現実と現実
病室の白いベッドで目が覚めた私は、自分の手のひらに爪の痕が残ってるのに気付いて悲鳴を上げたいほどの恐怖に襲われた。
「はっ、はぁ……は……」
見開いた目、顔の前にかかげた手がぶるぶる震える。怖くて怖くて、呼吸のしかたも忘れたのかと思うほど息すらまともに出来ない。
私が、私の日常が夢に……あの世界に侵蝕されてしまう。
私は自分の目印を付けるために、私物のペンケースからシャープペンを取り出して強く腕に押し付けた。ご飯がちゃんと食べられてないやつれた肉にぷくりと血が滲むそこに口付ける、大丈夫、ちゃんと鉄の味がした。これは夢じゃない。
「……はぁ、……良かった」
夢の中で起きて真っ先に袖をめくるとそこには何の跡も残っていなかった。そう、ここは夢だから。現実にした怪我の影響なんてあるわけない。
あれはきっとただの偶然だったのだろう、寝てる間に手を握りしめてしまったただけ、きっとそう。
「どうされましたか? リューイカ様」
「ああ、何でもないわ。傷が無いのを確認しただけ」
起きてすぐすごい形相で袖を捲って腕をジロジロ眺める私をお世話係が心配そうな目で見る。大丈夫だと思うと途端にどっと汗が出てきて、力の抜けた私はもう一度ベッドにボスンと横になる。
きっと入院で不安になっていたんだ、こんなマンガの設定みたいな話を思いついて真剣に悩むなんて。
安心すると途端に空腹を感じた。現実の方では味気ない病人食ばかりだから、夢の中でたっぷり暴飲暴食していかないと。
私が不健康な食事を楽しんでまったりしているとセジュがやってきて隣に腰掛けた。
「リュー、調子はどう?」
「……元気だよ」
夢の中では、と心の中で付け足した。
「あともう少しだね」
「? 何が?」
「夢が終わるまで」
何の話、と答える間もなくセジュの姿は私の目の前でかき消えた。
その日、生まれて初めて。この世界で眠ったのに私の目が覚めなかった。
ああ、あれから何日経ったのか。
寝てもちゃんと自分の世界で目が覚めない、現実の私の体がどうにかなっちゃったんじゃないかって不安で不安で頭がおかしくなりそう。
夢の中の人達はみんな心配そうに、何か食べないと倒れてしまうと世話を焼こうとするのを部屋から追い出した。近付くと暴れて、私が怪我するからって今では様子を窺ってはいるが部屋に無理矢理入ってこようとはしない。
扉に鍵をかけたのにセジュがいつのまにか隣に現れて、「リュー、何か食べて」と悲しそうに話すのを私は座り込んで膝を抱えたまま聞き流す。
食べなくったって、平気。だってどうせ夢だし。夢だから何も食べなくても、死んでも大丈夫。大丈夫なのに、この人達は何を言ってるんだろう。
無理矢理食事を口に入れられそうになって暴れた時にしたこの怪我も、痛みはあるけど平気。これは夢だから、夢から覚めたら何も無くなっている。
「これは夢」
水も飲んでいない、カサカサの唇から漏れた声を自分の耳で聞きながら私の意識は深く沈んでいった。
目が……覚めたら、病室のベッドでありますように。
「っは、……は、はぁっ、は……」
真夜中、薬の匂いのする病室で目覚めた私は安心しすぎて泣いてしまった。ああ、良かった。夢だった、やっぱり夢だった。やだなぁ今回のはすごい悪夢だった、なんで私の夢はヤな内容ばっかなんだろう。
目覚めた時にぐっしょり背中が濡れるほど汗をかいていた私は安堵のため息をついた。夢だったけど、でも怖くてそのまま眠れなかった私はその後すぐやって来た看護師さんに「良かった、意識が戻ったんだね」と言われて体が固まる。
「意識って……?」
「優花ちゃん、急に容体が変わって……もう3日も寝たままだったんだよ」
私の体には管が繋がれていて、ピッピッと電子音を出しているのに今気付いた。当直の先生だと言う、見慣れないお医者さんもやって来て私の診察をする。大部屋だったはずなのに部屋も変わっていて、私が想像できないくらいに大変な事になってたんだとゾッとする。
きっと、急に具合が悪くなったからあんな悪夢を見たんだろう。
私はそう結論付けて、「容態は安定してるみたいだから、朝になったらご家族に連絡するね」と告げる看護師さんの言葉に応えようとして、右手首の痛みに顔をしかめてそこを見た。
「嘘…………なんで、」
「どうしたの?」
指の形に痣が残っている。何も食べない私に何とか食事を取らせようと抑え込まれた、夢の中でしたのと同じ怪我がそこに残っていた。
右手首に右手の形だから、当然自分で無意識に握ってつけた傷では無い。第一自分の手と大きさが違う。そう言っても看護師さんにはその傷は見えなかった。だって、実際強く掴まれたみたいに痛いのに。私は私にしか見えない夢の侵蝕の跡を袖で隠してパジャマの上から強く抑える。
何で、どうして。現実でつけた傷は夢に出ないのに、夢でついた傷がここにあるの?!
