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青い空と黒い雨

作者: 竹取裕基

西暦二〇四〇年七月二十三日。

もし、人類にまだ文明と言うものが在るのならば、暦と言うものが存在しているのならば、そして、俺が拾ってきた木の扉にナイフで刻み続けている傷の数が合っているのならば、今日は七月二十三日だ。何曜日だろうか。それは、解らない。解ったところであまり意味もないだろう。そもそも、今日が何年の何月であるかという事も、あまり意味がないのだ。

でも、俺は、まだ文明と言うものが存在していることを自分自身の裡に確認したくて、ナイフでこうして日々を刻んでいるのかも知れない。


俺は、潰れかけたビルディングの三階の片隅で、先ほど捕まえて首を刎ねて殺した鶏を逆さまにして、血を抜きながら、ガラスが割れて穴だけになった窓の外を眺めていた。

時折、蠅が寄ってくる。あの日、地上を焼き払った核の炎も、蛆虫までは絶滅させる事は出来なかったのだ。

部屋の外に、まだ先ほど撃ち殺したばかりの強盗が、転がって動かなくなっていた。

まだ、二十代ぐらいの小柄の男だった。髪は長く、一見女のような顔つきで少女のようにも見えた。だが、奴は俺にライフルを向けて、水と食料を要求したのだ。俺は、食料を渡すふりをして、とっさにホルスターに入れてあった、スミス・アンド・ウエッソンM二九を電光石火の如く引き抜いて、男の眉間に狙いを定めて、引き金を引いた。

轟音と反動と共に、男は仰向けにひっくり返った。

男の顔は、半分吹き飛んで、汚い脳漿があたりに散らばっていた。そして、信じられないほどに、血が出てきて、血だまりが出来た。

男の指からもぎ取った銃は、多少血が着いていたが、ぼろ布で拭き取って綺麗にした。

かつての世界を制覇した覇権国である、米国の軍隊が使っていたM一六と言うアサルトライフルだった。

セレクターを動かすと、セミオート、フルオートで撃てる自動小銃だ。最大、二〇発を装填できる。しかし、フルオートで撃つと、僅かに一秒半ほどで全弾を撃ち尽くしてしまう。

ありがたい事に、男の死体からは、フルに弾丸を詰め込んだ弾倉が、四個も出てきた。

他に、所持品は、折り畳みナイフと、女の写真が一枚。嫁なのか、ただの彼女なのか、それは解らないが、写真は捨てた。それと、煙草がひと箱。封は切ったばかりのようだ。まだ、二本ぐらいしか吸っていなかった。そして、手榴弾が一個あった。こいつはどう見ても兵士のようには見えないのだが、どこからか調達したか、どこかの死体から奪ってきたのだろう。

ふと外を見ると、男の死体に二匹の蠅がたかり始めている。男の死体が腐ってくる前に、どこかへ死体を捨ててくる事にしよう。

……窓の外の青空を見ている。

真夏の空。そして、白く輝く綿菓子のような綺麗な白い雲と、上空に達した大きな入道雲が見える。

瓦礫と崩れかけたビルが数個見えるが、その先に見える海が、ビルの間に見えていた。

……きれいな海だ。

だが、その水は、たぶんストロンチウム、セシウム、そしてプルトニウムの微粒子によって、汚染されているのだ。

しかし、その汚染は、どれくらいなのか、見えない。

眼には見えない、猛毒の死の灰が、ここにも、あそこにも降り注いだのだけれど、それはどれぐらい振ったのか、誰も知らない。

……日が沈む前に、強盗の死体を始末しよう。後は、カラスか蛆虫が綺麗に食べてくれるだろう。

俺は、そんな事を考えながら、先ほど死体から奪った煙草を口にくわえた。

最近では、なかなか煙草すら手に入る事はない…と言うより、久しく煙草を口にしていないのだ。

煙草をくわえて、マッチで火をつけた。そして、同時に先ほどから集めていた木々を組んだものの下に集めてあった紙くずに点火した。マッチも貴重品なのである。

暑い中、たき火をするのは結構地獄ともいえるが、野犬をよけるためにはやむを得ない。

夜になると、遠くから野犬がやってきては人を襲う。こいつらに噛まれたらきっと狂犬病になって遠からず死ぬことになる。

俺は、それが嫌なので、いつも夜は火種を絶やすことはない。

……夕方になる前に、ビルの前の道路にある、大きなマンホールのふたを苦労して開けてみた。そこに死体を引きずって運び、死体をマンホールに投げ込んだ。死体は既に死後硬直が始まり、なかなか固く、曲がらず、まるで棒のようになっている。しかも重く、しかも皮膚の色が白と言うよりは、気持ちの悪い黄色に変色し、とても不気味であるが、死体にも正直、最近は慣れた。

死体をマンホールに投げ込むと、なんだか鈍いものが落ちていくような不気味な音がしたが、気にしなかった。

……当分は大丈夫だろう。

俺は、また重いマンホールのふたを、引きずっては閉めた。

太陽が、海の向こう側に沈もうとしていた。周囲に、人の気配は、ない。

だが、誰が見ているか解らない。背中に背負った、M一六をずらして、両手に構え、そして、装弾レバーを引き、薬室に弾丸を送り込み、安全装置を外した。

いつでも、撃てるようにしたのだ。

……夜が、もうすぐやってくる。

夜の闇。それは、死と隣り合わせの時間である。

……銃を構えながら、慎重に歩く。

人影がいないか。怪しい者がいたら、すぐにでも撃ち殺す準備はできていた。

俺は、当たりを見まわしながら、ゆっくりと、ねぐらにしていた「朝日ビル」の

三階にある三〇三号室へと向かっていた。


階段を、音もせずに上る。

小さなライトの光だけが、足元を照らしていた。

銃の先に括り付けた、小さなライトが頼りだ。

いつでも、撃てるように、引き金のすぐ外の用心鉄に、指をかけていた。

……半分空いている扉の向こう側の気配を階段の所から探る。

何か、何かがいる。

犬だろうか?

いや、息遣いから、犬とは思えない。

どうやら、侵入者がいるらしい。

……殺すか?それとも、やり過ごすか?

