第二章:虹
第二章:虹
「記憶」
『りくくん!───』
少し遠くの方で花火の音が聞こえた気がして、僕は目を覚ました。
何か、変な夢を見ていた。
夜空で咲き誇る花火を見ていたと思ったのに、次の瞬間には虹を見上げていて、隣には誰か、僕のよく知る人物が座っていた。僕達は何か取り留めのない話をし、笑い合って、日常の一部を切り取った、平凡だけれども、とても幸せな夢だった。何気なく頬を拭うと、手が濡れていた。変だな、悲しい夢では無かったはずなのに。
「…」
ふと、病室のテーブルに置かれた、一枚の封筒が目に留まった。薄く青みがかった無地の封筒には、何か小さな膨らみがある。僕はその中身に誘われるように、手を伸ばした。
『──』
僕の名前から始まり、句読点の多く、幼くて拙い字が一枚の白い便せんに綴られている。決して長くはない。小学生の頃の彼が書いた、最初で最後の手紙だった。
何度読んでも、時間が経てば、その文章の最後は僕の記憶から抜け落ちてしまう。その度に読み返しては、あの日の景色を、彼の走って行く後ろ姿を、あの日初めて見た景色を、頭の中で何度も描き起こした。
『───わすれても、この手紙を読んで、いつでもぼくのことを、思い出してね。』
きっと、僕は幸せなんだ。読む度に、何度でも新しい景色に、新しい感情に出会えるのだから。あの頃の彼がいつどこで、どんな気持ちで書いてくれたのだろうかと想像を膨らませるだけで、僕の心を躍らせる。そんな幸せな事はないだろう。
その一方で、彼の書いた文章を僕の記憶という引き出しにしまって、いつでも好きな時に思い出すことが出来たなら、それはどんなに良いことだろうとも思うのだ。叶わない願いだとしても、彼のくれた言葉をなぞり、何度でも刻み続けよう。翌朝の僕が忘れてしまっても、僕が忘れまいと努力をするならば、いつまでだって僕の記憶の底で生き続けるだろう。それが例え、僕の目に見えないものだとしても。記憶というものは誰の中にあっても、いつしか薄れてしまうものなのだから。
僕は彼の手紙を読み終えると、封筒の中で眠る、もう(・・)一つ(・・)の(・)目的に手を伸ばした。それは黒いストラップの紐で、まるで千切られたように、その先に付いていたはずの〝何か〟は、今は無い。
小学三年生の春。
当時、まだ小学二年生だった彼が、父親の転勤の関係で町を出たのは、四月になる前だっただろうか。彼が住んでいたアパートには別の誰かが住み、またその誰かは引っ越していって、別の住人がやってくる。そうして僕は小学校を卒業し、受験を終えて高校生になった。僕は彼を忘れていき、彼の方も、僕を幼き記憶の一部として忘れていく。出会いがあれば、別れがある。それが自然の時の流れであって、僕は、彼の人生の小さな小さな〝通過点〟の一つでしかなかった。
けれど僕には、彼のことを、今日の今日まで、どうしても忘れることができない理由があった。どんなに沢山の友人との出会いと別れを繰り返しても、ある一つの出来事が、水のように流れて行く記憶の層から出ることを許さず、この胸に残した。
きっと、彼の方は、僕のことを覚えてはいないだろう。十年も昔のこと、しかも、たった半年あまりの年月を過ごしただけの僕のことなど。これまでもそれからも、色々な町を転々としたであろう彼にとって、僕は何者でもない、記憶の欠片の一部だった。
だが、あの日。
高校生になった彼に会った日。流れていたはずの僕の時は、突如として止まった。彼の面影を感じた横顔。似ていた。まさか、こんな所で?
確かに、誰かが転入してきたという話は聞いていた。この学校の、この教室の、僕の隣に?目を疑った。けれどもそれは、空想でも幻覚でも、人違いでもない、紛れもなく、彼だった。ただ、そこにいたのは、あの頃の溌剌として腕白だった少年ではなく、凜とした佇まいの姿の彼だった。
まさか、もう一度会えるなんて、思っていなかった。
だが僕の内側で湧いた喜びの渦とは反対に、僕は声を詰まらせた。何と声を掛ければいいのか、分からなかった。何せ小二と小三で止まった僕らの時は、互いの存在などを忘れるには十分だったからだ。
『蒼井じゃん!』
元気に手を振る人物の手前で、手元の小説に目を向けていた、一人の人物。
『噂をすればなんとやらだねぇ。』
人に言えば、何故そんなものを大事そうにと笑われるような、小さなキーホルダー。最後に会った日、〝これを見て、いつでも自分を思い出して〟と、そう僕に笑いかけた彼が、今、目の前にいる。左胸で暴れ出す心臓。その先を失くし、紐だけになってしまっても捨てられないでいる僕に、彼は何と言うのだろう。それに〝命を救われた〟と、そう信じ込んでいる僕を、彼は一体。
『一ノ瀬くんだよ!』
その名が、顔を上げたその横顔が、僕の中の小さな記憶と重なった。幼い頃、僕の右ポケットの中で眠る、このストラップをくれた時の彼の表情。円で透明だった瞳、その目に、僕が映る。
『名前は?何て言うの?』
開いた口から、あの頃よりも低く、落ち着いた声が溢れた。
『────世七。』
幼い日のあの瞳が、僕に向けられた。
❀
『見て、虹!』
『うわっ、ほんとだ!!すっげぇ。』
学年が一つ離れていた僕らが仲良くなったきっかけは、放課後の学童でのことだった。学童には、一年生から六年生、合わせて十数人がいたけれど、彼は高学年の生徒たちにも物怖じもせず、自ら輪に入っていくような、溌剌とした性格のように見えた。
『ねえ、虹ってどうやってできるのか知ってる?』
『うん。知ってるよ。』
『えっ、知ってるの?!何?どうやって!?』
僕たちが初めて言葉を交わしたのは、虹の掛かった、夕方の空の下だった。朝方から降っていた雨は夕方の三時くらいに止み、静かに太陽が姿を見せ始めた、四時頃。虹の掛かる夕方の空の下、僕たちは初めて言葉を交わした。〝2-2 いちのせ せな〟と書かれた名札を付けた、一つ学年が下だった彼は、つい最近、この町に転校してきたばかりだと学童の先生に紹介されていた。
『雨が降って、太陽が顔を出すとできるらしいよ。』
『ふ~ん。…』
彼は砂の上に、木の棒で虹の絵を描いた。周りの子供達は、頭上の虹のことなど気にもとめず校庭を駆け回っている。早くも梅雨明けの予報がされた六月終わり。僕は彼の描いた虹の斜め上に、太陽を付け足した。
『でも、見える条件があって、自分たちの立つ位置と、太陽の光の角度が…』
頭の中で、理科の先生が説明をする声を思い出しながら僕が話し出すと、視界の隅っこで、彼の体が微かに震えているのが目に入った。
『えっなに?今俺、何かおかしいこと言った!?』
彼の手は歪な虹を描き、僕が付け足した太陽にまで被害を及している。
『何だよ笑うなって!』
いつまで経っても彼は笑いを止めないから、僕もだんだん恥ずかしくなってきて、木の棒で彼の描いた虹を突っついた。
『だってさ!太陽が出るのこと、〝太陽が顔を出す〟って!!』
『だって、そうじゃん!太陽、顔出してるじゃん!』
『そんな言い方する人、初めて出会ったんだもん!!』
太陽が生きてるみたい!なんて、彼は目をうるうるさせながら、そう言った。僕は見栄を張って怒ったようなフリをしたけれど、本当は少しだけ、その言葉が嬉しかった。他にはいない、特殊な存在だと言われたような気がしたのだ。
『ねえねえ、思ったんだけどさ、』
『ん?』
彼は何か、もの凄く良いアイデアでも思いついたかのように目を輝かせた。
『あの虹、捕まえられないのかな。』
『ええ、何言ってるの、ムリに決まってるよ。』
僕はもう一度、空を見上げた。僕たちが砂の上に完成させた虹と太陽が、本物の空と同じ位置関係に描かれていて、僕は何だか、誇らしい気持ちになった。
『何でムリって分かるの?』
『だって、アレ(・・)はさ、…』
僕は三日前の理科の授業で先生が言っていた、覚えたばかりの知識を思い出した。きっと彼に虹の原理を説明してしまったら、彼はがっかりするのではないか。純粋で曇りのない目を見て、僕は思わず出かけていた言葉を飲み込んだ。
『アレ(・・)?』
『…と、とにかく、虹を捕まえることは出来ないんだよ!』
『…あっ!』
彼は僕の言葉に唇を尖らせ、一瞬黙りこくったが、次の瞬間にはそんなことも忘れたように頭上を指さし、空に向かって叫んだ。
『ねえ見てよ!』
僕は、彼の指の方向を見上げた。
『二重の虹!』
それは、僕が理科の教科書では見ることの出来なかった画だった。薄く雲の伸びた青く透明な空に、二本の虹が架かっていた。
『キセキじゃない?』
彼は何度も、〝キセキ〟と言う言葉を繰り返した。それが、彼の口癖のようだった。
『…すごい。』
それは少なからず、写真でも見たことがなければ、これまで出会ったことのない構図だった。
『虹が捕まえられなくてもさ、虹の足を見つけることは出来るんじゃない?』
『虹の足?』
気がついたら、僕はそんなことを口走っていた。
『虹が立ってる、その根っこだよ!それを見つけられたら、何か願いがかなうって、聞いたことがある。』
『えっ、そうなの?』
彼は、さっきよりも一層目を見開いて、僕を見つめた。
『願い事が本当にかなうかは分からないけど、虹の真下なら、たどりつけたりしないかな…?』
『確かに、それならできる気がする!虹が真上に見える場所ってことだよね!』
彼は持っていた木の棒を放つと、ぴょんと勢いよく立ち上がった。
『そしたら、今から行ってみない?!それを見つけられたら、俺たちすごいよ!』
『え、今から?』
僕がそう聞き返した時には、彼はもう走り出していた。確かに、僕が提案してしまったことではあるけれど。
『先生!俺、りくくんと虹の足探してくる!お母さんには、そう言っておいて!』
『あ、ちょっと!』
彼はそう言うと、ダッシュでスタートを切った。後ろで先生の叫ぶ声が聞こえてきたけれど、僕は彼の背中を追いかけることしかできなかった。
『───ねえ!ねえってば!』
彼の足は速かった。僕の方が身長も高くて、学年も一つ上なのに、彼は僕のうんと先を走っていた。横断歩道を渡った向こう側、長い一本の通学路を走る彼の背中に呼びかけた。
『本当に大丈夫かなあ!』
彼が後ろを振り返りながら、僕に叫び返す。
『だって、虹なんてめったに現れないんだよ!今日逃したら、次いつになるか、分からない!』
僕は、何とか声が辛うじて聞こえる距離まで詰め、彼の背中に呼びかけた。
『気をつけてよ!車も走ってるから!』
僕たちは夢中になって、只ひたすら、通学路用に舗装された真っ直ぐな一本道を駆け抜けた。道脇には葉で体を覆った木々が立ち並び、まるで僕たちを応援しているみたいに、その枝葉を揺らしていた。
ようやく、腕を伸ばせばタッチできるくらいまで追いついた時、急に彼がスピードを落とした。
『ねえ!あの建物の先にある気がしない?』
僕はぜえぜえと忙しない息を整え、大きく頷いた。
『あそこまで行ってみれば、あるかもしれない!』
それから僕たちは、虹の足をどこまでも追いかけ続けた。どんどん近づいているようで、いつまでも辿り着くことのできない目的地に向かって、いつまでも走り続けた。その時の僕らには、きっと虹の出来る原理などは、どうでも良かった。虹が何で出来ていて、どんな条件で出来るものだって良い。ただ、目の前に突如として現れる気まぐれで気分屋な現象に、好奇心を擽られていたのだ。
『ねえ、全っ然辿り着かなくないっ?』
もう、どれくらい走ったか分からない程まで来た時、僕たちは足を止めた。見慣れない景色、見慣れない道。建物。看板。気がつけば、僕たちは帰り道も不確かな場所まで来ていた。
『マラソンよりきつい…。』
『走っても走っても、虹が逃げていくみたいだね。』
『うん、もう、三十分くらいは走り続けてる気がする…。』
僕らは息を整えながら、再び空を見上げた。まだ虹は消えることなく、そこで僕らを待ち続けてくれている。
その時、ガタンゴトン、と聞き慣れない音が耳に飛び込んできた。その音のする方を、僕たちは同時に見た。
『電車…!』
声が重なった。僕たちは顔を見合わせ、お互いの表情に喜びを滲ませた。そうだ。電車を使えば、行けるかもしれない。その手があったじゃないか、彼も同じことを考えていたように歯を覗かせた。
『あ、でも、あの電車、逆方向じゃない?』
『いや、レーンは二本あるから、もう一本は反対側に行くんだ!』
『…ってことは、もしかして。』
『そう!丁度、虹のある方角だよ!!』
『でも、お金持ってきてない。』
『…あっ、待って。』
