第三十四夜:砕けた壁、軋む心
「……なに、これ……?」
目の前に広がる光景に、あたしは息を呑んだ。
燃える街並み。
視界を揺らす黒煙。
耳に突き刺さる、絶望の悲鳴。
瓦礫の中で這いずるゾンビたちが、人々に噛み付き、肉を貪っていた。
地面は鮮血に染まり、あたしの目の前で、次々に人が倒れていく。
「う、うそ……」
ギルドを飛び出した時、大きな崩れる音がして、無我夢中でその音の方へ走ってきた。
気づけばここにいた。
でも、これは……これは現実なの?
身体が、動かない。
足が、竦む。
何してるの。
何してるの、あたし。
助けなきゃ、助けなきゃいけないのに。
なのに、動けない。声も出ない。
ただ、目の前で誰かが喰われていくのを、見てるしかできない。
「……っ!」
そのときだった。
「きゅうっ!」
フェリオの小さな声。
あたしの肩にしがみつき、心配そうに鳴く。
その鳴き声に、はっとした。
(……あたし、なにしてるの?)
目の前には、ゾンビから逃げようと必死に走る人たち。
でも、遅い。
誰かが倒れるたびに、後ろからゾンビが迫ってくる。
壁の一部が壊れ、そこから入り込んできたのか。
街に、ゾンビが……!
「……フェリオ、ありがとう」
目を閉じ、強く息を吸い込む。
震える手を握りしめて、あたしは一歩を踏み出した。
――倒さなきゃ。
いや、助けなきゃ。
あたしは駆け出した。
瓦礫を飛び越え、ゾンビの牙が迫るその瞬間、誰かを掴んで引きずるように助け出す。
フェリオがあたしの肩にしがみついてくる。
怖い。
怖いけど、動かなきゃ。
「逃げて!!」
叫びながら、次の人を助けに走った。
自分の足が重い。
心臓が早鐘のように打つ。
それでも、止まらなかった。
(誰かが、死ぬのなんて、見たくない!)
たとえどれだけ遅くて、力が足りなくても。
たとえ恐怖で動けなくなりそうでも。
あたしはこの場所で、助けられる人を、助ける。絶対に。
瓦礫の陰に隠れていた女性の手を掴み、引きずるようにして引っ張る。
ゾンビがすぐそこまで迫っていた。
鼻を突く腐臭、ガリガリと歯を鳴らす音。
振り返れば、死人の顔がすぐそこにあった。
乾いた唇がひび割れ、黄ばんだ歯が血肉を欲している。
「走って! 早く!」
必死に叫んだ。
女性は泣きながら、震える足で逃げ出した。
その背中を見送る暇もなく、次の悲鳴に反応する。
見ると、老人が足を引きずりながら逃げようとしていた。
ゾンビが後ろから肩に噛み付き、肉を引き裂く。
「だ、誰か、助けて……っ!」
耳を塞ぎたくなるような叫び声。
あたしの心が強く締め付けられる。
怖い。
見たくない。
でも、見てしまった。
目の前で、人が喰われる光景を。
「嫌っ……いやだ!」
恐怖に叫びながら、あたしは無我夢中で飛び出した。
腕を掴み、ゾンビに噛まれた老人を引き剥がす。
けど、もう遅かった。
肩に食い込んだ歯形、流れる血。
おじいさんはもう、助からない。
「ご、ごめん……なさい……でも、でも!」
それでもあたしは彼の手を引いていた。
何も考えられなかった。
助けなきゃいけない、それしか頭になかった。
「きゅ……きゅぅぅ……」
フェリオが不安そうに鳴く。
あたしの肩で震えていた。
ごめんね、怖いよね。
でも、でも……!
