第一夜:旅立ちの足跡
【※2025年3月31日、改稿】
一人でも多くの方に楽しんでいただけるように頑張ります!
この作品はファンタジー世界にゾンビウィルスが蔓延したら。
それを描く物語です。
果樹園の朝は、静寂と共に始まった。澄んだ空気に甘い果実の香りが漂い、陽光が木々を優しく照らしている。年配の農夫はくわを肩に担ぎ、熟れた果実を見回していた。
そんな平和な光景に、異質な音が混じる――枯葉を踏む重い足音。
それが徐々に近づいてくるのに気付いた農夫は、音の方へ振り向く。
そこには人影があった。だが、それは人間ではなかった。
灰色に変色した肌、濁った瞳、うつろな表情。
ゾンビ――それはこの世界では珍しいものではないが、いざ目の前に現れると、恐怖が胸を締め付ける。農夫は後退りしつつ、じっとそのゾンビを観察する。
幸い、それは動きが鈍く、爪の振り方も乱暴だった。
「ネクロスか……」
農夫は胸をなでおろす。
「ナグリスじゃないだけマシか……」
安心するのも束の間、くわを構えた彼は、渾身の力でゾンビの頭部を叩き割った。
鈍い音が響き、ゾンビは地面に崩れ落ちる。
安堵の吐息を漏らしつつ、農夫は静かに祈りを捧げた。
この世界では、ゾンビが日常に潜む脅威だった。
人々は死を恐れながらも、命を守るための知恵を巡らせていた。
獣人や翼族など、異なる種族が共存するこの地では、誰もが不安と希望の狭間に生きている。
そんな世界の片隅、小さな村では穏やかな午後が流れていた。
果樹園では収穫をする村人たちの声が聞こえ、通りでは子供たちが元気に遊んでいる。しかし、その平和の裏には、常に死の影が忍び寄っていた。
その頃、村の一角ではフォスターとジークが村人たちと会話を交わしていた。
「こんな小さな村じゃあ、できる限りの対策しか出来なくてねぇ」
そう話しかけてきたのは、白髪混じりの初老の女性だった。
フォスターは斧を肩に担ぎ直しながら苦笑いを浮かべる。
「俺たちみたいな旅の掃除屋が頑張るしかないんです。」
フォスターはやや小柄な体格だが、引き締まった筋肉がその動きを際立たせていた。肩に担いだ身の丈ほどもある大斧が、彼の存在感をより強調している。
鋭い目つきに村人たちは畏怖を感じることもあったが、その人懐っこい笑顔が緊張をほぐしていた。
一方、ジークはフォスターと対照的だった。
背が高めで、銀色の耳と尻尾を持つ獣人の青年で、その柔らかな毛並みが日差しを受けて輝いている。穏やかな雰囲気と優しい微笑みが、村人たちの不安を和らげる力となっていた。
「でも、天使様がいてくれたら……本当に安心なんですけどね。」
おばあさんが椅子に腰掛けながら語る。
その目は遠くの記憶を辿るように細められ、わずかに揺れていた
「そうですね……」
僕はその言葉に頷いたが、胸の奥に少しだけ棘のようなものが刺さるのを感じた。
きっと、それは自分が与えたかったものだ。
でも、あの人たちが言う『天使』と、今の自分が同じになれてるとは、とても思えないから。
「でも、村の周りも死人対策がしっかりしてるみたいですね」
なんとか話を逸らすように、ジークは辺りを見回しながら言葉を返す。
目に映るのは、祈りの札が掲げられた家々と、土を盛った小さな塚。
どれも人の手による工夫と覚悟の跡があった
「……ああ、毎日が気が抜けないよ」
老人が小さく笑い、指を伸ばす。
その先では、木箱を抱えた数人の村人が、静かに一つの大樹へと歩んでいた。
木箱の中には――眠るような顔の少女。