僕は恐る恐る、ズボンのポケットを探った。ごそっと、何かかさばる物が手に当たる。少し冷たい金属の感触。やっぱり、入れっぱなしにしていたんだ…!今日はツイてる!僕はそれを取り出し、彼に見せた。
『うそ!!何で持ってるの!?』
彼は驚きと喜びの両方が入り交じった顔で、僕の左手に握られたがま口の財布を凝視した。
『今日算数の教科書を忘れてさ、お母さんに電話して、届けてもらったんだ。公衆電話掛けるのに使ったがま口財布、ポッケに入れたまま、ずっと持ってたんだよ!』
僕は興奮気味に言った。
『俺たち、持ってるんだ!』
小さなお小遣いを片手に、僕たちは最寄り駅まで駆け出した。午後四時半。二人で一駅を越えられるくらいの小銭を切符を買った。親と電車に乗ることはあったけれど、子供二人だけで乗るのは初めてだった。僕たちは、ドキドキしながら駅員さんに切符を見せ、改札を通った。
『何か、緊張するね。誰か知ってる人いたら、どうしよう。』
『堂々としていればいいさ。』
人の少ない四両編成の電鉄に乗り、僕たちは静かに電車が走り出すのを待った。二両目には、帽子を被り、杖を持ったおじいさんが一人乗っている以外、誰の姿も見えなかった。雲の隙間から光が差し込み、僕たちの乗っている車両の窓に、木漏れ日のような影を落とした。まだ走らないのかな、虚ろな意識の中を彷徨っていた時、隣で窓の外を見ていた彼が声を上げた。
『ねえ!』
座った途端、さっき全力疾走をした疲れが出たのか、夢の手前まで来ていた僕は、彼の声で目を覚ました。
『虹が消える!』
『えっ?!』
僕は慌てて外を見た。
本当だ。さっきまで、くっきりと見えていたはずの赤や黄色、緑の鮮やかだった虹が、水で滲ませられたように薄く、青い空に溶け込み始めていた。
『ほんとだ…!なくなっちゃう!』
『さっきまで、あんなにはっきり色が見えてたのに!』
僕たちは電車から降り、ホームからもう一度、虹のあった方角を見上げた。電車の窓を通したからではなく、確かにそれは消え始めてしまっていた。
『どうする?』
彼は眉尻を下げ、不安そうに口を曲げた。
『今日は、…帰ろうか。』
消えかけた虹は、もう元に戻らない。学童の先生とお母さんの顔が浮かんで、僕は彼にそう提案した。そうだよね、彼は少し心の残りのあるような声色で小さく言った。
『お母さんたちも、心配してるかもしれないから。』
その日、僕たちは残りのお金で家に電話を掛け、駅の名前を伝えてから、僕のお母さんに迎えに来てもらうことになった。当然、学童の先生からもお母さんからも、こっぴどく叱られたけれど、僕は、そこまで悪い旅ではなかった気がしていた。反省はしたけれど、あの日に見た〝虹〟が、一ノ瀬と追いかけたあの時間が、僕の心を大きく動かし、忘れられない思い出を作ってくれたのだから。
その日からというもの、僕たちは週一の学童の日を待ちきれず、昼休みになると、すぐさま図書室へ向かい、虹に関する本を漁るようになった。幸いにも、三年生と四年生の教室は同じ階で、学童以外の時間でも一緒に本を見たり、雨が降った日は校庭に出て、虹が出るのを待ったりするのは容易だった。色んな本を漁る中で、いつしか彼も虹の出来る仕組みを知るようになっていたけれど、決して鼻白んだりすることなく、ますます虹への熱意を燃やす一方だった。ありとあらゆる天気や気候の本、図鑑を見つけては、どの季節の、どの時間帯に、どんな虹を見ることが出来るのかを、僕たちなりに探求し続けた。
きっと僕らは、実際に虹の足に辿り着くことが出来なくても良かった。写真を見て、二人で想像を膨らませる時間が、いつしか辿り着けるかもしれない〝虹の足〟の存在に夢を見ているその時間が、僕らにとって最高に楽しい時間だったのだ。
『───あら、虹なら、簡単に作れるわよ。』
そんなある日の事だった。
図鑑を眺め、虹の足のありかを熱心に話し合っていた僕たちに、学童の先生が言った。その一言は、彼女の意図とは裏腹に、僕たちを断崖絶壁の淵から突き落とすような言葉だった。彼の瞳からも、何か光のようなものが消えたように見えた。
『庭でやってみようか!』
太陽の覗く、午後一時過ぎだった。その日は早帰りで、親の迎えを待つ九人の生徒たちが太陽に背を向けるようにして、庭に立ち並んだ。彼らは先生の行動一つ一つを静かに見守り、目を輝かせながら、虹が現れるのを今か今かと待ち侘びていた。
『…あっ、虹!』
先生の一番近くで見ていた生徒が声を上げると、その周りから次々と感嘆の声が上がった。その場にいた全員が、突如として現れた虹に、歓喜の表情を見せた───彼と僕とを除いて。
『先生どうやったの!?』
『マジックみたい!』
『虹って、こんな簡単にできるんだ!』
遙か遠い空の上で起こるはずの現象が、目の前で起きている、その事実に興奮する生徒達の傍らで、僕たちは呆然と立ち尽くしていた。どんなに追い続けても見つけることのできなかった虹が、今目の前にある。手の届く、すぐそこに。走って追いかけなくたって、雨の降ったあとの晴れ間を待たなくたって、〝虹〟はそこにあった。
『…なんか、ちょっとがっかりしたね。』
学童を後にする生徒たちの後ろ姿を見届けながら、僕たちは砂場に座り込んで空を見上げていた。
『虹って、あんな簡単に出来ちゃうんだ。』
容易に手の届くものではなかったからこそ、雨が降って太陽が出る、奇跡に奇跡が重なって、ようやく生まれるものだったからこそ、僕たちには価値があった。虹はいつでも、僕らの手の届かない所にあるはずだった。
『あの虹には、足はなかった。』
『…なかったね。』
僕は言った。
『遠くにあったからこそ、良かったのかもしれない。』
近づいてると思えば思う程、遠くへ離れていって、いつも手が届きそうで届かない場所にあった。その距離が、僕たちを動かしてくれていた。虹の足は、僕たちの目に見えないどこかに、存在しているはずだった。
『でもさ、』
僕は彼を見た。彼の瞳には、消えたはずの光が少し戻ったように見えた。彼が何を言うのか、僕はドキドキと胸を鳴らして、次に出てくる言葉を待っていた。
『俺は、また虹ができたら、追いかけると思う。今日の虹には足がなかったけど、また空に虹が架かったら、次こそは虹の足見つけてやるぞって。』
数本抜けた歯並びを覗かせて笑う彼の顔が、僕の目に映る。彼の言葉に、さっき消えたばかりの一本の光が、僕の心に再び差し込んだ気がした。
『俺も、探しちゃうと思う。虹の足。』
こちらを見た彼の目が、太陽の光を反射して輝いていた。
『これからも一緒に追い続けようよ。俺、諦めないから。』
うん、と僕は力強く頷いた。
❀ ❀ ❀
「それでは、次は新しい章に行きます。ここの詩、来週小テストに出すからね~。」
髪を一つに結んだ先生が、白いチョークを黒板の上で滑らせる。僕は藍色のセーターを着た先生の背中を、ぼんやりと眺めていた。
「また詩か~…」
僕の真後ろで、ため息交じりの呟きが聞こえた。
詩?前回も詩だったか。
黒板の字を見た生徒たちが、シャーペンをノートの上で走らせる。
「今日の詩のテーマは、…」
アルトとテノールの、丁度狭間くらいの声。それからコツコツと黒板の上で響いたチョークの音に、僕は顔を上げた。
〝───虹の足〟
どきりと、一瞬、心臓を奪われたように鼓動が止まった。幼い頃、何度も追いかけて追いかけて、ずっと探し続けてきた言葉だった気がした。しばらく開いていなかった戸棚の扉を開けてしまったような、とても懐かしい響きだった。
ふと、横の彼を意識をした。彼がこの言葉を見て、僕と同じように、何かを感じ取っただろうか。僕と同じように、遠く遙か小さい頃の記憶を、薄らとでも思い出してはいないだろうか。
微かな期待を抱いて、僕は少しだけ彼の方へ顔を向けた。心のどこかで何かを期待していた。黒板をじっと見つめ、それからノートに何かを書き写す彼が、僕の視界の端で動く。先生の奏でる声は僕の意識を通り越し、少しだけ開いた窓の向こうへと抜けていく。僕の視界に映る彼の姿は、何かを思い出したようでもあり、ただ何の心当たりもなく、彼にしか見えない記憶を追いかけているようでもあった。
「花火、見に行かない?」
七月半ば、もうすぐ夏休みが始まろうとしてた時、僕は彼を花火に誘った。特別、何か考えがあったわけではない。毎年花火を見に行くほど、花火好きだったわけでもない。ただ、一ノ瀬と花火を見に行きたいという、思いつきのような理由からだった。
あの花火の夜、僕たちは、活気のある屋台から抜け出して、人通りの少ない河岸に腰を下ろした。いつもの制服姿ではない彼の隣で、僕は何故かそわそわとして、落ち着かない時間を過ごしていた。
「やっぱ夏ってさ、花火がないと始まりもしないし、終われもしないよな。」
心中の焦りとは反対に、僕の口調はいつもと何ら変わりなく、彼の方も、当たり障りのない言葉で相槌を打っていた。
川辺の芝生の上、空で大輪を咲かせる光の花に、僕たちは目を奪われていた。ゆっくりと空に昇り、大きな音を立て散って行く。それは、僕らの目の前まで降り落ちるような迫力を見せていた。
「虹。」
僕らはいつしか言葉も無く、感情も何もかもを飲み込まれて、花火に釘付けになっていた。そんな時、不意に頭に思い浮かんだ一つの情景。少し曇り気味の空に掛かり、くっきりと大きな弧を描いた虹。何の意図も無く、それは僕の口からするりと抜け落ちるように溢れた。
「前、言ってただろ、俺が花火なら、一ノ瀬は何になるだろうって話。」
彼が、僕の方に顔を向けた。
「今、思い付いたんだ。一ノ瀬は〝虹〟だ。」
赤、ピンク、青、緑、色を次々に変えて行く花火が、僕の中で音を立てることなく静かに眠っていた〝あの日の虹〟と重なった。只、何の考えも無く、直感的に僕はそう口にしていた。
「…虹か。」
彼がそう呟いたのと同時に、空を何色にも彩る花火が咲き誇った。目の前に拡がっていたのは青空でもなく、虹でもない。けれど僕の目には、それが、幼少期に初めて見た〝虹〟と重なって見えた。
「…懐かしい。」
その言葉に、僕は耳を疑った。懐かしい?懐かしいだなんて、そんなはずが。彼も同じように、虹に特別な思い入れがあるということか?声にならない声が、僕の心臓を打った。花火の音で、そう聞こえるような気がしただけかもしれない、そう納得させようと思った。
「蒼井、小学生の(・)時も(・)俺に(・)同じ(・・)こと(・・)言った(・・・)の(・)、覚えてる?」
僕は、彼の目を食い入るように見入った。彼の言葉を飲み込むことができなかった。いや、僕は理解できないものと、必死に思い込もうとしていたのかもしれない。ずっと昔、彼が僕と出会っていたことなど、覚えているハズがないのだと。
「小学生の時、『世七は虹みたいだ』って言ってくれた時、何でか分からないけど、すごく嬉しかったんだよ。変わってなかったんだね、今も。」
僕は、彼の瞳に映り込む、次々へ移り変わっていく虹色の光に、呼吸が浅くなるのを感じた。花火の音とリンクするかのように心臓が音を立て、僕の体の中で暴れ鳴り響いた。ぼんやりと、小学三年生の僕が見た、あの日の景色が突如として蘇る。
「…覚えてるよ、すごく、よく。」
「どうして、虹だったの?」
彼の柔らかく微笑む表情が、僕に向けられる。
何故だろう。自分でもよく分からない。小学生三年生のあの日から、もう何年も経っているというのに、それでも僕は未だに彼の事を虹と例えた。そのことに、僕自身が一番驚いていたのだ。
「分からない。何となく、ただそう思ったんだよ。」
空に姿を現した、七色の現象。その足下を追って走った通学路。そんな記憶から、ただ彼を虹と表現しているのだろうか。僕の意識下で静かに眠っていた〝記憶〟が、僕にそう表現させたのだろうか。
「昔、虹の足、追いかけたよね?一緒に。」
だからかな?彼の無邪気な声色が、僕の心臓を震わせた。目の前の虹のように咲き誇る花火が、あの日の景色を鮮明に呼び起こしていた。
「覚えてたの?小学生の時、同じ学童で遊んだこと。」
花火の音と張り合う程の声が、僕の喉から飛び出した。息の根を捕まれたみたいだった。うん、と頷いた彼の髪が夜風に吹かれ靡き、彼の細く鋭い右目を隠した。
「忘れるはず無いよ。蒼井のこと忘れたことなんてない、一度も。」
僕の中で、何かが音を立てて崩れていくような感覚があった。落胆や失望とは違う、それは寧ろ、真逆の感情だった。それなのに僕は酷く狼狽し、頭を強く打たれたような衝撃を覚えていた。
「俺だって、忘れてなんか、なかったよ、」
ずっと。
