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月虹  作者: ヨル
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第一章:花火

〝げっこう〟と読みます。を一言で表すと、「噛めば噛むほど美味しくなる物語」です。最後まで読んだ後、もう一度最初に戻ったとき、ああ、この描写はこういう意味があったのか、と、実はこの場面には、こんなキーワードが隠されていたのかと、振り返り、場面ひとつひとつの意味が分かるよう、様々な伏線が張り巡らされています。

「月虹」には、二つの楽しみ方があります。最後まで読み終えた後、すぐに最初を振り返るのです。そうしてあとがきを読み、この部分が伏線だったのだろうかと、答え合わせをしてみてください。もう一つには、最後まで読み終えた後、あとがきを読み、全てを知り得てから最初に戻るのも、またひとつの楽しみ方です。どちらの読み方であっても、一回目には見えなかったもう一つの世界が、見えてくるはずです。そうして最後に、このタイトルの「月虹」の意味が分かるはずです。

それでは、「月虹」の世界をお楽しみください。







… … … … … … 

一ノ瀬 世七

蒼井  纚空 

 



高橋  祐希

小山  大樹

西川  輝介

… … … … … …









第一章:花火 「追憶」

       「失踪」

 

第二章:虹  「記憶」

 

エピローグ






第一章:花火

「追憶」


 虹は、僕をいつでも、あの頃の、あの時間に連れ戻した。幻のようにとても短くて、瞬きの間に去って行った記憶は、今も尚、忘れることなく、残り続けている。


 飛行機雲。

 どこまでも蒼く伸びる空。

 雲間から姿を見せた、太陽。


 三十を迎えた今でも、時折、彼のことを思い出す。これからもきっと、この壮大な空を見上げる度に思い出すのだろう。空はいつだって、真っ直ぐだったあの頃の僕らがいた日から、変わらない、どこまでも広く蒼く、透明なのだから。

 ポケットの中のスマホを取り出すと、僕はそこに付けられたキーホルダーを、僕の目を覆う程の広い空に重ね合わせた。楕円形で、透明の石の中に閉じ込められた小さな〝花火〟は、あの日の夏の夜空を呼び起こした。


 もう十年以上も会っていないけれど、まだ彼は、僕のことを覚えていてくれているだろうか。同じこの広い空を見て、僕のことを。

 …いや、忘れられたのなら、それでもいい。

 どこかで、元気にしているらしいという話は聞いた。だからきっと、大丈夫なのだろう。素敵な人と出会って、幸せな日々を過ごしているかもしれない。もう結婚して、子供がいるかもしれない。今どこで、どんな風に暮らしているのだろうな。

 

 三階の屋上から、サッカーボールを追いかける、小学生くらいの男児達の姿が見えた。その姿が、小学生だった彼の後ろ姿と重なる。相変わらず、彼はサッカーを好きでいるだろうか。もう三十を過ぎている彼の姿を想像し、心のどこか、手には届かない場所を擽られたような感覚を抱いた。まだ、虹の足を探している?雨の後の、太陽を待ち侘びて。──いや、それは、ないか、僕は自分自身を笑うように、息を漏らした。


 風が頬を撫でた。少し遠くの方で、僕の名前を呼ぶ声がする。開きかけた記憶の入り口を塞ぐようにして。

「今、行くよ。」

僕はその声の方へ、振り返った。


✴ ✴



『せなって、漢字どう書くの?』

『世界の世に、なは、数字の七だよ。』

『へえ~、かっけー名前!』


 高校二年の春、僕は他県の高校へ転校した。転校はもう何度目かのことだから、数年毎に環境がリセットされるのは慣れっこだった。

『世七くん、よろしく!あたし、ユウキ!高橋でいいよ。』

『あぁ、うん。よろしく。』

 僕は得意の愛想笑いを浮かべ、挨拶を交わす。左隣のショートカットの女子生徒は、転入生の僕に、まるで抵抗のない素振りだ。

 僕の席は、窓から三列面の、後ろから二列目。趣味の読書───僕にとって本は、最早友人のような存在だ───に集中するには、まあ良くもなければ、悪くもない席だ。

 辺りを見回してみると、ふと右隣の席が目に止った。誰もいない席に、プリントやらノートが積まれ、数日放置されている様子だ。今日、偶々欠席だったという訳ではなく、明らかに何日も欠席している状態なのは、見て分かった。今朝、クラスにやってきた時から気になっていた。僕の席と、その席だけが空っぽだったからだ。左に目を向けると、机の下で携帯を開く高橋の姿が目に付いた。第一印象から、比較的話しかけやすそうな印象を抱いた子だ。

『ねえ、隣の席ってさ、』

『あ、ごめん、何?』

 彼女は慌てて携帯を閉じると、くりっとした大きな目を僕に向けた。

『…いや、こちらこそ。あの、ここの席の子って、何かあったの?』

 僕が右隣の席を指さすと、彼女はああ、アオイ?と言って僕の方を向いた。

『うん。』

 その生徒の机に置かれていたプリントの名前欄を思い出し、僕は即座に頭の中で漢字変換をする。

『蒼井ねー、何か、ちょっとした脳の障害とかで、しばらく学校来たり来なかったりしてるんだよね。先生もあんまし詳しいこと教えてくれないから、私もよく分かんないんだけどさ。』

 障害。僕は彼女の言った言葉を、小さく繰り返した。

『何の障害とかは、分からないの?』

 彼女は小首を傾げると、細く整えられた眉を顰めた。

『うーん、それも分かんないんだよね。でも学校来るとすごい元気そうだし、私たちもあんまし聞くのもな~、みたいな、暗黙の了解みたいなのがあって。まぁ、聞けば答えてくれるんだろうけど…。』

 彼女は少し目を泳がせて、そう言った。

『…そうなんだ。』

 僕はもう一度、右隣の席に目を向けた。何日も休むということは、簡単に治るような病気ではなく、治療に専念しなければならないほどの大病ということか。

『んまぁ、明日とかには来るんじゃないかな?いつも休んでも、二日くらいだし。今までも結構長くて心配したこともあったけど、突然フラって現れるから、あいつは!』

 彼女は少し大きめの歯を覗かせ、屈託のない笑みを見せた。

『…そっか、ありがとう。』

 僕は再び、途中だった物語の途中を追い始めようと本を開いた…が、小説に目を向けたものの、蒼井という生徒のことが頭から離れず、文章を目で追っては出だしに戻り、追っては出だしに戻るを何度も繰り返していた。漸くして小説の世界の入り口に入りかけた時、高橋の声に、僕は再び現実に引き戻されることになる。

『…って、あれっ?』

 左隣から聞こえた声に、僕は思わず顔を上げた。零れ落ちそう程に見開かれた彼女の目線は、僕の頭の、少し上に注がれていた。

『蒼井じゃん!!遅いよ~もう。』

 一瞬の間、僕は呼吸をすることを忘れていた。視界の端に映り込む、黒い制服姿の影。彼女が大きく手を振る、蒼井と呼ばれたその人物の方に目を向けた。

『おはよ!』

 おはよう、そう返した柔らかい声が、僕の耳に馴染むようだった。

『ね、一ノ瀬くん!やっぱり来たでしょ!噂をすればなんとやらだねぇ。』

 左斜め後ろから聞こえた、得意げに呟く声に反応することも忘れていた。すらりと背の伸びた、僕より一回り背の高い姿。

『転校生?』

 陽に当って、茶色味がかった髪。品の良く整った口元を開き、その人物は親しげな瞳を僕に向けた。薄く開かれた唇から、八重歯が覗いた。




それは、僕が転入した初日の事だった。朝礼も終わり、一限が始まろうとしていた時。手持ち無沙汰に小説を開いていた、僕の頭上に降ってきた声。それは透き通るようでいて、強い意志を持ち、どんなに本の世界が僕を引き込もうとも、そこから連れ出だしてしまう程の引力を持っていた。只のデジャブのようであり、その声は、僕を酷く曖昧な記憶の中で彷徨わせていた。

『…おはよう。』

 甚だぎこちない第一声が、乾いた僕の喉から飛び出す。まるで丸められた新聞紙を広げたように、がさがさと粗雑な声だった。

『ちょうど蒼井の話してたところだったんだよね~!グッドタイミング!』

『俺の話?なんだよそれ。』

 高橋は親指を立て、二コッと笑った。彼はスポーツバッグのショルダーを肩から下ろし、どさっと机の上に置く。

『ほら蒼井、一ノ瀬くんだよ!丁度今日来たばっかりの!良かったねぇ、お隣さんが来てくれて!』

 高橋はクルーソックスの両足をパタパタと動かし、僕の方に向かって右手を伸ばした。その声と共に、彼の目線が僕へと移る。

『聞いてたよ。教室入った瞬間から気になってた。下の名前は?何て言うの?』

 くっきりとしている訳ではない、控えめな二重の瞳に、僕は内心どきりとした。

『…世七。』

 僕は蒼井を見上げ、ぼそりと呟くように言った。何故だか緊張で、喉が縮こまっていた。

『かっけぇ名前だよねえ?私もせなって名前が良かったなぁ~。せなって、女の子の名前でもいいよね?』

 高橋は頬杖をついて、さぞかし羨ましそうに、目を細めた。

『来世は、〝せな〟って名前付けてもらおっかな~!』

『親が付けてくれた名前なんだから、大事にしろよな。てかそもそも、生まれる前に、親にどうやって名前を指定するんだよ。』

『んー、まあそうなんだけど~…。』

 蒼井は机の中に溜まったプリントの束を取り出すと、めっちゃ溜まってるなぁ、とぼやいて、再び机の中に戻した。が、その手を突然止めると、あっ、と言って、再び僕に目線を戻した。

『てか俺、人に下の名前聞いておいて、自分の紹介してなかったよな。』

 彼はケラケラとハスキーな笑いを響かせると、紙の束から一枚のプリントを取り、僕に差し出して見せた。筆圧の濃く、少し角張った字の名前が僕の目に飛び込む。

『…〝りく〟。』

 紙の上部に書かれた名前を、僕はまるで息を吐くように、自然と声に出して読んでいた。すると彼は大きく目を見開いて、心底感動したように声を上げた。

『マジ、よく読めたな。皆俺の名前見ると、一瞬固まるのに。』

『…本が好きで、漢字だけは、得意なんだ。』

『本読む人って、こんな漢字も知ってるんだぁ。私、最初全っ然分かんなかったよ。』

 二人から聞こえた感嘆の声に、僕は何だかいたたまれなくなって、難しい漢字書くんだねと、含羞を隠すように声を重ねた。

『そう!この漢字のおかげでさ、テストの時大変なんだよなぁ。』

『画数、多いもんね。』

『名前書くだけで、一分は取られるな!』

 彼は目尻に皺を作って、そう言った。

『なにー?そーゆー蒼井自身も、親から貰った名前にケチつけてんじゃん。』

 左から高橋が口を挟むと、俺はただ事実を言っただけだから!と、蒼井も負けじと言い返した。

『…でも俺は、すごく良い名前だと思う。』

 無意識に零れた自分の声に驚きながらも、彼の名に当てられた漢字の意味を、ずっと思い出そうとしていた。

『え?そう?』

『うん。』

 少し照れくさそうに鼻の下を擦る彼に、僕は頷いた。

 








✴ ✴ ✴ ✴ ✴ ✴


ある夜、僕は、夢を見た。

僕は何かを欲し、必死に足掻き、もがき苦しんでいた。水面の空気を求めるようにして、上へ上へと求めれば求めるほどにそれは遠くなっていき、僕がそれを手で掴むことを困難にさせた。

苦しい。

痛い。

僕はどうして、こんなにも欲しいと、喉から手が出るほどそれを望んでいるのだろう。こんな感情は、初めてだった。寝ているときも、その意識がはっきりと覚めている時でさえも、僕はあの日に、あの景色に、あの色に、思いを馳せている。今、僕の目の前に広がっている世界は、真っ黒だ。何も感じない。何も映らない。僕は、何者でも無くなってしまった。

僕は何時から、あんな美しい世界を好むようになった?僕は何時から、あんな色鮮やかで目映い光景を手にしたいと、思うようになった?僕は、自分自身を理解できなかった。もしかしたら僕は、認めたくないのかもしれない。こんな感情を、こんな欲望を抱いている自分自身を、許すことが出来ないのかもしれない。…いや、きっと僕は、相手が自分と同じ天秤に掛けたとき、それが等しく平行になることを期待していないのだ。きっと僕は、そう(・・)で(・)は(・)無い(・・)こと(・・)を知りたくないのだ。僕はまだ、向き合うことが出来ないで居た。僕の立つ世界の向こう側で、相手も同じように僕の世界を見ていると期待して、そこには誰も居ない現実を。

いっその事、もう、諦めてしまえばいい。忘れて、なかったことにすればいい。勝手に期待するから、裏切られたと思うのだから。そう思ってみても、僕にはどうにもこうにも、自分の手ではこの感情を整理出来ないことを悟って、僕はまた、自分自身に失望する。あの日から、その繰り返しだ。