「最近亡くなった娘さんが……若かったのになあ……」
老人の声がふっと霞んで聞こえた。
信じられないな。
まだ、あんなに若いのに。
「埋葬だな……この世界じゃよく見る光景だが、いつ見ても心が締め付けられる」
フォスターの声が、どこか遠くに響いた気がした。
僕はただ、木箱の中の少女を見つめることしかできなかった。
どんな人生を送って、何が好きで、誰を大切にしていたんだろう。
その全てが、今――たった一つの木箱の中に閉じ込められている。
村人たちが大樹の根元に物を並べていく。
色とりどりの花、壊れた人形、小さなリボン。
どれも彼女が生きた証だった。
祈りの声が、一斉に響き始める。
「Sáluhvíld (魂の安らぎを)」
「Eilífr friðr (永遠の平和を)」
「Í ljósið (光の中へ)」
「Til himins (天へと還れ)」
「Í faðm jarðar (大地の懐へ)」
声が止んだあと、世界が静まり返る。
風も鳥の声も消えたみたいだった。
そして――青白い光が、樹の幹に沿って現れる。
僕は久しぶりの光景に目を奪われた。
幻想的な光が次第に花びらとなり、宙を舞いながら空へと昇っていく。
綺麗だな……。
……でも。
「……すごい……」
思わず漏れた声に、自分でも驚いた。
ただ、それ以上に――その光を見た瞬間、胸の奥で何かが軋んだ。
青白い輝きの中で、知らない村の光景が一瞬だけ、頭の中に溢れた。
笑っている人たち、花が風に舞って、どこかで誰かが、僕の名前を呼んでいた気がする。
なんだろ……今の?
「ジーク、どうした?」
フォスターの声が近くから聞こえる。
ジークはゆっくりと顔を向け、無理やり笑顔を浮かべた。
「……なんでもないよ。ただ、なんだか不思議な気持ちがしただけ」
自分の言葉なのに、どこか他人事のようだった。
葬儀が終わり、村人たちは少しずつ元の生活へ戻っていく。
僕はその場を離れられず、フォスターと並んで、大樹の前に立ち尽くしていた。
消えてしまった光を、ただ見つめながら。
葬儀が終わり、村人たちは少しずつ日常へ戻っていった。
だけど、フォスターと僕はその場を動かず、大樹の下でしばらく立ち尽くしていた。
フォスターは腕を組みながら、大樹の幹をじっと見つめていた。
その横顔は何も言わなくても、どこか沈んで見えた。
「フォスター……」
僕は、ぽつりと声をかけた。
だけど、何を言いたかったのか、自分でもよく分からなかった。
「この世界の人たちは、どうしてこんなにも簡単に死を受け入れられるんだろう……?」
そう呟いた言葉に、フォスターが反応した気配はあったけれど、すぐには答えが返ってこなかった。
フォスはゆっくりと目を閉じてから、小さく息を吐いた。
「受け入れてるんじゃねぇよ。
……受け入れるしかねぇんだよ。ゾンビのいる世界じゃ、戦うか諦めるかしか道はない。」
その言葉は、誰かに言い聞かせるような響きだった。
自分に対してなのか、それとも僕に向けてなのか。たぶん、両方だった。
「……それにしても、こんな光景見ても、何も感じなくなってきた自分が嫌だな。」
フォスターの声が、思っていたよりも静かだった。
いつも元気なフォスターが、その静けさが、逆に僕の胸を締めつけた。
僕は、言葉を返せなかった。
ただ、俯いて、手を握りしめることしかできなかった。
しばらくして、フォスターが斧を肩に担ぎ直した。
「そろそろ戻ろうぜ。休まなきゃ明日に響く」