見なかったことにして、逃げれば済むはずの事だ。

貴重な弾丸を、浪費せずとも済む。

明るくなってから、また様子を見に来てもいいし、そのままこの隠れ家を放置して別の所に棲家を求めてもいい。

……逃げよう。

そう思ったが、どうしても侵入者がいったい誰なのか、やはり確かめたくなった。ライトを消して、ゆっくりと、ゆっくりと忍び足で部屋に近づいた。

既に黄昏が深くなり、西の空が茜色から群青色に変わりつつある中、ビルの中は真っ暗闇とシルエットが混合した世界となっていた。

……。

確かに、俺の部屋に誰ががいる。

ガサガサ、と音がしている。

いつでも撃てるように、銃を構えながら、そっと物陰に隠れる。

そして、そっと気配を消して、潜んでいた。

「ふぅ」

物音がした方向に、小さな可愛らしい若い女の声がした。

女?

俺の部屋に、女が侵入しているのか?

……その女らしき者は、突然、ライトをつけた。

小さな懐中電灯をつけて、部屋を照らしている。シルエットしか見えなかった物体が、ジーンズをはいた、髪の長い若い女の姿に変わった。

ほっそりとした体形で、そしてはち切れんばかりの豊かな胸をピンクのTシャツに納めて、その豊満な胸の上に豊かな長い黒髪をなびかせながら、どこらかともなく取り出した小さな鏡で、自分の顔を見ていた。そして、艶っぽい仕草で、前髪を触った。歳の頃は、十八歳ぐらいだろうか。まだ、幼顔で、成人したての女と言う感じすらしなかった。その目は、大きくて情熱を内に秘めつつも、涼しげにも見えた。そして、その眼には、知性を感じた。そして、女の鼻は、嫌みのないほどに高くもなく、低くもない普通の形をしていたのだが、その眼と鼻が合わさって、そして小さなサクランボのような唇と組み合わさると、可愛らしい感じがした。まじまじと眺めたくなる色っぽい大人の美人と言うよりは、擦れていない可愛らしい少女、と言う感じがした。

……俺は、女が自分の可愛らしさを自覚しており、大戦後の、この人類の文明の存亡の危機にある非常事態においても、その可愛らしさを鏡で見て確認している仕草が、やけに気になって物陰からじっと見ていた。

……正直、欲情を覚えないわけではない。いや、先ほどから、俺は欲情を覚え始めていた。


それから、女は、誰かに見られているという意識はなく、暑いためか、Tシャツの裾をたくし上げて、そこから団扇で風を送っていた。

よく見ると、ブラジャーも付けてはいない。

綺麗な形をした乳房が、Tシャツがはためくたびに、一瞬見えた。

その乳輪の色は、鮮やかなピンク色だった。

そして、シャツの間から見える女の腰は、どうしようもないほど綺麗にくびれがあった。もちろん、その白い腹が少し見えたが、余分な贅肉など微塵もなく、腹そのものも美しく感じられた。そして、その腹の下は、ぴっちりとしたジーンズで見えない。ジーンズのくびれとその女性らしいなめらかにくぼんだ股間が妙に気になったのだ。

……そのジーンズの下は、どうなっているのだろうか。

……この闖入者(ちんにゅうしゃ)に、銃口を向けて、欲情を遂げるべきだろうか。

どうせ、この世界は、もう崩壊しているのだ。大戦後は、法律も道徳も既に過去の遺物となり、全ての人類は、知性を併せ持った猛獣と化していた。

「うわ、やだぁ…」

女はそう独り言を言うと、今度はジーンズを脱ぎだした。

そして、形のいい太ももに食い込んだ白いパンティを懐中電灯でうっすらと照らされた夜の闇に表して、ほっそりとした足首を露わにした。

……おいおい、何をやっているんだ……。

俺は、一瞬そう思ったが、女の行動を黙って物陰から「見守る」事に決めた。

「……やだ。ちょっと生えてる……」

女は、そう言うと、持っていたバッグから、小さなシェーバーを取り出すと、器用に足のムダ毛を剃っていた。太ももにも少し、すねなどにも少しムダ毛があって気にしているらしい。

……人の家(と言っても勝手に俺が占拠してるだけだが)に勝手に入って、何をやるかと思えばムダ毛処理か?!

……訳が分からないが、とりあえず様子を見よう。

女は、太もも、すね毛、足首付近の気になるムダ毛を、綺麗に処理したかと思うと、どこから取り出したのか、何かのクリームを塗って手入れをしていた。

その足が、その足の長さが、そのすべてにおいて、パンティの付け根から足首まで、全ての形が完璧な美しさとセクシーさを感じさせた。全く無駄な肉が付いていないけれども、女らしい曲線美を帯びた美しさをちゃんと持っていた。

俺は、つい女の足もそうだが、パンティにも目を奪われてしまった。その色は、完全に純白で、小さなリボンのようなものもついていた。デリケートゾーンは、毛がうっすらと生えているようにも見えたが、全くのパイパンにも見えた。もっとも、パンティ越しでは、本当の所ははっきりとは解らない。

……あのパンティを脱がないのかな。

俺は期待して、息を殺して様子を眺めていたが、残念な事に女は、手入れが終わると、ため息をついたかと思うと、さっさとジーンズを履いてしまった。

……。

残念だな。

俺はそう思うと、女に声をかけるかどうか、迷ったが、やはり俺の家に勝手に入った以上、何も言わないでこのまま済ますのもどうかと思った。


見たところ、女は、武器らしきものを所持していないようだ。だが、大戦後、生き残った人々の間に、無秩序となった社会において、銃や刀、手製の弓など、なんらかの武器は必須であった。大戦後は、かつての平和だった日本では考えられないぐらい、大量の武器や銃器が溢れかえっていた。それらの大量の武器は、もともと闇の世界で隠し持たれていた物が表に出てきたのか、それともやはり自衛隊や警察署の武器庫から流出してきたのか、定かではなかった。


中には手榴弾、ロケットランチャーなど護身用と言うよりは、市街戦に使われるような武器も出回っていた。もちろん、銃などの強力な武器が入手出来ない者もいる。そういう者でも、ナイフ、鎌、斧、金属バット、手製の弓、鉄パイプなど、身の回りの物を工夫して武器にしていた。



女とは言え、ナイフの一本や二本を常に携行しているのは当たり前で、場合によっては、拳銃を常に所持している者もいたのだ。

……女が拳銃を持っていたらどうする。撃ちあいになる可能性もある。しかし……。


思い切って、俺は銃を下ろした。そして、肩に銃をかけた。

「ちょっと、何をしているんだ?」

女は、驚いた表情で俺を見た。

……。

女は、とっさの事で、一瞬何が起こったのか理解できず、声が出ないようだ。

「き、キャー!!!」

一瞬遅れて、悲鳴を上げた。

「う、撃たないで、お願い。お願い。撃たないで! こ、殺さないで! 何もしないで!」

「何も撃とうとはしていないじゃないか」

「だって、だって」

……女は、恐ろしそうな者を見るかのように俺を見た。

それほど俺は恐ろしい形相をしているのだろうか。

……もしかすると、俺がそうであったように、女も、ここまで生き残ってここに来るまでにいろいろあったのだろうか。

そうかも知れないが……。

「…何でここにいるのか、って俺は聞いているだけだ」

「何でって、私も歩いていて、どこか安全な場所で今夜を過ごしたかっただけよ。たまたま、このビルの中なら、犬にも襲われないかも知れないし、息をひそめていたら変な人にも襲われないで済むかなと思ったの」

