第三十話『原点回帰1/3』
速水碧は幽によって拐われた。
彼の目的は未だ明確には明らかにはなっていない。
ではいったい、幽の目的は何だろうか。
そこはただ暗く、際限があるかさえ分からないほどの闇の中。線香花火ほどの光が生まれると、部屋がほんのりと明るく照らされた。
わずかに見えるのは、もう動かなくなったそれだった。鉄の台に置かれたそれのそばには、幽が立っている。
「希望通りの仕事はした」
「さすがですね。あなたは」
幽の側には黒いスーツを着飾った人物が立っている。仄かな明かりで照らされるのは、その人物の手もとだけ。
「その喋り方にその声……。身に覚えのない雰囲気。暗殺学園に在籍する生徒、または教師であれば、ある程度は知っている。偶然知らない人物である可能性もゼロではない。だが、それは違う」
疑い深く、幽の視線は闇の中で鋭く光る。
変装か、演技か、はたまた素の状態か。
「私が何者であるかは問題ではありません。あなたが彼女を拐ってきたのは、私が言った言葉の真偽を確かめるためでしょう」
「半分証明はできている」
「何かあったのですか?」
「速水碧の目の前で大切な人が死んだ。その瞬間、突如胸を押さえて苦しみ出した」
幽はその時の光景を思い出しながら答える。
幽は隣に立つ人物のとある言葉に半信半疑だったが、あの時の光景を見て真実である可能性は高まっていた。
「心臓が目を覚ました……っ!?」
その人物は全てを知っているような振る舞いであり、あらゆる事象に冷静だった。だが今、暗闇の中でわずかに瞳孔が開き、口角がわずかに上がった。
感情の変化を見せたのは刹那にも満たない一瞬で、それからは平然としていた。
「それでは心臓が目覚めるのもそう遠くない未来になるでしょう」
幽は静かに視線を下に向ける。ただ仄かに照らされた台の上に乗っているそれ。
幽はそれに虚空を見るような眼差しを向けていた。
「速水碧の心臓は、本当にあの人の心臓なんだな」
「私は嘘が嫌いですよ」
明確な答えは提示しない。言葉だけでは事実か否かは分からない。
だがこの会話の主導権は幽にはない。幽ができるのは少しでも多く情報を聞き出すこと。
「その心臓に刻まれた情報をもとに、その者の復元も可能です」
「速水碧はどうなる」
「もちろん死にます。死ぬといっても肉体的な死を意味するわけではありません。精神的に死ぬというだけであって、肉体は健全。でなければ心臓の真の持ち主が復活することはあり得ないですから」
幽は返事をすることをしなかった。
隣にいる人物は躊躇いがあると判断した。
「あなたは速水碧に未練などないでしょう。速水が死のうと、あなたが慕う人物さえ生きていればそれで良いのではないですか?」
「間違ってはいない。ただ、それで速水という者が本当に死ぬか気になっただけだ」
幽は詳細なことを伝えられておらず、『速水の心臓が元々誰のものか』『その心臓の主を起こすことができる』だけ教えられている。
「速水碧の精神力が心臓の持ち主よりも強ければ死ぬことはない。速水が本当に精神崩壊したというのなら、速水の精神力は心臓の所在よりも下だ」
「速水は死ぬ……ということで間違いないと?」
「私は嘘が嫌いだからね」
答えは明確にはされることはない。決して幽は深いところを追及することはできない。
常にその人物から放たれる殺意に脅えているから。その人物についての詳細は分からないが、格上である、ということだけは恐怖で理解していた。
「これから私は心臓の記憶を呼び起こす」
邪魔をするな、ということ。邪魔をさせるな、という暗示でもある。
幽は暗がりの中に目が慣れたか、うっすらと見える扉へ手をかける。
一抹の不安はある。だが、幽にはこれが最善の策だった。
「目覚めてください。アリス」
Cクラス末席の幽の脳裏に浮かんだ人物は──