その一言で、僕もようやく顔を上げた。
もう一度、大樹を振り返ってから、僕らはゆっくりと歩き出した。
オレたちは村の中心に戻るが、そこには別の緊張が来てやがった。
「まだ……動いてるのか!」
農夫の声が上ずる。
地面からよろけるように立ち上がり、ぐらついた足で村人たちの方へと進んでいた。
周囲は一瞬で混乱に包まれた。
「みんな下がれ!」
オレは叫びながら、肩に背負っていた斧を引き抜いた。
手に伝わる重みが、逆に落ち着きをくれる。
こいつがある限り、オレはまだ人を守れる。
そんな錯覚でもいい。
今は、それだけで動ける。
ゾンビの動きは鈍い。
だが油断すれば喉元に喰らいついてくる。
こいつらに“生きよう”って意志なんてない。
もう魂がそこにはない、“死んでる”んだ。
ただ、死そのものを撒き散らすだけの存在だ。
オレは一気に距離を詰め、斧を振りかぶる。
そのとき、脳裏に浮かんだのは――あの娘の顔。さっき、大樹に葬られた少女だ。
まだああやって、何かを信じて死んでいく者がいるってのに。
こいつらは……どこまで人の命を踏みにじれば気が済むんだ。
怒りに任せて斧を振り下ろす。
鈍い音と共に、ゾンビの頭部が裂けた。
もう一度、力を込めて刃を捻るようにして、頭蓋を砕く。
何の声も、うめきも聞こえなくなった。それでも、油断はしない。
油断したら最後、完全に動かなくなるまで、オレは安心しない。
しばらくして、ようやく動きが止まったのを確認すると、オレは斧を地面に立てかけ、肩で息を吐いた。
「助かった……本当にありがとう!」
農夫の声が聞こえる。
オレは軽く頷くだけで、ジークの方を見た。アイツの目が不安そうに揺れていた。
この世界で“ゾンビ”と呼ばれる存在には、実のところいくつかの呼び名がある。
ゾンビって言い方は、どこでも通じる。
ただ、オレたちみたいに死人の後始末に関わるやつらは、“ネクロス”って呼ぶことが多い。
言い方の違いはあっても、中身は同じだ。欲望だけを残して動く死者。肉の匂いに群がって、生きてるものを喰おうとする。
噛まれたところで感染はしないが、群れに囲まれたら、それだけで死ぬには十分だ。
けど――“ナグリス”は違う。あいつは、本当にヤバい。
見た目はゾンビとそう変わらねえ。だからこそ厄介なんだ。
ただ、一つだけ違うのは……目だ。
赤い光。それが見えたら、絶対に油断するな。
群れの中に混じって、不意を突いてくる。
一撃でやられる。
こっちが構える前に終わる。
ネクロスとナグリスの見分けなんざ、冷静に観察できる状況じゃねえ。
だが、いざって時に生死を分けるのは、そういう細かい違いだったりする。
呼び名をどうしようが、やることは変わらねえ。
オレもジークも、ナグリス以外は気分で呼んじまってる。
……そんなもんだ。
毎日が戦場みてぇなもんだからな。
「多分野良だろうし、これで大丈夫だろ……ったく、疲れる役回りだな」
“野良”コイツらは大体群れを成して行動しやがる。
だけどたまにそこから離れて、こういう風になることも珍しくない。
口にした自分の声が、妙に乾いて聞こえた。
『役回り』なんて言葉で割り切れりゃ、こんなに苛立つこともねぇんだろうけどな。
――
二人は村人の家に戻ると、空気は一変していた。
先ほどの緊迫が嘘のように、暖かなもてなしが迎えてくれた。
出された夕食は、派手ではなかったが腹に染みた。
手をかけてもらった食事なんて、いつぶりだろう。
(アレ……、ホントにいつぶりだ……?)