「あんた、武器は持っているのか?」

女は、ちょっと躊躇した様子だったが、ジーンズの後ろポケットから、銀色の小型の拳銃を取り出した。

「……何かあったら、これで撃てって、パパが言ってた」

「パパ? あんたの親父さんか。」

「そうよ」

「親父さんは、どうしたんだ。」

「死んじゃった。死の灰で弱っていたところに、泥棒が襲ってきて……」

そう言うと、女は急に泣き始めた。

「……それは、残念だったな。取らないから、ちょっと見せてみな」

俺は、女から小型の拳銃を取り上げると、リリースボタンを押してマガジンを取り出した。

ちょっと錆びかかった金色の薬莢に包まれた口紅のような弾丸が、綺麗に五発入っていた。

だが、薬室には一発も装填されていなかった。

……これでは引き金を引いても、弾が出ないじゃないか。

「弾が入っているけど、これでは撃てないぞ。お前、これの使い方知っているのか?」

「知らない……」

まだ、女は泣いている。泣きながら話をするので鼻水も垂れてきた。

せっかくの綺麗な顔が、鼻水が出ていては台無しだ。

「おい、これで拭けよ」

俺は、ポケットに入れてあった、ポケットティッシュ…そう、大戦前の駅前でもらった奴だったと思う……を女に渡してやった。

女は、それで鼻をかんで、やっと鼻水は綺麗に拭き取れた。

「ありがとう」

女はそう言うと、涙を拭いて少しは気が楽になった表情を浮かべていた。

「で、これから、どうするんだよ」

俺は、女に聞いてみた。

「……どうするって……。当てなんてない……」

女はそう言うと、下を向いて黙った。

「……今夜は、俺の家に泊まるか。もっとも、本当は俺の家ではなかったんだけどな。ここを最近はねぐらにしている。ここなら、食い物も少しだけあるし、銃もあるから安心だ」


そう言いながら、俺は食い物も本当は底を尽きかけているのに気が付いた。昼に捕まえた鶏は、あらかた食ってしまったし、残りも少しはあるが、焼いたとは言え、そう日持ちのするものでもないだろう。明日には食わないと駄目になる。

「ほら、これでも食ってみるか?」

俺は、食いかけのチキンの足を、女に差し出した。

一部、俺の歯型が付いているが、大戦後のこの世界では、そんな事は構っちゃいられない。

女は、チキンの足を見ると、何も言わずに奪い取るようにチキンを手に取り、むしゃむしゃと食べ始めた。

さっきは、ムダ毛を気にしていたくせに、チキンを見ると形振り構わずに、貪るようにチキンに食いついた。

その落差が、可笑(をか)しかったが、なぜか俺は親近感を覚えた。

女は、チキンの皮も丁寧に食べて、平時の頃は人前では、決してしなかったであろうが、大戦後の今となっては、なりふり構わずに、文字通り骨までしゃぶってしまった。

……食い物には、なりふり構わない女だな…ムダ毛を気にしていたくせに…。

「ありがとう。おいしかった」

女はそういうと、チキンの骨を窓の外に放り投げた。

不作法だ……平時なら、間違いなく不作法と言えるだろう。しかし、大戦後の今となっては、俺も不思議と女の不作法を咎める気になれなかった。

大戦後のこの世界では、ただ生きるという事、それだけで、物凄い努力を必要とするのだ。

今日の夕日を、明日も見る事が出来るとは限らない。いや、明日の夕日どころか、明日の朝日を見る事が出来ない事も、全く不思議ではない。昨日、元気に生きていた人間が、朝には惨たらしい惨殺死体となって道端に転がって無数の蠅にたかられている風景が、当たり前になっているこの世界では、人の死など、雨が降るのと同じようなものにしか感じられない。

人は、死ねば野犬や蛆虫の餌となる。そうならないために、生きるのは毎日が命がけだ。

俺も仕方がなかったとはいえ、いったいどれだけの人間を殺めて生きてきた事だろうか。

この両手を幾度となく染めてきた人間の鮮血の温もりに、俺は既に慣れてしまった。

……この命、いつまであるかは、誰も知らない。俺もそうだ。女もそうだ。

ここで、この女と奇妙な出会いをしたのも、何かの運命かも知れない。

……。

「そこの段ボールの上に、毛布がある。少々汚いが、気にするな。俺は、ここで寝る」

そう言って、俺は古新聞を敷いた冷たいコンクリートの上で寝ようとした。

「待って」

女は、口を開いた。

「もうちょっとおしゃべりしない?」

「何でだよ。何を話そうって言うんだ」

「だって、私の事とか、気にならないの? どこの誰だとか?」

「……まあ、気になる」

「そうでしょう? 名前も知らない人間を家に泊めたいとは思わないはずよね」

「そうだな。確かに」

そう言うと、俺はポケットから煙草を取り出して、ライターで火をつけた。

「じゃあ、まずは自己紹介からだ。俺は、狭山五郎。戦争前は、ちょっとの間だったが、自衛隊員だったこともある。最近は、無職だった。無職で、家でネット動画を見ている時に、いきなりサイレンが鳴って、俺はとにかく無我夢中で、近くのビルの地下に走り込んだ。そして、しばらくしたらピカドンだ」

俺は、そういうと紫煙を深々と吸い込んで、そして吐き出した。


……そう、ピカドン。今回の大戦ではなく、もっと昔の百年ぐらい前の戦争で、広島や長崎に落ちた原子爆弾がそう言われていたのだが、今回の大戦で、奇妙な事に生き残った人々の間でも、原爆や水爆は、同じくピカドンと言われている。ピカッ!と光ったらドン!と来るからである。そして、その音と共に、太陽を百万個集めたかのような凄まじい閃光と共に、大地を、大気を、そして無数の人間を、全て焼き尽くしたのである。

……あの日から、まだ半年も、経っていないはずなのだが、大戦前の世界は、遠い昔のおとぎ話のように思えた。その遠い昔のおとぎ話のような、世界が繁栄していた過去の情景が時折、脳裏に浮かんでは消えた。