「お願い、逃げて! 私が時間を稼ぐから!」
歯を食いしばり、立ち向かった。
震える腕を、必死に前に突き出す。
怖くて、怖くて、今すぐ逃げ出したかった。
でも、ここで逃げたら、また誰かが死ぬ。
死なせたくない。
誰かが倒れるたびに、悲鳴が空気を震わせる。
「逃げてぇぇぇぇぇ!」
声が枯れるまで叫ぶ。
でも、次の瞬間だった。
――あれ?
悲鳴に混じって、何か別の音が聞こえた。
「……え?」
耳を澄ます。
空耳なんかじゃない。
確かに聞こえた。
「くふ、ふふふっ……あははははっ……!」
ゾンビに食われる人の悲鳴の合間に、誰かの――笑い声。
背筋がぞわりとした。
誰が、こんな状況で笑ってるの?
震えながら、あたしは視線を巡らせた。
ゾンビたちに食われる人、逃げ惑う人、倒れた人。
誰もが必死に生きようとしているのに……
その中に、明らかに場違いな、誰かの笑い声が混じっていた。
「誰……?」
喉の奥が冷たくなる。
声が、震える。
悲鳴の中に紛れた、誰かの笑い声。
その正体がわからないまま、あたしは立ちすくんでしまった。
――クラウゼンブルク外周、少し前
僕はアイシスさんの部隊と交代しながら前線の維持をしていた。
思った以上に敵の足止めができている。
森を抜けてくるゾンビたちは、すでに焼け爛れ、
ナグリスですらその多くが勢いを失っていた。
これまでの戦いで死傷者もおそらく激減しているはずだ。
それでも、次々と現れるゾンビたちに、こちらの兵も少しずつ消耗していくのがわかる。
(まだ終わらない…でも、もう少しだ)
そう自分に言い聞かせながら、僕は拳を握った。
今のところは五分五分?
……いや、このまま続けばこちらの分が悪いかもしれない。
それでもまだ戦える。
今のところ、押し返せている。
そんな時だった。
「……っ!」
援護の矢が、ふと途切れた。
さっきまで耳を撫でていた矢の音が、ぴたりと止まる。
(……何だ?)
疑問が浮かびかけたその瞬間。
――ドゴォォォォン!!
轟音と共に、重い何かが崩れ落ちるような音が響いてきた。
僕は反射的に顔を上げた。音は……遠くない。
――何だ、今のは?
ただの瓦礫の崩落……そんな生易しいものじゃない。
明らかに、もっと大きな、もっと重い何かの音だった。
爆音と共に何かが崩れ落ちる音が、はっきりと耳に届いた。
僕はその瞬間、嫌な予感が脳裏をかすめた。
何かが……崩れた? いや、まさか。そんなはずはない。
だけど、外壁に立って援護していた弓兵や魔法兵の矢が途切れたのは、あの音の直前だった。
「なんだ……何が起きた……?」
足元から伝わってくる振動は確かなものだった。
重い石が砕けるような、地面に響く低い音。
僕の鼓動が、その音に合わせて速くなっていく。
アイシスさんに視線を送った。
彼女も眉をひそめ、外壁の方向に目を向けている。
「アイシスさん、今の音……」
「わかっている。だが、ここを動くわけにもいかない。
ジーク少年、すまないが確認を――」
アイシスさんの言葉は最後まで聞き取れなかった。
僕は既に走り出していた。
胸の奥がざわつく。
あの音は、ただの崩落じゃない。
もっと……悪いことが起きている気がしてならなかった。
なぜなら、外壁はクラウゼンブルクの最後の防衛線。
あそこが破られれば、市街地は壊滅する。
足を止めたのは、目の前に広がる光景を見たからだった。
――信じられない。
外壁の一部が、大きく崩れていた。
瓦礫が積み上がり、そこからゾンビたちが、まるで蟻のように街中へと雪崩れ込んでいく。
「……嘘、だ……」
足がすくみそうになる。
冷たい汗が背中を伝うのがわかった。
どうしてだ?
外壁はあんなに頑丈だったはずだ。
多少の攻撃では崩れるはずがない。
何か、強い力で……壊された?