「こんな時代に旅をしているなんて、大変でしょう?」
老夫婦の奥さんが、気遣うように声をかけてくれる。
オレは黙ってスープを口に運び、ジークの返事を待った。
「ええ。まあ、それが僕たちの役目なので……」
歯切れの悪い返事に、旦那さんの方が口を挟んできた。
「役目……か。お前さんたちは何者なんだ?ただの旅人には見えないが……」
その問いに、オレは一瞬だけ視線を逸らす。
「大したもんじゃないっすよ。ただ、行く先々で出来ることをしてるだけさ。」
そう答えるのが、今のオレにできる精一杯だった。
それ以上のことは、オレたちはまだ……語れるくらい偉くもないんだ。
家主はそれ以上踏み込むことなく、静かに席を立った。
「明日も早いだろうから、もう休みなさい。」
オレはそれに頷き、食器を片付けながらふと、斧を見た。
汚れたままの刃。磨く気力も湧かず、そのまま壁に立てかけた。
夜――
村が静まり返り、月の光だけが窓の隙間から差し込んでいた。
寝台に体を横たえてはいたけど、まったく眠気はこなかった。
ただ、ぼんやりと天井の木目を見つめていた。
隣の寝台から、かすかな寝息が聞こえる。
……と思ったけど、すぐにそれが違うと分かった。
「フォスター……まだ起きてる?」
小声で呼びかけると、数秒後、低く応える声が返ってきた。
「ああ。……どした?」
言葉に詰まる。
さっきからずっと考えていたはずなのに、いざ口に出そうとすると、何もまとまらなかった。
「今日の葬儀を見て思ったんだ……」
自分の声が、思っていた以上に弱くて、情けなくなる。
「僕たちは……ほんとに、これでいいのかな。これで、誰かを救えてるのかなって……」
言いながら、胸の奥が苦しくなってきた。
あの少女の葬儀。木箱の中で眠るように横たわっていた顔が、ずっと頭から離れない。
村人たちの祈りの声。花びらのように昇っていった光。
どれも美しくて、優しくて、……でも、残酷だった。
お葬式って、そういうものだけど。
それをただ見ていることしかできなかった自分が、情けなかった。
しばらくの沈黙のあと、フォスターが寝台から体を少し起こす気配がした。
「お前は……人のために使える力があんじゃねぇか」
その問いに、僕は困ったように微笑んだ。
そして、素直に頷く。
「うん。でも、僕の力は……完璧じゃないよ。ただの自己満足かもしれない」
「それでも、誰かが救われてるって。だったら、それで十分だろ。……オレはそう思うぜ」
フォスの声は、淡々としているようでいて、どこか優しかった。
信じてもいいのだと、肯定された気がした。
心の中のしこりが、ほんの少しだけほどけたような気がして、僕は目を閉じた。
それでも、すぐに眠れるような気はしなかった。
翌朝――
村の広場は、怒声と悲鳴に満ちていた。
目を覚ました瞬間、ただならぬ気配に胸がざわついた。
急いで身支度をして広場に駆けつけると、そこでは――
一人の男性が、地面に膝をついていた。
彼の腕には、深く噛まれた跡があり、その周りの皮膚は黒ずんで腫れ上がっていた。
その男を囲むように、村人たちが怒鳴り声を上げていた。
「隠してたのかよ!」
「ゾンビにやられたってわかってたんだろ!」
「このままじゃ俺たちまで感染する!」
「どうせ七日以内に殺すことになるんだ!」
男の隣には、泣きそうな顔の妻と、怯えた様子の子供たち。
その姿は、流石に胸を抉られた。
「お願いです!主人を、主人を助けてください!」
妻が叫ぶように声を張り上げる。
だけど、その声は群衆の怒号に飲まれていった。
石が飛び、怒鳴り声が重なる。
「こんな奴、生かしておけるわけがない!」
正直気持ちはわかる。