「そうだったの。怪我とか、しなかったの?」

「ああ、運よく、ケガはしなかった。だけど、このまま、地下室にいてはかえって危ないのじゃないかという恐怖もあったから、必死で脱出口を探したが、あっけないほどにすぐに地上に出られた。そこで見た風景は、地獄だった」

「……わかる。私も見たから」

「……ところで、君の名前は何ていうんだ」

「私の名前は、望月さやか」

「もちつき?餅つきみたいだな」

「違うわよ! 望月。望む、っていう字にお月様の月とかくの」

さやかは、ふくれっ面をしてそう言った。

「いい名前だね」

俺は、さやかを落ち着かせようとして、名前を褒めた。

「そうでしょう?ありがとう」

そう言うと、さやかは、手元のライトを、掌に当ててじっと見ていた。

既に夜の闇が侵入してきていた。遠くで、犬の遠吠えが聞こえた。

最近では、野犬が集団で群れを成して、人を食い殺すことも珍しくない。道を歩いていていると、明らかに犬に食い殺されて身体のあちらこちらを食い散らかされた腐乱死体が転がっている事も日常の風景となっている。

「ところでさ。毛布は一枚だけしかないんだ」

俺は、そう言った。もっとも、この七月、本来は暑いと言えば暑い。しかし、大戦後は、なぜか天候もまるで梅雨のような日が多く、晴れる事もあまりないし、晴れてもさほど暑くないのだ。毛布がなくても夏なので寝ようと思えば寝る事はできる。しかし、明け方などは寒くなる時もあるのでやはりあった方が良いのである。

「そうなんだ。じゃあ、一緒に使えばいいじゃない」

さやかは、平然とした口調でそう言った。

俺は、意外な返事に驚いた。

「……いいのか?」

「いいわよ。あなたは私をこうして家に泊めてくれる人だもん」

「そうか」

さやかは、俺のすぐ横に寄ってきた。

「え?」

思わず俺はびっくりしたが、さやかは、それから俺の肩に、その長い豊かな髪を持った頭を乗せてきた。

さやかはさらに身体を密着させてきた。さやかの汗に濡れた腕が、俺の肩に密着した。

さやかのやわらかな女の柔肌と暖かさが、妙に心地よく感じられた。

俺は、さやかの胸に思わず触れてしまった。

その柔らかな乳房は、まるで特上のマシュマロのように心地よく柔らかさを保ちながらも、瑞々しい弾力性を保ち、思わず本能に火がついた。

気がつけば、俺はさやかに唇を重ねてしまっていた。

さやかの両手が、固く俺を抱きしめる。

……柔らかい……そして、熱い。

俺は思わず、さやかのやわらかさに感動した。

女しか持たない、この肉体の柔軟性……それは決して、男である俺にはないものだ。

人は、己にないものを求める。今、俺が求めているのは、このやわらかな女の肉体なのかも知れない。

電気もなく、ただLEDライトだけの薄暗い中で、二人は抱き合った。

長い接吻の後、お互いの服を脱がしあい、激しく愛し合った。

しかし、いつ外敵……とりわけ武器を持った二本脚の野獣に襲われるか解らないので、二人とも素っ裸になる事は避けていた。

俺も、さやかと愛の交歓をして;いる時でも、いつでも銃に手を伸ばせるように身近に銃を置いていた。

ゆっくりと前戯をしたり、長く愛し合うというのは大戦前の習慣であり、大戦後は、この性愛と言う人間が最も無防備になる瞬間は、出来るだけ避けなければならなかった。

俺は、さやかと愛の儀式をしたのだが、大戦後は、久しぶりだったこともあり、あっという間に果ててしまった。

……愛の交歓を終えた後、二人はしばらく肩を寄せ合っていた。

すぐ横に、冷たい銃を置きながら。


しばらくしてから、俺とさやかは、一斗缶で小さなたき火をしながら、破れた窓の外から見える満月を見ていた。


……遠くで、狼の遠吠えのように聞こえる野犬たちの不気味な遠吠えが聞こえ、風が吹き、物音がするたびに、俺の神経はそちらに注意を払う。

M一六の冷たく冷え切った銃身が、弾丸を発射し灼熱を帯びて陽炎を立てる様子を脳裏に浮かべながら、俺は銃を手元に引き寄せた。

……誰か来たら、すぐに撃とう。

今までそうしてきたし、これからもそうしていくつもりだ。

……俺、いったい何人殺してきたのだろうか。

右手で、さやかの髪を撫でながら、俺は今までに殺してきた人間の数を数えた。


……初めて殺した人間は、若い男だった。年齢は、二十歳ぐらい。髪は金髪でいわゆる、ヤンキー風の男で、入れ墨を派手に入れていた。手には鉄パイプを持っており、いきなり殴りかかってきた。反射的によけて、それ以前に、路地で爆風に飛ばされたコンクリートの壁に潰されて死んでいた警官の死体から盗んできて身に着けていた拳銃で撃ち殺した。

……自衛隊で銃の訓練もしていたし、銃の扱いは平気だったが、訓練ばかりで、実際に人を殺したことはなかったので、やはり衝撃的だった。

弾丸が男に命中して、男を地上に倒すとすぐに、血が出てきた。血だまりが地面に出来て、その血だまりの中に男は、あおむけで横たわり、脳漿が頭部からはみ出ていた。あまりにも恐ろしく、思わず声を上げて逃げ出してしまった。

しばらく逃げて、ようやく落ち着いた時、初めて自分が人を殺してしまった事を感じたのだが、悪い夢を見ているような気もして、どこか現実味を感じる事も出来なかった。

しばらく時間が経ってから、自分が先ほど撃ち殺した男の死体が転がっているところへ行ってみた。

さほど時間も経っていなかったのに、もう蠅が、新鮮な死体のわずかな死臭を嗅ぎつけてやって来たらしく、数匹の蠅が、仰向けになって転がっている男の鼻や、目に、まとわりついていた。

男の眼は、どこか眠たげに見え、そして光のないガラス玉のように見えた。そこに数匹の蠅が、せわしくたかっていたのである。

……俺は、この男をやむを得ず、死体に変えた事を後悔はしなかったが、あまりいい気分にならなかったのは、間違いない。

だが、仕方がなかった。自分自身にそう言い聞かせながら、無意識に男のポケットをまさぐっている自分に気がついた。

男のポケットからは、文明が滅びた今、もう何の意味をもなさない紙幣と硬貨がわずかに出てきただけだった。

俺は、それでもそれを取ると、己のポケットに入れてその場を立ち去った。




……生きるためとはいえ、初めての殺人を犯してから、俺は人を殺す抵抗感が少しだけ減少した。そう、最初の五人ぐらいまでは、どんな人間だったか、覚えているが、そこか先は、誰をどうやって殺したかも忘れてしまった。