忘れられても構わない。僕など、彼の中の小さな記憶の欠片として、隅っこに追いやられていることも、覚悟していた。相手が忘れていても、僕が覚えているのならそれでいいと。それなら、諦める、つもりでいたのに。
「一緒に電車乗って、虹がある方に向かってさ、その後、学童の先生に怒られて。」
彼は口元を緩め、その当時をたった今、彼の脳内で再生するように語った。その表情は、高校生になった彼が初めて僕に見せた、あの幼い日の彼、そのものだった。
「反省文とか書かされたの、覚えてる?」
「…うん、何か、書かされたような気がする。」
「蒼井のお母さんが、『纚空、何してたの』って、学年が下の子を連れ回してって。俺が言い出したことだったのにね。」
ごめんね、彼はそう言った。小学生の頃の、声変わりをする前に呼んでいた名前の響き。十年前の自分に戻ったような、そんな錯覚に陥っていた。今見ている景色、季節、彼の姿、自分自身も、何もかもが違う。それなのに僕たちは、花火の光が照らす下、十年という空白の月日など忘れたように顔を見合わせ、あの日から変わらない笑顔を交わしていた。
「最初は、蒼井かどうか疑ったんだ。俺の一個上だったはずなのに、二年生のクラスにいたことが分からなくて。でも、蒼井から留年したって話を聞いた時、全てが繋がった。」
ある日の休み時間、彼に、僕が留年したことを話したのを思い出した。
「…ずっと、覚えてたんだ、俺も、一ノ瀬も、虹を一緒に追いかけた日のことを。」
お互いに、ずっと心の中にしまっていた。二人で肩を寄せ合って、色々な虹の本を漁っては夢を膨らませたことも、雨の日、学校中の誰よりも胸を躍らせ、太陽が出るのを心待ちにしていた日のことも、すべて。
「…いつ、思い出した?」
僕が意識したように、彼も意識していた。何にも知らないように見えたその表情の裏で、彼も、僕と同じ場所を辿っていた。そのことが、僕の脈をますます加速させた。
「多分、最初に名前見た時だと思う。蒼井の席に置いてあった、プリントの名前。…蒼井は?」
「俺は、」
僕は自転車で駆けていくように、この三ヶ月という短い坂道を遡っていった。大きな花火の音が僕の鼓膜を打ち、そうして僕の脳裏に、一つの景色が浮かんだ。
「多分、教室入って、一ノ瀬を見た瞬間だ。」
あの日言葉を交わしたとき、本当はもう互いのことを知っていて、その上で三ヶ月もの間、僕たちは初対面のように接していた。幼少期のことには触れず、まるで高校二年生の五月、初めて知り合ったかのような顔をして。
「お互いに、相手のことを覚えていないと思ってたのか。本当は会った時から分かってたのに、ずっと心の中でしまったままにして。」
思わず笑いが溢れた。それは、自らへの呆れに対する、自嘲だった。もっと早く知りえていれば、こんな形で知る必要などなかった。たった一言、〝覚えてる?〟と、言葉を交わしていれば。
「多分、」
彼は、少し遠くで夜空の光を浴びる水面に、目線を落とした。
「怖かったんだよ、」
花火の音とは違う声色、左隣の彼が言った。僕たちは、花火の音がどんなに掻き消そうとも、互いの声を一粒も取りこぼさないよう、互いの声だけに意識を向けていた。
「───〝覚えてない〟って言われるのが。」
遠くの空で打ち上がる光の音も、喧噪も、他には何も聞こえなかった。僕らは声も発さず、ただ続く沈黙に胸を高まらせた。僕らを取り囲む全ての事象は暗闇に溶け、そこには、〝彼と僕だけの世界〟があった。
「同じだ。」
彼が、僕の方を見たのがわかった。花火が彼の横顔を照らして、七色に変わっていく。
「俺も、怖かったんだよ。何度も、確かめようって思ったんだ。一言、言い出せればそれで良かったのに。けどその度に言えなくて、躊躇ってた。…何でだったんだろうな。」
それは、酷く虚しく、言い訳がましく響いた。彼は黙ったまま、何かに耳を澄ますように俯いていた。僕は始終、胸の高鳴りを抑えきれず、忙しなく暴れる心臓を静めるように、深く吸い込んだ息を吐いた。ただ、このキーホルダーを彼に見せることさえ出来たなら、そうして昔、彼がこれをくれた事実さえ、伝えることが出来れば、それで良かったのに。そうすれば、こんなに後ろめたい感情を抱く事なんて、無かったのに。
「…これさ、覚えてる?」
僕は、ずっとポケットで感じていた重みを取り出し、彼に見せた。
「小学生の時、一ノ瀬が引っ越す前にくれたキーホルダー。…今は、これだけになっちゃったけどね。」
そこには、何も付いていない、ただの黒い紐だけがぶら下がっていた。この携帯を持ってから付け続けていたそのキーホルダーの先は、あの(・・)日から(・・)今も、見つかることはない。彼はそれを見た瞬間、微かに息を漏らし、そうして手を伸ばした。
「…どうして。」
「ずっと携帯につけてたんだけど、事故に遭った時、その衝撃で切れちゃったんだ。…や、正確に言うと、事故に遭う前か。」
「事故に遭う前…。」
思い出すと、胸が締め付けられるように苦しい記憶。忘れたいが、忘れてはならない記憶。それは、彼との記憶を繋ぎ止めておくには、決して忘れたくない記憶だった。
「これを貰った日から、常に自分が持ち歩く物に付けてたんだ。去年、事故に遭ったときも、携帯に付けてた、擦り切れる寸前だったのにも気づかないまま。あの事故の日が、このストラップの先を失くした日だったんだ。」
僕は、ほとんど消えかかった記憶の端を探るように、僕の手の平が掴んだそれを、手繰り寄せた。
高一の夏。
陽もほとんど落ちた坂道、その日、サッカー部の練習で帰りが遅くなった僕は、いつもの倍くらいの速度でペダルを漕ぎ、家路を急いていた。
(───しまった。)
かなり傾斜のある坂道に差し掛かった時だった。いつもは鞄にしまっていた携帯を、今日は急いでいて前籠に入れたままだったことに気が付いた。ガタガタと左右上下に揺られた携帯は、今にも何かの衝撃で籠の外へ飛び出して行きそうだった。坂道の手前で止まれば良かった、そんな考えが頭を過った時には、既に坂を下り始めてしまっていた。その時の僕には、一分一秒でも早く家に着くことしか、頭に無かったのだ。
数十メートルの坂を、時速三十キロくらいのスピードで駆け抜け、もうすぐ坂の終わりが見える、そう思った時だった。携帯に付いていたはずのキーホルダーが宙を舞い、左手の草むらの方へ放り出されていくのが目に入った。
『あ───っ』
その瞬間の光景は、今もはっきりと目に焼き付いていた。僕は反射的に、キーホルダーが飛んで行った方へハンドルを切った。何より大切にしていたものだ。失くしたくない、その一心だった。僕はまるで、そのキーホルダーに導かれる様に、舗装された道を外れ、ガタガタと不安定な草むらの中へ入り込んだ。弧を描くように落ちていくキーホルダー。それを見失わないよう、僕は無我夢中でそれを追いかけていた。バランスを崩して、自転車が倒れてしまうことも分かっていて、それでも僕は身を挺して、そのキーホルダーを守ることに必死になっていた。その時だった。突如、後ろからやって来た大きな塊に、僕の体は自転車ごと投げ飛ばされた。
頭が激しく揺れ、世界がぐるりと反転した。木が、地面が、建物が、全てが反転した世界。僕の体は自転車から離れ、ゆっくりと落ちていく。死ぬかもしれない、いや、今日で死ぬのか。そう思った。宙を舞った僕の視界では、もうキーホルダーがどこへ飛んでいったのかさえ、見当も付かなかった。このまま、僕はどこへ落ちていくのだろう。色々なことが頭を駆けていった。学校のこと、部活のこと、家族のこと、友達のこと。そういえば、今日の夕飯は何だったんだろう。あと少し自転車を走らせれば家に着いて、母親が作るご飯をいつもみたいに食べられていたんだろうか。今日の練習でも、左にパスを出していれば、ゴールを決められたのだろうか。模試でも、もう少し別の解答をしていたら、合格点に近づいていたのだろうか。確かに今日は、ツイてないことばかりだった。そうして何故か、あのキーホルダーをくれた〝彼〟の顔が、僕の脳裏に映し出された。彼は元気にしているだろうか。世七がくれたキーホルダー、千切れちゃったよ、せめてそれを、伝えたかったな。
その瞬間、僕は意識を失った。
意識を取り戻し、目を覚ました時、僕がいたのは病院で、その時、僕の携帯に付いていたのは、黒い紐だけだった。何が起きて、何故僕はここに連れてこられたのか、何一つ思い出すことが出来なかった。暫くの間、事故の遭った瞬間の記憶は失われたままだった。
「俺が偶々道脇に逸れたのが、不幸中の幸いだったらしいんだ。もしそのまま坂を走り続けてたら、諸にトラックに轢かれて、死んでたと思う。」
トラックに付けられたドライブレコーダーの映像から、僕が道脇に逸れていくのが映っていたのだと、後で母親から聞かされた。
「…そのトラックは、どうして、突っ込んできたの?」
「居眠り運転だったらしい。運転手は、そのままブロック塀に突っ込んで、亡くなった。」
彼はただ何も言わず俯いていた。その時の彼が、一体どんな表情で、どんな気持ちで聞いていたのか、僕に想像の余地はなかった。
「あの事故のあった日から、ずっと思い出せないんだ、一ノ瀬のくれたのが、何のキーホルダーだったのか。」
僕は携帯にぶら下がった黒い紐を、花火の打ち上がる空に掲げた。
「ずっと探してたんだ。退院して学校に行き始めてから、事故にあった辺りを、ずっと。けど、結局見つからなかった。頭を強く打った衝撃で、どうしても思い出せなくなっちゃったんだ。貰った時からずっと付けてたはずだったのに。」
ずっと思い出そうとしていた。いや、本当は忘れないで、覚えていたかった。彼のくれた記憶と共に。ずっと身につけていた物が何だったのかなんて、そんな馬鹿らしい質問はないだろう。でもあの日から、どうしても思い出せなかった。あれだけ大切にしていたものだったのに、事故の日から、彼のくれたこの黒いストラップの先に付いていたものが、何だったのか。
「──虹だよ。」
彼の静謐さを打ち破る声が、僕の脳内に響き渡った。
「俺が蒼井にあげたのは、〝虹〟のキーホルダーだよ。」
〝虹の足〟。僕の脳内に隠された記憶が、一斉にその扉を開いていく。
「…虹。」
薄透明の中で、太陽の光を浴びた〝虹〟。小さな人差し指と親指の先に覗いた青空に見えた、僕らだけの虹。あの日、彼が僕にくれた虹の輪郭が、はっきりと姿を現した。
「…そうだ、そうだよ、虹だよ。」
思わず、上ずった笑いが溢れた。授業で出てきた虹の足に、幼かった彼と追いかけた虹の足に、あれ程僕は思いを馳せていたというのに。それなのに、どうして思い出せなかったのだろう。まるでその記憶だけに蓋をしてしまった様に、まるで、僕自身が思い出すことを拒んでいたかの様に。
「ああ、…どうして、今まで忘れてたんだろう。あんなに、肌身離さず、持ってたのに。」
キーホルダーを失くしたのと同時に、僕はその記憶までを失ってしまった。けれど漸く、欠けた記憶の一部が、徐々に徐々にその欠片を拾い集め、取り戻されていく。
「…ただの偶然だったのかもしれない。そう思い込みたいだけなのかもしれない。だけど、俺にはさ、あのキーホルダーが、俺を救ってくれたような気がしてならないんだ。あの時、これが携帯から切れていかなかったら、俺は、道脇に逸れようとはしなかったと思うから。」
一瞬の判断だった。あの時、虹のキーホルダーが千切れて飛んでいかなかったら、きっと僕はここには居なかっただろう。まるであの時、虹のキーホルダーは、後ろから近づいていたトラックから僕を引き離し、危機から救ってくれたようだった。
「…馬鹿みたいな話だろ?そんな迷信めいたこと信じて、これを失くしても、未だにストラップだけ付けてる、なんてさ。」
どうしても信じていたかった。阿呆らしいと笑われても、馬鹿にされても、あの瞬間の光景が、確かに僕にそう信じさせていたから。
心臓の音も花火の音も、僕にはもう区別を着けることが出来なかった。ドンドンと音を立て、僕の全身で暴れる拍動が、僕の耳元で聞こえた。この声が花火に掻き消されたなら、それでもいい。彼に届かなかったのなら、それでいい。彼にそんなの阿呆らしいと鼻で笑われたのなら、それで。
「──…馬鹿げてるなんて、思わないよ。」
けど。
どうして、いつも僕に期待を持たせるような事を言うんだ。どうして僕は、彼の言葉に期待してしまうんだ。いつも崖っぷちに立ち諦めようとしている僕に、手を差し伸べようとするんだ。いや、彼の優しさに甘えているのは、僕の方か?