けどよ、気づいたら足が前に出てたよ。
「やめろ、落ち着け!」
怒号の渦の中で、オレは一歩前に出て声を張った。
怒鳴り返すでもなく、ただ、鋭く低く通す。
こういう時に必要なのは、音量よりも“断固とした意志”だ。
けど、それでも止まらない。
「よそ者が口を出すな!」
「お前らには関係ないだろう!」
怒りをぶつけてくる村人の目は、恐怖で濁っていた。
オレらが誰かなんて関係ない。ただ、“感染”の一言で、思考が吹き飛ぶ。
それがこいつらの限界なんだ。
「暴力で解決するつもりか?それで納得できるのか?」
言葉を返しながらも、オレの頭の中にはもうひとつの冷たい選択肢がよぎっていた。
このまま群衆が突っ込んでくれば、オレは斧を抜くしかない――そんな緊張感が喉元にまとわりついていた。
「こいつがゾンビになったらどうする!?お前が責任取れるのかよ!」
誰かが叫ぶ。
その言葉に、場の空気がまた一段、重くなる。
オレはちらりと隣に立つジークを見た。
ジークは拳を握ったまま、動けずにいた。
目は下を向き、まるで自分を責めてるようだった。
……オレは、そういうジークが嫌いじゃない、優しいんだよコイツ。
だけど――その優しさが、時々、歯がゆくもなる。
何かが決壊するように、ジークが前へ歩き出した。
「ジーク、待て……!」
思わず声が出たけど、彼は振り返らなかった。
真っ直ぐに、あの男の前へ進んでいく。
オレは足を止めたまま、それを見ていた。
ジークが膝をつき、男の手を握る。
その背から、いつものあの光がゆっくりと溢れ出していった。
青白い光が、男の体を包む。
驚きとざわめきが広場に走る。
“奇跡”だと思ったんだろう。
天使が現れたとか、そういう類いの幻想を――。
まぁ、実際オレたちは天使だ……。
でも、オレは分かってる。
ジークの力は、命を救うもんじゃない。
これから死にゆく苦しみを和らげてやるくらいのもんだ。
「……Eilífr friðr Sof þú rótt……」
僕の唇から祈りの言葉がこぼれた瞬間、自分の中にあった何かがじんわりと溶けていくような感覚があった。
背中から淡い青白い光がゆっくりと広がって、男の人の体を包んでいく。
周囲のざわめきが遠のいていく。
時間の流れが、そこだけ静かに止まったみたいだった。
男の荒い息づかいが、ほんの少しだけ穏やかになった。
痛みが、少しだけ遠ざかっていくのが分かった。
でも――
「……治せて……ないんです……」
その言葉が、自然に漏れた。
苦しみを消せても、運命は変えられない。
それを分かっていながら、それでも手を伸ばしてしまう自分が、悔しかった。
男の妻が、震える声で問いかけてくる。
「先程の光は天使様の力ではないのですか!?夫は……本当に救われるんですか?」
僕は、目を伏せて、ただ首を横に振った。
「僕の力は……感染を治すものじゃありません。
ただ……苦しみを和らげるだけなんです……。残された時間を、穏やかにするだけで……」
言葉を絞り出すたびに、胸の奥が軋んだ。
優しさのつもりで差し出したものが、誰かにとっては“希望を与えておいて裏切る行為”なのかもしれない。
そんな風に思うと、胸が締めつけられた。
怒りの声が、すぐに僕の周りを包み始めた。
「なんだよ、それじゃ意味ないじゃないか!」
「結局、ゾンビになるんだろ!?何が天使だ!」
耳を塞ぎたくなるほどの声の中、僕はただその罵倒を聞いていた。
でも、その瞬間――
「黙れよ!」
その一言は鋭く、広場の喧騒を一瞬で鎮めた。
フォスターは、冷たい視線を村人たちに向けながら言葉を続けた。
「何もしないで罵るだけで、誰かの苦しみが消えるのか?