『──────』

ふと、ある日見た、黒板の文字を思い出す。あれは、ある詩についての授業で、誰かが言っていた言葉。…そうだ、きっと探そうと求めている時には、見つからないものだ。

僕は、そっとベッドを抜け出した。まだ、太陽は昇らない。光の差さないこの部屋は、今の僕には丁度良い。あの時間を過ごした自分と、今、向き合う時なのだ。

僕は、月の光が薄らいでいく空を、見上げた。








✴ ✴ ✴

      

『一ノ瀬って、どこから引っ越してきたの?』

 一限の終了した休み時間、僕がぼんやりと黒板を見つめていると、隣の蒼井が話し掛けてきた。

『あ、…前の学校は、茨城。』

『生まれも育ちも?』

『あぁ…いや、生まれたのは長崎なんだ。父親の仕事の関係で、そこから色んな県に移り住んでは、引っ越してるから。』

『転勤族なのか。コロコロ環境が変わるのって、大変だよな。』

『…うん。』

 僕は元より、自分のことを語るのが得意ではない。一対一ならまだ良いけれど、大人数に囲まれた時には地獄だ。幾度も転校を経験している僕にとって、他人から寄せられる一時的な興味や関心は、有り難くも何ともない。寧ろ、迷惑だとさえ感じていた。ただの物珍しさとか目新しさとか、そういうもので寄ってくる者の〝興味〟は、そう長く続かない。初めこそ興味本位で寄ってはくるものの、一度自分らとは違う人間だと判断すれば、彼らはすぐに散っていく。僕は何時しか〝興味を持たれること〟に抵抗が出来、誰からも関心を寄せられず、誰の評価も受けない〝陰生植物〟のように生きる事が、最も自分に向いていると考えるようになっていた。

『何かごめん、根堀葉堀聞いちゃって。さっきも、高橋がうるさかったよな。』

 僕があまり反応を示さないことを気にさせてしまったのだろうか、彼は小さく顔の前で手を立てた。

『いや、…ただ、自分のこと話すの、あんまり得意じゃなくて。』

『そっか。…高橋もさ、悪い奴じゃないんだ。ただ、ちょっとデリカシーがない時があるくらいでさ。』

 仲良くしてやって、そう言って薄く笑った表情に、彼に変な気を遣わせてしまったのだと悟って、少し気が差した。

『…そういえば、体調は大丈夫なの?その、高橋から聞いたんだけど、学校何日か休むことあるって聞いたから。』

『ああ、うん。ありがとう。そうだよな、ちゃんと話してないから。』

 彼は頭をぽりぽりと掻くと、少し話しにくそうに顔を歪めた。

『ごめん、聞かない方が良かった、かな。』

『いや、全然、そういうことじゃ無くてさ。何て説明すれば良いかなと思って。』

 彼は、ん~と腕を組むと、眉を顰めた。

『簡単に言うと、俺、脳に後遺症があってさ、時々検査入院とか、リハビリとかで休むことがあるんだ。』

『後遺症ってことは、生まれつきじゃないんだよね?どうして。』

 彼は僅かに目を大きくして、それから、自身の足下に目線を落とした。

『事故でさ。去年の夏くらいかな…、帰り道、自転車で坂道下ってた時に、後ろから走ってきたトラックに轢かれたんだ。居眠り運転だったらしくて。』

 彼は少し苦い記憶を思い出したように、顔を顰めた。

『トラックに当てられた時、些細なことだったんだけど、気になることがあってさ。本当に偶然、道脇に逸れたんだ。そのお陰か分かんないけど、直撃されずに済んだ。もしそのまま真っ直ぐ走り続けてたら、もろに轢かれて死んでたかもしれない。』

 気になること、そう言葉をぼかしたのが気になったが、僕は喉を縛られたように、掛けるべき適当な言葉が見つからなかった。ただ息をするように溢れた声が、僕の精一杯の言葉だった。

『…良かった、って、言って良いのか分からないけど、本当に、良かった。命が助かって。』

 その時の彼が患った、心的、身体的痛みは、到底僕に理解できるものでは無いだろう。けれど、その時の彼の心情を想像して、心が痛かった。

『一ノ瀬って、…優しいんだな。』

 僕を見る濁りのない透明な瞳が、僕の心の中まで読み取っていくようで、思わず目を逸らした。

『皆、こんなこと聞かされると黙っちゃうんだよ。何か、気まずくなるというかさ。そういう反応が普通だと思うし、俺だって逆の立場だったら、同じような反応するのかもしれないけどさ。』

 少し歪んでいた彼の表情に、僅かでも明るさが戻った様な気がした。

『いや、俺はただ、思ったことを言っただけだから。』

 優しくなんてない、僕は。

 それだけで十分だよ、彼の落ち着いた声が、僕の捻れた心を溶かしていくみたいだった。

『…あ、そういえば、机整理してくれたの、一ノ瀬?』

 彼は敢えて空気を変えるように声を上げ、机を覗き込んでいた。

『…え?ああ、うん、俺だと思う。』

『やっぱな~、一ノ瀬だと思ったんだよ。今まで休んで学校来た時、こんな綺麗に片付いてたことなかったからさ。』

『本当に、簡単にだよ。隣だったから、気になっただけ。』

『ありがとな。』

 そう言って、彼はくしゃりと目尻の皺を作って笑った。高橋なんて、俺が休んでも何もしてくれないどころか、俺の机ぐちゃぐちゃにしていくんだぜ、そう言った横顔に、僕の片隅で眠っていた記憶が顔を出してしまいそうだった。

『まー、出会った初日から、こんな暗い話は置いておいて!』

 彼はその空気を打ち破るように、声のトーンを上げて言った。

『一ノ瀬はさ、入りたい部活とかないの?中学で、何かやってたとかさ。』

 僕を見つめた彼の真っ直ぐな瞳に、僕は固まった。

 ボールを追いかけ、グラウンドを走り抜ける小さな後ろ姿。青く広大な空を駆ける少年の後ろ姿が、不意に僕の脳裏を掠めた。

『俺は、…』

 言葉を詰まらせた。小学校高学年、中学生の時だって、思い出そうとしても、誰もいない教室で一人、本を読んでいた記憶、窓の外で点になった同級生の姿を眺めていた、そんな断片的で、つまらない記憶しか浮かばなかった。

『俺には、何も無いんだ。』

 僕に向けられた曇りない目が、僕の心臓を酷く焦らせる。

『運動音痴だったし、入りたいとか打ち込みたいって思えるほどのものは、何も無かった。他に興味持てるものがなかったんだ。本の世界くらいしか。』

 彼の学ランのズボンから覗く、足首に巻かれた白い布を見つめて、僕はそう言った。

『中学の時も帰宅部だったし、今更、新しいこと始める気力もない。だから、部活は入るつもりは無いんだ。』

 胸の中に、もやもやとした霧が立ち込める。彼は、そっか、まあ無理することもないよ、勉強だってあるしさ、そう言って優しく笑う彼に、喉まで出掛かっていた言葉を声にしようとした時だった。

『はーい、席着いてー。』

 扉が開き、現れた担任の姿に、僕は口を閉ざした。



✴ 


 数日前、僕は、夢を見ていた。

 夢の中で僕は、外で駆け回る少年と少女の姿を教室の窓から見つめていた。先生も生徒も誰もいない、空っぽの教室。そこには僕だけが存在し、きっとそんな一人の僕を知っているのは、空から光を降らせる、あの太陽だけだった。今、グラウンドを駆ける彼らは、ただ自分の目に映っているものだけを見て、自分が信じたい物だけを信じる。僕がひとり、こんな所から見下ろしているだなんて、誰も想像もしていないだろう。


『───一ノ瀬くん、外、出なくていいの?』

 不意に廊下の方から聞こえてきた声に顔を向ける、担任の先生が扉から顔を覗かせていた。僕は黙って頷くと、その先生は少し心配そうな表情を浮かべ、またすぐに去って行った。そうして僕はまた、窓に顔を向ける。


 ああ、また僕はひとりぼっちになった。あの子がいた夏の日に、もう一度戻れたなら。今日も僕は、そんなことを考えながら窓の外を眺めている。

 自ら声を掛けて輪の中に入ろうとすれば、きっと彼らは拒むことなく、僕を受け入れるのだろう。そうして僕は偽りの顔で彼らと接し、偽りの関係を作る。僕らは恰も友達のような装いをし、ある時には誰かを味方に付け、都合が悪くなれば直ぐに敵に回ることも可能だ。僕がいなくなったところで、彼らが不利益を被ることは無い。

 そう、所詮僕の存在など、それっぽっちのものだった。友情なんてものは希薄で、些末な物だ。裏切ることも、裏切られることも、友達の条件に含まれていた。昨日までは親しかったと思っていたのに、急にその仮面を取って別人に成り済ますのも容易いことなのだ。


 あの子は今、どうしているだろう。僕はこうして過去の記憶を呼び覚ます度、あの日の時間を望んでいた。何度振り返ったって変わらない。僕があの時間に戻ることも、あの子といた時間を取り戻すことも、出来やしないのだから。

 幼い頃、何か綺麗なものを見た記憶。夢の中の僕は、その綺麗な物の具体的な形は分からないけれど、確かに僕は、ある景色に思いを馳せていた。その時間を共にした人物。どういう訳か僕は、その景色が、隣で目を輝かせて見入っていたあの子の表情が、今も尚、離れずに残っているのだ。いや、それはまだ、あの頃の僕が裏切りも人間の醜悪さも知らない、無邪気な子供だったからだろうか。このクラスにいる誰でもない、あの子のことだけは心を許し得たと思えたのは。僕は、信じてみたかったんだ。あの時純粋に抱いていた気持ちが、決して〝偽り〟では無かったことを。きっと僕はまだ、捨てきれずに居るのだ、あの時間を過ごした記憶を。


 そんな微睡みから覚めて、僕は今日も、朝を迎える。


✴ ✴ ✴ ✴



 六月二日。

 僕が転入をしてから、気が付けば、もう一ヶ月が過ぎていた。僕と蒼井は席が隣だったということもあってか、休み時間も、移動教室も帰り道も、彼と時間を過ごすことがほとんどだった。これまで何度も環境をリセットし、人と打解けることが難しかった僕を、彼の存在が大きく変えてくれているような気がした。彼が居れば、これまで難しいと感じていた事が、何でもないものに変わっていた。

『───それでは、今日はここまで。』

 二限を終えるチャイムが鳴り、生徒達がぱらぱらと席を立ち始める。

 転入前は、休むことも少なくないと聞いていた僕は、密かに彼の体調を心配していたが、この一ヶ月は学校を欠席することもなく、体調も安定しているようだった。〝脳に障害がある〟という事実を忘れるほど、彼はいつも周りを明るく照らし、僕に光を与えてくれる存在だった。


『あ、蒼井。』

『?』

 生徒達がぱらぱらと理科室へ移動を始めた頃、僕は彼に声を掛けた。

『俺、今日日直だから、先行ってていいよ。』

『あ、そっか。一ノ瀬、日直だったっけか。』

 ほとんどの生徒が移動した教室には、僕と幾人かの生徒、それから廊下で同じクラスの小山と呼ばれる男子が、蒼井と何かを話しているのが見えただけだった。小山はサッカー部の次期キャプテン候補で、時々、蒼井とサッカー部の話をしているのを目にしたことがあった。もしかしたら、部活の相談事かもしれない。


───〝求めているものは、求めれば求めるほど、見つからない。〟


 そこに綴られた文章に差し掛かった時、黒板消しを持つ僕の手が止まった。確か、西川という生徒が発表していた答えだ。その時の西川の声が頭の中で再生され、僕はそこに書かれた文字を自ずと声にして、読んでいた。

『…あ、』

 突然、隣に現れた誰かの影に、僕はどきりと心臓を飛び上がらせた。…が顔を確認すると、そこに立っていたのは蒼井だった。

『なんだ、蒼井だったのか。』

僕は少しほっとして、それから何事もなかったように黒板の文字を消し始めた。

『小山とは、もう大丈夫なの?』

『うん。サッカー部の相談事だけど、また後でって言っておいたから大丈夫。んなことより、手伝う!』

 彼は親指を立てて笑うと、僕と反対側から黒板を消し始めた。

『…ありがとう。』

『ぜーんぜん。俺には、これくらいしか出来ないし。』

 蒼井自身も、一年生の途中まではサッカー部に所属していたらしいのだが、事故の影響で脳に障害を引き起こしてからは、参加することが出来なくなったのだと言っていた。

『蒼井は、小山とは、ずっと前から仲いいんだ。よく、サッカー部の話してるから。』

 僕は、黙々と黒板の文字を消す彼に話しかけた。

『うん。あいつとは同中の、同じ部活でさ。うちの中学、割とサッカーが強かったんだ。高校入ってからも、一緒に並高のサッカー部を全国に連れていこうなって言ってたんだけど。…まあ、俺が怪我したせいで、ダメになっちゃったんだけどな。』