ほとんどが、拳銃で撃ち殺したのが多いのだが、中には格闘になり、コンクリート片で頭を殴った上に、ひもで絞殺したこともある。銃で殺すのと違い、絞殺したのは、かなり気味が悪かった。確か、相手は、太った四十代の中年男だった。こいつも、いきなり殴りかかってきたのだ。

だが、食料を奪うため、女を犯すために俺は人を殺した事はない。俺がやった殺しは全て自分の身を護るための正当防衛だったのだ……もっとも、法秩序が崩壊した大戦後となっては、正当防衛の概念すら消滅しかかっているのだが……。

……それでも、俺は動物じゃない。人間なのだ。意味もなく人を殺めるような動物にはなるものか。

そうは思っているのだが、俺も生き延びるためとはいえ、数多く人を殺めてしまったのも事実なのだ。だから、俺は複雑な気持ちを感じている。


それにしても、殺人は良くない事だ。

平和な時代に受けた教育のせいなのか、それとも人類の心の奥底にインプットされた良心から来るのかどうか解らないが、少なくとも俺は、殺人は良くない事だと思う。


だが、生き残るためには、俺は、殺人をも、辞さない。

そうやって生きてきたし、これからも生きていくのだ。

俺がいつまで生きていられるかは、いるかどうか、わからない。それは神のみぞ知る。


さやかの髪を撫でていたら、さやかは安心したのか、俺の腕の中で眠っていた。

……月明かりに照らされた外の様子に、異常はないようだ。

既に満月は、高く昇っている。

その白く、冷たい光が、この文明が崩壊して人類が野獣のように殺しあっている地獄のような世界を、うっすらと照らしていた。

俺は、満月を眺めた。

満月は、この世界がどうなっているかどうかなど全く関心を持たない感じで、何万年も前からそうだったように、今日もまた、ただ白く冷たい光を放ち続けていた。

その白い光を見ていると、脳裏に様々な事が浮かんでは消える。

廃墟となったビル群、そして残骸となった数多くの車両。それらを夜の闇を支配する満月の白い光が、冷たく照らしていた。

平和な時代に、満月を眺めた事がある。……自宅のアパートから。そして、その頃つき合っていた彼女と肩を並べながら、海岸で、波の音を聞きながら、白く光る満月を眺めた事がある。

……その頃眺めた満月は、なぜか豊穣と言う言葉がぴったりと来た。豊かな自然の恵みを優しく与えてくれる存在。それは、母なる存在に近いとすら感じられた。

……だが、俺が今、見ている月は、その時と同じ月のはずなのに、そうは見えなかった。

冷たい白い光を放つ月が、なぜか狂気を帯びて見えた。

夜の闇を支配する魔の存在。理性と正反対の位置にある狂気。

その狂気を象徴しているのが、あの月なのだ。

そう思えるのは、たぶん文明と言う、太陽に照らされた世界…いや、人類にとっては太陽そのものでもあった文明が、そして、その太陽が象徴する、理性、秩序、発展、それらが全て滅び去って世界は闇に包まれて、その闇を代わりに支配している今の世界の狂気の暴力と死に満ちた世界が、あの月に象徴されて感じるからではないだろうか。

俺は、ふとそんな事を思ったのである。


……俺も……そして、隣に眠るさやかも……

結局は、文明と言う太陽が滅びて、闇が訪れたこの世界を太陽に代わって支配する月の、この狂気の光に抗えず、夜の闇の中で無残に死んでいくのだろうか。

そう思うと、たまらなく恐怖を感じた。

……俺は、さやかをぐっと抱きしめると共に、もう一つの手で、月明かりを反射していた冷たい銃を、手元に寄せた。



……ふと、俺は目を開けた。小鳥の声がする。周囲は、いつの間にか明るくなっているらしく、ビルの破壊された窓枠が見えた。

……一晩中、寝ないでいるつもりだったのだが、連日の疲労が溜まっていたらしく、いつの間にか寝てしまっていた。

さやかがいない!

俺は、ふと飛び起きた。

部屋を眺める。

さやかの姿はない。

……。

どこかへ行ってしまったのだろうか。

俺は、M一六を肩にかけて、弾倉もポケットに入れて、手榴弾も持って、ゆっくりと窓から顔を出した。

……時折、ビルの下を、通りかかる人はいるが、その中には、さやかの姿はない。

とりあえず、俺は武装して、ビルの外に出た。

通行人が時々、歩いていくが、ライフルと手榴弾で完全武装している俺を、わざわざ見る人もいない。

……と言うのは、ほとんどの通行人が、銃を肩にかけているからである。

銃のない者は、かわりに刀を持っていたり、手製の弓を持っていたり、クロスボーを持っていたり、鉄パイプを腰に差していたり、鉈を腰に差していたりと、とにかく丸腰で歩いている者は、ほとんどいないと言っていい状態なのである。

平和な時代なら、皆驚いたであろうが、大戦後の今となっては、当たり前の日常の風景と化していた。

俺は、ひび割れたアスファルト、そして焼け焦げて骨組みだけになっている廃車や、蛆虫のたかっている死体をしり目に、ひたすら、さやかの姿を探した。

……だが、俺は通行人しか目にする事が出来なかった。

俺は、必死でさやかの姿を探したのだが、どうしても見つける事が出来なかった。

気がついたら、太陽は既に高く、空は青く晴れ渡り、そして俺は、廃墟となったビル群を抜けて、コンクリートの防波堤の上に来ていた。

防波堤の近くにあるテトラポットは、大戦時の核の熱線を浴びてあちらこちらひび割れていた。

一部破壊されたテトラポットの一部からはみ出した鉄骨が、溶けて飴のように曲がっているのもあった。

防波堤の端にあった灯台は、無残に破壊され、辺りに瓦礫を散乱させ、かつての灯台であった面影だけをかろうじて残していた。

……いったいどこへ行ったんだ……。

俺は、さやかの心配をし始めている自分自身に気がつき始めていた。

普段、他人が死のうが生きようが全く気にしないのをモットーとしている俺なのに…。

……俺は、しばらく海を見ていた。

それから、海を後にして、テトラポットを乗り越えて、また廃墟になったビル群を歩いた。

いつものねぐらの、朝日ビルの三階に戻ってきた。

誰も、いない。もちろん、さやかもいなかった。

まだ、日は明るい。

俺は、床に置いてあった古びた木の扉に、またナイフで印を刻み込んだ。

今日が、いつなのか、わすれないために。

俺は、ガラスが割れて無くなった窓から、外の風景を眺めながら、物思いに耽っていた。







……第三次世界大戦が始まったのは、二〇三八年十二月三日だった。

そのころの様子は、あまり覚えてはいないが、戦争が始まった直接のきっかけは、中華人民共和国が、台湾、沖縄を狙って、日本と台湾に電撃的に宣戦布告し、突如、人民解放軍が、台湾、沖縄に軍事侵攻を始めたのがきっかけであった。

