファーに座り、高級なティーカップで優雅にお茶を飲みながらそう答えた。


「カストィル侯爵令嬢、このままでは姉たちに玄関を突破され、私の計画が露見してしまうかもしれないのです……!」

「アデライード様、お願いします! あの件では協力したじゃないですか~~~!!」


 わたしたちがそう言うとアデライード様は一瞬動きを止め、考え込むように目を細めた。もう一押し……!


「全部貸してくれとは言いません。六……いや、五体貸してください!」

「嫌」

「四体でいいですから!」

「一体だけならいいわ」

「三体で!」

「二体よ」

「わかりました! ありがとうございます!!」

「感謝します、カストィル侯爵令嬢」

「至急父に手紙を届けますわ。くれぐれもハインにはバレないようにしてくださいましね」


 アデライード様に許可をもらい安堵の息を吐くと、彼女はカップを置き、何げなく言った。


「ねぇナタリー様。アデリーズじゃなくても、あなた、“おし人形”とかいう人形があるでしょう?」

「なに言ってるんですかーーーっ!! あれは駄目ですよ!! あれはわたしが心血を注いで!! ゆっくりと!! 丁寧に!! 細部までこだわって作っているんですから!!」

「なんかムカつくわね……」


 その話を聞いて、ネイサン様が首を傾げた。


(そう言えばネイサン様は推し人形を知らないんだった)






 カストィル侯爵邸を後にしたわたしたちは、再び馬車に揺られ王城へ向かっている。


「ナタリー嬢、おし人形とは何だ?」


 わたしをじっと見つめ、ネイサン様がふと尋ねた。


「推し人形とは、わたしの憧れの方を模して作っている、わたしの最高傑作になる人形です!!」


 わたしが興奮気味に答えると、ネイサン様が落ち着きを失ったように焦り出した。


「憧れの方……!? き、君はその人の事が好きなのか……?」

「もちろんです!! なかなか会うことができない方なので、せめて人形を側に置いておきたいと思って作っているんです!!」



 ネイサン様の表情がショックを受けたように変わり、彼の肩がわずかに落ちた。しかし、わたしはそんなネイサン様の様子に全く気づかなかった。






 王城に到着した馬車は、ネイサン様が衛兵に軽く挨拶をすると、そのまま門を通過した。ハインリヒ殿下の側近である彼にとって、城に入ることは容易なことだ。わたしたちは難なく城内へと足を踏み入れた。


「そう言えばネイサン様、ハインリヒ殿下は放っておいて良いんですか?」


 ふと尋ねると、ネイサン様は苦笑しながら答えた。


「ハインリヒ殿下は謹慎中なんだ。カストィル侯爵令嬢にアデリーズを没収された反動からか、禁止されているのにも関わらず、カストィル侯爵令嬢を私室に連れ込もうとしたんだ……」

「ソウデスカ……」




 わたしたちはメイドに案内されるまま、王城の奥にある宝物庫へ向かった。


「ここが宝物庫……」


 重厚な扉の前に立つ衛兵がゆっくりと扉を開けると同時に、中から冷たい空気が流れ出した。わたしたちは宝物庫に足を踏み入れ、その壮麗な光景に息をのんだ。そこには金銀財宝や古代の遺物、そして美術品の数々が所狭しと並べられていた。



(ひとついただけないかしら……)



「ナタリー嬢、こっちだ」


 ネイサン様に呼ばれ奥へ進むと、他の財宝とは一線を画し、その存在感を放つようにアデリーズが並んでいた……。



「さぁ、運びましょう!」





 ***





 クラーク侯爵邸へ戻り、目立たぬよう離れの裏口へと向かった。わたしたちは宝物庫から持ち出したアデリーズを抱え、急いで中へ入った。


 外では同じ光景が繰り広げられていた。


「申し訳ないっ……! 私では……私の力では、この者たちを鎮めることはできないっ……! 本も……いや、別の霊媒師を……」

「イーカ様、見捨てないでくださいませ!」

「イーカ様、さらに報酬をお支払いしますわ!」

「ペテン氏、どうか助けてくれ!」


 高名だという怪しげな霊媒師は額に汗を浮かべ、なんとかこの場を切り抜けて逃げ出そうとしているようだった。




 わたしたちはアデリーズを使って、幽霊が玄関ホールの高い天井付近を行ったり来たりするように細工を施した。仕掛けの持ち手は侍従とメイドたちで、それぞれ二人掛かりで操作することにした。