『でも小山は、蒼井のこと、すごく頼りにしてるみたいに見える。蒼井が部活参加出来なくなってからも、さっきみたいに相談しに来てたし、信頼してるというか。』

『そんな風に見えるか?』

『うん、見えるよ。』

 蒼井が部活に参加できなくなった今も、熱心に相談しに来ようと思う程、彼を信用しているということなのだろう。サッカー部で活躍する蒼井は、一個下の後輩達の目には、一体どんな風に映っていたのだろう。

『蒼井は、中学も高校も、サッカー部のエースとかだったの?』

『いや全然、エースなんてのには及ばなかったけど、高校入ってからも、一応はレギュラーだったんだ。』

『一年生でレギュラー?すごいな。』

『運が良かっただけだよ。俺には、サッカーくらいしかないから。』

彼は謙遜してそう言った。僕は黒板消しを置くと、白、赤、青、黄色、様々な色が混じり合い降り積もった、チョークの粉を見つめていた。

『…俺は、今まで信頼して、されるような関係も築いてこなかったし、一つのことに熱中したり、努力したりすることもなかった。ただ時の流れに身を任せて、その日その日を、漫然と生きているだけだったから。』

 少しずつ時間を刻んでは、消えていく。僕の十七年間の記憶は、刻んでも直ぐにリセットされる、まさに黒板の上の文字の様だった。

『そんな蒼井が、俺には羨ましい。』

 馬鹿、僕は自分自身に毒づいた。こんな話をするつもりじゃなかった。僕はただ、彼の話を黙って頷いて聞いて、この限りある時間を、彼と過ごせるのならば、それだけで良かったのに。何故僕は、こんな〝妬ましさ〟を剥き出しにするような言い方を。

 教室には、僕ら以外、誰の姿も見えなかった。僕らはお互いに言葉を失くしてしまったように、そこには沈黙だけがあった。彼は何も言わず、ただ黙って黒板を見つめている。もしかしたら僕は、彼の癇に障ることを言ってしまったのかもしれない。

『ごめん、今のは。』

 忘れて、そう言いかけた僕の声を、彼が遮った。

『…いや、なんか、分かる気がするんだ、一ノ瀬の言いたいこと。』

 何時になく真剣な彼の横顔が、何も書かれていない深緑の黒板を見つめていた。

『俺、留年してるんだよ。わかるって言っても、一ノ瀬のとは、ちょっと違うかもしれないけどさ。』

『………留年?』

 一瞬、自分の耳を疑った。いや、それは寧ろ、逆だったのかもしれない。僕はどこかでそれを、予想していた。

『本当は今、三年生(・・・)だった(・・・)ってこと?』

 彼はうん、と小さく頷くと、自分自身の後頭部を差して続けた。

『ほら、俺、脳の障害があるって言っただろ?事故の後遺症で学校休むことが増えて、出席日数が足りなくなっちゃってさ。突然意識失っちゃったり、記憶すること自体が難しくなったりで。』

 病院にいる間も休んでられないんだぜ?、リハビリとか、リハビリとかリハビリとか…と、彼は口調を早め、笑顔を見せて言った。

『どれくらい、入院してたの?』

 彼は黒板を見つめながら、当時の自分を、その真っ黒で何の変哲も無い面の中に見ているようだった。

『三ヶ月くらいかなぁ。補講授業とか受けて、色々留年を免れる手もあったんだけど、それも厳しくてさ。でも、そん時のクラスメイトの皆が、何とか俺が三年に上がれるように手助けしてくれてさ、ノート見せてくれたり、放課後、俺が休んだ日の教科を教えてくれたりしたんだ。それでも結局、上がれなかったんだけどな。』

 そう言って笑った表情には、どこか悔しさがにじみ出ていた。彼の笑顔の裏に、一体どれ程の葛藤があったのか、僕には想像も付かなかった。

『けど、手術で何とか回復できた部分もあるんだ。そのお陰で、記憶力も少しだけ戻ったし、意識無くなることも少なくなったし。』

『えっ、脳の?』

僕は唖然とした。脳の手術は、相当難しいと聞いたことがある。無症状で回復できる確率は分からないが、そんな手術を受けようと決意するには、相当な勇気がいるだろう。

『うん。両親が受けなさいって言ってくれて。運動とかは制限されてるけど、これでも前よりは全然マシになったんだ。今でも忘れ物も多いし、出来事とか、暗記したこととか、忘れっぽかったりするけどさ。』

 彼の右手の黒板消しが、黒板の上の最後の文字を擦り、そこには真っ新で平らな、いつも通りの平面があった。

『それでも、こうやって一個下の学年の皆とも打ち解けて、信頼されてさ、普通にはできない事だ。』

『俺自身が嫌だったんだよ。たった一年早く生まれただけなのに、敬語を使うべきだとか、先輩呼びしなきゃとか、何か変な話だろ?これから一年間同じ教室でやっていくのに、変な気遣いって疲れるから。だから、俺から皆に近づいていくしか無かったんだよ。』

 彼は平然と、何でもないように、そう言った。

『元からクラスメイトだったように、思って貰えるようにさ。』

『凄いよ、蒼井は。』

『買い被りすぎだよ。褒められるような事は、何もしてない。』

『俺が五月に来た時には、蒼井が留年してたなんて思えないくらいに、周りと打ち解けているように見えた。それだけ蒼井が、皆と上手くやれるために、努力したってことだ。』

『努力なんて、そんな大層なものじゃないよ。小山とか、周りの皆が助けてくれたからこそ乗り越えられたんだ。俺一人じゃ、何にも出来なかった。一人では無力だから。』

 少し俯いた彼の口元が、遠慮がちに笑う。

『蒼井が皆を信頼しようとするから、周りも自然と蒼井を助けようとしてくれるんだよ、きっと。』

 誰か助けを求めている人がいたら、彼はすかさずその人に手を差し伸べる、困っている人を見かけたら、真っ先に助けに行こうとする、そういう人だ。まさに、僕のような人間を。

『…てか、一ノ瀬、いつまで黒板消してんの?』

『え?』

彼に言われて手元を確認すると、確かに僕はもう何も書かれていない黒板に、何度も黒板消しを擦り付けていた。

『あっ、いや…ごめん。』

『何で俺に謝るんだよ。』

彼はケラケラと腹を抱え、さも楽しそうに笑い転げた。そんな風に全身で可笑しさを表現する彼に、僕は思わず笑いを零していた。

『…あ、ていうか、時間、…まずくない。』

 そんな時、不意に僕の視界に映り込んだ物体。僕らの頭上に掛けられた時計が、授業開始時刻の二分前を指していた。

『えっ、もうそんな時間!?』

 僕らは慌て始めた。次が理科室での授業だという事を、すっかり忘れていた。僕たちは教科書と筆箱を小脇に抱え、誰もいない教室を飛び出した。前を走る彼の背中を追いかけながら、僕は静かに記憶を遡っていた。





──────


 一日の終わりを告げるチャイムが鳴ると、幾人もの生徒たちが一斉に教室を飛び出していく。彼らは喜びの声を上げ、それぞれが掲げる目標に向けて、士気を高めているようだった。

 

高校二年の夏。

部活盛りのクラスメイトたちにとって、インターハイを控える大事な時期であり、三年生には引退前の最後の大会となる。十分もすれば誰の姿も見当たらない教室。僕は鞄のジッパーを閉じ、窓際に立っている彼の方を見やった。

 夕陽の差し込む窓際。彼の日に焼けた髪は陽光を浴び、より一層明るく染まって見えた。窓の外からは、幾つもの掛け声が聞こえる。彼がグラウンドを見つめているのか、それともその向こうに立ち並ぶ木々や池を見つめているのかは、僕には知りえなかった。その表情を正面から確認することは出来ないけれど、その斜め後ろから見えた姿の彼は、どこかいつもとは違う空気を纏い、僕が近づくことを躊躇わせるような雰囲気があった。

『何、見てるの?』

 僕は少し離れた自席から、彼に声を掛けた。

『ん?』

 彼は振り向くことなく、ただ窓の外の、ある一点を見つめていた。時々吹き込む風が、心地よかった。その風にふわりと浮いた髪が、僕を窓際の彼に吸い寄せるように、僕は彼のいる方へ、ゆっくりと歩んでいった。少しずつ近づいていくに連れ、彼の睫が白く光って見えた。

『…いいな。』

 僕は小さく、誰に話しかけるでもないように呟いた。僕は彼の隣に立つと、その景色を目に映した。彼と同じ目線に立って見下ろした景色は、まるでミニチュアの世界を見ている様で、僕は自分自身が、とてつもなくちっぽけな存在に感じた。僕にとって、今目の前に見える景色は、只の放課後の一風景。今までもこれからも、特別、記憶に残るような景色ではないのかもしれない。けれど。

『…戻りたい?』

 僕は聞いた。きっと彼にとっては、違う。この何でも無い夕暮れのグラウンドには、きっと他の誰にも理解できない、彼の中でしか呼び起こせない記憶が残されている。

『うん。戻りたい。…俺に出来ることは、限られてるから。』

 そんなこと、そう口を開きかけたけれど、今の彼にその言葉を投げかけるのは違う気がした。僕は黙ったまま、背中にゼッケンを着けて走る、誰かの後ろ姿を目で追いかけていた。

 暫くの間、僕たちは窓の開いた三階から同じ景色を眺め続けた。時間も忘れ、ただ教室に流れ込む空気が、差し込む西日だけが、時間の経過を物語っていた。

『…帰ろうか。』

 うん、と僕は言った。先ほどまで感じていた空気を打ち破ったように、そこには、いつもと変わらない表情を見せる彼がいた。

『にしても、今日は久しぶりに晴れたなぁ〜。』

 彼は両腕を伸ばし、背中を反らせた。

『明日も、晴れらしいよ。』

 やっと梅雨明け?、彼の声が廊下に響く。

 彼の左手、携帯に付けられた黒い紐のストラップが、小さく揺れていた。






『───蒼井って何か、花火みたいだよね。伝わるか分からないけど。』

 橙色の光が降るアスファルト、校庭の方から聞こえる声、青草が風に吹かれて揺れる駐輪場で、何台分か離れた彼に向かって、僕は言った。

『花火?俺が?』

 彼は少し悪戯っぽく笑うと、形の良い眉を片方持ち上げた。

『今、ちょっと馬鹿にしたでしょ。』

『してないよ、いや、今まで言われたこと無いからさ。花火って、俺のどこら辺が花火っぽいの?』

『…何というか、周りを、明るくさせるところとか、かな…。』

 僕は口ごもった。自分で言っておきながら、彼を花火に例えた理由を上手く説明出来なかった。

『明るくするって言ったら普通、太陽なんじゃないの?』

『いや、太陽は、…なんか違う気がする。』

『えー?そうなの?』

 確かに、最初はそう思っていた。けれど、改めて考え直したとき、〝太陽〟では表現しきれないと思ったのだ。彼は少し照れくさそうに笑うと、真面目な表情になって言った。

『そしたら、一ノ瀬はどんな存在になるんだ?』

『え?…俺は、…何にもならないよ。』

 僕は自転車の鍵を回しながら、自分でもそっけないと思うほどの声で言った。

『そんなことないだろ。一ノ瀬だって…』

 彼の手は、鍵穴に鍵を差したところで、止まった。

『う~ん…。』

『やっぱり、ないじゃん!』

『いや!あるよ!今真剣に考えてるんだって!』

 彼は笑いながら、顎に手をやって、考える素振りをして見せた。

『んでもまぁ、同じ太陽系で考えたら、火星とか水星とか色々あるけど…、一ノ瀬はすげえ燃えてるって感じじゃないから、太陽に一番近い水星とかは違うよな…。』

 真面目に悩でいる表情の彼を、少し微笑ましく思いながら、僕は自転車を引く。

『火星とか水星なんて、漢字だけ見ると、火星の方が燃えてる感じするけど、実際逆なのが面白いよね。』

『それそれ!未だに違和感あるよな。』

 僕らは校門を出て、少し傾斜のある坂を歩き始めた。

『俺は、強いて自分を例えるなら、〝ドクダミ〟、だと思うんだ。』

 僕がぼそりと呟くと、数秒間の謎の沈黙が生まれた。あれ、蒼井の反応がない、そう思って横を見ると、先ほどまで隣を歩いていたはずの彼の姿が消えていることに気がついた。

『…えっ、蒼井?』

 後ろを振り返ると、絶妙の角度で止まった自転車と、腹を抱えて立ち止まる彼の姿が見えた。

『ちょっと、大丈夫?』

 体調が悪いのかな、僕は心配になって、自転車をUターンさせ、彼の元に走り出そうとしたときだった。一際大きな笑い声が、僕の耳に飛び込んできた。

『ははははッ、ちょっと待ってくれよ、何だよ、その例えっ!初めて聞いたよ!』

『ちょっ、笑ってたの?!もう、驚かさないでよ…!』

 心配して損した。僕は再びくるりと自転車の向きを帰ると、わざと早足でスタスタと歩き始めた。

『いやいや、マジで。〝ドクダミ〟は面白すぎるって!!』

 ちょっと待てって、そう彼の声も聞こえないふりをして、僕は歩き続けた。

 怒った?、別に怒ってないよ、何だぁ良かった、そう言って、コロコロと表情を変える彼が面白くて、僕は心中の感情が表に出ないように、必死にこらえていた。

『んで、何でドクダミなんだよ?』

 やっと追いついた彼は、僕の隣に並び、不思議そうに目を見開く。僕は、雲に反射する夕陽を見つめ、遙か遠くに追いやった記憶を思い出した。

 中学生の時、遊ぶ仲間も居ない僕が一人、日陰で見つけたドクダミ。その植物を見た時、この子も僕と同じように、日の当たる明るい場所では生息しない同類なのだと知り、親近感を覚えた。タンポポとは違い、太陽の光を浴びず、誰の目にも留まることがない。その特性は、まさに僕そのものだった。