いや、そんなことよりも。
「街が……」
ゾンビの群れは既に街の中に入り込んでいた。
逃げ惑う人たちの悲鳴が、ここまで届いてくる。
「まずい……!」
すぐに駆け出そうとした瞬間、再び援護の矢が放たれた。
だが、その矢は先程よりも勢いが弱く、数も少ない。
僕の脳裏を、ひとつの疑念がよぎった。
(外壁で……何かがあった)
この状況、誰かが破壊したのか?
それとも、何かの事故か?
――考えている時間はない。
「僕が行くしかない……!」
行かなきゃいけない。
確かめなきゃいけない。
僕は外壁の崩れた場所へと走り出した。
あの中にいる人たちを、一人でも多く守るために。
――同時刻、クラウゼンブルク街内
オレは後方の街で負傷者を運んでいた。
前線は下がり、戦場は目に見えるほど近くまで迫っていたが、
それでも街の中はまだ混乱の中にあった。
助けを求める声、泣き叫ぶ者、血まみれで倒れたままの者。
オレはその一人一人を見過ごせなかった。
――故郷を群れに襲われた記憶が、オレの中に根付いている。
目の前の命を、今度は見過ごしたくなかった。
それだけだった。
重傷者を担ぎ、なんとか避難所へと運ぼうとしたその時だった。
「……ん?」
首筋に熱気を感じた。何だ、火でも出たか?
と、思わず顔を上げた。
視線の先にあったのは、空中でうごめく人影と、巨大な火球。
人のサイズなんて遥かに超えていた。
いや、それだけじゃない。
魔法なのか、尋常じゃない熱量がここまで伝わってくる。
あれが森に放たれれば、ゾンビどもは焦土と一緒に灰になるだろう。
「……すげぇ熱気だな。ここまで伝わるって、どんな魔法使いだよ……」
オレは立ち止まり、しばし見上げることしかできなかった。
だが、次の瞬間、異変が起きた。
火球が放たれる。
けど、その方向に違和感があった。
「……外じゃ、ねぇ……?」
火球は外壁へと飛んでいく――そう、外に向かって放たれると思っていた。
だが、奴は違った。
火球は、なぜか街の内側に向けて放たれたのだ。
「……は?」
オレは言葉を失った。
火球はまるで何かを狙い澄ましたように、外壁の一部に叩きつけられた。
直後、爆発の轟音と衝撃波が街中に響き渡る。
「……嘘、だろ」
目の前で崩れ落ちる外壁。
これじゃあ崩れた壁から、ゾンビどもがなだれ込んでくる。
すでに避難していた人々の悲鳴が耳を突く。
そして。
視界の端、燃え盛る火球の余韻の中に、オレは“あいつ”を見た。
“あいつ”は笑っていた。
楽しそうに、何かに酔いしれているかのように。
そのまま、炎の中に身を投げるようにして内壁に落ちていく。
「おい……、てめぇ……何やってやがる……?」
信じられなかった。
信じたくなかった。
なのに、現実はあまりにも冷酷だ。
オレは拳を握りしめた。
顔が歪むのが分かった。
――何かが壊れた音がした。
それは、壁か、それとも……オレ自身の何かか。
呻き声が喉を突いた。
「……ふざけんな……リディアーーー!!!!」
逃げ惑う人々。
崩れる外壁。
笑いながらリディアは落ちていきやがった。
……あの光景を、オレは一生忘れない。
槍を持ち、オレは無我夢中で走り出していた。
今後は日、火、木曜日の11時更新となります。
「日曜日は二話更新」となります。
【2025年3月31日、第一夜〜第三夜 改稿】リライト企画進行中(牛歩)
現在第一夜〜第三夜の文章と構成を全面的にリライトしました。
以前のバージョンを読んでくださった方も、改めて楽しんでいただけたら嬉しいです。
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