プロローグ
19世紀末。
英国北部の某所。
人口密度は中の下、都市から離れた長閑で広大な田舎町のノースベリー伯爵領。
ゴシック建築の伯爵邸は、その中心部にある。屋敷の装飾は控えめで、その家主の性格が伺える。庭は手入れが行き届いており、伯爵や夫人が好きだと言うバラやラベンダーが咲き誇っている。
青々とした小低木の茂みを掻き分け、少年は荒い息を整えて声を上げた。
「見つけましたよ、お嬢様!」
その少年は、年端にしては真雪の様に白い髪を持ち、日光に照らされて銀にも金にも見える柔らかそうなその髪は赤と白のストライプのリボンで後ろにまとめている。長いまつ毛の下に見える真紅の目は、彼の白磁器のような白い肌に良く映える。言われなければ可憐な少女にも見える少年は、所謂アルビノと呼ばれる特殊体質を持っていた。
「午前の手習の時間にもランチタイムも日曜礼拝にも来ないし、家庭教師も家令も総出で探してるんですよ⁉︎こんな庭の奥で本をお読みになってたなんて……」
少年はがくりと膝をつき落胆した。少年の髪と肌は葉緑色の中では際立って白く見える。少年は白いシャツに黒のベストとスラックスといった服装をしていて、伯爵邸の小さな執事といったところか。
その真紅の瞳の先に、地べたに座り込みぴくりとも動かず本を読む少女は淡々と答えた。
「私がどこで本を読もうと勝手だ」
少女は少年より少し年下に見えるが、幾分大人びた言葉を放つ。瑠璃色の大きな目は本から視線を未だに動かさない。亜麻色の長い髪は無造作にも地について、所々に葉が絡まっている。淡いピンクの服も土や草で汚れている箇所があり、言動の割には活発でやんちゃな性格が見受けられる。
この少女こそ、ヘンリー・カークランド・ノースベリー伯の1人娘、シルヴィア・カークランドである。
自由な主人に溜息を吐いた少年の名前は、アルバート・チェンバレン。シルヴィア付きの執事だ。ノースベリー伯の意向で、年の近い2人は主従関係にある。
「お嬢様……貴女も明日には10歳になられるんですから、そろそろご令嬢である意識を持ってください……怒られるのは僕なんですからね……!」
アルバートは涙目で懇願するようにシルヴィアに語りかけるが、彼女は見向きもしない。しかし静かな読書の時間を邪魔されて痺れを切らしたのか、彼女はすくりと立ち上がり、アルバートを見下ろした。
「もう!うるさいぞ、アルバート!せっかく面白いところだったのに!」
「お嬢様は一体、何をそんなに真剣に読んでいるのですかっ!」
「見て分からないのか、シェイクスピアだ!」
シルヴィアは読んでいた本をアルバートの目の前に持っていった。その表紙には「Macbeth」としっかり書かれている。
「その御年でシェイクスピアをお読みとは……」
アルバートは主人の才女振りへの感心と、読んでいる物語の暗さというか渋さというか、何とも複雑さにまた落胆した。
「アルは何か本を読むのか?」
シルヴィアは自分の従者を愛称で呼び、目を輝かせて聞く。
その目に逆らえず、少し唸ってからアルバートは顔を上げて芝の上に胡座をかいた。
「そうですね……『アーサー王物語』とか『ニーベルング』とか夢があって好きですけど」
「なんだ、騎士道物語ばっかりでつまらない」
シルヴィアは仏頂面でアルバートを睨む。「騎士は男のロマンですよ!」とアルバートも負けじと言い返す。
「私と2つしか変わらないのに何が男だ、家の誰よりも女顔のくせに」
小さな主人に痛いところを突かれ、アルバートは呻いた。
シルヴィアは飽きたのか、お構い無しに屋敷に帰ろうとする。それを見て、アルバートは慌てて立ち上がり追いかける。その白い左手で小さな主人の右手をとり、「こっちです」と反対方向を指差した。
「もう10歳になるんだぞ、自分の家くらい、わかる」
「そう言って真逆を行こうとしてましたよ……ふふ、相変わらず方向オンチですね」
アルバートは少女のように顔をほころばせて、困ったように笑う。
「大丈夫ですよ、お嬢様。例えお嬢様が道に迷っても、必ず僕が貴女の道しるべになります」
お任せください、と言わんばかりに胸を張るアルバートに腹が立ったのか、シルヴィアは右足で彼の脚を蹴る。痛いと呻く彼を放って小さな頰を膨らませて怒るその様子は年相応の少女だ。
「お前のそういうところがきらいなんだ」
シルヴィアは、ふいとそっぽを向いて鈴の音のような可愛らしい声を怒らせた。
しかし、その右手は従者の左手から離さずに大人しく繋いだままだ。その白い左手から温かな体温を感じながら、小さな伯爵令嬢は従者と屋敷へ向かった。