『…ドクダミみたいに、誰の感心も脚光も浴びないところで、静かに生きるのが、自分に似てるって思うから。』

 彼は空を見上げると、ドクダミか、と宙に向かって呟いた。

『やっぱ一ノ瀬って、言葉選びが独特だよな。小説よく読んでるし、自然とそういうのって身につくモンなのか。』

『…関係、あるかな。』

 きっとあるよ、彼はそう言った。

『俺も、幼少期はどっちかっていうと、いつも日陰で遊んでるような子供だったな。今でこそ、積極的に人と関わろうって思うようになったけど、小学生の頃とかは捻くれ者で、きっと可愛くない子供だった思う。』

 そうかな、僕は、彼に聞こえるか聞こえないかくらいの声量で呟いた。

『でも、どうしてそういう風に考えるようになったんだ?俺は、一ノ瀬が陰生植物みたいだなんて、全然思わないけどな。』

 ゆっくりと規則的に音を奏でる車輪が、僕の記憶を遡るように回る。

『…何だろうね。分からない。自分でも。』

 ぼんやりと浮かぶ、数々の苦い記憶を踏み潰すように、僕は自分の影を踏んで歩いていた。

陽の沈む空。伸びる自転車の影と、昼間の時間。その光が眩しく、地に降り注ぐその熱が、僕の胸を確かにざわめかせた。

『…きっと、人を信用することが怖くなったんだ。』

 無意識の内に声が漏れてしまったみたいに、僕はそう言っていた。

『心から信頼して、深い関係を築こうなんて、思ったことがないんだ。新しい環境に来ても、どうせまた直ぐに変わる。そんなことの繰り返しで、深い関係を築くこと自体が無意味なんだって思うようになった。そんなものは僕に必要ないことだし、相手にとっても、僕は必要な存在じゃないから。』

 転校を繰り返す度、僕はそのことを何度だって痛感させられた。そのどれもが表面的で、どうしたって幾重にも張られた予防線は取れることが無くて、相手のことを理解して受け入れる前に、僕は相手に歩み寄ること自体を諦めてしまう。

『今まで出会った中で、一人も?』

 彼の歩くスピードが緩んだ。一瞬、呼吸を忘れたように、息が止った。

『信用しようって思えた人、一人(・・)も(・)いなかった(・・・・・)?』

 彼の、僕の真意を確かめるような、真っ直ぐな視線が、僕の瞳に刺さった。そのぶれることがない瞳の奥に、僕の心拍数が上がっていく。

『…いや、』

 小学二年生。あの少年のいた季節。信頼なんて概念すら無かった、あの頃を振り返れば、僕はきっと、誰かを信頼していたと言えるのだろうか。

『…一人くらいはいたと思う。もっと、幼い頃には。その人が、俺のことを同じように信頼してくれてたかどうかは、分からないけど。』

 夏という季節が、もうそこまで来ている、そんな匂いがした。彼は目線を外して、再び足下を見つめていた。彼もまた、僕と同じように影を踏むようにして歩いていた。

『そっか。それなら良かった。一人でもいたのなら。』

 上り坂の終わりに差し掛かった。ここから暫く続く、平地が見える。さっきまで目を逸らしたくなる程、眩しく僕らを照らしていた太陽も、木々に隠れて徐々に見えなくなっていく。

『…俺はさ、そんな風には思ってないよ。』

『え?』

『俺は一ノ瀬のこと、自分に必要の無い存在だなんて思ってない。』

 真っ直ぐ僕の目を見る彼に、不覚にも心臓がどくりと跳ねた。何だか心の内を見透かされたような、そんな気がした。微かに揺れた彼の瞳が、再び前に向けられる。太陽の光を浴びて、色素の薄くなった彼の髪色が、眩しかった。

『無理してでも、自分じゃ無い自分になろうとする必要は無い。一ノ瀬のことを信頼して、必要としてる人がいるってこと、それだけは確かだよ。』

 ああ、と僕は心の中で呟いた声が、また漏れてはいないかと心配になった。その声から、表情から、それが彼の気遣いやお世辞では無く、彼の本心なのだと、不思議とそう思えた。根拠は無いけれど、そう思えただけで、嬉しかった。

『…って、何か、今俺、すげえ恥ずかしいこと言ったよな!?』

 彼は照れ隠しにのように笑い飛ばすと、さっきよりも歩速を上げて自転車を引き始めた。斜め後ろから見えた彼の頬が、太陽に照らされていたからなのか、僅かに赤く染まって見えた。

『…いや、いい言葉だよ。』

 気のせいかもしれない。けれど、さっきよりもずっと、僕の体は軽くなったようで、足下がふわりと浮いているみたいな感覚だった。その言葉はまるで、雨上がりの空、雲の隙間から差した光を見た時みたいだった。心地よい風が頬を切る。ありがとう、僕はそう言った。緩やかに続いていた上り坂の終わりが見えた。

『あっ。』

 少し前を歩く彼が、突然足を止めた。

『どうしたの?』

 振り向いた彼の表情は、何か大事なことを思い出した様子だ。

『化学の教科書忘れた!!明日、小テストあったよな!?今思い出した!!!』

『ああ、うん、ある!』

『やっべぇー、すまん!俺、取りに行ってくるわ!』

 彼は自転車をくるりと一回転させ背を向けると、もの凄い追いスピードで自転車を漕いでいく。先帰って、追いつけないと思うけど、彼の叫ぶ声が、下り坂の向こうから聞こえる。

『車、気をつけてよ!!』

 僕は精一杯の声で叫んだ。彼が左手を挙げ、おうと言う声が聞こえた気がした。僕も背を向け、坂を駆け下りた。



     ✴ ✴ ✴ ✴ ✴



 時が流れるのは早く、僕が転校してきてから、もう三ヶ月近くが経とうとしていた。正確に、〝夏〟という季節がどこから始まるのかは分からないけれど、きっと、この虫の音が忙しなく鳴り続き、ジメジメと湿気を含んだ蒸し暑さが全身を覆う、この感覚を覚えたとき、僕らは〝夏〟がやって来たと言うのだろう。


 前の授業の書き残しが、薄らと見える黒板。窓際の机。放課後、僕だけが残された夕方の教室を、橙色の夕陽が色付けている。

 誰もいない教室。夏の音が、窓の外から聞こえてくる。

 黒板の右端、〝七月十九日(水)〟と書かれた文字を見つめ、この教室で過ごした、まだ振り返る程にも積み重なってはいない数ヶ月を巻き戻していた。


『あれ、一ノ瀬?』

 ぼんやりと、真っ新な黒板を見つめていた時だった。聞き馴染んだ、よく知る声が、僕の心臓を飛び上がらせた。

『まだ帰ってなかったのかよ?』

『あ、蒼井。』

 今日、蒼井は補習があると言っていたから、僕はもうとっくに帰ったものと思っていたのだろう。

『もしかして、待っててくれてたの?』

 彼は冗談めいた口調で、そう言った。

『ごめん、何かぼーっとしてた。補習、これから?』

『そ!肝心のテキスト忘れて、取りに来た。』

彼は頭をぽりぽりと掻いて、机の中を漁った。僕は肩に鞄を掛けると、椅子を引いた。

『あっ、これ。』

 机の中を漁っていた手に、一枚の冊子が握られている。

『あ、もう帰る?』

『うん、でも、何かあった?』

僕がそう聞くと、彼は少し遠慮がちに、その冊子を僕に見せた。

『一ノ瀬にこの話しなきゃって思ってたのに、忘れてた。』

『?』

『今週の土曜、空いてる?』

 それは、彼からの初めての誘いだった。学校では常に一緒にいたけれど、土日に学校以外で会うことは、今まで一度もなかった。

『これ、行ってみたいんだよ。』

 彼の手にあったのは、カラー印刷のされた、会報のようなものだった。表紙には、〝花火マップ2005〟と書かれている。

『花火大会。』

 七月二十二日。三日後の土曜日、この市の花火大会があるらしい。

『花火…。』

 何年も、花火大会には足を伸ばしていない。見に行こうと思い立つこともなかったし、花火大会に誘う相手も、誘われる機会もなかった。

『花火、好きなの?』

『夏の風物詩と言えば、花火じゃん?何か、花火見ないで夏終わらせられないよな~と思ってさ。』

彼はあぶね~、忘れるところだった!一ノ瀬、ナイス!と言いながら、冊子を広げて見せた。彼が指した一つの写真には、碧色に赤のコントラストが印象的な花火が写されていた。

『こっちは、去年、うちの市でやってた花火大会の写真らしい。綺麗だよなぁ。』

 彼は指を指した写真を眺め、呟いた。他にも花火の写真と、それぞれ開催された市や町の名前が載せられている。

『五千発?』

『そう!県内でも、割と有名な花火大会なんだ。一ノ瀬の都合が良ければ、一緒に行ってみない?』

 最後に行った花火大会は、恐らく、記憶に無いくらい昔の話。小学生くらいの時、両親と手持ち花火をやったくらいで、空に打ち上がる花火は、とんと見ていない。今、自分が見る打上花火は、一体どんな風に映るのだろう。

『…行ってみたい。』

『よし来た!』

 学校のある以外の日に、彼と会う。それだけでも、何だか心が踊った。

『んじゃあ、夕方の六時に、鳥居神社の前な!』

『うん。』

 僕は頷いた。彼の嬉しそうに笑った顔に、僕も自然と笑っていた。

 夏の音が、すぐ傍で聞こえるような気がした。





「失踪」


 八月三十日。


 蟋蟀の声が、夏の終わりを告げるように鳴いている。久々の登校日、教室に一歩踏み込むなり、何やらクラスがざわつく空気を一瞬にして察した。休み明けで、普段なら気怠い空気が漂っているはずなのに、今日はまるで一大イベントでもあるかのような、そんな雰囲気だ。

 僕は一番後ろの窓際の席に鞄を下ろすと、クラスメイトの声に耳をそばめた。


「蒼井が───」

「───単純に、今日も休みなんじゃねーの?」

 蒼井───?彼が休むのは今までだって幾度もあったことだ。そう珍しいことではない。今更、新たに彼について騒ぎ立てることなどあるのか?僕は片肘を付き、興味のない風を装って窓の方へ顔を向けていた。彼は、本来なら三学年にいるはずの一個上だ。彼に何かあったとしても、別に不思議ではない。暫く聞き耳を立てていると、どうやら彼が学校を辞めたらしいという声が、薄らと聞こえてきた。

「…なあ西川、聞いた?」

「…ん?」

 外に目を向けていると、僕の右隣の席の永岡が、訝しげな表情で僕に声を掛けてきた。

「蒼井、転校したらしいぜ。」

「…へえ、そうなんだ。何かあったの?」

 たった今知ったような顔をして、さりげなく理由を伺うと、彼自身もよく分からないようで、小首を傾げた。

「それが謎なんだ。」

「元々、一個上だろ?三年生に昇級できたとかじゃないの?」

「いや、俺も知り合いの先輩がいるから聞いたんだけど、特に何も聞いてないってさ。西川、蒼井と結構話してなかったっけ?」

「…まあ、係が一緒だったから、少し交流があったくらいで、特別仲が良かったわけじゃないよ。」

 そう言うと、永岡はふうと鼻息を漏らし、そっか、と言って席から離れていった。僕は肘を着いたまま、斜め前方に座る一人のクラスメイトの後ろ姿に、目線を遣った。

 今日も変わらず、小さな本を開き、周りの生徒たちの会話には全くもって興味のない素振りだ。それが〝振り〟なのか、実際に興味が無いだけなのか、その後ろ姿からは分からなかった。



「蒼井くんは、夏休み中にご家庭の事情で、転校することになりました。───」

 何故引っ越したのか、どこへ引っ越したのか、どうしてこうも唐突だったのか、担任の説明からは、そのどれもが欠けていた。彼女自身も、隠しているというより、詳しいことを何も聞かされていない様に見えた。担任は何か理由の一つくらい示唆してくれるだろう、そう高を括っていた僕の鼻は、まんまとへし折られた。もしかしたら、蒼井と仲の良かった小山たちは、何か知っているのかもしれないと思ったが、誰一人、彼の転校の理由を知っている者はいない様子だった。