「お、重っ……!」


 彼らはアデリーズを慎重に持ち上げ、天井近くに目立たないように取り付けたロープを使って動かし始めた。アデリーズはゆっくりと天井付近を行ったり来たりし、その動きは幽霊が漂っているかのように見えた。


「もう少し右に……そう、いい感じです」


 わたしは指示を出しながら、アデリーズの動きを確認した。一体はベールで顔を隠し、もう一体は長い髪を振り乱れさせて顔を覆っている。


 血がついた細工をした白いドレスを着たアデリーズは、まるで本物の幽霊のように不気味な雰囲気を醸し出していた。


 黒髪の人形と金髪の人形を、玄関ホール中央の左右の階段にそれぞれ四つん這いで配置し、準備完了だ。



「ネイサン様、始めますよ!」



 玄関のドアがゆっくりと開き、メイクを施したネイサン様が銀髪の人形を背負い、ヨロヨロとした足取りで姿を現した。わたしは陰に身を潜め、その様子をじっと見守った。頭上ではアデリーズがゆっくりと動いている。


「ここには近づくな~~~立ち去れ~~~」


 ネイサン様が深く響くような不気味な声を出す。


「ぎゃぁぁぁぁぁ!! お化けーーーーーーっ!!」


 高名だという霊媒師は顔を青ざめさせ、その場で気絶した……。


「きゃぁぁぁぁぁ!! 増えてるぅぅぅぅぅ!!」

「いやぁぁぁぁぁ!! 助けてぇぇぇぇぇ!!」

「うわぁぁぁぁぁ!! もう無理だぁぁぁぁぁ!!」


 ネイサン様のお姉様たちは恐怖に震え、足を縺れさせながら逃げ出そうとしていた。



 ネイサン様がタイミングを見計らって、玄関のドアを閉めようとしたそのとき、メイドたちが力尽き、アデリーズの一体がバランスを崩してわたしに向かって落ちてきた。



「ナタリー嬢、危ないっ!!」



 ネイサン様が咄嗟に駆け寄り、わたしを庇うように覆いかぶさった。



 ガシャーン!



 人形は床に激しく落ち、その衝撃でバラバラに砕けた。割れた破片が飛び散り、その一つがネイサン様の首元をかすめた。破片が当たった部分には並行した二本の鋭い切り傷ができ、そこから血が滲み出していた。


「え?」

「は?」

「へ?」


 ネイサン様は焦った様子で、すぐにわたしの無事を確認した。


「ナタリー嬢、大丈夫か!?」

「ええ、ありがとうございます、ネイサン様。それより首に傷が……」


 わたしは急いでハンカチを取り出し、ネイサン様の首元に当てた。


「俺は平気だ。君が無事でよかった……」


 わたしたちが互いに安堵の息をついていると、聞き覚えのある怒りを含んだ声が響いた。



「ネイサン……! ソネット……! お前たち、私に無断でアデリーズを持ち出したな……?」



 振り返ると、そこには謹慎中であるはずのハインリヒ殿下が、険しい表情を浮かべて立っていた。


「ハインリヒ殿下、何故ここに……!?」

「ア、アデライード様の許可はいただいていますっ!!」


 わたしは慌てて弁解しながら、ネイサン様の陰に隠れた。


「大人しくアデリーズを返せ……ん? ぎゃぁぁぁぁぁ!! アデリー二号ーーーっ!!」


 ハインリヒ殿下は落下してバラバラになった人形を見て悲鳴をあげた。



 ガシャーン!