「嘘だよ、絶対、馬鹿みたいだって、思ってるだろ。」
「思ってない。」
僕は何度も浅い呼吸を繰り返した。彼の瞳に、赤い花火が映り込んだ。
「俺には、その時本当に起こったことは分からない。俺のあげたキーホルダーが、蒼井の命を救ったのかどうかも。…だけど、すごく嬉しかったんだ。虹の部分を失くしても、まだそのキーホルダーを信じて、ずっと持っていてくれた事が。」
握りしめた手の平が酷く汗ばみ、こめかみを冷たい感触が流れていった。
「蒼井が何を信じていたって良い。蒼井が信じるものを、俺も信じたい。」
───ああ、…痛い。
彼の真っ直ぐな瞳を見るほどに、胸が締め付けられる様に苦しかった。僕が忘れられなかったもの、それは、そのぶれることない、いつでも心からの声を映す、嘘のない瞳だった。
いつしか、忘れてしまうのだろうか。再び何かの衝撃で、彼と出会った日のことも、彼のことも、彼とみた虹が、どれ程美しかったかも。僕の記憶の奥底で手を加えられることなく、眠っていたもの。今は残っている。けれど、記憶は、永遠じゃないから。
「何にも持ち合わせてなかった俺に、何が残ってるだろうって振り返った時、いつだって思い浮んだのは、小学生の時、蒼井と一緒に見た〝虹〟だった。」
携帯を持つ左手に、力が入った。
僕が忘れたくないと願って止まなかったもの。それが、相手にとっては何でもない、ただ長い道の中に紛れ込んだ小さな石ころ程度のものだったとしたら。僕にとっては何にも上塗りされない、強く、濃く刻まれた記憶なのに、彼には簡単に洗い流されてしまう程、薄い記憶であったら。それを知ってしまうことが、ずっと怖かった。だけど今、僕が辿る記憶の中に、同じくらいその記憶に思いを馳せる〝彼〟がいた。
「俺は、」
一人じゃ無かった。
そう思って良いのだろうか?
刻々と迫り来る有限の時間を感じながら、自分の感情が、抑えきれない方向へと導かれていくのが手に取るように分かった。鼓動が僕の焦りと共に早まり、僕の体を湿らせていく。
今この瞬間、人々は、何よりも夜を色とりどりに飾り、空で様々な形に変化する花火に、目も心も、神経の全てを奪われていた。橙色の光が僕らを照らし出し、静かに消えていく。火の花が降る空の下、二人だけの沈黙の中、僕たちは頭上の花火には目もくれず、互いの存在だけを意識していた。
「──」
不意に指が触れた。故意か偶然か、僕にも、きっと彼にも分からなかった。視界が歪んでいた。彼の動揺が、指先から伝わるようだった。ただ僕たちは、掌に触れた相手の熱を、互いに突き返そうとはしなかった。彼の指先から感じる熱が、僕をますます火照らせていった。最後の花火が上がる合図だった。無数の光の雨が空に打ちあげられたその時、僕たちは、僕らだけの沈黙を受け入れ、息を潜めた。
その光の雨音に紛れるように、言葉に出来なかった感情を乗せるように、彼に近づいた。手を伸ばさずとも届く距離、僕は彼のその白い頬に、そっと自分の唇を近づけた。触れたか触れないか分からない程に、それは短い時間だった。
触れていた彼の手に、力が入った。耳元で彼の吐息が聞こえた。心臓が、痛いほどの音を立てていた。顔を離すと、一重の目が少しだけ見開かれ、それから僕らは、光のない暗闇の中で見つめ合った。彼の瞳は、暗闇の中で僅かに揺らいで見えた。そうして再び何かの力に引き寄せられるようにして、僕は彼の唇に、己の唇を重ねた。長い長い、一瞬だった。いつまでも、永遠にこの時間が続けばいいと、僕はそう願ってしまっていた。いや、駄目だ、そんな声が聞こえた気がして、僕は慌てて彼を手で突き離した。その横顔は夜に溶け込んでいき、僕にはもう、彼の表情を確かめることは出来なかった。脳が熱を帯びて、僕を溶かしていく。体の中が燃えるように熱く、夏のじめじめとした空気に、ますます汗が滲んだ。
僕らの間に、長い沈黙が訪れた。
上がった息も心臓も、落ち着かない。花火の音が聞こえなくなって暫くしてから、僕は漸く悟った。僕は彼に、何てことを。一度ならず、二度。僕の衝動が引き起こした、一夏の過ちだった。いや、そんな言葉で片付けられたのならば良かった。また、学校でおはようと言葉を交わし、普段通りに授業を受けて、一緒に昼飯を食べて、自転車で帰り道の坂を駆けていく。今起きたことを真っ新にして、また同じように、何でも無い日常を過ごすことが出来たなら。それだけで、良かったのに。
「…ごめん」
そう言ったのは、彼の(・)方だった。
どうして。どうして一ノ瀬が謝るんだよ。何すんだよ、冗談だろ、そう言って、僕を突き返してくれれば良かったのに。僕の存在を拒んでくれたのなら。それなのに、何故僕を拒否しようとはしない?僕の体を遠ざけ、怒ることもせずに。どうして、黙って僕の行為を受け入れたんだよ。
「ごめん、俺、帰るよ。」
立ち上がろうとしたが、上手く足に力が入らなかった。ふらつく足を何とか立たせ、一、二歩歩き出した。揺らぐ視界。もう、彼と顔を合わせることは出来なかった。後悔やら怒りやら、忸怩たる感情が生まれ、その場から姿を消すことしか、僕の頭になかった。僕は無意識の中で、足をただ機械のように動かしていた。何歩か歩き出してから、少し遠くの方で、僕の名前を叫ぶ声が聞こえた気がした。最早、彼の声でさえ、僕の足を止めることは出来なかった。その時の僕には留まることも、引き返すという選択肢もなかった。夏休みが明けたら、どんな顔をして彼に会えばいい?今まで通り、何でもない話を、何でもないように彼と話すことが出来るのだろうか。あの幼い日に追いかけた〝虹の足〟を、何の憚りもなく彼と語らうことなど。
…いや、もう叶わない望みだ。高望みだ、そんなもの。
気が付けば、僕は喧噪の街を抜け、街灯のほとんどない街路を走っていた。
原形すら留めていない、ぐちゃぐちゃになった感情を払い落とすように、自らが生み出した感情の怪物から逃れるように、ただひたすらに夜道を走り続けた。走っている限り、目に見えない何かから、逃げ出すことができる気がした。
これは夢だ、夢であってくれと、何度も心の中で叫び続けた。今夜見た花火も、話したことも彼にした行為も、全ては幻想で、僕の想像の出来事であってくれと。覚めろ、覚めてくれと、心の中で叫んだ。いや、ちょっぴり、あの花火の記憶が消えてしまうのは、哀しい事だけれど。
だが、その夢は、どんなに走り続けても覚めることはなかった。
すべては、現実だった。
もう、どれくらい走り続けただろう。頬に冷たい感触を覚えて、僕の足は、自然と走るスピードを弛めた。街灯の光が無数の雨粒を照らし、濡れたアスファルトに光が反射している。漸くその時、雨が降り始めたのだと悟った。
雨の予報など、出ていただろうか。いや今更、そんなのはどうだっていい。とにかく、花火が上がる前じゃなくて良かった──少なくとも、僕の軽佻浮薄な考えが実行されるまでは。そういえば彼は、傘を持っていただろうか。彼も、雨が降るとは思ってはいなかったはずだ。もう家に着いていればいいが。そんな身の程知らずな懸念をしていた時だった。
『───っ』
足首に鋭い痛みが走り、僕は反射的にその場にしゃがみ込んだ。度々感じていたはずの痛みも、まるで感覚を失ったように忘れ、無我夢中で走り続けていた。暗くてよく見えないが、手の感触で、左足首が少し腫れているようだった。息が苦しい。現役時代は、どれだけ走っても疲れ知らずだったのに。僕はゆっくりと立ち上がり、足を前に踏み出した。神経が痺れ、歩いている感覚はない。しかも、ここはどこだろう。酷く曲がりくねった細い道が続き、その先は全く見えない。不安や喪失感、じんわりと足首を襲う鈍痛。背中を、不快な汗が覆う。
何か、バス停とか駅とか、目印になるものが見つかりさえすれば。そう思ったが、街灯の光以外に何もないここで、目印になりそうなものがあるはずも無かった。携帯も、案の定圏外だ。これでは地図を使うことさえ出来ない。僕はもう一度、足を踏み出した。視界は雨で歪み、足も言うことを聞かない。このまま突き進んでも、更に迷うだけだ。来た道を引き返すしかない、か。
僕はズキズキと痛む左足を引きずるようにして、歩き出した。その時だった。突如、ガードレールの向こうから現れた二つの閃光が、僕の目を突き刺した。
「───!!」
僕の意識が、途絶えた。
❀ ❀
『ねえ、りくくん!』
『?』
隣を歩いていた彼が、僕の名前を呼ぶ。
『これ、渡したくて。』
僕は、黒いランドセルを背負っていた。僕より少し背の低い少年は、僕と同じ黒色のランドセルをくるりと胸の前に持って来てくると、そこから薄水色の封筒を取り出した。太陽がまだ燦々とアスファルトを照らす、一本道の帰り道の上だった。
三月。春の匂いが、直ぐ傍までやってきていた。柔らかい日差しが、夕方のアスファルトを藤黄色の光が包む。
『何?』
『〝空は、きっと何か悲しいことがあって泣いていたけど、そこに太陽が現れて、まるで悲しい出来事なんてなかったみたいに、虹を作る〟んだ。』
『?』
彼はその封筒を、僕に向かって差し出した。
『りくくんも、これから悲しいことがあったとしても、絶対虹が見える時が来る!だから、そういう時は、このキーホルダーを見て、俺のこと思い出してね!』
僕は彼が差し出した、淡い水色の封筒を開いた。その中には一枚の便せんと、透明の袋に覆われた、小さなキーホルダーが入っていた。
『何これ。…もしかして、〝虹〟?』
袋を明けなくても、直ぐに分かった。黒いストラップに繋がっていた透明の石には、七色の〝虹〟が閉じ込められていた。
『それ、空にかざしてみて!』
『え?こう?』
僕はその透明の七色の石を、太陽の光に照らすように、空に掲げて見せた。
『…うわぁ!』
僕は思わず声を上げた。
『すっげぇ…!きれい!!』
『これで、いつでも好きなときに、虹が見られるんだよ!』
彼は嬉しそうに、胸の前のランドセルを、ぽんと叩いて見せた。
それは、他の誰でも無い、僕たちだけが見る事の出来る虹だった。二人で小さな石を覗きこんで、何度もその虹の美しさを目に焼き付けた。
『これ、くれるの?』
『うん!もちろん。』
僕たちは顔を寄せ合うようにして、透明な石から差し込む太陽の光を、何度も確かめた。その日、実際に空に虹は架かっていなかったけれど、確かに僕たちの目の前には、虹が存在していた。
『ありがとう。俺、世七と一緒に追いかけた虹のこと、絶対忘れないから!』
僕は彼に、そう誓った。きらりと光ったキーホルダーの向こう側、彼の笑顔が煌めいた。
❀ ❀ ❀ ❀ ❀
それはとても、儚く、短い夢だった。
いや、きっと、夢では無かったのかもしれない。僕が得るにはあまりに身に過ぎるような時間で、夢だと錯覚してしまうほどだったのかもしれない。
彼は今どこにいて、何をしているだろう。こんな場所から探したって、いるはずもない。ただ、無意識のうちに探してしまうのだ。小さい頃、虹の足を追いかけた僕たちの影を。自転車で坂を駆けた僕らの背中を。あの日を境に、僕は病院の屋上へ行くのが日課の一つになった。秋晴れというのか、降雨の少ない時期で、幸いにも、ほとんど毎日目一杯に広がる空を眺めることが出来た。
ああ、今この瞬間、僕はあの鳥になって、空を自由に飛ぶことが出来たなら、僕はどこへ飛んでいこうか。何も話すことも、伝えることの出来ない身になってしまっても、僕はこうして、あの時間をくれた彼の元へ飛んでいきたいと思っている。まだ、忘れていない。まだ、覚えている。僕は何度も何度も、忘れたくない時間を、あの白い雲に描き続ける。僕と彼にしか見えない時間を。僕らだけが知る時間を。
僕は今日も、そんなことを考えながら、空を見上げる。
❀ ❀ ❀ ❀
─────
「───く…!!」
意識の遠く向こうで聞こえる声に、薄らと目を覚ました。その声は廊下の方から聞こえ来たようで、僕は再び、目を閉じようとした、その時だった。病室の扉が勢いよく開かれる音に、思わず体を起こした。
「…!」
開かれた扉の向こう、息を切らしながら佇む誰かの姿が目に飛び込んだ。関係者以外、ほとんど誰も出入りしないこの病室に、僕を訪ねてくる者などいるはずもなかった。部屋を間違えたのだろうか。しかし、確かにそこに居たのは、僕のよく知る人物だった。
「…世七、」
僕はまだ、夢の狭間にいるような気分だった。まだ覚めていないだけなのではないかとさえ思った。
「…どう、して。」
彼の少し癖のある髪は乱れ、目を充血させていた。その姿を目にした時、全身を熱湯が駆け巡るように、一瞬にして熱くなるのが分かった。
「…事故に遭ったなんて、知らなかったって。蒼井の携帯、何度連絡しても、繋がらないし。」
その声は地を這うように低く、震えていた。髪から垣間見えた瞳は水気を帯び、僕には見えない感情を秘めていた。
