コール - その不気味なもの
# 起
誰よりも早く回答用紙を提出して、僕は教室を出た。
大学のテストは高校までのテストと勝手が違ったけれど、
予想していたよりは易しかった。
そのまま校舎を出ると、頭上に、雲一つない青空が広がっていた。
日差しは強く、中庭に立つ大きなクスノキが輝いていた。
昨日まで続いた長い雨は、もう足元に水溜りを残すだけだった。明日から夏休みだ。
振り返ると、いま出てきた教室の扉が見える。
僕以外の学生全員があの向こうでまだ問題を解いていると思うと愉快だった。
入学前は不安ばかり募ったけれど、最初の学期を無事に終えることができた。
僕は何事もなく大学に馴染むことができた。
むしろ上手く生活できていると言っていいだろう。
すべての授業でA評価が取れるかどうかはわからない。しかし少なくともテストは解けた。
テストを上手く乗り切れたことは僕に自信を与えた。
僕は、自分の力で自分に必要なことをこなすことができる。
それはつまり、僕自身の力でどこへだって歩いていけることを意味する。
# 承
考えをめぐらせていると、教室から一人の学生が出てくるのが見えた。
同じ学部の男だった。男にしては長い髪を茶色に染め、ごてごてしたメガネをかけている。
あまり真面目な学生ではないと思っていたけど、
もう教室を出てきたということは、意外に勉強はできるのかも知れない。
ちょっとした仲間意識を感じて、歩いてきた彼に話しかけた。
「テストできたんだ?」
彼は立ち止まり、僕の方を見て、少し間を置いてから答えた。
「……ああ、渡辺、だっけ?」
呼び捨てで名前を呼ばれたことに少し腹が立ったが、僕は繰り返した。
「そう。テスト、できたんだね?」
「ああ、余裕だったよ。あそこまで過去問どおりだとは思わなかった」
「過去問?」
「過去問もらってないのか? 何日か前に控え室で配られたの知らない?」
「……知らなかったな」
「そうか、もったいなかったね。でも、できたんだろう?
すごいじゃん。過去問なしでアレができたのか」
「まあ、だいたいできたとは思うけど……」
「やっぱまじめにやってるやつは違うなあ」
「いや、そんな……」
少し間が空いた。
「……渡辺、お前、今日の飲み会は来るのか?」
「飲み会?」
「聞いてないか? 学科全体で飲むんだよ。もちろん全員来るわけじゃないけど。
雨があがったし、体育館の脇の広場で飲むことにした。暇なら来いよ」
教室から何人かの男女が出てきた。彼らは僕らの方を向いて、青木くん、と声を上げた。
じゃあ7時からだから、と僕に言って、青木は彼らの方へ踵を返した。
過去問が配布されていたとは知らなかった。
授業でそのような告知はなかったから、
おそらく「代々引き継がれている資料」というやつなのだろう。
しかし、そんなものに頼らずとも、僕はテストを乗り切ることができたのだ。
僕は気分よく自転車を漕いで、学生寮へ向かった。
無理に止めるつもりはないけれど、未成年者が酒を飲むのは好ましいとは思わない。
だけど、まあいいだろう。誘われた以上、顔を出さないのも悪い。
僕は飲み会に参加することにした。
# 転
雲に隠れぎみではあったけれど、頭上には月が輝いていた。
ゆるく吹く風は生あたたかく、草の匂いをはらんでいた。
20人ほど集まった学生はいくつかのグループに固まって、
広場に敷いてある2枚のブルーシートの上で楽しげに会話していた。
僕は、少し離れたところから彼らを眺めていた。
やはり、飲み会はあまり好きではない。だらしない雰囲気が好きになれない。
2枚のブルーシートのあいだに置かれた大きなビニール袋から、
缶ビールや缶チューハイが取り出され、参加者に配られ始めた。どうやらそろそろ始まるらしい。
近づいてくる人影に気付き、僕は顔をそちらに向ける。
青木だった。長い缶のチューハイを2本手にしている。
少し安堵して、僕は立ち上がり、青木から差し出された缶を受け取る。
青木に話しかけようとしたけれど、それよりも早く青木は学生達の方を向いて、叫んだ。
「始めるかー!!」
青木の声に一斉に振り向いた学生達は、座ったまま体をこちらに向けつつ、歓声を返した。
青木はチューハイを掲げて、続けて叫ぶ。
「テストお疲れさーん!!」
学生達も缶を掲げて、口々に声を上げる。
「終わったことは忘れて! 夏休みに備えて今日は飲みましょー!!」
そう言って、青木は缶チューハイを開けた。
それに従い、学生達も手に持った酒を開封する。
そこかしこからプシュッ、プシュッという音が聞こえ、
慌てて僕も缶チューハイを開ける。
「では乾杯の前に、景気づけ! 1本いきましょうか!!」
青木を見ていた顔が僕を向けられる。心臓が跳ね上がる。缶を持つ手が震える。
「一番手! 過去問が配られたことを知らなかった渡辺くんです!!」
マジかー! ドンマイー! 忘れろ忘れろー!