同時に、ロシア軍も、そのころ北海道の北方領土付近に展開していたロシア艦隊が、突如、知床、北見、その他道東の都市を狙ってミサイルで空爆を始めた。また、同時にその付近に展開していた空母より発進したミグが、日本の領空を侵犯し、スクランブルをかけた自衛隊のF三五戦闘機と交戦状態になった。

ロシアは、宣戦布告もせずに突如、日本を攻撃したので、日本側がロシア大使を呼び出して厳重抗議するのみならず、日本側も自衛権の発動とロシア共和国への宣戦布告を行ったのである。

台湾はアメリカの助けもあり、善戦したものの、二か月ほどで全土を人民解放軍に制圧されて、沖縄も同時に人民解放軍に侵攻されていた。米軍も駆けつけて自衛隊と戦って、一時は人民解放軍に奪われた西表島、八重山諸島、尖閣諸島も奪還できたが、台湾はなかなか奪還できなかった。しかも北海道ではロシア側からの侵略もあり、ロシア、中国と同時に戦争する事は圧倒的に不利で、米軍が味方に付いていたとはいえ、戦後を見据えて、ロシア、中国とあまり深く事を構えるのを恐れた米軍は、積極的に攻勢をかけず、自衛隊は苦戦を強いられた。

だが、二〇三九年国慶節において、家主席が、閲兵式の席上で、パレードの兵士に狙撃され、弾丸は命中せず、暗殺は未遂に終わり、その狙撃した兵士も射殺されたのだが、犯人は、ウイグル族出身である事が解ったため、中国はウイグル自治区のウイグル族の弾圧や、大虐殺をはじめた。それが、きっかけとなり、ウイグルで大規模な騒乱が起きた。同時に、南京、上海で、密かに北京への反感を持っていた政治家や人民解放軍の幹部が結託して、政府に向かって挙兵した。中国南部を中心に、中華共和国と名乗る新政府ができて、同時に独立宣言を行った。

従来の北京を首都とする中華人民共和国は、「北中国」と国際社会では呼ばれ、南京、上海など中国南部の中華共和国は、「南中国」と呼ばれるようになり、激しい内戦が起きた。

そのため、一時は劣勢になっていた日本、アメリカも勢いを取り戻し、沖縄は全て奪還できたが、台湾にはまだ人民解放軍が居座っており、これを奪還することは、難しく、自衛隊、米軍、そして中国軍がにらみ合いを続けていた。


また、大戦初期に、一時は北海道へのロシア軍の地上侵攻も行われ、上陸を許してしまったが、ロシア軍を、北海道の奥地に引き込んでから、地の利を生かした自衛隊の精鋭部隊の勇敢なゲリラ戦により、二〇四〇年五月ごろ、本土はすべて奪還できた。


そして、北方領土である、歯舞、色丹諸島の奪還に成功し、米軍の助けも借りて、国後、択捉島も奪還できた。


北方領土のロシア軍は投降し、すべて捕虜となった。

そして、米軍の力も借りて得撫島も自衛隊が叩こうと作戦を練っていたころである。

同じく中国本土で劣勢になっていた北中国が、南中国軍に向けて核兵器を使用する惨事が起きた。

南中国軍も北に向けて核ミサイルを発射、混乱の中、どういうわけかミサイルが米国に向けて発射されたため、米国は大量の核弾頭を中国に向けて発射した。その時、ロシアが米国の各主要都市に向けて核ミサイルを発射、米国もこれに報復攻撃を行った。

そして、その巻き添えを食って、日本にも中国、ロシアの核ミサイルが飛来、各都市を焼き払ったのである。

……とにかく、混乱の中、第三次世界大戦は、核兵器が使われて、文明社会の大部分は灰燼に帰した。

しかし、全面核戦争をするほど人類は愚かでもなかったらしく、混乱は続いているが、人類はまだ滅んではいなかった。

しかし、どこの国でも体制が大きく崩壊し、文明は滅び、人々が争い、殺しあう社会となっている。

おまけに、放射能によって大洋も、空気も、大地も、汚染されていた。

放射能は、目に見えないが、確実にそこに存在していた。

大戦の後、地下にいて偶然、核爆発の閃光を浴びずに済み、爆風などからも逃れた元気な人が、突如血を吐いて、苦しみながら死んでいくことも珍しくなかった。

……実際、あの日以来、目には見えないが、一種の毒のようなものが、大気にも、水にも、そして海にも、森にも、街にも、いたるところにまき散らされてしまったような感じがするのである。

俺も、被爆してから、体が猛烈にだるくなり、二週間目にひどい下痢になった。熱も出て、このままでは、いずれ死ぬのではないかと思った。

だが、その時、脳裏にかすめたのは、昔どこかで読んだ、長崎の原子爆弾を浴びた人が、酒を飲んで原爆症を克服し、健康になったという話だった。

……酒を飲んで原爆症を克服?

ずいぶん眉唾物に聞こえたのだが、本当なら凄い事だ……幸い、ウイスキーの未開封のボトルを、どこかの瓦礫の中から偶然発見したので、毎日少しずつ飲んでみた。

……不思議な事だが、少しずつアルコールを飲んでいると、放射能の毒素が分解されていくのか、だんだん体が元気になってきた。

……確かに、効いたのかも知れない。他にも、二〇世紀末にロシアで起きた、チェルノブイリ原発事故の作業員も、ウォッカが放射能に効くと言って飲んでいたとか、広島の原子爆弾も致死量の放射線を浴びた人も、大量の酒を飲んでいたためか、助かったという話もどこかで聞いたことがあったのを思い出した。

俺は、ウイスキーのボトルが空になる頃には、体の調子もかなり良くなった。

それまでの鉛が入ったような全身の重さも、軽くなった。

……酒は、本当に放射能に効くのか……。

しみじみと、そう思った。俺は、それからは、廃墟になったビル、酒屋などを探しては片っ端から酒を探したのだが、爆風でやられたりして、滅多に酒を入手できなかった……とはいえ、たまには、泥だらけになった箱を開けてみると、中から缶ビールの束が出てきたりする幸運な時もあった。