「どうして、ここが分かったんだよ。俺の顔なんか、見たくなかっただろ。」
「担任から聞いた。本当は転校なんかじゃなくて、事故だって。」
喉の奥から押し上げられるような彼の声が、病室に響く。彼が事故のことを知っている、それだけではない、彼が僕の目の前に現れたことに、僕は酷く動揺していた。休学届を出した時、クラスの皆には〝転校した〟と、ただそれだけを伝えてほしいと母に頼んだはずだった。
「そんなことを言うために、来たのかよ。」
「俺は、」
「何で、こんなところまで、わざわざ。」
自分でも冷たすぎると思うほど、僕の口から飛び出していくのは心にも無いことばかりだ。違う、僕が本当に言いたいのは、こんな言葉じゃないのに。
「…どうして、事故のこと、話しちゃったんだよ。」
分かっている、一番悪いのは、転校という言葉で誤魔化して、黙って姿を消した僕だ。僕は拳を握って出来たシーツの皺を見つめ、〝悔しい〟だなんて不相応な言葉を思い浮かばせていた。真っ白に広がり、染み一つ無いシーツに広がる皺は、当に僕の感情の渦を表しているようだった。
「──…俺は、そんな大事なことも、気づけなかった。」
彼は大きく息を吐き、足の力が抜けてしまった様に、その場にしゃがみ込んだ。
──ああ、僕は、何て愚かなんだ。
その姿は何時になく小さく、僕が知っている彼とは大きく異なるような気がした。僕は自分の取った選択肢を、今更ながらに悔いた。
ここまで来てくれたことが、もう会うことは叶わないだろうと諦めた、その姿を目に出来たことが、何より僕の心を飛び上がらせているのに、どうして出てくる言葉は思っても無い言葉ばかりなんだ。
「一ノ瀬、…ごめん、」
僕はそっとベッドから足を下ろした。
「黙って、いなくなったりして。」
しゃがんだまま顔を伏せる彼に、僕は歩み寄った。こんなに感情を顕にした彼の姿を、初めて見た気がした。普段、滅多なことで動揺を見せない彼をここまで取り乱させてしまう程、僕は彼を傷つけた。そう思うと、胸が痛んだ。
「…俺が、皆に言わないでくれって頼んだんだ。皆に、心配とか迷惑とか、掛けたくなくて。」
そんなものは、建前だ。僕がいなくなったところで、迷惑を被るような奴は疎か、僕に連絡を取ろうとする者などいるはずもないのだから。
「何よりも、…一ノ瀬に、心配掛けたくなかった。」
僕は、喉で突っかかった蟠りを押し出すように、声にした。
「…誰にも言えない事情なんだろうって、自分の中で、片付けたつもりだった。」
鼻にかかる様な、くぐもった声が、僕の胸の奥を突き刺し、静かに震わせた。
「けど、どうしても、それじゃ整理が付かなくて、小山とか、蒼井のことを知ってる三年生にも、それとなく聞いてみたけど、皆知らないって言った。」
「…ごめん、一番、伝えなきゃいけなかったはずなのに。」
説明の付かない感情が、僕の胸を強く締め付け、やっとの思いで出た声は、自分でも呆れるほどに掠れ、弱々しいものだった。
「一番知って欲しかったはずの一ノ瀬に、…どうしても、言えなかった。」
そう言って、思わず彼の背中に伸ばしかけた手を、僕は止めた。触れていいのか、そんな声が僕の体を制していた。錆び付いた記憶の扉。その前に降り積もった、小さな罪悪感の山が、彼に触れさせることを躊躇わせていた。
「俺も、勝手に聞いたりしたから。…蒼井の意思を無視した俺の方が、謝るべきだ。」
少し潤んだ瞳が、真っ直ぐ僕に向けられる。その目はまるで、僕の言葉をごっそりと奪っていくように透明で、純粋だった。ただ僕は、首を横に振ることしか出来無かった。謝らないでくれ、頼むから、僕はそう心の中で乞うように呟いた。
「最初は、蒼井の意志を尊重しようと思って、このまま何も無かったように、一人で終わりにしようと思ったんだ。だけど、一ヶ月経っても二ヶ月経っても、ここに引っ掛かった何かが、ずっと取れなかったんだ。」
そう言って彼は、左胸の蟠りを掴むように、シャツを握った。
「蒼井が本当に居なくなったのは、ただの転校じゃ無いような気がして、いてもたってもいられなくて。根拠は無い。けど、何故かそんな気がして。…強引だったかもしれないけど、先生に聞くしか無かった。」
彼は少しばつが悪そうに、顔を俯かせた。
「そうか、やっぱり、先生から。」
彼は小さく頷いた。
「一度、蒼井のお母さんに聞いてみるって言われて、翌日、教えてくれた。」
「…」
少し前、母親と、一ノ瀬の話をしたのを思い出した。ある日、僕が一ノ瀬から、社会のノートを借りたのだ。その時母は、そこに書かれていた彼の名前を見つけ、小学生の時よく遊んでいた〝一ノ瀬くん〟じゃないのかと僕に聞いたのだ。十年近くも前のこと、しかも僕が彼と遊んでいたのは半年そこらの事だったのに、よく覚えていたなと驚いたのだ。担任が母親に電話をしたとき、僕の事情を知りたいと言っているのが一ノ瀬だと知って、本当のことを話すことを決意したのではないだろうか。
「『事故に遭った』って聞いたとき、真っ先に思ったんだ、前の事故でも、記憶が無くなったって言ってたから、きっと自分の事も忘れられてるかもしれないって。大怪我したとか、命に関わるような事故では無いって聞いたけど、それが、ずっと、気がかりだった。」
彼は震える声で、絞り出すようにそう言った。
「ごめん、…そんなに心配させてたなんて、…俺、本当に、馬鹿だ。」
僕は膝の上で、拳を握った。あの日から数ヶ月。その悔しさはあまりにも強く大きく、言葉にすることは出来なかった。
「…でも、嬉しかった。俺の名前、覚えてくれてたから。」
その憂いを帯びた目に、僅かに光が見えた気がした。
「忘れるわけ、無いだろ。全てのことを忘れたとしても、一ノ瀬のことだけは、絶対に。」
忘れるわけ無いって。その言葉はまるで声にすることを阻まれたみたいに、ぐっと重くなった喉の奥で止まってしまった。
「迷惑じゃなかった?…今更聞いても、遅いけど。」
彼は、弱々しく笑った。
「…いや、本当は一ノ瀬にちゃんと話さなかったこと、ずっと気がかりだったんだ。」
僕は立ち上がると、部屋の隅に置いてあった椅子をベッド脇に引き寄せた。
「時間ある、かな。少しだけでも、話していかない?」
「うん、ありがとう。」
病院の窓から、薄日が差し込み、彼の制服のシャツに反射する白が眩しい。薄暗く、曇りのように陽の差さないこの部屋が、久しぶりに明るい空気に包まれている様な気がした。
「あっ、」
「?」
そう声を上げた彼の目線の先は、窓際の机に注がれている。
「これって。」
「あっ。」
彼の目線の先にあったもの、それは───。
「───俺が、小学生の時に書いた手紙?」
彼の細い指が、一枚の白い便せんを拾い上げる。嬉しそうに表情を緩める彼の横で、僕は羞恥心で気を失いそうだった。
「ずっと、持っててくれてたの?」
無邪気に笑う彼が、僕の方を振り返った。漸く引いたはずの熱が、再び僕の体を火照らせていく。
「…うん。」
彼はまじまじと手紙を、目を細めた。
「こんなこと、書いてたのか。」
薄水色の封筒に伸ばした彼は、その中に隠れた小さな(・・・)膨らみ(・・・)を感じ取って、その手を止めた。
「…ストラップ。」
それは、この間まで僕の携帯に付いていた、黒いストラップだった。
「外しちゃったの?」
「…うん。何か、失くしたくなくてさ。」
どこか寂しげな表情を浮かべたまま、彼はストラップを封筒の中に戻した。
最後に会ってから三ヶ月という月日が流れ、彼に聞きたいことも、彼と話したかったことも、山ほどあるはずだった。学校はどうだとか、他のクラスメイトとは上手く馴染めてるかとか、勉強の調子はどうだとか、心配なことも沢山あった。それなのに、どれも上手く言葉にはならなくて、ただ、時計の針の音だけが白い空間を埋めていた。
「ねえ、蒼井。」
その時、窓際に立っていた彼が、こちらを振り返った。
「さっき、ここに来るまでに、虹が見えたんだ。」
「…虹?」
僕は、窓際の彼に引き寄せられるように近づくと、顔を上げた。決して眺めが良いとは言えない景色だが、久々に見上げた空は、何だか特別なものに映った。
「もう、消えちゃってるかな。」
彼は窓辺に身を乗り出して、虹を探していた。きっと、この部屋からでは建物が邪魔をして、見ることは難しいだろう。
「…そしたらさ、屋上、行ってみない?」
僕は、彼にそう提案した。一瞬、彼は喜びの表情を見せて、それから直ぐに、心配そうな表情を浮かべた。
「本当に?蒼井は、大丈夫なの?」
「ちょっとくらいなら平気だよ。看護師さんに聞いてみる。」
僕たちは、十五分だけ屋上へ行く許可と鍵を貰い、エレベーターへと続く廊下を歩いた。廊下の窓から見えた空には、ここ最近続いていた曇り空が嘘のように、透き通るような白い羊雲が広がっていた。
三階まで来ると、屋上に続く階段を上った。鼠色の鍵穴に鍵を差し込み回すと、重い鉄扉を開いた。その瞬間、扉の隙間から入り込む光彩が眩く、思わず目を細めた。雲間から覗いた光が、視界一杯に広がる青空が、僕の目を覆う。
「すごい、広い。」
彼は手すりに向かって駆け足で近づくと、嬉しそうに声を上げた。
「久しぶりに、外の空気吸った気がする。」
「ずっと室内にいると、気分塞ぐよ。」
少し冷たくなったそよ風が、僕の頬を撫でていく。僕の知らないうちに、季節はゆっくりと冬へと足を進めている。午後二時。太陽は、僕らのいる屋上に、まだ夏の尾を引くような日差しを残していた。
「ねぇ、あれだ、まだ残ってたんだ。」
「あっ。」
彼が指を指した先には、僕たちがよく目にしていたものとは、少し違う形をした虹がいた。実際に目にしたことは無い。けれどそれは、何かの本で何度も目にし、僕の記憶に焼き付いて離れない虹だった。
「「環水平アーク!」」
二人の声が重なり、それから僕たちは、顔を見合わせて笑った。彼と笑い合ったのも、何だか久々のような気がした。それもそうか、彼と最後に話したのは、まだ夏の、太陽が照りつける季節。ずっと病院にいると、時の流れを忘れてしまうけれど、気がつけば、もう十一月になるのだから。
「覚えててくれたんだ。」
「うん。何でだろう、分かんないけど、昔見た図鑑に載ってた中で、いっちばん好きな虹だったような気がして。」
「分かる。俺も、いつもそのページ見てた。」
何年も目にしていない虹の名前を、何故こうもすんなりと口に出来たかは分からない。もしかしたらこの所、ずっと虹の夢を見ていたからのような、そんな気がしていた。
「またこうして、誰かと一緒に虹を見られるなんて、思わなかった。」
空はこうしている間にも動いて、留まることを知らない。久しぶりに目にすることの出来た虹も、あと十分もすれば、消えてしまうのだろうか。今見たこの景色を永遠に己の中で留めて、いつまででも、見続けることができたなら。
「…『俺の顔なんか、見たくなかっただろ』って、」
風の音に混じって、彼がぼそりと言った。
「え?」
「そう言ったでしょ?さっき。俺が、本当にそんなこと思ってると思ったの?」
彼の声は、何時になくぶっきらぼうに聞こえて、少しだけ怒っているんだと分かった。そんなこと言ったっけか、僕は苦笑いをして返した。
「でも、俺なんかに会いたくなかっただろ、…何か、分かんないけどさ。」
「会いたくなかったら、こんな所まで来ないよ。」
「まぁ、そうなんだけど。」
本当はきっと、そう言って欲しかっただけだ。…僕は、天邪鬼だ。
「蒼井、ちょっと変わったよ。」
「そう?」
「うん。」
変わった、か。
その言葉に、僕はどこか寂しさを覚えた。この間まで、いつだって傍にあったはずの物が、気が付くと遠く手の届かない場所へ行ってしまった様な、それに近い感覚だった。その言葉は、時に人を喜ばせるものであり、悲しませる言葉でもある。今の僕には、それは後者だった。
僕は空気を深く深く吸い込み、その息吐く勢いに任せて、胸の中で滞っていた感情を声にした。
「俺さ、」
自分の心臓の音を誤魔化すような声に、少し頬が熱くなる。
「…少しずつ昔の記憶とか、たった数十分前の事でも、忘れることがあるんだ。出来事が丸々抜けることもあるし、全部じゃなくても、些細なことでも。だから事故に遭った日のことも、本当は、少し忘れてる所がある。」
手すりに体を預けたまま、彼は目を何処か物憂げに伏せ、それから風で靡いた髪に隠された。
「花火を見た事とか、その時感じたこと、見たもの、聞いたもの、まるで昨日見た景色みたいに、すごく鮮明に覚えてることもあるんだ。でも、その日一ノ瀬と話した事、自分が取った行動、虫に食われたみたいに、思い出せない部分があって。」
そうか、とふわりと吹く風に紛れるように、彼は言った。
「でも、俺と見た〝虹〟の事は、覚えててくれた。それを知れただけで、俺は十分だよ。」