 その瞬間、侍従たちも力尽き、もう一体の人形も落下してバラバラに砕けた。


「うわぁぁぁぁぁ!! アデリー四号までーーーっ!!」


 ハインリヒ殿下は顔を青くして叫んだ。


「ソネット!! 早急に直すんだ!!」

「えぇぇ~~~」



 その様子を呆然と見ていたネイサン様のお姉様たちは、驚きと怒りの表情を浮かべ、身体を震わせていた。


「ネイサン…………」

「これはいったい、どういうことなの…………」

「詳しく説明してもらおうか!!」


 彼女たちの目は怒りに燃え、じりじりとネイサン様に迫っていった。


「……しまった」


 ネイサン様は一瞬言葉を失い、戸惑いながらそうつぶやいた。






 そのとき、優雅な足音が響き、一人の女性が玄関に現れた。紺色の髪を高くまとめ、深く冴えた黒い瞳が印象的な、美しくも迫力のある女性だった。


 彼女は冷静な表情で周囲の状況を見回し、鋭い目つきでネイサン様と彼のお姉様たちを見つめた。



 わたしは彼女を見て目を見張った。



(こ、この方は……!)



「何が起こっているのかしら?」


 彼女の声は静かだが、その一言で場の空気が一変した。


「「「イリス姉様!!」」」


 彼女はネイサン様の長姉であるイリス様だった。彼女の登場により、場の緊張感はさらに高まった。


「まずい……! いちばん厄介なのが戻ってきてしまった……!」


 ネイサン様は顔を顰めながらも、退路を探して視線を走らせていた。


「ネイサン、無駄よ」


 イリス様がそう告げると、ネイサン様は逃走を諦め、ガックリと肩を落とした。


「ハインリヒ殿下、ごきげんよう」

「や……やあ、久しいなイリス嬢。隣国での商談はどうだったかな? 挨拶も碌にできずすまないが、私はサーギ子爵と偽霊媒師を捕らえ尋問しなければならない。これで失礼するっ……!」


 イリス様に声を掛けられたハインリヒ殿下は、逃げるように早足で去って行った。





 わたしはイリス様に駆け寄り、羨望の眼差しを向けた。


「あ、あの、“ラ・フルール・イリデッサント”のオーナー兼デザイナーのアイリス様でしょうか!?」


 わたしが尋ねると、彼女は目元に笑みを浮かべながら軽く頷いた。


「ええ。“La Fleur Iridescente”はわたくしの店よ。デザイナーとしてはイリスではなくアイリスと名乗っているわ」



(やっぱり!!)



「わたし、“ラ・フルール・イリデッサント”の大ファンなんです!!」



 わたしは興奮を抑えきれず、店の素晴らしさを語り始めた。


「店内の装飾が本当に美しくて、まるで夢の世界にいるような気分になります。ドレスのデザインもひとつひとつが芸術品のようで、特に先日発表されたあのエメラルドグリーンのドレスは息をのむほど素敵でした! 普段はウィンドウショッピングばかりなんですが、それでも店員の方々が皆さん親切で、いつも丁寧に対応してくださるんです。アイリス様のセンスと情熱が感じられて、心から感動しました! ドレスはあまり持っていないんですが、また必ず手に入れたいと思っています!!」