だが、冷蔵庫のない時代において、暑い夏に大気中に放置した缶ビールは、決しておいしいものではなかった。

しかし、生きているのすら奇跡のようなこの時代において、酒そのものが貴重品であるから贅沢は言えなかった。

……ああ、キンキンに冷やしたビールが飲める時代が、また来たらいいのに、と思う時もある。しかし、それは絶望的な願いであろう。

たまに、拾ったラジオに電池が入ったままの時がある。ラジオの電源を入れてみたりするが、雑音ばかりで何一つ、放送はない。もちろん、パソコンや、スマホ、インターネットはもちろん、テレビなども、ただの、がらくたにしか過ぎない。大戦前の過去の世界では、大いに活躍していたそれらの家電製品は、現在では、既に滅び去った過去の文明の遺物と化し、それすらも役に立たないガラクタとして廃棄され、顧みられることはない。


……この時代で、社会で唯一必要とされ、そして同時に文明という物を感じさせる存在は、皮肉な事に、旧世界がその存在を敵視していた、銃や刀、弾丸、手榴弾、各種爆発物、など、人を殺す武器だけなのである。





……窓の外を眺めながら、ふと、そんな事を考えていた。食料は、昨日食ったチキンはもちろんもうないし、部屋の片隅にある、埃だらけの魚の缶詰は、まだ二十個ぐらいはあるが、もちろんすぐに底をつくだろう。

食料を、どうしても手に入れないとだめなのだ。

「マーケット」

に行こうか。

「マーケット」

とは、大戦後、生き残った人々が、自然に集まり、交易を行う場所の事である。

もちろん、マーケットという名が、正式にあるわけではない。人々が、勝手にそう呼んでいるだけである。

マーケットは、第二次世界大戦後の日本の闇市によく似ていた。

……いつの時代も、そういうものが自然発生的に出来上がるらしい。だが、第二次世界大戦後の闇市と違うのは、闇市のほうは、敗戦国とはいえ、曲がりなりにも官憲が存在し、法律が存在したのだが、このマーケットでは、官憲は存在せず、法律は全く意味がないのである。

ここでは、多くの物が売られている。だが、マーケットでは、貨幣は全く意味をなさないのである。

ここで必要なのは、人々が欲しがる物資…平たく言えば、食料や燃料、銃や弾薬、刀、弓などの武器である。劇薬、毒薬なども大いに価値があった。

それらの物資を持っている者は、何でも引き換えに手に入れることができた。

……大戦後の世界では、工場なども跡形もなく破壊され、社会で生産活動がほとんど行われていないにもかかわらず、どこにこれだけの物資があるのかと思うほどに、マーケットには、物資が集められていた。

……驚いた事に、太陽光発電システムと、電圧変換装置を組み合わせて、パソコンが稼働したりしている光景を見たことがある。もっとも、インターネット網はすでに破壊されているのだが、既に過去にインストールされたゲームなどを、食料と引き換えにさせている者がいたのだ。

……その太陽光発電システムと、電圧変換装置やパソコンを強奪する者がいるかも知れない……と持ち主が考えたのだろう、その周囲には、自動小銃で武装した警備の者が数名立っていた。

マーケットは、荒廃しきった大戦後の世界で、唯一繁栄しているかのような感を見せた。ここには、人間社会のすべてがあった。自らの体を引き換えに食料を手に入れる若い女たちがマーケットのあちらこちらに立ち、欲望を遂げる男と女がひと時を過ごす小屋も作ってある。

それを覗き見ようとする不届き者も過去にはいたが、散々リンチされた挙句、殺されてマーケットの外に捨てられている事もあったためか、今では誰もそのような事をしようとする者はいない。

物資の豊富な、マーケットを襲って、物資を強奪しようとする不届き者の集団が、過去に襲撃してきた事がある。その時は、マーケットを仕切る昔でいえばヤクザのような人物が大勢の私兵を率いて、ロケットランチャーや迫撃砲や機関銃で応戦して撃退した。

その時の不届き者の集団で、生け捕りにされた大勢の者は、拷問の上、火炙り、串刺し、斬首、絞首刑、銃殺刑などの残忍な方法で処刑され、マーケットの入り口にある鉄の柱に逆さ吊りにされた。

その遺体は、しばらく放置された後、マーケットからほど近い野原に遺棄され、野犬の餌となった。

彼らの死体が白骨になった後、髑髏(どくろ)が回収され、多くの髑髏がマーケットの入り口に並べられ、襲撃者への警告となっている。

マーケットの入り口には、自動小銃や備え付けの重機関銃で武装した私兵集団が、常に警備をしていた。

また、大勢の人が集まるマーケットでは、スリや食い逃げ、万引きなどを行う不届き者が出る事がたまにある。捕えられた者は、ほとんどがマーケットを仕切るボスに引き渡されて、拷問の上、残忍な方法で処刑されマーケットの入り口で、やはり逆さ吊りにされた。

……皮肉な事に、マーケットの中では、僅かな事で惨殺されて処刑されるためか、大戦後では、マーケットの中は一番治安が良いのであった。

食料だけでなく、銃や弾薬も、ここには無尽蔵にあるのではないかと思えるほど存在していた。かつての日本は、銃と言えば、自衛隊や警察官の持つライフルや拳銃、そして少数の猟友会や射撃愛好家が特別に所持する猟銃か、ヤクザが非合法に所持する拳銃ぐらいしかなく、一般人には遠い存在だったのだが、大戦後は、いったいどこにこんな武器があったのかと思うほどに、武器が湧いて出てきた感じである。

俺は、とにかくマーケットに行くことにした。

とりあえず、何かあるだろう。もしかしたら、「仕事」もあるかも知れない。

そう、この時代でも……人は生きるために、「仕事」が必要なのだ。



俺は、マーケットに出かけた。

数えきれないほどの風化して汚れた髑髏が門柱の上に無造作に飾られているマーケットの門をくぐった。まるで、地獄への入り口、地獄の門といった趣があった。

……マーケットの中には、雑多な商店があった。商店主は、どれもこれも、生き馬の目を抜くようなタイプで、威勢のいい者ばかりであった。

あちこちから、大きな声がする。客を呼ぶ声、時には客同士、または客と店主が怒号を交わすシーンもした。

……第二次大戦後に出回った密造酒のような怪しい酒を出す酒場もある。怪しい酒だから時折、メチルが混入しており、盲目になったり死んだりする者が続出するのだが、そんな酒場でも結構、繁盛していたが、時折酔客同士で銃撃戦になり、死者もよく出た。

