春のはじまり──Ⅱ
外に出るとあたたかな陽射しが迎えてくれました。
街中に満ちる空気は未だ冷たさを残し、漂う朝靄が朝の静謐さを湛えながらも上から射す春光は、街に活力を与えているようでした。
住宅街の両脇にある花壇にはアネモネやチューリップなどが並び、春の街を彩っています。
道なりに続く花壇と色とりどりに咲く花を見ながら大通りに出ると、そこはまた違った街の景色を見せてくれます。
風に舞い散る薄紅のスクリーンで覆われたバラーニの街。それらはひどく生命的で──死を連想させられる。
大きな桜を脇に生やした並木道は遠く、丘上にある幻想的な城のような建築物──バラーニ学院の校舎──まで続いています。
薄紅に色彩された古代ローマ建築を彷彿とさせるルネサンス建築の街並みをしばらく歩いて──突然の頭痛に襲われました。
頭痛の種というものは往々にしていたるところに転がっているものです。
自分は、たまに劇座に通うくらいには喜劇や悲劇の鑑賞が割と趣味だったりします。
しかし、悲劇は言わずもがな、こんなコントで喜劇的な日常が自分の生活圏内で繰り広げられるのは御免蒙りたいです。
──などと毎日思っていても、ウチの生徒はどうしてかいろいろとコメディな問題をどこからか拾ってくるのですよね。たまに笑えない問題も混じってますが。
「カンナ君。おはようございます。えー、これは一体、どのような状況ですか?」
自分は樫蜜を頭からどろりと被り、身体中に色々な虫を引っつけて座っている赤い少女に声をかけました。
周りの人間はみんな薄気味が悪いのか彼女を中心に一定の距離を保って迂回していきます。
自分だって全力で見て見ぬふりをしたいですよ。でも生憎とウチの生徒なのでね! 見て見ぬふりはできないわけですよ。
突然自分に声をかけられた少女はびくんっと身体を震わせてこちらを向きました。
うわっ、怖っ! なんで君は顔にまで虫をくっつけてるんですか。しかも涙目になってるし。
というか、その顔にくっついてるの露光虫じゃないですか?
「先生ぇ……」
えー、そんな捨てられた子犬みたいな目で見られても。
これ、自分がどうにかしなきゃいけないんですか? しなきゃいけないんですよねぇ……。
判断は迅速に、実行は即座に。
「カンナ君、とりあえず、先生の家に今朝お湯を張ったばかりのお湯がありますから、まず体をどうにかしましょう」
年端のいかない少女を家に連れ込むという事よりも、彼女をここに放置することの方がいろいろマズイです。
「……はぁい」
おや、いつもと違ってえらく素直ですね。流石にこんな状態になっていてはいつものわんぱくは鳴りを潜めているというわけですか。
先程歩いてきた道を戻り、家に帰ってきます。ええ、虫まみれの少女を連れているために、街ゆく人々に奇異の目で見られながら戻ってきました。
なにこれ、めっちゃ恥ずかしい!
「まずは虫をどうにかしないといけませんね……」
カンナ君を風呂場まで連れてきたのはいいものの、虫まみれのままでは服を脱ぐこともままなりません。
「カンナ君、ちょっと目を瞑って息を止めていてください。ああ、鼻も摘んでいたほうかがいいですよ」
「?」
なんか、ぽかんとしてますが、まあいいでしょう。
世界というカンヴァスに空気中に漂う黒の万素を集めて、術陣を描き出す。
「ジャマ・トタ・カンジュカ」
「あばばばばっ」
カンナ君の全身を巨大な水球が覆い尽くしました。それは中で渦を巻き、僅か二秒ほどで重力に従って下に落ちました。
後に残ったのは全身ずぶ濡れの赤髪の少女が一人り。あれ? なんか睨んでますね。
「ぶほっ……げほっ……いきなり何すんのさ!」
「あのままじゃ服を脱ぐこともままならなかったので洗いました」
「だからって、やり方ってものがあるじゃん!」
ぎゃーぎゃーうるさいですね。
「はいはい、んじゃ、ちゃっちゃと汚れを落としてきてくださいね。洗濯物は浴室を出たところにある籠に放り込んでおいてください」
言うが早いかさっさとバスルームを出て扉を閉めました。まだなんか騒いでいますが無視しときましょう。
カンナ=クラナッハ。バラーニ学院の中等部一年生──来週からは二年生ですね。
燃えるような赤い髪の毛と勝気そうなつり目が特徴的な少女です。女豹の様な、しなやかですらりとした体躯は女性的な成長は今後に期待といったところでしょう。
本人はかなり気にしているようですが。
わんぱくで元気な姿で物怖じしないところは彼女の父親を彷彿とさせます。あの野郎、積極的に危険なところにカチコミに行って商談をむしり取ってくるようなえげつない商人ですからね。彼が陣頭指揮を取るクラナッハ商会はもう商会というよりかはヤクザです。
武装商人なんて言葉はヤツのためにあるようなものです。
そんな破天荒な男の一人娘の商人見習いはこれまた困ったことに問題児なんですよね。
元気で好奇心旺盛なことはいいんですが、いろんなところに首を突っ込んでは騒動を引っさげて来ます。今日みたいなことは割と日常茶飯事です。
勘弁してくれ。
「ちょっと、せんせー! 着替えがないんだけど!!」
……やっべ、忘れてました。
流石に自宅に十四歳の少女が着るような服は無いのですが。
どうしましょう?