隠れた髪の奥に見えた瞳が、光って見えた。彼の言葉には、いつも欠けた部分があって、僕はそれを何とかして知りたいと思ってきた。本当は言葉に出来る能力があるのに、彼は敢えてそれを言葉にしようとはしなかった。そのことが、一体何を意味しているのか、僕には到底分かり得ないけれど、それでも、少しでも彼に近づきたくて、その胸に秘められた言葉の宇宙を、少しでも理解したいと思っていた。この感情は今も未だ、僕の中に残っているのだから。
「…忘れないよ。」
それは、自分に言い聞かせるような声だった。
「忘れるはずがない。」
例え、忘れたかったとしても。僕は心の中でそう言った。何年も前の、脳に深く濃く残って離れない記憶は、きっと僕が忘れないように何度も何度も刻んだ記憶だ。
手すりに寄りかかって、僕は、真下の小さな世界を見下ろしていた。こうして虹も、空から僕たちを見下ろしている。地上で起きている出来事なんて、空にとってはきっと、些細でちっぽけなことなのだろう。
「事故の傷、痛む?」
彼は、そう僕に聞いた。
「ううん。今回の事故での傷は小さかったから、痛みはほとんど無いんだ。記憶障害の方に、少し影響しちゃったくらい。」
「俺が、あの時蒼井を呼び止めてれば。」
「何で一ノ瀬が責任感じるんだよ。俺に、非があることだから。」
その見えにくい彼の表情に、小さな困惑が垣間見えた。その困惑は、僕の小さな記憶のスクリーンに、ある一つの情景を映し出した。少し前にも、どこかで僕はその表情を見たことがあった。何時のことか僕は、彼に同じような困惑の感情を抱かせたことがある、そんな気がしたのだ。
「…俺、あんまりよく覚えてないんだけどさ、多分、一ノ瀬に、…すごく無責任な事、したよな、どっかで。」
僕は首に手を当て、何とかその時の光景を思い出そうとした。その時、僕らはいつ、どこにいて、周りがどんな状況だったかも、はっきりとした記憶は無い。だが今日、病室の扉の向こう、彼の姿を目にした瞬間、耐え難く後ろめたい、罪悪感の様なものを覚えた事は確かだった。
「多分俺、一ノ瀬に酷いことしたと思うんだ。思い出せないけど、もしそれで一ノ瀬のこと傷つけてたら、本当にごめん。」
僕は頭を下げた。謝らないでよ、彼はそう言った。
「蒼井が俺にした酷いことなんて、一つもない。」
「一ノ瀬は、そう思ってないのかもしれないけど、でも確かに俺、何か引っ掛かってるんだよ、疚しいって言うか、なんて言うか、さ。」
彼は何も言わず、視線を前から逸らさないまま、ただ遠く向こうの景色を見ていた。時々吹き抜ける風が、彼の表情を僕から隠すように、髪を靡かせる。
「…少しも、思い出せない?」
その声は唐突に発せられ、僕の心臓を掴むような視線が向けられた。
「…え?」
真っ直ぐで、曇りの無い目。彼の瞳は、僕の底意を探るように強く、堅い意思を携えていた。その視線から目を離そうならば、地の底まで落ちていく、僕にそんな錯覚を起こさせるものだった。時々僕の頬を撫でていく風が、何とか僕をそこに立たせてくれていた。
「俺に、キスしたこと。」
その言葉に、僕の心臓が、大きく波を打った。さっきまで曖昧にぼかされていた一つの情景が鮮明なものとなり、眠りについていた記憶を呼び覚ます。
花火の音。
微かに、遠く向こうから聞こえる喧噪、目の前で流れる川の粼。
隣に誰かの体温を感じていた記憶。
その音に身を任せ、頬に口付けた記憶。
僕の体の中で何かが弾けたように、全身がばっと熱を帯びる。徐々に徐々に、くっきりと形を成していく記憶。その度に、体温が上がっていくのが分かった。それは紛れもない事実であり、夢や妄想なんかでは無い。僕は、確信していた。
「あぁ…」
頭の中が、真っ白になった。何と言えばいいのか、分からなかった。いや、今更何を言っても無駄だ。隣にいた人物は一ノ瀬で、その記憶の中、確かな意志を持って行動を起こしたのは、僕なのだから。
「そっか、…そうか、俺、一ノ瀬に、そんなことしたんだ。…すっげぇ、最低だ、俺。」
何か言葉を発していなければ、全身が燃え尽きてしまいそうだった。寧ろ、このまま存在ごと消えてしまえたら良いとさえ思った。
「あの時のことは、忘れて、ほんと。俺、その時どうかしてたんだと思うから。」
僕は、早口にそう言った。きっと迷惑だったに違いない。僕の一方的な感情に押し負かされて、受け入れざるを得なかったのだろう。彼は優しい人間だ。だからこそ、相手の好意を拒絶することが出来ない。僕は何て身勝手で、自分本位な人間なのだろう。彼の良心に漬け込み、本能のままに手を出した僕は、もう彼の隣にいる資格など無い。友達を辞めると言うつもりなのかもしれない。もう二度と連絡を取ることはないと、そう宣言しに来たのかもしれない。勝手に作り上げた、最悪の台本が頭を過って、僕は絶望の縁に立たされた気分だった。
「…どうして、無理に忘れなきゃいけないの?」
小さく棘を含んだその声は、僕の胸をチクリと刺したのに、奇しくも僕を救う、摩訶不思議な言葉だった。
「だって、迷惑だっただろ、好きでもない奴なんかに、そんなこと、されてさ。」
「…」
何も声を発さない彼の目を、何故か僕は、引き付けられるように見ていた。その何処か悲観めいたような目には、僕が何事も無かったかのように立ち去ることも、後戻りをさせることも許さないような強さを秘めていた。
「じゃあ蒼井は、後悔してる?」
「…いや、…」
上手く言葉が出てこない。どう表現しても、何か違和感がある気がした。どこを探しても、今僕の心に空いてしまった感情のパズルに、ぴったり嵌るピースは無かった。けれど少なくとも、〝後悔〟と言う言葉は、今の僕の感情には当て嵌まらない気がした。
「…どうして、あの瞬間に、キスしようと思ったかは、覚えてなくてさ。すごく衝動的だったと思うし、突発的だったっていうか、なんて言うか、…」
舌がもつれたように、上手く言葉に出来ない自分が焦れったい。それでも彼は、僕の言葉の辿り着く先を聞き逃すまいというように、痛いほどの視線を僕に注いでいた。
「でも、後悔はしてないと思うんだ。衝動的だったとしても、あの時の俺が、多分、一ノ瀬に伝えられる、精一杯だったんだと、思うから。」
熱い。只でさえ熱かった頬が、徐々に体の中心の温度が上がっていく。まるで、公開処刑だ。いや、これは最早。そんなことを考えながら、僕は風が自然と体温を奪っていくのを待っていた。
「…そうか、」
彼の声が、風となり舞う。
──一ノ瀬は。
本当は、喉まで出掛かっていた。一ノ瀬は、どう思ってた?聞いてみたかった。知りたかった。彼の感じたもの、あの時、彼に沸き起こった感情を。…だけど。
上がる心拍数と、体温、これ以上の緊張に、僕の体が耐えられそうに無かった。いや、それ以上に、もう何も望んではならない気がした。知ったところで、僕はそれに一喜一憂することも出来ないから。
出掛かっていた言葉を呑む込むように、僕は大きく息を吸い込んだ。澄んだ空気が、鼻の奥を抜けて、肺に流れていく。
「…最後に、蒼井の本心が聞けて、良かった。」
「…?」
僕は、息を呑んだ。その別れは余りに唐突で、一方的で、僕の言葉を全て奪い取っていくものだった。僕らに降り注ぐ別れは、いつだって、唐突にやってくる。そう、それは今日だけではないはずだった。
「最後…?」
空は、ついこの間まで入道雲を見せていたはずなのに、今はもう、その巨大で僕らを圧倒するような力はなかった。僕の心は、この屋上から四階下の地面に向かって真っ直ぐ落とされていくように、空っぽだった。
「両親が離婚して、母親に引き取られる事になったんだ。」
「…そう、だったのか。」
「母親の実家が長崎なんだけど、そっちで暮らすことになって。」
「…。」
「苗字も、変わる。」
僕はただ、彼の話す言葉が吐き出されるままに、一つ一つ、ゆっくりと飲み込んでいく事しか出来無かった。不思議と心臓は落ち着いて、さっきまでの爆音が嘘のように、静まりかえっていた。
「いつ、出るの?」
「年内だと思う。十二月になる頃には、多分。」
「そう、か。」
事故なんかに遭わなければ、きっと僕は今まで通りの時間を、彼と過ごしたのだろう。あの日起きた出来事も笑い話にして、またいつもと同じ様に彼と他愛のない話をして、変わらない毎日があったのだろう。もしそうだとしたら、どんな夏を終えて、どんな秋を過ごしていた?これからやって来る冬を、僕らはどんな風に迎えた。
「…寂しく、なるな。」
その言葉は、抜け殻みたいだった。寂しいなんて言葉では、全然足りなかった。もっと言うべきことがあるはずなのに、何も言えない自分がもどかしかった。どうしてもっと、この感情を言い表す言葉がないのだろう。どうして僕には、こんなちっぽけな力しか無いのだろう。
「でも、これで父親の転勤からは逃れられたし、暫くは長崎にいることになると思う。引越しはもう疲れたから、丁度いいやって思ってるよ。」
「それなら、いいけどさ。」
風が頬を掠める。髪が靡いて僕の目を覆い、視界を狭めた。
「蒼井は、まだ、転校が決まったわけじゃないの?」
うん、僕は頷いた。
「籍は置いてあるんだ。もしかしたら通信で卒業することになるかもしれないから、それが決まるまで、一応。」
そっか、彼は言葉をそよ風に乗せるように、そう言った。
「退院したらさ、長崎、遊びに来てよ、旅行とかで。きっと、良い場所だから。」
僕は、小さく頷いた。自分で発している言葉も彼の声も、僕の頭の中には留まらず、ただ風に吹かれるままに流れていった。足が竦んでしまったように、そこに立っているという感覚は無かった。手から力が抜け、僕は〝空虚〟そのものだった。
「本当は今日、ここに来て話すのを迷ってた。転校のことを言わないのが蒼井の意思なら、それを尊重しようって思ってた。…でもやっぱり、どうしても伝えたくて、来ないではいられなくて。最後に、お礼を言いたかった。」
髪の奥から見た彼の目が、きらりと光ったように見えた。
風が冷たくなっていく。僕の熱を冷ましていた風は、僕の心までも冷やしてしまった。もう、虹は見えない。目を凝らし、見ようと努力をしたならば、見えたのかもしれない。けれど、今の僕の目では、到底虹など、目に映すことは出来なかった。
「…俺は、蒼井にまた出会えて、もう一度、誰かを信じてみようって、そう思えた。俺にはまだ、誰かを信じる勇気が残ってた。それを、そのことを、蒼井が教えてくれた。」
いや、まだ虹は残っている、そう思い込もうとした。だから僕は、まだ空を見続けていよう、この時間が許す限り。まだ、隣に彼がいる限り。
「…ありがとう、蒼井。」
下を向いたら、零れ落ちてしまう。僕は、彼に感謝されるようなことは何もしていない。寧ろ、僕の方が謝って、感謝しなければならない立場なのに。僕は溢れる感情を抑え込むのに、必死だった。
僕にとって虹は、一体どんな存在だったろう。あの頃の僕は、あの日僕は、虹をどんな風に見ていたのだろう。水がコップの割れ目から出て、少しずつその嵩を減らしていくように、記憶が薄れていく感覚。一番忘れたくないはずの記憶程、どうしたって僕の中から消えていってしまう。その声が遠ざかって行く未来を想像すれば、全身から力が抜けていく気がした。僕の記憶の中の彼は、僕の記憶が流れて行くと同時に、いなくなってしまう。
「…忘れていくのが、怖い。」
気がついたら、それは声になっていた。弱い自分を見せるのは情けないことだと、弱音を吐くのは本当に弱い証拠だと、僕はそう自分に言い聞かせてきた。でも、今そのリミッターが外れてしまったように、もう僕の感情を堰き止めるものはなかった。
「目が覚めて、全部忘れてたらどうしようって、眠る度に不安になるんだ。次目を覚ました時には何もかも忘れて、花火を見た事も、好きだった虹の名前も、…一ノ瀬のことも。」
全部。
覚えていたい。出来ることなら。
彼と見た虹に、衝撃と感動を覚えたあの日。夜空を七色で咲かせた花火の音。花火の降る下で湧かせた感情を。
もしかしたら、それは、告白だったのかもしれない。そうだったとしても、もう関係ない。ここまで来たら、恥ずかしいなんて感情は捨てたも同然だ。どうせ今日伝えた言葉だって、明日には忘れているかもしれないのだから。
「俺も、忘れたくないよ、ずっと。」
視界が滲んでいた。鼻の奥を、冷たい風が通り抜けた。
あとどれくらい、僕はこの記憶を留めておくことが出来るのだろう。忘れたい事ばかりが降り積もった僕の記憶に、たった一つ、残しておきたいと切望する事象が存在する時、僕の記憶は何を残し、何を消そうとするのだろう。
「でも、…忘れることも、きっと悪いことばかりじゃないって思うんだ。」
ぼやけた眼が、何とか彼に焦点を合わせようとした。口を開こうとすれば、感情が溢れて、止まらなくなってしまう気がした。僕はただ、彼の次の言葉を待つことしか出来なかった。