こいつは、自分ができる限りのことをやった。それ以上何を求めるってんだ!?」
一部の村人は目を伏せるが、それでも不満げに口を閉ざす者もいた。
「だったらお前が責任を取れるのかよ!」
一人がそう叫んだが、フォスターは冷静に斧を肩に担ぎ直しながら応えた。
「責任なら、俺たちが取るべき時にきっちり取るさ。それで文句はあるか!?」
その静かな威圧感に、村人たちは再び言葉を飲み込んだ。
そして広場に再び静けさが戻る。
フォスターの声が、刃のように広場を切り裂いた。
次の言葉が来る前に、空気が一変するのが分かった。
僕は顔を上げた。
フォスターの背中が、自分の前に立っていた。
その姿が、いつも以上に安心して見えた。
叱られているわけでも、守られているわけでもない。
ただ、そこにいてくれる。フォスはいつもそうだ。
それだけで、少しだけ……少しだけ息ができた。
しばらくして、場が静まり、男の体が微かに動いた。
「……っ」
まぶたが、震えている。
やがて、ゆっくりと目を開けた男は、隣にいた妻を見て微笑んだ。
その表情に、僕は言葉を失った。
そこにあったのは――苦しみじゃない。
怒りでも、絶望でもない。
「おい……!」
誰かの声が広場に響いた。
「目を覚ましたぞ……!」
周囲の空気が揺れた。
誰もが一瞬、息を呑んだ気配が伝わってくる。
僕もその場から動けずにいた。
彼の目は、どこか遠くを見るように宙をさまよっていたけれど、次の瞬間――
隣にいる女性の姿を捉えると、わずかに目元が緩んだ。
「……もう、心配しなくていい……ありがとう……ずっと、そばにいてくれて……」
その声はかすれていたけれど、確かに届いた。
女性はその一言で、堪えていたものが崩れたように男性にしがみつき、声を殺して泣き出した。
子どもたちも、ようやく恐怖から解放されたように男性に駆け寄り、小さな手で顔や肩に触れていた。
お互いを確かめ合うように何度も、何度も手を重ねていた。
その光景を見ていたら、僕の胸の奥から、熱いものが込み上げてきた。
救えたんじゃないんだ。
でも……
彼らにとって、この瞬間が“救い”であったなら――
ほんの少しでも、意味があったのなら――
それだけで、十分じゃないかって、本当は思いたかった。
七日病。
この病の進行は、まるで死へ向かうための、ゆっくりとした階段みたいだった。
最初のうちは、ただの風邪みたいなものだ。
熱と倦怠感、少しの寒気。肌に灰色の斑点が浮かぶことさえ、見落とされることがある。
でも、本人は絶対にわかってる。
だって、この病はナグリスからしか“感染”しないから。
その人は必ず噛まれるか、引っかき傷がある。
でも、三日もすれば症状は一気に進む。
斑点は全身に広がり、血管が赤黒く浮き上がってくる。
目は充血し、肌は固くなって、痛みと熱が体を蝕んでいく。
四日目以降は錯乱したり、突然暴れたりすることもある。
だから、隔離される。
そして……六日目。
もう、自分で立つことも、話すこともできなくなる。
赤黒い血管が身体を這い、皮膚は壊れ始めて、呼吸は細く、不規則になる。
目は濁って、それでも、最後の意識のどこかで――生きていた頃の記憶が、ふと戻ってくる人もいる。
七日目の終わり。
完全に命が途絶えたとき、その肉体は“ナグリス”へと変わる。
もう、そこに人間だった面影は残らない。
匿ってしまえば、必ず他に被害が出る。
だからこそ、僕たちはその“最後の瞬間”に寄り添わないといけない。
天使がいない村では、火葬されたり、縛られたりして最期を迎える人たちも多い。
誰にも見送られず、ただ“死ぬだけ”の未来が、どれほど恐ろしいか――
誰でも、それを知ってるから。
せめて、最期だけは、誰かのそばで。
苦しみを和らげて、穏やかに逝けるように。
それが、僕が“天使”としてできる、たった一つのこと。