 イリス様は優雅に微笑み、わたしの手を取った。


「ふふ。嬉しいわ、可愛い方ね。ネイサンが巻き込んだんでしょう? ごめんなさいね。お詫びにドレスをプレゼントするわ。さぁ一緒にお茶にしましょう?」


 彼女は洗練された所作でわたしをエスコートし、歩き出した。


「ニコ、ネイサンを連れて行きなさい。ネイサン、わかっているわね?」


 イリス様がそう命じると、ネイサンはお姉様たちによって、まるで逃げ場のない囚人のように連れて行かれた。





 ***





 後日、わたしは再びクラーク侯爵邸を訪れた。色とりどりの花々が咲き誇る手入れの行き届いた庭園の一角に設けられたテーブルに座り、お茶をいただいている。


 対面しているネイサン様の首には包帯が巻かれており、その姿にわたしは心がざわつくのを感じた。


「ネイサン様、首の怪我は大丈夫ですか?」


 わたしがそう言うと、彼は軽く笑いながら答えた。


「ああ、首は大したことはない。それより、サブリナ姉上の稽古で全身が痛い」


 わたしは安堵しつつも、その姿を想像し思わずクスリと笑ってしまった。


 ネイサン様は照れた様子を誤魔化すように、サーブされたケーキを一口食べ、目を見開いた。


「これ美味いな……」


 そうつぶやいたネイサン様に、わたしは嬉しくなって答えた。


「本当ですか? 良かったです! わたしも作ってみたんです」


 それはわたしが持参したものだった。どうしても食べたくなって、わたしは前世の記憶を頼りにチーズケーキを再現してみたのだ。


 この世界ではクリームチーズが手に入らなかったので、代わりにフレッシュチーズとカッテージチーズを使った。前世のクリームチーズほど滑らかではなく少し粒状感があるけれど、それもまた趣がある。濃厚さはないが、さっぱりとした味わいが新鮮だ。


 ネイサン様は感動したように頷きながら、もう一口ケーキを口に運んだ。




「ネイサン様、あのとき、守ってくれてありがとうございました」


 わたしは改めてネイサン様にお礼を言った。わたしが微笑むと、彼の顔が一気に赤く染まった。


「ナタリー嬢……! 俺に毎日このケーキを作ってくれないだろうか!!」

「へっ? レシピなら……」

「俺……いや、私は君のことが……」


 ネイサン様が改まってわたしに何かを言いかけたとき、彼の名を呼ぶサブリナ様の声が響いた。ネイサン様は一瞬で表情を戻し、慌てて立ち上がった。


「くそっ……! いいところだったのに!! ナタリー嬢、すまない。また後日改めて……!」


 ネイサン様は名残惜しそうにしながらも、サブリナ様に気づかれないよう、急いでその場を離れた。





 ***





 イリス様に招待され、わたしは“ラ・フルール・イリデッサント”へ向かっている。


「イリス様に直接招待されるなんて、夢のようだわ」


 頭に浮かぶのは、イリス様の優雅な姿、店内の美しい装飾、芸術品のようなドレスの数々。そして、店員たちの親切な対応。


 イリス様のドレスショップは、まさに憧れの聖域なのだ!!


「どんなドレスを選んでくれるのかしら……」


 ハインリヒ殿下から、アデリーズを早急に直せと毎日のように催促の手紙が届いている状態でやさぐれていた心が、イリス様との再会と彼女の店での特別な時間を思うと、まるで浄化されるように軽くなっていく。




 ドレスショップへ到着し、深呼吸をして心を落ち着けた。ゆっくりと店のドアが開かれると、そこに広がる思いがけない光景に、わたしは思わず息をのんだ。



 店内には、わたしの推しである憧れの店員がいたのだ!!



 いつ来店してもなかなか会えない、幻の()()店員!!



 緩く巻いた紺色の長い髪と、透き通るような白い肌に大きな黒い瞳が印象的な、芸術品のように美しい顔立ちをしている彼女は、所作のひとつひとつが洗練されており、見る者すべてを魅了せずにはおかない、気品ある優雅さを纏っている。


「こちらのドレスはいかがかしら? あなたの綺麗な金髪に映えて、とても似合うわ」


 彼女はそう言いながら、他の令嬢にドレスを勧めていた。


「いらっしゃ……」


 店内に入ったわたしに気づいた彼女は、目を見開いて一瞬動きを止めた。


 彼女がくるっと振り返りその場を離れようとしたので、わたしは慌てて彼女の前に立ちふさがり、声を掛けた。


「あ、あの! わたくしにも、似合うドレスを選んでいただけますかっ!?」

「え、ええ……。でも、わたくしより、オーナーの方が良いのではないかしら……」

「あなたに選んでいただきたいのですっ!!」

「くっ……!」


 興奮しながら憧れの眼差しで彼女を見つめると、彼女はわたしから視線を外し、顔をそむけた。



(あれっ……?)



 顔をそむけた彼女の首元には、並行した二本の傷痕があった。


「その傷……」


 彼女は慌てて首元に手を当て、それを隠した。



「あーーーーーーっ!!!!!!」






 ——おわり——








多くの作品の中から、この作品を読んでいただき、ありがとうございました。


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