「誰にもきっと、忘れられないものが一つや二つはあって、それは何か特別なことだったり、自分に衝撃を与えたものだったりして。でも俺たちは、その記憶だけを抱えて生きていくわけじゃない。また何かしら試練があって、乗り越えて、また一つ新しい記憶が生まれて。そうやって人は誰だって、少しずつ過去の記憶を、新しい記憶で上塗りして、いつしか忘れていく生き物だと思うんだ。」
彼の目は遠く、この街の果てを見つめていた。それは終わりか、始まりか、僕にはきっと、理解の追いつかない遙か奥、この世界の最果てを見ていた。
「だから、もし蒼井が俺との記憶をなくす時が来たとしたら、きっと蒼井にとって、それ以上に幸せな出来事で上書きされた時だよ。」
忘れる時、そんなの、絶対に来て欲しくない。彼との記憶が消える時が来たら、それは僕自身の存在が消えるのと同じだ。
「そんなの、ないよ。」
「分からないよ、これから、長い人生があるんだから。」
決して忘れたくはない、けれど、もし忘れる時が来たとしたら、果たして僕は、その事実を甘んじて受け入れることが出来るのだろうか。そんな自分を、少しは許せるようになるのだろうか。
「けど、もし俺が忘れて、一ノ瀬も何か別の記憶で上書きされたら、その時間は無かったことになる。」
「そんなこと無いよ。その時間が存在した事実は、変わらない。」
「でも二人とも忘れたら、無かったも同然だよ。一ノ瀬が絶対に忘れないなんて、そんなことは言い切れないだろ。」
「俺にとって、蒼井がくれた時間は、そんな簡単に忘れられるようなものじゃない。」
「そうだとしても、俺は、自分の中からこの記憶が薄れていくことが、何より、怖いんだよ。」
両手が、微かに震えていた。足下が竦んで、不鮮明にも、自分が自分でなくなってしまう感覚が、僕を襲った。
「例え蒼井の中からその記憶が失くなっても、俺が蒼井と過ごした時間を、また思い出せるようにしてみせる。」
「……そんなこと。」
出来ないよ。僕たちは、ずっとこれからの未来を共に歩んでいくわけじゃ無い。別の誰かが、僕の記憶を呼び戻してくれるわけじゃ無い。僕の記憶は、他でもない、僕と彼だけにしか分からない時間で出来ているのだから。
「約束する。」
彼の目は、本当にそれが可能だと信じているような目だった。僕の記憶がこれからどうなってしまうのかなんて、僕にも、誰にも分からない。彼がいた時間さえ、僕の中から消えて無くなってしまうかもしれない。それでも彼は、僕がその時間を忘れる未来はないと、例え忘れたとしても、必ずや僕が思い出す未来を約束すると誓った。
僕は、空に顔を向けた。蒼い空は余りにも透き通っていて、僕の目には映すことが出来なかった。
「忘れることの全てを正当化したいわけじゃ無いんだ。ただ忘れることで全てを失ったと、蒼井がその時、自分自身を責めてしまわないように。…俺はただ、それだけなんだ。」
その横顔は、毅然とした、彼の信念の固さを示していた。彼の目に映る世界は、どんなものだろう。その目の奥に、どんな感情が眠っていたのだろう。傍に居て、いつでも僕が忘れないようにしてくれだなんて、そんな大それたは言わない。あと少しで良い。もし叶ったのならば、彼がその目の先に見ているもの、それを共に見てみたかった。
「何か未練を残している記憶こそ、いつまでも消えない。そうだとしたら、〝忘れる〟ことは、過去を過去として、前に踏み出せた証拠ってことになるでしょ。」
彼の前髪が風に吹かれ、ふわりと浮いた。普段は髪で隠れて見えにくい、切れ長の一重。その瞳が僕を掴んだ。
「…前に踏み出せた、か。」
今は分からない。でも時間が経って、今の自分を大人になってから振り返った時、それを理解できるようになるのだろうか。忘れてしまったら、もうその時間を〝忘れた〟という事実すら僕の意識にはないのだろうけれど、それでも、いつか再び彼の事を思い出す時間がやって来て、僕はまた、あの時間を生きた証を、噛み締めることが出来るのだろうか。
───蒼井が信じるものを、俺も信じたい。
それは、僕の意識の〝裏側〟に眠っていた、記憶の欠片だった。いつのことか、僕に自分自身を信じる為の勇気を与えてくれた言葉だった。いつ、どこで耳にした言葉だったかは、朧げだ。けど、それをくれたのは、きっと彼だった。
「…俺も、信じてみるよ、その〝約束〟を。」
彼は僅かに瞳を見開き、目を伏せた。そうして柔らかい笑みを口元に浮かべ、彼は僕にそっと手を差し出した。
「…?」
「約束の、握手。」
「…あ、うん。」
空中に浮かせた手が、まだ少し震えている。まだ、彼の手に触れることに躊躇いを感じている。けれど、これで最後なのだ。もう暫く、彼に会うことは叶わない。僕は僅かに震える右手を差し出し、彼の繊細な手の平に、自分の右手を重ね合わせた。僕の熱を持った手が、少しひんやりとした彼の手に触れる。時間の経過を忘れさせるような心地の良い秋風が、僕達の間を通り抜けていく。
「あ、」
彼は左手の腕時計に目を遣ると、声を上げた。
「もう、十五分過ぎてる。」
「ほんとだ、時間が経つのはあっという間だ。」
そうして離れていく手。久しぶりに触れた誰かの体温が、遠ざかっていく。
「大丈夫かな、看護師さんに怒られない?」
「うん、多分大丈夫だよ。顔見知りの人だから。」
少し焦ったような彼の表情に、僕は思わずくすりと笑いを零した。
「何か、いつも俺ら、時間を忘れて、話し込んじゃうね。」
その言葉に、はっきりとは思い出せないけれど、二人で廊下を走った、ある日の光景が思い出された。そうだ。小さな記憶の切れ端でも良い。今思い出せる僅かな思い出の欠片を、可能な限り書き留めておこう。いつでもまた、思い出せるように。だから、無理に思い出そうとしなくて良い。少しずつ、その時間を貯蓄していけばいい。そう考えて、今は少し、思い出せない自分を受け流すことが出来る気がした。
僕らは屋上を後にし、会話もないまま、一階の出入り口の階までエレベーターで降りていった。人も疎らな受付を通り、僕は前を歩く彼の背中を追いかけた。
「ここでいいよ。わざわざ、ありがとう。」
自動扉の前まで来ると、一ノ瀬が振り返った。
「いや、こちらこそ、学校帰りだったのに、わざわざここまで。」
喉で何かが支えたように、その先の言葉は、僕の意志に反して出ようとはしなかった。ありがとう、そう言ってしまったら、本当に、本当に、最後になってしまう気がした。
「ここからは、どうやって帰るの?」
「バスが出てるから、それで帰るよ。」
彼が、背中を向けて歩き出した。一歩、二歩、彼の姿が、遠ざかっていく。そうして沈んでいく夕陽が、彼の白い背中を照らす。
それは、自ら選んだ別れのはずだった。本来なら、七月、花火大会のあの日で、最後になるはずだった。別れの言葉を交えることも許されず、ただ何の未来も約束されないまま、僕らは決別するはずだった。それなのに、どうして、改めて彼との別れがやって来るとなったら、こんなにも辛いのだろう。
「元気でな。」
僕は、小さく手を挙げた。
「うん、蒼井も、早く退院出来るように祈ってる。また、連絡するから。」
彼の背中が、弱くなった陽射しに照らされた。少しずつ、遠く小さくなっていく彼の姿が見えなくなるまで、僕はそこに立ち続けた。夕方の空には、白くどこまでも続く、大きな雲が浮かんでいた。
Epilogue
遠くの方で、花火の音が聞こえた。
八月八日。
僕は小さなテーブルランプの点いた六畳間のリビングで、本を開いていた。そうか、今日は花火大会。昨日、観光課の職員達が話していた会話を思い出す。
九年前の大学三年生の春、僕は偶然、高校一年の時仲良くしていた、木下という男に地元の駅で遭遇した。高校二年の途中で学校を辞め、通信に切りかえてからというもの、元々同級生だった者とはほぼ無縁状態だったのだが、久々に会った彼は僕のことを覚えていて、彼の方から声を掛けてくれたのだ。今何をしているとか、調子はどうだとか当たり障りの無い世間話をして、そろそろ別れようと思った時だった。彼から、僕らが通っていた高校の所在する市の役所に興味はないかとの誘いを受けた。彼の父親も役所の人間で、人手が足りていない課が幾つもあるらしいのだと言った。丁度、就職活動が難航していた僕にはこの上ない話ではあったが、二年遅れで大学を卒業をする僕でも可能なのだろうかという不安が残っていた。お世辞かは分からないが、不覚にも蒼井なら大丈夫だと励ましの言葉を貰い、まずは役所の説明会やインターンシップに参加することを提案された。同時並行で、一般企業の面接も進めてはいたが、最終的には市役所に絞り、僕なりに試験勉強や面接などの対策をして、晴れて、市役所への就職が決まったのだ。
僕が配属されている課は福祉課で、観光課とは縁遠そうな課だが、一応、市の職員として市で開催されている花火大会には、間接的には関わっている。にもかかわらず、ここ十年くらい、まともに花火を見ていなかった。県内の実家に帰省するタイミングと被ることが多く、市で開催される花火大会の日は家にいないことがほとんどだったのだ。
バンッ、と鳴り響く音に、何故だか胸が締め付けられるような感覚に陥った。花火を目にしていなくても、どこかでやっている花火の音は、何度だって耳にしたことがあったはずなのに。理由は分からない。心臓が弱いとか、何か病気を患っているわけではない。ただ、遠い昔にあったトラウマのような何かが、知らず知らずの内に花火の音と結びつけられ、その音を聞くと途端に胸が苦しくなるのだった。
僕は引き寄せられるようにして、窓際に歩みより、普段、滅多に見ようとは思わない空に、顔を向けた。
十年ぶりに見た、その夜空いっぱいに広がる花火。僕は、思わず息を呑んで、その花火に引き込まれるように見入っていた。綺麗だと、心からそう思えた。きっと知らないうちに、僕は花火から目を逸らしていたのだろう。十年という月日が、少しずつその意識を僕から剥がしていったのかもしれない。
ふと、目元に擽ったい何かを感じた。無意識に目尻を擦ると、外の光で反射して、手の甲がきらりと光った。可笑しなことに、その感情は留まることなく流れ続け、手では拭いきれない程まで溢れてしまった。それでも僕は、花火から目を背けることが出来ず、ぼやける眼で、何とか見続けようとしていた。美しいと見入れば見入る程に、僕の胸を苦しくさせるのに、何故か僕は、空に打ち上げられる花火に釘付けになっていた。
花火に、何か嫌な記憶がある訳じゃない。小さい頃だって、花火が嫌いだった記憶はない。寧ろ、好きだったはずだ。自ら友人を誘って見に行こうとするほど。好きなはずだ、三十を過ぎた、今だって。
きっとある日を境に、僕は花火の音が苦手になった。どこかで花火の打ち上がっている音を聞くと、自然と目に入れることを拒んでいた。思い出そうとしても、ある青年期で欠けた記憶が、僕を邪魔していた。
こんな小さな町で開催されている花火大会なのに、これまで見たどの花火大会よりも心を奪われ、我も忘れて見入っていた。いや、正確に言えば恐らく、今僕の目の前で咲き誇る花火が、青年期に(・)見た(・・)花火を(・)彷彿と(・)させて(・・・)いる(・・)から(・・)だった。
段々とぼやけていく視界に、僕は窓から離れることしか出来なかった。見ていると苦しくて、息が出来なくなりそうだった。それは、花火を見ること自体によって引き起こされるものではなかった。きっと、蓋をして閉じ込めていた記憶を、僕が思い出さないようにする為のものだった。もう、すぐ傍まで来ている。好奇心か、怖い物見たさか、それが何だったか知りたいと思う一方で、その記憶が形となって現れてしまうのが怖かった。僕は思わず耳を、目を手で覆った、その時だった。
「…?」
何か角のあるものが、手に触れた。
「…」
長方形の、白い手紙。封も開けず、僕は窓際の机の上に、ずっと置きっぱなしにしていたらしい。
たしか二日程前、総務課の女性職員が、僕の机に置いていったものだった。宛先には市役所の住所が書かれていたが、宛名が僕の名前だったので、ここに持ってきたらしいのだ。その手紙を見た瞬間、僕は大きな違和感を覚えた。確かにこの手紙の宛先は市役所で、宛名は僕だ。何故わざわざ僕の家の住所では無く、勤め先に送ってきたのかという疑問を除けば、何の変哲も無い、只の手紙なのだ。けれど僕が違和感を抱いたのは、その文字だった。僕は、この字を、どこかで目にしたことがあった。それも最近では無く、遠い遠い昔。送り主の字が、成長と共に変わっているにせよ、字を書くときに出る癖は、きっと変わらない。
僕は知っていたのだ、この字の主を。
