温かいポッケ
ポッケ大好き
妻が死んだ。あまりにもあっさりとこの世を去ってしまったので未だ実感はない。子供のいない夫婦。妻がいなくなれば独りに逆戻りだ。結婚するまでずっと一人暮らしだったし、なんなら部屋もその頃から変わっていない。
それなのに。
15年の歳月は大きい。
部屋にいると、ふとスマホから上げた目がいつも妻が座っていたあたりを彷徨う。
車を降りると助手席側のドアを確認してしまう。
広くなったベッド。真ん中で寝ようとしても朝目覚めると身体は右に寄っている。もう、寒いからと猫みたいに寄ってくる君はいないのに。
おかえりと言ってくれる人を失った家。子供っぽいところのある妻は、私を驚かせようと物陰に潜んでいることが度々あった。わっ!と飛び出してくる君を捕まえて2人で笑った日々が、無意識に私に妻を探させる。もう、どこにもいないのに。
いつか独りに慣れるのか。
妻が気に入って、着るたびにふざけて何度も手を突っ込むからのびのびになってしまった私の部屋着の胸ポケット。ワッフル地で肌触りがよく気に入ってたのに胸だけヨレヨレだ。
ーーここにいると安心する。ここに住みたい。
そう言って真面目な顔をしてぐりぐり拳を突っ込んでくるのでくすぐったくてたまらなかった。
昔、恋人が人形サイズに小さく縮んでしまうラブコメがあった。妻はそのドラマを引き合いに、自分も小さくなれたらここに入れるのにと呟いた。そうしたらずっと一緒にいられるのにね。
妻とは夫婦で親友で、何でも話せる間柄だったが、決してべたべたした関係ではなかった。そんな妻が四六時中一緒にいたいという旨の発言をしたので驚いた。
すると妻は、
「この温もりが好きなの。ここなら落ち着いていられる。それに小さいサイズになったらご飯もちょっとで済むし。たまにポッケにお菓子のかけらとか落としてね。」
と笑った。質量保存の法則があるから胸ポケットに50キロは無理だと言えば47キロだもんと叩かれた。
そんなびろびろに伸び切った胸ポケット。もう君はいないのに、なんだかここだけ温かい気がするんだ。もしかしたら君はここに入る夢を叶えたのかな。だって、前に心霊現象の特殊番組を見たとき言ってたよね。
その土地に執着して離れられなくなってしまったのが地縛霊なら、私はポッケに執着してるからポッケ縛霊だねって。地縛霊って言うとなんだかおどろおどろしいから、おしゃれにジ・バクレイって呼ばない?そうしたら私は成仏できなくても胸を張ってポッケ・バクレイを名乗るよって。
うんそうだね、きっと君はポッケ・バクレイになったんだね。だから独りでもこの胸は温かい。
いいよ成仏しなくても。ずっと一緒にいよう。
仕事のときワイシャツの胸ポケットにスマホを入れるのをやめた。もし君がそこにいるなら、擦れて痛い思いをさせたくない。
買うシャツは仕事用でもそれ以外でも、なるべく胸にポケットがあるデザインのものにした。お菓子は個包装されているビスケットを入れる。すぐに砕けてぼろぼろになるけど味は変わらないから大丈夫なはず。チョコが好きなのは知っているけどごめん、溶けるから勘弁してくれ。
あぁ、君は温かいな。
神崎部長はいつも物腰が柔らかくて紳士的。仕事ができるけど、決して部下を置いてきぼりにしないのでみんなから慕われている。まだ40代前半の男盛りで既婚者と知っていても憧れる女性社員は多い。
その神崎部長の奥様が亡くなったそうだ。まだお若いのに病死されたと。部長は変わらず出社しているけれど、ワイシャツの皺が残っていたりするのを見ると胸が痛くなる。アラサー独身女子には伴侶を失う悲しみは想像もつかない。迂闊なお悔やみの言葉すら憚られてしまう。
「あの、箱根に行ったのですがよかったらクッキーいかがですか?」
おぉ加藤さん勇気あるねぇ。昼休憩に入った直後に動いたうちの若手エースは菓子折を持って真っ直ぐに部長のデスクに行った。いつも穏やかにありがとうと受け取る部長だけど、となんとなく目で追っていると、彼は受け取ったクッキーを胸ポケットに入れてそっと上から押さえた。
「ありがとう。」
もしも、甘いものが少しでも彼の心の痛みを和らげるなら。
私も何か差し入れをしよう。気持ちを込めるのが難しいお悔やみの定型文よりも、溶けて優しく染み込む砂糖の方がずっといい。
日頃の感謝と、言葉に出来ない何かを込めて、ポケットに入る甘いものを探しに出かけよう。
私は席を立つとコンビニに行くことにした。
ふと見上げた青い空に、世界中の人々の幸せを祈った。
優しい気持ちが消えずにずっとそばにありますように。