「一ノ瀬。」

 四限が終わり、噂話も若干落ち着いた頃、僕は斜め前方に座る一ノ瀬に歩み寄った。

「ああ、西川。」

 彼は開いていた小説を閉じ、顔を上げた。彼の持っていた単行本には茶色い布のブックカバーが掛けられ、その本のタイトルまでは分からなかった。

「蒼井のこと、何か聞いてなかったの?」

「え?」

 まさか、いきなり蒼井のことを聞いてくるとは予想していなかったのか、僕の一言に、彼は直ぐに目を逸らした。

「…いや、何も 聞いてないけど。」

「ほんとに?夏休み中、会ってただろ?ほら、花火大会も二人で来てたじゃん。」

 僕の声を聞いていながらも、彼は開いた小説に目線をもどし、再び文字の羅列を見つめていた。その瞳は文字を追っているようで、何も追えてはいないように見えた。

「ああ、でもそれ以降は、会ってないよ。」

「まぁ会ってないとしてもさ、その日、何か言ってなかったの?引っ越すとか、転校するとか。」

「…いや、俺は、何も聞いてないよ。」 

 本の邪魔をするなとでも言うように、彼は僕に目を向けることなく、頑なに何も知らないと言い張った。これ以上尋ねても、彼からは何も聞けないだろう。一旦その時は身を引き、僕は自席に戻った。


「なぁ、蒼井のこと聞いた?あいつ実は───」

「え?まじ?それやばくない?」


 彼の噂は、一歩遅れて他クラスの生徒たちにも広まり、廊下を歩けばヒソヒソと嘘か誠かも定かでない噂話が耳に入る。

 ただの転校と言えば、それまでのこと。特別、不思議なことではない。ただひとつに、蒼井が一年留年して周りから浮いていたこと、それに加え、担任も彼の転校の事情を詳しく説明しなかったが故に、様々な憶測が飛び交ってしまったのだろう。まるで神隠しのように忽然と姿を消した蒼井が、事件に巻き込まれたのではないかとか、事件を起こしたのではないかと、推測の域を出ない噂だけが独り歩きしてしまった。結局のところ、誰もそれらしき結論には至らなかったのだが。



「───聞いてくれよ!この間コイツなんか、」

 そんな根も葉もない噂話も、一週間も経てば〝過去の話題〟となり、忽ち煙のように消えていった。クラスには彼について囁く者は居なくなり、まるで初めから〝蒼井〟という生徒が存在しなかったかのように、日常がそこにあった。


『───じゃあ西川!また夏休み明けに!』


 だが。

 僕の心には、何かがずっと引っかかっていた。きっと彼も同じハズだ。いや、きっと彼は、僕が知らない何かを知っている。あの日。あの花火の日。僕は、二人に会った。だからこそ、〝家庭の事情による転校〟という理由では、どうしても呑む込むことが出来なかった。この違和感を、きっと、あの日二人が花火大会に来ていたことを知っている、僕だけが持っていた。そして真実を知っているのは、きっと一ノ瀬だ。






『すいません、焼きそば一つ。』

『ありがとうございます!』

 素早くヘラを動かし、鉄板の上の麺を具材と絡めていく。ソースの芳ばしい香りが胃を空かせた。

『またお願いしまーす!』

 僕はクラスでは決して聞かせることのない、職人気質な声で、幸せそうに去っていく親子の後ろ姿を見送った。


 七月某日。

 辺りは、浴衣を着た人々で賑わっている。お面を着けた子供や、綿飴の袋を抱えた家族連れの姿が通り過ぎていく。少し遠くの方から、夏を歌った曲が聞こえ、あれはあの曲だとか懐かしい、などと言う声が耳に入る。一年のこの季節にしか味わえない独特の雰囲気を、僕も祭客の一人になって味わっていた。

『いらっしゃいませ。』

 その時、二人組の男性の足元が近づいてくるのが見えた。暖簾が開き、その向こう側から覗いたのは、僕のよく知る顔ぶれだった。

『あれ、蒼井…!一ノ瀬も?』

 僕は思わず声を裏返した。そこには、見慣れない私服姿の二人がいた。蒼井の方は、目玉がこぼれ落ちそうな程に目を見開いている。

『あっれ、西川じゃん!何やってんだよ、こんなとこで!』

 蒼井が声を上げた。隣の一ノ瀬も、驚いた表情で、蒼井の影から姿を見せた。

『え何?バイトしてたの?』

『うちの親父の手伝いだよ。親父、定食屋やってんだ。』

『えっ、店出してたのかよ!すげえ、知らなかった。てか西川、そんな声も出せんだな~。普段静かだから、知らなかったよ。』

 蒼井はからかうように言った。

『やめろよ。一応親父の店の看板背負ってんだから、これくらいはやらないと。』

 まあ、そうだよな、と彼は納得した様子を見せた。突然の知り合いの訪問に何だか恥ずかしくなって、麺を焼く手が自然と早まった。

『ってか、来るなら来るって言ってくれよな。まさか、今日二人に会うとは思ってなかったよ。』

『それはこっちのセリフだって!』

 蒼井がへらへらと笑う、その横から一ノ瀬が口を挟んだ。

『西川、せっかくだから買ってくよ。』

『買ってってくれるの?ありがとう。』

『俺も食べる!!!』

『焼きそば二つ~!!ありがとうございまーす。』

 もう転入してきて三ヶ月近くも経つというのに、一ノ瀬とは正面でしっかりと話したことがなかった。いつも髪で目が隠れていてよく見えなかったが、こうして見てみると、整った顔立ちをしている。

『ってか俺、一ノ瀬とちゃんと話したの、割と少ないよな?』

 ふわりと、芳ばしい香りが漂う。立つ煙の向こう側で、一ノ瀬の切れ長の目が、僕を捉える。

『西川とは、席が少し離れてるから、あんまり話す機会なかったよね。先生によく指される窓際の席。』

『そうなんだよ、俺ちゃんと先生の話聞いてるのにさ、寝てるとでも思われてんのかな。』

『えっ、二人、そんなに話したことなかったっけか。』

 蒼井が驚いたように声を出した。

『授業以外ではな。てか、お前らいーっつも一緒にいるじゃん。いつ俺が一ノ瀬と話す機会があったんだよ。』

 わざと嫌味っぽく言ってみると、何だよ悪かったな、と思いのほか、蒼井はしゅんとした様子だ。

『じゃあ、まあ、ちょうどいい機会だったのか。』

 だが、彼は早い立ち直りを見せて、少し満足気に言った。

『そうだな。うちの店の焼きそばも食べてもらえるし。』

『うん。』

 少し空いた、その間を縫うように煙が、僕らの間を舞う。

『…おしっ、いっちょ出来上がり。』

『うまそーっ!ん、じゃあ二人で八百円。』

 僕はプラスチックの容器二つを渡すと、蒼井から小銭を受け取った。

『毎度あり~。』

『ありがとう。』

『じゃあ西川、また夏休み明けにな!今度、お父さんがやってるっていう店、教えてくれよ!』

 手をヒラヒラと振る蒼井の言葉に、次に学校で会うのはそんな先かと気づいた。

『ああ、楽しんでな。』

 僕は、暖簾を潜り、煙の向こう側へ消えていく二人の背中を見送った。見えなくなるまで彼らの背中を見つめ、僕は彼が転校してきてからのことを少しだけ思い出していた。



      ✴ ✴



 十月四日。

 九月も終わりを迎え、十月の初旬になっても、蒼井の真実が語られることはなかった。クラスでも目立っていたはずの彼のことを、一ヶ月も経てば大方の生徒が忘れる。クラスの真ん中の席に誰がいたかなんてことさえ、気に留める者は誰もいなくなっていた。


 僕は始業時刻の五分前に教室へ入ると、机の上に鞄を置き、ある人物の元へ向かった。朝、四組の教室に誰よりも早く到着し、本と向かい合っている人物。僕は彼の席を目掛け、足を進めた。


「おはよう。」

 彼は自分に話しかけられているとは思っていないらしく、小説にのめり込んで、僕の声に気づいていない様だ。

「一ノ瀬。」

 顔を上げ、僕をその目に映すと、表情が少し和らいだ。

「…西川、おはよう。」

「何読んでんの?」

「あぁ。」

 茶色い布のブックカバーを外し、僕に表紙を見せた。そこには緑の鮮やかな木々が描かれていた。タイトルは。

「…『夏草』。初めて見た。」

「うん。前に一度読んだけど、もう一回、読んでみようかなって思って。」

 蒼井が居なくなってからというもの、僕は一ノ瀬と少しずつ距離を縮めていた。というのも、僕らには、〝本〟という共通の話題があったからだ。

「西川は?最近読んでる本とか。」

「俺は、専ら参考書になっちまったよ。もう受験生だしな。」

蒼井が姿を消した直後、突如として距離を縮めようと近づいた僕に、初めは警戒の目を見せていたけれど、休み時間や放課後、積極的に話しかけるようにしてから、彼の方も警戒を解いてくれているような気がしていた。

「…俺も、切り替えなきゃとは思ってるんだけどね。」

 彼は苦笑気味にそう言って、軽く本を閉じた。

僕らに通じたもの。それは、物語の世界だった。放課後になると、よく図書室へ向かう一ノ瀬の姿を目にするようになった。まるで蒼井のいた時間を埋めるように、彼は本ばかりと向き合い、現実から目を逸らしているようにさえ思えた。彼は、当初より大分心を開いて話してくれるようになったが、未だ、どこかぎこちなさを残していた。

「なあ、一ノ瀬さ、」

 僕が彼に近づいたのは、純粋に抱いた、彼への興味からだった。彼の持つ独特な感性と、世界観。授業で度々発言する彼の言葉に、僕は少しずつ興味を惹かれた。同じ、〝本〟という共通の趣味を持つ彼の脳内を知ってみたいと、僕は単純にそう思ったのかもしれない。

僕は少し声のトーンを変え、左手に持っていた一枚の紙を机に置いた。

「これ、興味ない?来年は、受験勉強真っ只中で、行ける機会もないと思うしさ。」

 彼は花火の写真が載せられたポスターに、目線を移した。

「今度、花火大会あるんだ、隣の柚木市で。」

「柚木市?」

 三白眼の瞳が僕に向けられ、その瞳が微かに揺れた。蒼井が姿を消してから一か月、少しは薄らいだはずの警戒心という名の彼を覆っていた膜は、花火大会という言葉に、再び分厚さを増した気がした。

「七時半くらいから始まるんだ。そこまで大きな花火大会じゃないけど。」

「秋なのに、花火?」

 彼は、数秒机の上のポスターを見つめると、独り言のようにそう言った。

「そ。まぁ、偶にあるだろ?秋の花火。悪くはないと思うんだ。」

 彼はポスターを見つめた目を、再び僕に向けた。

「どうして、俺なの?他にも、誘う奴いるんじゃない?」

「他に誘える奴がいないんだよ、俺、友達も多くないしな。」

 半分は本当で、半分は嘘かもしれない。その真意を確かめるような瞳が、僕を突き刺した。

「…それに、一ノ瀬も花火好きなのかなって思って。前、祭りで会っただろ?」

「…四日の土曜日か。」

「何か予定あった?」

「いや、何もないけど。」

 その鋭い眼光が、ポスターに書かれた数字に向けられている。この様子だと断られるか。俯いたまま、何も発言しない彼の脳内を解読するのは、中々に困難だった。

 到頭、彼の目線が、ポスターから分厚い本に移った。駄目か、そう思った時だった。

「いいよ、土曜日。」

 あまりにあっさりとした返事に、思わず素っ頓狂な声が出ていた。

「…まあ、そうだよな。って、えっ、まじ?」

「うん。いいよ。花火、好きだから。」

 彼の目は、僕を真っ直ぐに見ていた。その目は淀みがなく透明で、あの日、屋台で見た彼の瞳を思い出させた。

「…じゃあ、今週の土曜、会おう。」

「うん。」

 僕は席に戻り、またいつものように読書を始める、彼の後ろ姿をもう一度見た。さっきまで会話していたのが嘘のように、その後ろ姿には何の動揺もなく、蒼井のいた時と変わらない空気を纏っていた。


✴ ✴ ✴



「ごめん、待たせた。」

「全然待ってないよ。大丈夫。」


 花火大会の会場から最も近く、目印になりそうな場所──赤い鳥居がひっそり佇む神社で、僕達は落合った。誘ったのは僕の方だったけれど、その場所を提案したのは、一ノ瀬だった。

「なんか、一ノ瀬、いつもと雰囲気違うな。」

「そうかな?いつもは制服だからじゃない?」

 その日の彼は、クラスにいる時とは別人の様だった。特別何かが変わったわけではない。ただ、普段何重にもなっている薄い膜が、今は数枚にまで薄くなっている、そんな気がした。