……マーケットに行けば、求人票が貼ってあるわけではない。だが、何かしら仕事はあったりする。たまに、商店などで、人手を求めている事もあるが、そうした仕事は、キツくて安い(大戦後の世界では安い、というのは賃金が、という意味ではなく、報酬にもらえる食料や燃料、弾薬などを指すのだが、それらが少ない事)事が多かった。

……そんな仕事でも、あればいいのだが、なければやはり…別の意味の「仕事」をやる他ない。

もちろん、命がけである。失敗すれば、死ぬだけだ。だが、マーケットで万引きをして嬲り殺されるような死に方はしたくないものである。

……しばらく俺は、マーケットを歩いてみた。

食料、燃料、弾薬も、ここではいくらでも売っている。もちろん、武器や食料品や酒などとの物々交換だ。相手が欲しいものでない限り、取引は成立しない。貨幣経済があった大戦前なら、金さえあれば何でも買えたのだが、大戦後は物々交換なので非常に不便であった。

その時代でも、貨幣代わりになるものが一つある。それは、「(きん)」である。しかし、偽物も多いので、なかなか真贋を見極めることのできる者がいないこの時代では、かえって敬遠されていた。ただ、大戦前の名の通ったメルター、つまり自社で金塊を製造していた会社の金塊などは、ある程度信用があり、取引に使われたのだが、それはマーケットを仕切る組織同士の取引など、大口の取引に主に使われていたので、個人が見ることは滅多となかった。

個人が使っていたのは、せいぜい、十分の一オンスの純金のコインぐらいである。

……マーケットは、多くの雑多な人間が行き来していた。春を売る女たちが昼間から街角に立ち、怪しげな阿片窟のような店もある。実際に、中では注射器を使って怪しげなクスリを楽しんでいる男たちがいた。多分、麻薬か覚醒剤のようなものなのだろうが、これも大戦後はどこからか一気に噴き出してきたように湧いて出てきた。食料や燃料は皮肉にも不足しているのだが、こういう物は、どう言う訳かまた無尽蔵と思えるほどに湧いて出てきているのだ。

怪しげな麻薬や武器が横行するこの時代は、大戦前の日本とは全く別の世界になっていた。

……いつ、殺されるかも知れないこの時代。

……明日の太陽を、必ず見る事が出来るとは限らない時代。

生きていくのも精一杯なこの時代。

……その時代に、俺は生きている。




俺は、マーケットを歩いた。あちこちの店先に、人手が足りないか訪ねて歩いたが、どこもあいにく、人手は足りているらしく、けんもほろろに断られた。

……このまま、餓死するか。

それとも、一か八か、何でもやるか?しかし失敗すれば、マーケットの門の上に飾られている骸骨の仲間入りだ。

……俺は、どうしたらいいのだろうか。

今、手持ちの食料は、ねぐらにある缶が二十個ぐらいしかない。それも、いずれ尽きてしまうだろう。

……答えが出ないままに、マーケットを出た。

この前出かけた、コンクリートの防波堤と、テトラポットが散乱する海岸に行ってみた。

防波堤が壊れているあたりは、既に小さいが砂浜が出来かけている。人工物が破壊されると、少しずつ、自然はその姿を取り戻そうとするようであった。

……その白い砂浜の中に、何か褐色の異様な物体があった。

砂をかき分けて、取り出してみる。

……骨である。それも、人間の骨だ。

気味が悪い、と言えば気味が悪い。褐色であり、骨格標本のようなきれいな白ではなく、汚い感じの褐色であった。見たところ、肋骨かどこかの骨に思えた。

細菌などで変色したのであろう。

俺は、その骨をすぐに捨てた。

手は、波打ち際に行って、海水で洗浄した。

……このまま、食料にありつけなければ、ああなるかも知れないな。

俺はそう思って骨を眺めていた。


つんつん!

いきなり、わき腹を誰かに突かれた。

振り返る。

さやかである。

「ね、何を見ているの?」

さやかは、にこっと笑いながら話しかけてきた。

「骨」

「やだ…。気持ち悪い…」

そう言って、さやかは顔を曇らせた。

「ところで、どこへ行っていたんだよ。あちこち探したんだぞ」

俺は、さやかに聞いてみた。

「じゃあ~ん」

そう言って、さやかが背後に背負っていたリュックサックから取り出したものがあった。

「これよ、これ」

「……これは、食料じゃないか」

「そうよ」

さやかが取り出したのは、袋に入った米が約三キロほど、それとサバの缶詰七個だった。

「どうしたのさ。これ」

「働いたのよ」

「どこで?」

「マーケッ。」

「え?さっき俺も、マーケットに行ったんだよ。お前、いなかったじゃないか」

いつしか俺は、さやかの事をおまえ呼ばわりしていた。

「そう、たまたま見なかっただけでしょ」

さやかはそう言って、笑っていた。

……まあ、いいか。

「で、今からどうする?」

俺は、そう言いながら、さやかが手に入れてきた食料が気になっていた。

「今日は、とりあえず帰ろう、ね」

「ああ、そうしよう」

俺はそう言うと、さやかと共に歩き始めた。

気が付くと、陽が傾き始めていた。

「海に行こう」

俺は、さやかの持ってきた荷物を、持ちながら、そう言った。

「海?海が好きなの?」

「ああ、海は好きだ。波の音を聞いていると、いろいろな事を忘れることができるんだ」

俺は、そう言うと、煙草を一本取り出して、ジッポで火をつけた。

……シケモク(吸いかけの煙草)ではない、新品の煙草は、これが最後だ。

最後の一本かと思うと、味がいつもよりうまく感じる。

俺は、紫煙を思い切り吸い込んで、口から吐き出した。

紫煙が風にたなびいていく。

蝉の声が、どこからともなく喧しく聞こえていた。

核の炎で焼き払われた自然の意外なたくましさに感心する。

しばらく歩くと、散乱したテトラポットや、焼け焦げて溶けた鉄線や残骸が転がる防波堤の近くに出た。

防波堤の上に二人で腰を下ろして、海を見ていた。

気が付くと、俺はさやかの肩に手を回して、そのぬくもりを感じていた。

ただ、打ち寄せる波の音が、いつまでも続いていた。

……この世界は、いったいいつまで続くのだろうか。

いや、それよりも、俺たちはいったいいつまで、生き延びることができるのだろうか。

その答えを、波間に俺は求めていた。





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