「でもテストは余裕でしたそうですっ!!」
おおおおお! さすがー! すげええええ! お前天才だな!
青木も含めて、彼らの声に僕を馬鹿にするような含みはない。
そう、彼らは僕を馬鹿にしているわけではない、ほめているのだ。
しかし、僕はひどく焦り、動揺する。
「それじゃあそろそろ行きますよー。……せーのっ!!」
青木が合図を出すと、周りにいた学生たちが声を合わせて叫び始める。
なーんで持ってんのっ!! どーして持ってんのっ!! 飲みたがりだから持ってんのっ!!
状況がよく飲み込めない。でも、何かを期待されていることだけはわかる。
音頭を取っている青木を見ると、手にしている缶チューハイを軽く振ってみせた。
そしてふたたび叫ぶ。「もーいっかいっ!!」
んなあああああんでもおおおおってんのおおおお
どおおおおおしてええもおおってんんのおおおお
のおみたあがりだからああもおってんのおおおお
視界がゆれる。何と言われているのかよくわからない。
胃の方から何かがこみ上がってくるようで気分が悪い。
脳が薄い皮膜で包まれたかのように無感覚だ。
しかし、気付くと、僕はチューハイを口に運んで、一気にあおっている。
空いた手をきちんと腰にあてがうことも忘れない。
いくらかは口からこぼれてしまい、頬を伝い、足元に流れ落ちる。
炭酸が喉を強く刺激し、その刺激に押されて涙が目に滲み出る。
膝が震える。震えを悟られないように力を入れる。ぼやけた月が小刻みに揺れる。
なんとか飲み干し、缶を逆さにして中身がないことを示しながら、学生達の方を見る。
歓声が消え、場が静寂に包まれていることに気付く。
全身から冷や汗が吹き出たが、瞬間、喝采が上がり、僕はそれでホッとする。
「かんぱーい!!」と叫ぶ声が遠くに聞こえ、がやがやとした喧騒が空気を震わせていく。
惣菜のパックやスナック菓子がビニール袋から次々に取り出され開封されていく。
もう僕を見ている顔はないようだった。
# 結
心配した声で青木が僕に告げる。
「ぜんぶ飲まなくてもよかったんだぜ? 500も飲めるかよボケ、
とか途中でツッコんでくれればよかったのに」
「……そうなんだ」
「ごめんな、あんま慣れてなかったんだな? こういうの」
申し訳なさそうな声の奥に、面倒くささが仄見えた。
「さすがにストロング一気はキツいだろ。
ほら、横になってろよ。みんなには言っとくから」
僕は、その場に座り、膝を抱き、額を乗せる。
横目で青木を伺う。戸惑うような2本の足が見えたが、
しばらくすると離れていった。歓声の方へと歩いていったようだった。
僕は安堵し、目をつむる。僕は歩けそうになかった。