 夕暮れ時を過ぎ、七時を回った。十月の夜を駆ける空気は冷たく、薄いシャツだけでは肌寒い。

「何か食う?」

 彼は少し考えると、近くにあった、たこ焼きのお店を指さした。僕達は一パックずつを買うと、近くの芝生に腰を下ろした。

 特段、話が広がることもなかったけれど、会話が途切れることもなかった。常に僕達は何かしらの言葉を零し合い、拾っては、また新しい話題に移っていった。普段、学校では見せない彼の表情を垣間見る度、僕の中で沸々と疑問が湧いていた。

それは、何故、一ノ(・・・)と(・)蒼井(・・)が(・)釣り合った(・・・・・)の(・)か(・)ということだった。

 彼は、ある意味、僕と似ていた。人と積極的に交わろうとはせず、内側で起こっている出来事を常に外野から俯瞰して見ている。分厚い皮を纏い、自分自身を傷けることのないよう、誰とも一定の距離を保ち、一線を引いている。

 だからこそ僕には分からなかった。良くも悪くも感情表現が豊かで、クラスの中でも目立つ方の蒼井と、内気で感情に起伏のない一ノ瀬。どちらも、無理をして相手に合わせるような性格ではないからこそ、何故馬があったのか、僕には理解できなかった。

「何か、結構肌寒くなってきたな。」

 屋台で買ったものを食べ終えると、僕たちはゴミ箱を探しつつ、再び賑やかな露天の並びを歩き始めた。陽は落ち、辺りが暗くなっていくに連れ、人の数が増えていく。僕らを取り囲む音がその色を増していくに程に、僕らの言葉数は減っていった。僕達はただ、周りが奏でる音に身を任せ、言葉を交えること無く、歩いていた。

 ふと訪れた沈黙の間を縫う風が、僕に話し出すタイミングを教えるように、僕らの間を通り抜ける。話を切り出すなら、今か、そう口を開こうと思った時だった。

「───それで、今日俺を誘ったのは、何か聞きたいことがあったからじゃないの?」

 彼の声が、それまで流れていた空気を切り裂いた。午後七時半。花火の打ち上がる合図が、大きな一発を空に解き放った時だった。

「…やっぱ、気がついてた?」

「そりゃあ気づくよ。夏休み明け早々、真っ先に俺のところに来て、蒼井のことを尋ねてきたのは西川くらいだったし。」

 彼は変わらず、決してぶれない瞳を携え、落ち着き払った声を夜の空気に落とした。

「それに、蒼井がいなくなってから近づいてきたのは、そのことが理由なのかなって何となく思ってた。」

 彼の物言いにはどこか棘があった。けれど、その鋭利さは、僕を傷付ける為のものでは無く、〝自己防衛〟の為の物のように思えた。

「いや、一ノ瀬と仲良くなりたいと思ってたのは本心だよ。本の話が出来る奴はなかなか周りにいなかったから、ずっと一ノ瀬と話したいって思ってた。」

 彼は腑に落ちないのか、その表情を動かさぬまま、僕たちは屋台からの光が薄く照らす道を歩き続けた。

「でも、今日花火に誘ったのは、一ノ瀬の言うとおり、蒼井のことを聞きたいと思って誘った。」

「…」

 そう伝えた後でも、彼は特別動揺した素振りを見せなかった。僕たちは、増えていく人混みをかき分け、ただ目的も無く、次第に賑やかになっていく通りを歩いた。

「先生は〝家庭の事情〟って言ってたけど、俺にはどうしてもそうは思えなかったんだ。かと言って、周りの奴らが騒ぎ立てる噂だって、どれも本当だとは思えなかったし。」

「俺も、そう思うよ。」

 僕より拳一つ分くらい身長の低い、彼の背中から発せられたその言葉に、僕は内心驚いていた。

「一ノ瀬だって、蒼井が留年してて、実際は俺たちの一個上なのは聞いてるだろ?」

「うん、知ってる。」

「元々、事情の多い奴だったから、そのことと関連した何かなのかとか、色々考えてたんだけどさ。」

 彼は感情をひた隠しにするように、言葉を発することもなく、コンクリートの地面を見つめて歩いていた。僕らを取り囲む喧噪とは反対に、僕ら二人の間に流れる空気には、閑寂とした静けさがあった。

「俺は、何も知らない。」

 彼はそう言って、隣を歩く僕の目を、じっと見つめた。その目の奥には、僕が目を逸らすことさえ忘れるほどに、強く何かを訴える、彼の意思が見えた。

「本当に?蒼井は、一ノ瀬には何にも知らせずに転校したっていうのか?」

「うん。」

 彼が頷く。

「あの日は。」

 僕の声は、心做しか、少し上擦って聞こえた。自分でも、何が僕を興奮させ、ここまでさせているのか、分からなかった。

「二人で、花火大会来てただろ。その時に、様子が変だったとか。」

「普通だよ。」

「それっぽいことを言ってたとかさ。」

「無いよ。」

 その声は一定のリズムを刻む、どこか作られた響きのように聞こえた。

「じゃあ、一ノ瀬も、蒼井は何の前触れもなく姿を消したって、そう思ってるのか?」

「…」

「何の前兆も、感じられなかったってことか?」

 彼の表情が、僕の問いかけに少しずつ曇って行くのが分かった。何も言葉を発さないまま、僕たちは人通りの多い露店から外れ、閑散とした通りに出ていた。

「本当に、何も。」

 僕たちは、立ち止まった。先に足を止めたのは、一ノ瀬だった。その沈黙はまるで、僕の問いに答えられない、隠された理由があるみたいだった。彼の声が、再びその沈黙を破った。

「じゃあ、俺が何かを知っていたとして、どうして西川は、そこまでして知ろうとするの?西川にとっては何の関係もないことだし、気にする必要もないことだろ。そこまで気に掛けること?」

 彼は僕を睨むような鋭い眼差しが、僕に向けられていた。彼の言う通りだった。僕は、蒼井と親しかったわけでは無い。只の好奇心とも違う、説明の出来ない別の何かが、僕を掻き立てていた。

「一応はクラスメイトだったし、気にはするよ。」

「でも蒼井がいなくなってから、もう一ヶ月以上も経ってるんだよ。今更何が真実だったかなんて気にしてるのは、きっと西川くらいだ。」

 もう関わりたくないとでも言いたげな声色に、僕は違和感を覚えた。

「本当に、俺だけか?」

 彼の青く燃えるような目が、僕を打ち抜く。

「本当は、一ノ瀬自身が一番気にしてるんじゃないのか?蒼井のことを一番近くで見ていたからこそ。」

「何を持って、そんなこと。」

 彼の声は、どこか焦りの色を帯びていた。

「誰よりも、真実を知っているからこそだよ。」

 彼の目に力が宿った。それは、風に煽られた炎が、一際大きく燃え上がる瞬間に似ていた。

「やっぱり面白いな、西川って。」

 彼は薄く笑いを零して、それから観念するように、目を伏せた。

「留年して、一個上から降りてきて突然居なくなった人の事なんて、普通なら誰も気にしないのに、そこまでして知ろうとするなんてさ。」

「…」

 返す言葉は無かった。僕は、もう誰もが気に留めず、忘れかけているような事に未だ執着して、探偵だか刑事気取りで、こんなことまでしている。

「蒼井がいなくなった理由も、もちろんだけどさ」

 彼の目は、僕の答えを待つように、じっと落ち着き据わっていた。

「俺が知りたいのは、一ノ瀬の態度の理由だよ。」

「…俺の態度?」

 彼は眉を顰めた。

「親友が突然いなくなったのに、どうして一ノ瀬が、そんなに落ち着いた態度でいられたのかってことだよ。」

 僕の言葉に、それまで強張って見えた彼の表情に、初めて綻びが見えた。堅く閉ざしていた殻を破ったように、彼の中で何かが腑に落ちたような表情だった。確かにね、彼はそう言った。

「西川が訝しがるのも、無理は無い気がする。はっきりしない態度を取ってるのが悪いって、俺自身も分かってはいるんだ。」

 座らない?そう言って、僕達は近くのベンチに腰を下ろした。さっきまで僕たちを囲んでいた喧騒は、今は少し遠くの方から聞こえた。

「西川の言うとおり、あの日、最後に僕らの姿を見たのは西川だけだから。俺だけが何かしら蒼井の事情を聞いていて、その上で落ち着いていたから、おかしいと思ったってことだよね?周りの皆が有ること無いこと噂して、騒ぎ立ててる中で。」

 うん、と僕は頷いた。

「でも、俺は蒼井からは何も聞いてない。俺だって、嘘を吐けるほどの度胸は、流石に持ち合わせてないよ。」

 その表情には、嘘は隠されていないように見えた。

「蒼井が何も言ってなかったとしても、一ノ瀬に何か心当たりがあるんじゃないかって思ってた。」

「…心当たり、か。」

 彼はさっきまで張っていた緊張の糸が完全に切れ、その目に宿っていた抵抗の意思を示す力強さは、もうそこには無いように見えた。

「あったとしても、多分、今回蒼井がいなくなったこととは、関係ないと思う。」

「…じゃあ、やっぱり、何か思い当たる節があったってことか?はっきりとは口にしなくても、一ノ瀬が感じ取った何かが。」

 彼は、俯いていた。夏のように静寂を打ち破るものとは違う、秋を体現するような、穏やかな花火が打ち上がった。

 どこからか蟋蟀の鳴く声が聞こえてきた気がした。僕は今、数百人が聞いているであろうこの花火の音よりも何よりも、たった一人の声に耳を傾けていた。

「俺にも、蒼井が何を考えていて、どうして(・・・・)その(・・)行動(・・)を(・)取った(・・・)か(・)は分からない。そのことが、転校と関係するかどうかも分からないけど」

 それでもいいの?、そう聞いた彼に、僕は黙って頷いた。心なしか、左胸で鳴り響く音が少しずつ増していく気がした。彼は口を閉ざしたまま、宙を見つめた。彼の目線の先は、今頭上で打ち上がり続ける花火でもなく、遠く向こうの景色でもなく、何も無い、彼にしか見えない〝時間〟をさ迷っている様だった。酷く長い間だった。彼は、何度も躊躇っては溜め込んだような空気を、大きく吐き出した。

「蒼井は、───」

 彼の唇が動いた瞬間。

 バンッと響いた大きな花火の音が、僕の耳元で鳴る心臓の音と重なった。その後を追うような響めきが、遠くの方で聞こえる。今日咲いた、どの花火よりも巨大な花火は、彼の声を掻き消すには十分だった。

「それが、最後に蒼井の姿を見た日だ。」

 確かにその声は、僕の耳に届いていた。とても短く、ありきたりな言葉だったけれど、僕の予想を裏切る、意外な言葉だった。それはとても儚く虚しく、そして行き場の無い、孤独だった。

「…一ノ瀬は、」

 聞いて良かったのだろうか。只、僕は言い留まることもなく、押し上げてくる感情を抑えることも出来ずに、声を発していた。

「一ノ瀬は、それを受け入れたのか?」

 その気持ちを。

 僕の声は、僅かに震えていた。彼は頷いた。僕の中で湧き上がった小さな渦が、何かの掻き立てられたように大きくなっていく。今彼の話したことが、蒼井の転校と直接関係あるのかどうかは分からなかった。けれど、少しずつ、僕の中で点々と彷徨っていた疑問の欠片たちが、一つになりかけていた。

「俺がそれを受け入れようとも拒もうとも、どちらにしたって、蒼井が姿を消した事実は変わらなかったと思う。だからきっと、それは理由じゃないと思うけどね。」

 そう言って、彼は花火に目もくれず俯いた。これ以上、もう何も語るべきことはないとでも言うように、その目は、誰にも見えない向こう側に沈んでいた。

「そしたら、一ノ瀬も、蒼井のこと」

 そう零し掛けた後で、後悔した。それ以上のことを聞くのは野暮だ。いや、それ以前に、ここまで一ノ瀬自身の口から喋らせてしまったことさえ、今更ながらに気が咎めていた。

「俺自身が一番、驚いてるんだ。これまで自覚しなかった気持ちに気付いた時。」

 彼の唇は、笑っているようでも、歪んでいるようでもあった。その花火を見つめる瞳には、少し手を伸ばせば掴めそうで、捕まえることが出来ない感情が、見え隠れしていた。僕はその感情に手を伸ばしかけては、それを手に取ることを躊躇した。手にしてしまったら、また後悔することを知っていたから。

「俺たちは、〝幼なじみ〟だったんだよ。」

 ───幼なじみ?