僕の“天使”としての力。
それはどの段階からでも痛みをなくし、ナグリスにならない様に済む“天使の祈り”。
でも、でもね……、七日目の終わりには必ず死んじゃうんだ……。
僕の力は、最後のひと時まで、大切な人にお別れを言う意識を残すためだけの力。
男性が僕の方へ顔を向けた。
その目に宿る光が、優しくて、あたたかくて――僕は、それを直視できなかった。
「……君がしてくれたこと、本当に感謝しているよ。
こんなに穏やかに……最後を迎えられるなんて、思ってもみなかった……」
「……ごめんなさい……」
言葉が、涙に変わった。
気づけば、頬を伝っていた。
「もっと何かできたら……」そう言いたかったけれど、悔しさが、悲しさがいっぱい出てきて、うまく声に出せなかった。
男性は、ゆっくりと首を横に振る。
「君は……恩人だ。……おかげで、こうして……家族とお別れを言える時間をもらえた。それだけで……救われる人間だって、いるんだよ……」
その言葉が、心の奥深くまで届いた。
それでも僕は涙が止まらず、何度も頷いた。
泣くことが許された気がして、肩の力が抜けていった。
隣で、フォスターが静かに息を吐く気配があった。
僕の姿を見ながら、何も言わずに――それでも、どこか安心したように呟いた。
「ったく、面倒な役回りだな……」
でも、フォスのその声は、いつも通りにあたたかかった。
それから数日後、男性は静かにその最期を迎えた。
彼の家族は最後まで寄り添い、彼の顔には穏やかな笑みが浮かんだままだった。
苦しみは消え去り、その死はまるで長い眠りにつくようだった。
葬儀の日、再び村の大樹の前に人々が集まった。
男性の遺体を納めた木箱が慎重に運ばれ、彼の家族と村人たちが見守る中、祈りが捧げられた。
「Sáluhvíld(魂の安らぎを)」
「Eilífr friðr(永遠の平和を)」
「Í ljósið(光の中へ)」
「Til himins(天へと還れ)」
「Í faðm jarðar(大地の懐へ)」
祈りの言葉が終わると、大樹のうろが静かに閉じ、青白い光が漂い始める。
その光は花びらとなり、天へと舞い上がっていった。
その様子を見守るジークの目には、再び涙が浮かんでいた。
フォスターは隣で静かに立ち尽くしていたが、やがてジークの肩を軽く叩いた。
「行こうぜ。ここにいつまでもいるわけにはいかないしな。」
ジークは一度深呼吸し、涙を拭いながら頷いた。
村を出る道の途中、一人の女性が二人を追いかけてきた。
それは、ジークを責めたあの女性だった。
「待ってください!」
彼女は息を切らしながら駆け寄り、大きく頭を下げた。
「ごめんなさい!あの時、あなたを責めてしまって……本当は……あなたのおかげで夫が安らかに旅立てたことに、感謝しているんです……!」
ジークは困ったように微笑み、静かに答えた。
「……ありがとうございます。でも、僕は……まだ何もできていません。」
彼女は何かを言いかけたが、ジークがそっと手を挙げて制した。
フォスターが肩に斧を担ぎ、ジークの肩を軽く叩いた。
「行くぞ。次の村が待ってる。」
ジークは頷き、再び歩き始めた。
「噛まれようが殺されようが、結局死ぬんだけどな……」
フォスターがぼそりと呟く。
「うん。それでも……周りの苦しみも僕らが背負わないと、みんなおかしくなっちゃうんだよ。」
ジークが答える。
「嫌な役回りだよな、天使なんて。」
ジークは振り返りながら小さく微笑んだ。
「……うん。でも、“あの村”みたいにならなくて良かった。」
「……そうだな。」
二人は並んで歩き出し、遠くに見える次の村を目指した。
その背中は、夕陽に長く影を伸ばしていた。
文章と構成を全面的にリライトしました。以前のバージョンを読んでくださった方も、改めて楽しんでいただけたら嬉しいです。