右手を穴が開くほど睨みつけていてひとつ気が付いた。手の甲にある傷痕……小さい頃怪我して縫ったやつ。夢の中の私の手の甲にも確かに同じ傷痕があったのに……セジュの前で膝を抱えていた私の手にはそんなの無かった。いつから夢の中の私の体から消えていたの?
私と言う存在の主導権を、夢の中の私に奪われた上にこっちの体までじわじわ滲みている……そんな気がして誰かにしがみついて泣き出したいくらい怖かった。
完全に気を抜けずに、暗い部屋の中で夜明けを待つ。寝たくない、眠ったらまた次にここで目が覚めるのはいつになるか分からない。夜が明けて、悪夢を見ると看護師さんやお医者さんに相談しても解決策は無いと言われて私は途方に暮れた。
「お願いしますっ! 夢が……夢が怖くて。もう眠るのが嫌なんです、睡眠薬とかでどうにかならないんですか……?」
「うーん、睡眠薬もねぇ、あれ副作用に『悪夢』ってあるから。薬を使っても使わなくても夢は見る時は見るし……睡眠薬使う方が悪夢を見やすいなんて患者さんもいるしねぇ」
「夢を見ない方法って無いんですか?」
そもそも夢は寝るたびに必ず見るものだから、朝起きた時に記憶に残ってるだけなんだよ、とお医者さんが話す。それは前夢について色々調べた時に見た覚えがある、何の解決にもならなかったけど。
薬でも何とか出来ないなんて。
「全身麻酔はあれ理論上は夢は見ないはずだけど……でも麻酔から覚める時にどうしてもかかりが浅い時間が出来るから、その時に『夢を見た』って言う患者さんはやっぱりいるし」
「そんな、」
「不眠気味になってるみたいだから、あまり眠れないようだったらすっと眠れるようになる軽い薬を出すから大丈夫」
違う、眠れなくて困ってるわけじゃない。むしろ眠らないように、今も眠気に抗って起きてるのが大変なくらいなのに。
眠れないならせめて横になってなさいとイマイチ理解されない。私の主張は届かずお母さんにベッドに押し込められてしまって。
夢を見たくない、と抵抗するも睡眠を求めていた私の体は限界を迎えて意識が沈んでいった。
「! ああ、リュー……良かった。目が覚めなかったらどうしようかと思った」
ベッドの横に跪いて、私の手を握っていたセジュがポロポロ涙をこぼす。
その声を聞かないようにしながら、私はキツく目をつぶった。眠って、また、私にとっての現実で目を覚まさないと。
バタバタしだした室内、他のお世話係の人達の「何か召し上がってください」って言葉を無視して口をギュッと閉じる。
これは、私の夢。だけど。
私の無意識が、この夢の中と現実を繋げて考えてしまっているから。きっと思い込みで現実の私の具合が悪くなっているんだ。
セジュの柔らかい手が優しく私の頭や手の甲を撫でるのも、泣きそうな声で「何か食べなきゃ死んじゃうよ」とすがられるのも。全部無視してひたすら私はこの世界での死がある方向に意識を向けていた。
私はきっと正気じゃない、頭の中でぐるぐる計画を立てる。具合悪くなろう。またこっちで具合が悪くなれば、私は現実で健康に戻れる。
夢の中と現実と繋がっていて、具合悪くなるのに関係してるなんて、そんな事実際に起こる訳ない。思い込みで具合悪くなってるだけ。ストレスでお腹痛くなる事だってあるじゃない?
それに、ここが夢で全部私の空想で作られた世界なら、また元の退屈な夢に戻るだけだから何も問題ない。
試さなきゃ。試して、このゲームの設定みたいな話が全部夢の中の話だって、確かめないと。