 息が詰まるようだった。じりじりと鬱陶しい熱が、僕の背中を這う。

「小学生三年生の時の蒼井を、俺は知ってた。とは言っても、蒼井と同じ小学校に通ってたのは、たった半年くらいの事だから、幼なじみって言い方が正しいのかは、分からないけどね。」

「じゃあ、」

 僕は唾を呑んだ。一呼吸置かなければ、取り乱した心が言葉に表れてしまいそうだった。

「一ノ瀬は、転校してくる前から、蒼井のことを知ってたってことか?蒼井も、一ノ瀬のことを。」

「うん、知ってた。」

 彼は何でも無いように、平坦な声でそう言った。

「けど、俺たちはお互いにその時のことを口にしないで、気付かないふりをしてた。ほぼ毎日遊んでた仲だったのに。」

 変な話だよね、彼はまるで、他人事のようにそう言い放った。

 一ノ瀬が転校してきた日のことは、よく覚えている。僕は一番後ろの席で、蒼井と一ノ瀬が会話をしているのを見ていた。その時には、高橋も交えて三人で。けれど、確かに二人は面識があったような感じではなく、恰も初対面の様に振舞っていた。

「どうして、知らないふりなんかしたんだよ?幼なじみって事は、仲が良かったって事だろ?学年が違ったのにもかかわらずさ。」

「二人とも親が共働きだったから、いつも学童で一緒だったんだ。どうしてだろうね。分からないよ、俺にも、彼にも。」

 彼は自嘲するように、乾いた笑いを零した。僕は空で打ち上がっては消えていく花火を見つめ、あの七月の夜、屋台の下で一人見た花火と、目の前で開く花火を重ね合わせていた。

「俺に何も言わずに去ったのは、蒼井の意思がそうさせてるんだって、今はそうやって自分を納得させてるんだ。だから俺は、今更追求しようとは思ってない。」

「でも、本当にそれで良いのか?転校の理由を、ちゃんと本人の口から聞かないままで。小学生の時、どれくらい親しくしてたのか知らないけど、少なくとも、一ノ瀬が転校してきてからは親しかっただろ?クラスの誰よりも。」

 まだどこかで、信じたくない自分がいた気がした。いや、信じたくないというのは、少し違うのかもしれない。そんな僕の思考を邪魔する花火の音を、今の一瞬だけは、酷く煩わしく思った。

「…蒼井がそれを望んだなら、それでいいんだ。」

それは、絞り出すような声だった。

「そんなの、」

 そんなの、自己満足だろ、僕は心の中でそう呟いた。もっと沢山言いたいことがあるはずなのに、何故か喉の奥で支えて、上手く出てこなかった。

「何?」

「…いや、何でも無い。」

 僕は口を濁して、それから足下に目線を落とした。その事実が、一体何を意味するのか、僕にはまだ到底予想も着かなかった。僕には、彼らが過ごした幼少期を、あの教室で交えた言葉たちを知らない。彼らだけが知る、彼らの時間、その欠けた事実がある限り、僕に推測の余地は無いような気がした。僕達の間だけで流れる沈黙が、五月蠅く、僕の頭を幾つもの剥片へと裁断するように鳴っていた。

「もし、」

 その声に、僕は顔を上げた。騒々しい耳鳴りの後に続く赤い花火が、彼の右頬を赤く染め、僕の目にはっきりとそれを映した。

「西川にとって、もの凄く幸せだった時間が過去にあって、その時間に一度だけ戻れるとしたら、戻ることを選ぶと思う?」

「どうして、急にそんなこと。」

「…いや、今、ふと思い浮かんだんだよ。特に深い意味は、無い。」

 彼の瞳の中心が、僅かに揺れていた。ふっと彼は笑った。その問いは彼の中で何度も捏ねられ、漸く言葉にされたみたいだった。

「授業で聞かれそうな質問だな。」

 花火が終盤に向け、噴水のような繊細な光を放ち、その光の雨音がゆっくりと耳に馴染んで溶けていく。

「戻ることに、代償はないの?」

 彼は考え込むように、地面に顔を向けた。

「それによって、確実に、自分の望む方向に未来を変えられる保証はない、っていうことくらいかな。」

 僕は、遠い昔、最後に見た、ある人物の姿を思い浮かべていた。

「…戻るよ、確実に。」

 もし過去に戻ることが出来たなら、僕は何をしようとするだろう。小さな選択肢の積み重ねが僕をそこへ導き、僕がその分岐点で、反対の道を選んだとしたなら、未来は、今とは全く別のものになっていたのだろうか。

「多分、俺は、その時言えなかったこと、やらなかったことを、全てやるんだと思う。自分が選ばなかった反対の世界を、自分の目で確かめてみたいから。」

「…」

 本当に自分の行動で、未来を変えられるのかは分からない。けれど、もし僕の手で何かが変わる僅かな可能性でもあるなら、僕はその為に、何かしらの行動を取ろうとするだろう。

「じゃあ、後悔してることをやり直したら、西川はそれで満足できるの?」

「分からない。けど、過去に出来なかったことをすることで、何かを良い方向に変えられるかもしれない。結果、何も変わらなかったとしても、自分に出来る最大限を成し遂げたなら、少しくらい、自分の中の後悔が薄れるんじゃないか?」

「それは、未来を変えるために。」

「そりゃどうせ戻るなら、変えたいと思うだろ。…それによって、救われる命があるんだったら。」

 降り積もった後悔の山を、今更どうすることは出来ないけれど、その中でたった一つを選んでやり直すことが出来るのなら、きっと僕は、あの日の、あの瞬間を選ぶのだろう。

「…一ノ瀬は、違うのか?」

 彼は、小さく頷いた。俯いた横顔。その口から、一体どんな言葉が発せられるのだろう。きっと彼は、僕には無い答えを持っている。それは、どんな答えで、その動機は、一体どんなものだ。僕は息を呑んで、彼が声を発するその瞬間を静かに待った。

「俺は、…戻らないと思う。」

 そうだろうな、僕は、思わず笑いを零していた。

 少し前、どこかで似たような問いがあって、その時も彼は、恐らくその場に居た誰とも違う答えを選んでいた。

「後悔していることを、やり直せるとしてもか?」

 彼に、後悔していることはないのだろうか。一瞬でも、過去の行いを正したいと思ったことは。もう一つの道を選んでいたらと、そう悔いたことは、一度も。

「例え、…誰かの命を救えたとしてもか。」

 僕の声が、やけに大きく響いた。確かめるのが怖かった。訳も無く、自分自身を否定されるような気がした。いや、本当に否定されたくなかったのは、〝自分自身〟では無かった。僕が恐れていたこと、それは、少しでも過去の自分の行いを後ろめたく思っている、その〝感情〟そのものだったのかもしれない。

「もし俺が、その瞬間に誰かを救えたとしても、結局その人はどこかで同じ末路を辿る事になるんじゃないかって、そんな気がしたんだ。俺が救ったことで、後でもっと誰かを苦しめることになるかもしれない。もしそうだとしたら、簡単に過去を変えることも、戻ることも出来ないと思った。ただ、それだけだよ。」

 ドクリと、心臓が波を打った。一度だけ戻ることが出来たならと、何度も後悔した。どんな些細なことでも、あの瞬間を変える何かがあったのではないかと、今の僕に、もう一つ別の未来があったのではないかと何度も想像した。

「…それが、自分の運命だったとしてもか。」

 彼は頷いた。その横顔に、固く貫かれた意志が見えた。花火と花火の間を埋める、虫の音が耳に付いた。時間と共に少しずつ薄れていた記憶が、何度も頭の中で組み立てては作り直した平行(パラレル)世界(ワールド)が、再び蘇る。想像の世界のことなど、いくら考えたって現実になることは無いのに、それでも僕の頭から、その幻想が離れることはなかった。

「…でも、分からないだろ?もう一回、その幸せだった時間に戻るだけだって良い。その瞬間を、もう一度経験するだけでもさ。何か変えたいと思うことがなかったとしてもいい。一ノ瀬には、そういう時間が一度もなかったのか?」

彼は今、空に上がっては消えていく、火花の一つ一つを追うようにして、目を伏せた。戻った先で何が起こるかなんて、誰にも分からない。一人の命を救えるかもしれないし、別の誰かの命を犠牲にすることになるのかもしれない。そうでなくても、一度や二度、誰にだってもう一度経験したいと願う時間があるだろう。あの時は分からなかった時間の貴重さを、もう一度噛み締めたいと思う瞬間が。

「…きっと、あるんだろうな。」

彼はそう、独り言のように言った。その言葉の切片には、どこか自分の感情に背を向けようとする抵抗の色があった。その時間は、彼が予期せず不意に訪れた、未知の時間だった。そんな風に、彼の意思と反抗する不調和な響きが聞こえた。

「本心では、戻りたいのかもしれない。体の奥底では、その時間を、きっと狂おしいほど望んでる。」

「だったら。」

「…けど、戻ったら、二度と現実を向き合える自信が無いんだよ。自分にとって都合の良い時間は、永遠には続かない。いつか必ず終わりが来るのなら、戻った先にあるのは現実だ。結局それは、一時の夢を見てるのと同じにすぎないんじゃない?」

現実。

その言葉が、やけに僕の胸を強く突いた。頬を撫でる風が、僕をあの時間へと吸い戻すようだった。

一度(・・)きり(・・)でいいんだ。それがどんなに自分にとって幸せであっても、その記憶が自分の中に残っている限り、その時間が俺にくれた物に変わりはないから。」

彼の声は静かに、花火の音の間で、冴え渡って聞こえた。僕は彼のその瞳の中に映り込む、緑からピンク、赤から青へと色を変えていく光を、目で追っていた。

「…じゃあ、その一ノ瀬にとっての幸せな時間が、誰かと交わることで出来上がった時間だとしてさ、」

彼が心底で望んでいると言った時間。それはきっと、彼が孤独の中で得た時間では無いのだろう。僕は、彼の時間の中に居たであろう、その人物の姿を思い浮かべていた。

「自分には何にも代えがたい時間だったのに、相手にとっては、取るに足らないような出来事だったとしても、それでも良いの?一ノ瀬自身がその時間を忘れずに、覚えていられるのなら。」

彼は、何と答えるのだろう。そこまでの深い思いを募らせた記憶を、その反対側にいる人物にとっては何でもないものだとしても、彼はそれでいいと言えるのだろうか。その時間を共有した相手にも、同じくらい心を占める時間であって欲しいと、そう願うのが普通なのではないのだろうか。 

自然と脈が早くなる。けれど、例え彼の答えがどんなものであろうと、もう自分自身の何かを否定される恐怖はなかった。ただ、僕は知りたかった、彼の持つ答えの、その先を。

「それでもいい。相手にとって、それが何ら特別な時間でなくて、忘れられていたとしても、俺はそれでいいって思えるんだ。だってその記憶は、俺にとって間違いなく特別で、唯一無二で、俺の中ではずっと生き続けてる。そうである限り、その時間が消えることは無いんだから。」

それはまるで、誰の目にも触れない、彼だけがありかを知る箱の中の〝記憶〟を語っている様だった。彼が〝一つの記憶〟に寄せる思いの形は、少し歪なのかもしれない。簡単に手に取って、理解できるものでは無いのかもしれない。だが確かに、彼の中にも僕と同じように、本心では戻りたいと願う時間が存在していた。それでも彼は、狂おしいほどに望んだ時間に、敢えて戻らないことを決めた。その記憶が、例え誰かにとっては些細で下らないと虚仮にされるものだとしても、彼にとって美しいのであれば、それで良かった。

「その記憶って、」

僕は息を吸い込んだ。祭りの独特の匂いが、鼻の奥をツンと刺した。彼がそれほど渇望した時間とは、一体どんなものだったのだろう。戻りたいと、心の底では喉から手が出るほど欲しているのに、戻ることを躊躇う時間など。

「それって、蒼井との時間だろ?…一ノ瀬にとって、特別だった時間、ってさ。」

意志を持たない言葉が千切られ、小さな破片となって落とされたようだった。

彼は静かにものも言わず、空に打ち上がっては降り注ぐ光の雨から、目を逸らした。彼の鼻先が黄色く光って、それから青に変わる。相も変わらず、その目に何が映されているかは皆目見当も付かなかったけれど、その沈黙が答えであることだけは、確かな気がした。

「…初めてだったんだよ。」

火の粉散る夜空に視線を戻した彼の横顔が、赤に染まった。その口元が笑っているように見えたのは、気のせいだったのかもしれない。

「初めて、あの時に戻りたいって、そう思う時間だった。」

「…」

きっと僕は、大きな勘違いをしていた。

 〝どちらも選べない。〟

 先生の目を真っ直ぐ見つめ、何一つ臆する事もなくそう言い放ったあの日から、僕は彼のことを勘違いしていた。泰然自若として、僕には彼が、何に対しても関心を寄せない、酷く冷淡な人物に見えていたのだ。

「戻りたいなんて思うほどの時間は、今まで自分の中に存在したことなんてなかった。どの時間も時の流れるまま身を任せて、何も望まず、ただ自分(・・)が(・)持ち合わせて(・・・・・・)いる(・・)()だけ(・・)で(・)十分(・・)だって思うようにしてきた。望まなければ、羨ましいなんて感情も、苦しみも、劣等感も湧かない。」

あの日、僕の席からは確かめることの出来なかった彼の表情を、今はっきりと僕の目に映していた。模範解答のない二択の問いに、〝どちらの選択肢にも望む理由がない〟と答えた彼のことを、僕はずっと理解出来ないままでいた。何一つ不利益を被ることのない条件下で、どちらも選ばないという選択を取ることに、一体何の意味があるのだろう。どちらかでも手に入れることが出来るなら、拒む必要なんてないだろうと、僕らは単純にそう考えた。けれど。彼には、それを選ばない一つ理由が、確かに存在していた。

