第三十一話『暗殺者は回る』
「──頬を殴られた痛みは忘れたはずなのに」
頬を押さえ、彼は嘆く。
Bクラス第八席、漆原秋沙。
現在は第Ⅴクラスに在籍している。
彼は有栖川を裏切り、暗殺学園に有栖川がしようとしていたことを漏洩させた。その結果、有栖川は死んだ。
漆原は有栖川の裏切りを報告することで自分の階級が上がるとばかり思っていた。
Bクラスを第八席で卒業。Bクラスの卒業生は九人しかいないため、赤羽のひとつ上。
階級は上がらない。暗殺学園において、求められるのは実力だけ。たとえ裏切り者を密告したとしても、それがいったい何の評価に当たるだろうか。
実力がなければ落ちぶれる。この狭い檻の中で知った事実は残酷なものだ。
「八神さんは気が動転している。速水があっさりと死んだからだろうか」
傘を差し校庭を歩きながら、八神が平常心を失った理由を考える。
漆原は精神崩壊した八神を新校舎まで運んだ。
「八神さんの話では、旧校舎にあいつがいるはずだけど……」
旧校舎前で足を止めた。
漆原は旧校舎に入ることに躊躇いがあった。普段の旧校舎であれば入ることに抵抗はない。
「速水碧を撃ち殺した人物。暗殺者を憎む彼であればあり得ない話ではないか」
漆原には接触したくない人物がいた。本当はこの先一生関わりたくない人物。
殴られた痛みは忘れたはずだが、誰かの死を前にすると再び思い出してしまう。
「…………」
下駄箱で傘を閉じ、水気を払う。帯刀するように傘を持ち、旧校舎を徘徊する。
時折傘から垂れる雨粒が床にこぼれ落ち、雪山に足跡ができるような痕跡が残る。
階段を上がる足は重く、まるで一段一段地雷がないかを確認するように進む。
歩き続けると、扉の隙間から血が流れるのを見つける。
「まさか……」
罠にも警戒せず、急いで扉を開けた。
扉の向こうに待っていたのは、腹から血を流して倒れている赤羽だった。
お互いに目が合う。
最初の数秒は空気がなくなったかのような沈黙が続いたが、赤羽は目を細め、
「よォ、裏切り者」
言葉には殺意がこもっていた。漆原もそれを分かっていたが、臆することはない。
「散々なやられようだな」
むしろ煽り返すように言った。
赤羽は苛立つことはない。腹に激痛が走り、感情を荒立てることができない。
「何しに来た」
その問いに漆原は押し黙る。縫われたように開かずの口を開ける。
「俺はあの日、有栖川麗を売った」
「最悪だよ。そのせいで先輩は死んだ」
「恨んでいるか」
「当たり前だ。オレは先輩と話したいことが山ほどあった。その時間をお前は奪ったんだ」
赤羽は不機嫌に返した。
これ以上踏み込むことは赤羽の神経を逆撫でする。言わなくてもいいことかもしれない。だが漆原は打ち明ける。
「有栖川麗は確かに死んだよ。俺はその遺体を見た」
「…………」
「有栖川の遺体には不思議な点があった」
「…………っ?」
赤羽の意識がわずかに漆原へ向いた。一瞬、漆原は戸惑ったが、決意したからにはそれを吐き出すことをやめはしない。
「有栖川の遺体には心臓がなかった」
「心臓が!?」
赤羽は目を見開き、そのまま固まった。それは漆原が言った言葉に引っ掛かりを覚えたから。
何か大切なヒントがあるような気がしてならない。その答えを導くようにして、漆原は言う。
「あくまでも仮説だが、有栖川の心臓は今もどこかで生きているんじゃないか」
赤羽はなぜか速水のことを思い出していた。
速水が言った台詞や仕草。どうして速水と有栖川を重ねていたのか。
「有栖川の面影を見た相手はいるか。例えば、速水碧とか」
無作為に選んだのか、それとも最初から知っているのか、いずれにせよ、この話題に速水碧という名が出たことは非常に大きな意味を持つ。
赤羽は言葉に詰まった。思考に詰まった。
自分が導き出した答えがあまりにも不可解なものであり、それが真実であるのか極めて判断が難しかったから。
もし事実であるならば、赤羽がとるべき行動は何か。
「オレに何をさせたい」
「させたいわけじゃない。ただ、あの日の償いがしたかったんだ」
「お前がそんなことをするようには思えないが」
赤羽の態度に漆原は目を伏せる。
彼の態度にわずかな同情を抱くが、すぐに感情をかき消した。
「俺は有栖川の願いを叶えたい。今の俺にできる最善のことをしたい。あの時したことが間違いだって気付いたから」
「……ちっ」
内心ではふざけるなと叫んでいる。
赤羽はどれだけ反省しようと漆原が大嫌いだ。大切な人の死に起因した人物だから。
その事実がある限り、赤羽が漆原に抱く殺意も怒りも消えることはない。
「じゃあ、お前は有栖川のしようとしたことを実現できるのか」
暗殺学園の崩壊。不可能なほどの偉業だ。
「無理だ」
「ほらな」
「だが、それは一人での話だ」
「オレの手を借りようってか。それは虫が良すぎんだろ」
「いいや、逆だ」
「……逆?」
漆原の表情に後悔は表れていた。本当は赤羽は無視し続けるつもりだった。
それが崩れたのが漆原が哀れに思えたからだ。まるで無邪気だった子供が幼い頃に犯した罪で一生苦しむような、そんな鎖に犯されているように見えた。
「俺をこき使え。どんなことでもする。命を懸ける」
漆原の中には固い決心があった。それは揺るぎない鉄柱のように図太く漆原自身を支えていた。
「分かった。だが、先輩を裏切ったことだけは許さない」
「ああ。それでいい……」
少しだけ、漆原の表情は明るくなった。曇り空にわずかに切れ間が走った程度のものだ。
「早速聞くけど、幽が速水を拐った。それに関して知っていることは?」
「考えられるとすれば、速水碧の心臓、まだ有栖川のものとは決まったわけではないが、それを呼び起こそうとしている」
「呼び起こす? 先輩が生き返るのか!」
赤羽は目を丸くして喜ぶ。
しかしすぐに笑みは消える。
「速水碧という精神を抹消し、その肉体に有栖川を下ろすんです」
「先輩が生き返る代わりに、速水は死ぬのか……」
赤羽は途方もない脱力感に支配された。
速水の生存か、有栖川の生存か、唐突な二択が目の前に現れたから。
「もしこのまま幽を止めなければ、速水は死にますが有栖川は生き返る。反対に、幽を止めれば有栖川の復活はありませんが速水は生きる」
まるで海の底に沈んでいるような、そんな空虚な感情が赤羽を襲う。
「ひどい現実だ」