手紙を裏返すと、そこに書かれていたのは、知らない名字と、佐賀県の住所だった。生まれた時から栃木に住んでいた僕に、佐賀にいる知り合いなど居るはずも無く、当然、そこに書かれた〝丹羽〟という名字にも見覚えが無かった。高校や大学時代の知り合いを当たれば、もしかしたら佐賀出身だった奴もいるのかもしれないが、そいつらの中に、僕がここで働いていることを知っている者は思い当たらない。送り主の番地まで書かれているのに、肝心の名前が書かれていないなんて、一体どういう意図があってこの手紙を送ってきたのだろう。
ふと時計を見ると、その手紙を手に、十分程作業が止まっていたことに気が付いて、僕は仕事を再開した。───
その時の事を思い出し、少し心臓の音が大きくなるのが分かった。家に持って帰ってきたのはいいが、多忙な毎日に、その存在をすっかり忘れていたのだ。もし変な手紙で無ければ、いつまでも返信をしないのは失礼に当たる。僕は少し震える手で、封筒を拾い上げた。
〝丹羽〟とは、一体誰だ?中には、一体どんな内容が書かれている。脅迫状?何かの手違い?いや、もし脅迫状なら、こんなに丁寧に自分の住所までは書かないだろうし、手違いや何かの偶然で、市役所の住所と僕の名前は一致しないだろう。
僕は、そっと封を開けた。文通用に用意されたであろう真っ白い洋型の封筒に、丁寧な字で僕の名が印されている。今更、僕に手紙を送る程親しい仲の者が居るはずがない。ましてや、近況を知らせ合うような間柄の者も。僕は心を空にして、開けた封から一枚の便せんを取り出した。
「〝纚空へ〟───
筆圧の薄く、繊細な字。
僕を、纚空と呼んだ人物。直ぐには思い出せないけれど、やはり、僕が小さい頃に会った人物。何十ページにも渡って出来上がった僕の三十年間、その中で、僕が決して忘れたくないと必死に刻んだ、とある一ページ。
〝突然の手紙、ごめんね。ずっと連絡を取りたいと思っていたのに、気が付いたら、もう三十になってた。〟
僕の早くなった鼓動がどくりどくりと、その波を荒くする。その手紙の主が誰なのか、僕は、ほとんど分かりかけていた。それでもまだ確信は持てなくて、そうであって欲しいと願いながら、僕は、手紙の一番最後に書かれた名前に、目を走らせた。
〝───丹羽 世七〟
旧姓、〝一ノ瀬世七〟。
僕が決して忘れまいと、何度も想いを書き連ねた時間。十数年という月日を経ても、色褪せず残り続けた記憶。僕は忘れなかった、あの日から、ずっと、彼の事を。
『両親が離婚したんだ。───だから、苗字も変わる。』
あの日の彼の横顔が、そう語った声が、蘇る。
僕はその場に、崩れ落ちてしまいそうだった。喜びなのか安堵なのか、驚きなのか感動なのか分からない感情が、ごちゃ混ぜになって、僕は叫び出したくなる衝動を必死に抑えていた。やっぱり、彼だった。本当は、字を見た瞬間から気付いていたのかもしれない。でも、期待を裏切られることが怖くて、僕はこの送り主の名を自分の目で確かめるまで、あの刻まれた一ページを開かないようにしていた。
〝実は、封筒の裏に名前を書こうと思ったんだけど、ちょっと蒼井のこと驚かせたくて、わざと名字だけにしたんだ。最初の名前も、纚空って、漢字で書いてみたくて。笑 色々驚かせて、ごめんね。〟
高校生の時の彼の姿を思い出して、僕はくすりと笑いが零れた。あの彼がこんな冗談を言うようになるとは、あの頃の彼では想像できなくて、僕は思わず笑みを零した。
〝この前、同窓会があってさ、何年か前もやってたみたいなんだけど、久しぶりに行ってみようと思って、参加したんだ。そこで蒼井に会えたら良いなって思ってたんだけど、会えなかったからさ、大分へこんだ。笑 ───〟
そういえば、数ヶ月前に封筒が来ていた覚えがある。留年した僕にも、親切に同窓会の誘いを郵送してくれたみたいだが、何となく行く気になれず、不参加にしてしまったのだ。彼が来ると分かっていたなら、僕は参加しようと思ったのだろうか。それとも、会わせる顔がないと、不参加に丸を付けただろうか。
〝───それで、その時に、高橋に会ったんだよ。覚えてるかな、ショートカットの、凄く元気な女の子。彼女、相変わらずすごかったんだ。同級生だった皆の、ありとあらゆる近況を色々知っててさ。今何してるかとか、どこに住んでるとか。そこで彼女から聞いたんだ。蒼井が、高校のあった市の役所で働いてるって話。〟
高橋裕希。懐かしい名前だった。高校を辞めてからは、彼女と直接話した記憶は無い。だが恐らく、僕に市役所を紹介してくれた同級生の彼から、口伝てに噂が広まったのだろう。木下と高橋は、確か同じ部活の先輩と後輩で、当時付き合ってた時期もあったようだ。彼自身、中々口の軽い男だったし、それに加えて、高橋だ。僕が市役所勤めなのが広まるのも、納得できる。
〝連絡するタイミングは、沢山あったはずなんだけど、まだこのメールアドレス使ってるかなとか、急に電話しても、お互い話しにくいかなとか、色々考えちゃってさ。蒼井が今、どこに住んでるのかも分からなかったから。それで行き着いたのが、同窓会の時に高橋から聞いた、市役所の住所だったんだ。〟
彼に、最後にメールをしたのは、いつのことだったろう。高校生の時に持っていたガラケーの時代も終わり、メールにとって変わったメッセージツールの普及で、すっかりメールとは縁遠くなってしまった。その頃、社会人になったタイミングとも重なり、連絡する機会が減ったのも無理はなかった。実際、機種変更をしてから、メールは一切使わなくなってしまった。
〝蒼井と連絡を取るなら、メールとか電話とかより、手紙にしたいっていう、変なこだわりがあってさ。笑 同窓会にいたメンバーに蒼井のこと聞いてみたんだけど、流石に住んでる場所を知ってる人はいなかったから、もう職場に送るしかないって思って、宛先を市役所にしたんだ。職員の方にはちょっと手間かけさせちゃって申し訳なかったんだけど、どうしても蒼井に、届けたくて。〟
彼が僕にくれた手紙。あれから、二十年以上の時が経っても尚、僕たちには、自らの手で言葉を伝えることを選んだ。メールでも電話でもなく、彼は〝手紙〟で言葉を届けようとしてくれた。
〝───それで、今回手紙を送ったきっかけがね、〟
その一行を見た瞬間、靄のような、霧のような何かが、僕の胸に立込め、心に大きく伸し掛った。次の文を読む目が、止まる。手紙を持つ手に、じんわりと汗が滲んだ。
〝先月、結婚したんだ。それで、妻の実家がある佐賀に引っ越したタイミングで、勇気出して蒼井に手紙を書こうと思って。そもそも、久しぶりに同窓会に参加しようと思ったのも、籍入れる前で、結婚したら、きっと参加する機会減るだろうなって思ったからなんだ。〟
呼吸が浅く、鼓動が早まる。冷房の効いている部屋で、全身が熱くなっていく。心から、祝福すべき事だった。彼も、もう三十を越えている。当然のことだ。結婚して家庭を持つ年齢なのだから。いや、この手紙を開いた時にはもう、予想出来ていたはずだった。何をしていて、どこにいて、この十三年を、どんな人たちと過ごしてきたかくらい、想像の範疇でも、覚悟していたはずだった。それなのに、どうして僕は、今更こんな感情を。
〝結婚が決まって、引っ越しするのに長崎のアパートの部屋を片付けしてたら、すごく懐かしいもの見つけてさ。何だと思う?“花火”のキーホルダーだったんだ。俺も驚いた。多分、蒼井には見せたこと無いから、知らなかったと思うんだけど、〟
───花火のキーホルダー?彼がそんなものを持っていただなんて、今まで聞いたことがなかった。
〝小学生の時、蒼井に虹のキーホルダーあげたでしょ?それ旅行先で見つけたお土産だったんだけどね、柄違いで、虹ともうひとつ、花火のキーホルダーがあったんだ。小学生の俺だから、よく覚えてないし、どんな考えでそうしたかは分からないんだけど、蒼井は〝虹〟、自分は〝花火〟にしようって思ったんだ。伝わるか分からないんだけど…、花火って、〝夜の太陽〟みたいな存在だと思わない?太陽の消えた夜空を、照らしてくれているみたいで。今になって思うと、俺たち、お互いに、お互いのイメージのキーホルダーを持ってたってことなんだって。〟
劣等感でも、失望でもない。喪失感や寂寥感とも違う。ただ、一言では表せない感情が、じわりじわりと、少しずつ僕を侵食していった。僕は多分、知っていた、この感情の正体を。ただ、目を背けたいだけなんだ。分かっている、忘れたくはないはずなのに、どこかでその事実を受け入れたくない自分がいることを。
あの夜のこと、僕はその日からずっと、知らず知らずのうちに忘れようとしていたのかもしれない。忘れまいと自分に言い聞かせていながら、どこかで、思い出さないように蓋をしていた。思い出してしまえば、癒えかけた傷が、再び疼くような気がして。
〝佐賀なんて、なかなか来る機会無いかもしれないけど、もしこっちに来ることがあるなら、是非寄ってよ。
それとね、あともう一つ。───〟
そこに書かれていた文を目にした瞬間、自然と涙が溢れ出た。それは、悲しみの感情ではなかった。漸く辿り着いたんだ、僕らが追いかけていた、あの景色に。張り裂けそうな程に、僕の胸は喜びの感情で一杯だった。叶うことなら、僕もその景色を、一緒に見てみたかった。
〝───この手紙が、ちゃんと蒼井に届いていることを信じて、終わりにします。会えるの、すっごく楽しみにしてるから。最後まで読んでくれて、本当にありがとう。いつか、必ず。
丹羽世七〟」
僕は、食器棚から花火の絵柄がプリントされたマグカップを取り出した。そのマグカップに、白湯を注いでいく。それは五十度以上になると絵柄が変わり、虹の絵柄になる仕掛けのマグカップだった。家具屋で偶然見つけ、一目惚れして買ったものだ。
僕は窓際に椅子を寄せ、マグカップを片手に、窓から花火を眺めた。今、僕は花火を見上げても、先程覚えた息苦しさは無かった。狂濤のごとく打ち続けていた心臓も、今は少し抑まり、平常に戻っていた。季節を問わず飲んでいる白湯の温かさに、安心感を覚えたのかもしれない。
手元に置かれた、彼からの書いた手紙。もしかしたら、彼も同じように、今、どこかの花火を見上げているのかもしれない。
僕は片手の、藍色の花火の柄から、少しずつ変化していくマグカップを見つめた。そこには薄水色の空を飾る、一本の虹が描かれていた。
僕が彼を虹と例えたのは、きっと、彼の感受性豊かな性格からだ。小学生の時は言葉に出来なかったけれど、今ならわかる。僕が闇夜を照らす、太陽のような存在と言えるのかは分からない。だが僕達は、互いが互いに抱くイメージのキーホルダーを持ち、あの日見た虹を、花火を心に留め続けていた。いつでも互いのことを思い出し、忘れてしまわないように。
彼は、知っているだろうか。昼間に出る〝虹〟は、夜に咲く〝花火〟とは、交わることはない。普通なら、同じ時間帯の空では、共存し合えないはずの存在だ。けれど一つだけ、夜に虹が現れる条件がある。
〝月虹〟───月明かりによって、できる虹。
街明かりもなく、月の光が最大限になる満月の夜、空気が多く水蒸気を含むという条件が揃ったとき、僕らは、夜に虹を見ることが出来る。それは、昼間の虹に出会うより何倍も難しい条件の下、初めて実現する。
そんな僕らが出会えたことは、夜の虹を目に出来るのと同じくらい、奇跡だった。
───〝この間道を散歩してたら、突然雨が降ってきてさ、でも西の方は太陽が見えて、すごく変な天気だったんだ。そしたら、薄らと虹が現れてさ。最初は見えるか見ないかくらいだったんだけど、だんだん濃くなっていって、目の前に〝虹の足〟が見えたんだよ。〟
僕は、彼の書き連ねた文字をもう一度目でなぞり、右手で握る虹のマグカップに目を向けた。彼が見たものが、一体どれほど美しいものだったかは、想像でしか分からない。けれど、そのマグカップに描かれた虹は、彼が見たであろう景色を、僕に示してくれているようだった。
〝蒼井に見せたかった。いや、本音を言えば、一緒に見たかった。長崎だから、叶わない願いだけどね。───〟
それならば。
会いに行こう、君のために。
僕は君に、どんな言葉をかけるだろう。そうして僕は、どんな顔を向けたらいい。僕の中で君は、高校生のあの日から止まったままだ。僕はまだ、あの日のことを忘れることが出来ずに、執念深く覚えている。最後に記憶を無くしてから、ずっと。
君はどんな大人になった?どんな景色を見て、どんな人と出会って、どんな感情と共に生きた。三十になった君は、相変わらずあの綺麗な瞳を持ったままだろうか。彼を見たら、僕は一体どんな気持ちを抱くことになるだろう。僕は、全てを自分の中で収めて、この感情と決着を付けられるのだろうか。
ペンを持つ手が、震える。まだ、彼に何を伝えるべきか、まとまっていない。けど、書きたい。彼に伝えたい。僕はペンをもう一度持ち直し、便箋の一番上の行にペンをゆっくりと走らせた。
───〝世七へ〟