「蒼井が姿を消してから、あの時間に引き戻される感覚がずっと頭の中を回ってるんだ。時間が経てば経つほど、その感覚が強くなっていって、まるであの時間から逃れられないように、俺を縛り付けていくみたいに。何度もその夢を見て、その度にその記憶が脳に濃く焼き付いていくんだ。…自分でも、信じられないほどに。」

 その言葉は、僕の心を鷲掴みにするほどの激情を宿していたのに、その表情にも声にも、まるで言葉とは乖離したような深沈さがあった。

「その時初めて知ったんだ、〝望む〟っていうことが、どういうことなのか。自分の中で必死に抑えて来たはずの感情を、今自分の手の中に存在してる。そう気付いた瞬間、怖くなったんだ。望みたくないと思えば思う程、欲が出て、そんな自分を、抑えられなくなっていくのが。」

 彼は自身の内側で眠る、目には見えない欲望を押し殺すように、手で左胸を抑えつけた。その言葉には、彼の乖離したように聞こえた言葉を、矛盾したように見えた言動をひとつに結ぶ、理由が隠されているようでならなかった。

「きっと、誰もが我儘で傲慢で、凄く都合の良い生き物なんだ。その時間にいるときは気が付かないのに、無くなってから、途端に惜しんでは望んで。幾ら振り返ったって、同じ時間は、もう二度と戻ってこないのにね。」

 他人行儀で、残酷に聞こえたその言葉の裏は、目に見えない、緋色に燃えた情で満ちていた。

 聞かずには、いられなかった。きっと、彼が零したその言葉の裏には、決して声という形に表すことの出来ない感情が、眠っているのだろうから。僕は一つ一つの言葉を紡いでいくように、はっきりと声にした。今度は、花火の音に掻き消される事なく、隻語でも漏れること無く、彼に届くように。

「一ノ瀬にとって、その時の記憶が何度も頭の中で蘇った時、夢でその記憶を巻き戻していた時、その時間は、苦痛だった?それとも、幸せな時間だった?」

 彼ははっと何かに気が付いたように、目線を落とした。その目には、幾つもの細い糸が複雑に絡み合った、感情の衝突が映っていた。彼は息を押し殺すように俯いて、それからゆっくりと息を吸った。

「………きっと、幸せだった。〝苦痛〟とは、程遠い時間だ。」

 その口元は、花火の放つ光に照らされ微笑んで見えた。きっとそれは、見間違いなんかではない、今度は、そう思った。

「幸せだったはずなのに、同時に、怖いとも思ってた。…矛盾した時間だ。」

 彼はそう言って、小さく自嘲するような声を漏らした。

無関心を装ったその裏で、彼は燃えるほどの感情を秘め、必死に見て見ぬ振りをしていた。周りからすればちぐはぐに見えた言動は、幾つもの感情の混じり合いの末、一連の動機を生み出していた。彼は決して欲のない人間でも、周囲の事象に無関心なのでも無かった。誰しもに起こる感情をひた隠しにし、〝望まない自分〟を演じていた。そうして彼は、処理しきれなかった幸福の感情を、自らの手で〝恐怖〟と化していた。

「自分の手を加えて、思い出を壊してしまうのが怖いと思うくらい、それ程、一ノ瀬にとって特別な記憶だった。…そういうことか。」

 彼は、思わず目を背けたくなるほどの目映い光からも目を逸らさず、ただじっと、その光を見つめていた。

「…〝思い出を、壊す〟、か。」

彼は自分自身の手の平に目を向け、独り己に言い聞かせるように、そう言った。面のように変わらぬ表情の奥には、どんな感情が眠っているのだろう。必死に欲望から自分自身を切り離し、それを拒み続けてきた内側に、一体どんな世界があるのだろう。

「多分これから先、あの日見た花火を、何度も何度も、夏が巡ってくる度に思い出すと思うんだ。繰り返し、繰り返し。」

 花火の打ち上がらない夜空の真下の僕には、もう彼の表情を観察することは困難な気がした。それでも良かった。僕にはもう、彼の奥底で眠る感情に焦点を当てなくても、見える気がしたから。

「これからどんな花火を目にしようとも、あの(・・)()見た(・・)花火(・・)より(・・)綺麗(・・)な(・)花火(・・)は(・)ない(・・)って、そう思うんだ。」

 花火の光は、僕らの目の前の川に反射して、虹色の波紋を作っていた。彼はそう言い零し、頭上で打ち上がる花火に目もくれず、瞼を閉じた。その様子はまるで、足下に落ちた、線香花火を見つめるみたいだった。

「…何度でも、あの時間を自分の中で巻き戻すことが出来るのなら、俺はそれだけで、十分なんだ。」

 彼にも、もう一度戻りたいと思う程の時間があった。彼も、僕と同じように、何かを強く望んでいた。けれど、その事実を認めてしまう事が怖くて、何かを望む自分の感情に怯え、戸惑っていた。     

また一発、花火の音が空に響いた。僕は目を閉じた。今、鳴り続けている花火の音を、虫の音を、喧噪を、今漸く、享受出来る気がした。

「変な例えかもしれないけど、」

 部屋の窓辺に置かれた、ガラスの中の小さな船の模型。太陽光を浴びて輝いた作品が、その時を待ちわびていたかのように、僕の脳裏に浮かんだ。

「一ノ瀬の中の記憶って、まるで、ボトルシップみたいだ。」

 ボトルシップ?、彼の瞳が僅かに光り、聞き返す。

「ボトルシップって、凄く繊細な作業なんだ。ピンセットを使って、小さなパーツを何時間も掛けて組み立ててさ。色んなやり方があるけど、やり直したくても、二度とやり直せないことだってある。」

僕は、ボトルという小さな世界の中で、大きな帆を張る船舶の姿を、出来上がった作品に込めた想いを、思い出していた。

「俺は、完成させた後で、少しでも満足いかない部分があったら、手直しをして、自分の納得のいくまで、できる限り後悔のない形にしたいと思う。そうして出来上がった作品を、きっと誰かに見せたくなると思うんだ。自分一人で眺めるだけでは、物足りなくなって。」

 ガラスの中に閉じ込められた、小さな記憶の破片。彼は欠けた部分や歪みがあっても、手を加えようとはしないのだろう。何故なら、過ちや欠落、後悔のどれだって、彼にとっては美しい記憶の一部だったから。彼は出来上がった〝記憶の形〟を手直しする事無く、噛み締めた喜びも欠落も全てを、幸せな記憶として彼の中に残すのだ。

「誰かと共有する必要は無い、一ノ瀬にとって記憶は、一人で眺めるだけで十分なものなんだろ。」

 彼は膝の上に顔を伏せ、やっぱり凄いな、西川は、そう小さく呟いた。どっちが。その声が、彼の耳に届いていたのかは定かでは無い。もしかしたら、僕の方が声にしなかっただけなのかもしれない。

花火は、終盤に差し掛かっていた。僕は、蒼井がクラスにやってきてからの事を、それから一ノ瀬が転入してからの二人を、一つ一つ打ち上がる花火の中に見ていた。この三ヶ月、少しずつ変わっていった一ノ瀬の空気も、彼に見せていた蒼井の表情の意味も、今は何となく理解できる気がした。思い出しても変わらない。最も、僕には何を知る必要なんて、当初からなかったのだけれど。

「過去に戻る必要が無いと思えるのは、〝後悔〟してないからだ。その瞬間、瞬間を、一ノ瀬は最大限に生きようとしてる。決して、望むことも羨むことも、悔やむこともないように。だから、過去を書き換える必要がないって思えるんだ、…きっと。」

涼しいはずの外の空気に触れていた僕の背中は、何故か汗ばんでいた。

そういうことなのかも、しれないね、途切れ途切れに聞こえた声は、本当にそうだったのか、それとも花火の音でそう聞こえただけなのかは、分からなかった。

「…だから、幸せな時間は一瞬しか与えられないようになっているのかもしれない、その有限である時間を、幸福だと思えるように。」

 彼の声は、空に散っていく花火の最後の光ように儚く、それでも僕に静かな余韻を残した。

「…俺ら、やっぱり考えが合わないのかもな。」

「そうかもね。」

 彼は鼻を鳴らした。でも、と彼は続けた。

「だからこそ、俺は西川と話して面白いと思えるよ。」

彼は脇に置いていた肩掛けの小さなバッグを掛けると、僕の方に顔を向けた。

「今日は、誘ってくれてありがとう。今年はもう見られないと思ってた花火も見られて、…すごく楽しかった。」

「いや、こちらこそ。」

 その声は柔らかく、もうどこにも、自己防衛の為の刃らしいものは、見当たらなかった。まるで今までの会話が嘘だったかのように、そこには、学校で顔を合わせる、いつも通りの彼の姿があった。

 彼はズボンについた芝を両手で払うと、立ち上がった。まだ、頭上で広がる鉄紺色のキャンバスには、花火が描かれ続けていた。

「まだ、もう少しだけ続くけど、良いの?」

「うん。何か、最後まで見れる自信がないんだ。誘ってくれたのに、ごめん。でも、本当に綺麗だった。」

「そうか。」

 時計を見ると、始まってからまだ三十分も経っていないことを知った。花火が打ち上がってからの時間が、酷く長かったように感じていた。

「西川は、まだ見ていくの?」

「うん、最後まで見ていくよ。」

 彼は暫く空を眺め、それから何かを思いついたように、小さく声を漏らした。

「それと、今日話したことは、他の皆には、黙っててくれない?また、変な噂が流れちゃうかもしれないから。」

「ああ、当然、言わないよ。」

 俺が友達少ないの、知ってるだろ?、彼は僕の言葉に笑い返し、それから背を向けた。

 どちらにしても、蒼井がクラスに戻ってくる可能性はない。そんなことは、彼だって分かっているはずだ。彼は、蒼井が転校した理由について、もうクラスのほとんどが気に留めていないことを分かった上で、僕に口外しないよう言った。それが彼なりの、蒼井に対する気遣いなのかもしれない。今更、どんな噂が広まろうとも、蒼井の知ったことではないはずだから。それとも彼は、まだ蒼井が戻ってくることを信じているのか。

「じゃあまた、学校でね。」

「うん、気をつけてな。」

 小さく手を振り、去って行く彼の背中に、僕は声を張った。


 あの日の花火は、どんなだったろう。

 記憶から少しずつ薄れていく光景を、僕はもう一度瞼裏に映そうとして、辞めた。無理に思い出さなくてもいい。消えていく記憶にだって、美しさがあるだろう。今、僕の目の前で美しく咲いては消えていく、花火のように。


 そうして一発、夏の終わりを告げるような、大きな花火が打ち上がった。聞こえていただろうか、まだ夏を締め括ることが出来ないでいる、彼にも。

 訪れた静寂が、落ちていく火の粉が、酷く未練がましく、僕の心に痕を残した。

 彼も、あの日、最後に打ち上がった花火を、こんな風に見ていたのだろうか。その最後の花火に、彼はどんな感情を湧かせたのだろう。もう聞こえやしない花火の音を、もう一度想像して、僕は目を閉じた。


 十月の空に、最後の花火が消えた。



  ✴ ✴



ある夜、僕は、夢を見ていた。

 屋上から、フェンス越しに花火を見上げていた夢だった。どこの屋上かは分からない。ビルや何かの施設かもしれないし、僕のアパートの屋上かもしれない。それはとにかく綺麗で目映く、直視するのが怖くなるほど美しかった。僕は一発、また一発と花火が上がる度に涙を零した。それが、一体誰の記憶なのかは分からなかった。自分自身の記憶からは全く想像できないほど、その高ぶる感情を抑えることが出来なかった。

 僕の隣には、誰も居ない。本当ならいたはずの〝誰か〟が居ないことに、僕は涙を流していたのかもしれない。

 

 薄らと、カーテンから漏れた光。むせび泣くように鼻を啜る音と息苦しさに、目が覚めた。頬を涙が流れ、僕は浅い呼吸を何度も繰り返していた。…可笑しいな、最近、何か哀しいことが身に起こった覚えはないのに。その上、花火とは真反対の〝冬〟の季節に、僕は何故、こんな夢を。


 役割を果たす前に用無しとなったアラームに手を伸ばした時、僕の手に触れた()か(・)。僕は手探りで掴み取ると、寝ぼけ眼でそれに焦点を当てた。薄陽に照らされ輝いたそれは、一昨日、部屋を整理していた時に、見つけたばかりのものだった。ああ、僕はきっと、これを見つけた時の興奮であんな夢を見たのだ。

 ベッドから抜け出すと、カーテンを開けた。まだ太陽の昇りきっていない空は、未だ頭の醒めやらぬ僕に、丁度良い目覚めの光を与えてくれていた。もう少しだけ、見ていたい。あと少しだけ、あの時間に浸っていよう。  

 僕は薄明の空を見つめていた。





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