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十二、供物と供物


 供物の自由の、最後の日。

 空は晴れており空気が澄んでいる。が、氷のように冷たかった。

 供物の隠れ家で目を覚ましたリドリーは、優しくアリステアをゆすって起こした。アリステアがもぞもぞ動いて、リドリーの指先をつかむ。

「……子供か」

 ふっ、とリドリーは苦笑した。


 アリステアはただ、庭園をまわりたい、とだけ言った。

 食事もそこそこに寄宿舎の水路や庭園をのんびり歩く。ただそれだけ。今までの好奇心はどこへいったのか、それとも押し込めているだけなのかもしれない。

 緑眼が輝きはしても、あれやこれやと首を突っ込むこともしなくなった。

「気になるものがあるなら、行ってもいいぞ」

 さすがに心配したリドリーはアリステアにそう助言した。アリステアはただ、楽しそうに笑って首を横に振る。


「涼しくなったね」

「そうだな」

「リドリー、寒くない?」

「大丈夫だ。そちらは」

「全然。ありがと」

 アリステアは噴水をぼんやり眺めていた。

 風に吹かれて、キンモクセイの香りが泳いできた。ついでにオレンジ色の小さな花びらも舞ってきた。

 リドリーの赤髪にいくつか降り立ち、それを見届けていたアリステアが愉快に笑い声をあげていた。

「あっはは、リドリーってば花冠かぶってる」

「あ? ああ、これか……」

 前髪にくっついた花弁を、リドリーはつまんでぽいっと捨てる。

「とってあげるからじっとしててね」

 アリステアの細い指先が、丁寧にひとつひとつ花をのけていく。

 自分の頭上を眺めているアリステアは、いまどんな気持ちでいるんだろう。最後なのに、何もわがままを言わないアリステアを考えれば考えるほど、リドリーの心中は穏やかさを消していく。

「はい。終わり」

「ありがとう」

「うん。こんなにいっぱいあったよ」

 アリステアの掌には、オレンジ色の花がたくさん積み上げられている。

 アリステアはそうして噴水に向けて、手の上の花にふっと息を吹きかける。オレンジの花弁は軽やかに空を舞い、そして噴水の水面へと落ちて行った。


「アリステア」

「なに?」

「本当にいいのか? 最後の日だぞ。悔いを残さないようにしないと」

「なあに? もっとわがまま言っていいの?」

「……番人が困らない程度に限るがな」

「リドリーは正直だねえ。

 気遣いありがとう。でもね、ほんとうに、もういいんだ。これでいいんだよ」

 アリステアは両手をぱっぱっと払う。微かなオレンジが、彼の手から離れていく。

「この寄宿舎のまわりたいとこは全部行ったし、リドリーのおいしい紅茶も飲めたし。いっぱいお話できたから。もういいやって、思っちゃった。これで多分、供物に捧げられても、笑って消えることができるよ、僕は」

「……だけど」

 リドリーにはそう思えなかった。

 アリステアの表情は笑いこそすれ、影が落ちている。笑顔ばかりの彼から、本心を読み取るのはそう難しくはない。リドリーにとっては、アリステアがどう笑おうとも、どう語ろうとも、それは嘘だと見抜く程度には、アリステアを理解していた。


「最後に、聞いておきたいことはないか」

「誰に?」

「俺に」

「ないよぉ」

「行きたい場所は? 食べたいものは? 話しておきたい残りの言葉は?

 俺に、してほしいことは?」

「リドリー……?」

「この1か月、おまえに振り回されっぱなしだったけど、俺はそれでも楽しかったよ。授業サボれたし。お前見てるの退屈じゃなかったし。

 だから俺は、俺が勝手にお前へ礼をしたいだけなんだ。……これは俺の身勝手だ。お前を満足させてやりたいっていう。ただの勝手だ。その勝手に付き合ってくれないか」

「りど、」

「本当は心残りがあるんじゃないのか? 俺の勘違いだったらそう答えてくれ。変なリドリーって、笑ってくれ。そしたら、最後は何も聞かない。最後の夜まで、ずっと一緒にいるだけだから」

 リドリーの手は、無意識にアリステアの肩に置かれていた。強くつかみすぎたかもしれない。アリステアの表情が少しだけ歪んでいる。

 悪い、とすぐに離れた。ここにきて失望されたかもしれない。後悔しても遅い。

 だがそんなリドリーの不安をよそに、アリステアは、じゃあ、と言葉を告げる。


「最後に、図書館へ行きたいんだ。ついてきてくれるかな?」



 庭園寄宿舎の名物たる図書館。

 アリステアにとってはえぐられるような苦い思い出を残した場所である。行くのをためらっていたアリステアが、ここへ行きたいと言い出した時の心情は、リドリーにははかれない。


「懐かしいな……。最後にきたときと、全然変わらない」

 図書館にいるはずの司書は現在席を外している。生徒はぽつぽつと来館していたが、閑散としている。

 アリステアは書棚をいくつか見上げ、保存されている資料の背表紙を指先でつつきながら、また別の資料を見上げている。

「リドリーは、どんな本を読むの?」

「俺? 俺は……史書とか、舞踊の本とか」

「勉強家なんだね。小説は読まないの?」

「あんまり。時々読むけど」

「そっか。たくさん読むといいよぉ。小説はね、全部作り話だから、救いがあるんだ。どんなご都合主義なハッピーエンドにしても良いし、逆に悲惨な最後になっても、これは作り話だもの、って言い訳できる」

「……そう、だな」

「そしてね、その人にとっての救いになることもあるんだ。とてもおもしろい本には、そんな力があるんだよ。

 って、あの人は言っていたかな。……今思い出しても遅いんだけどね」

 アリステアはとっとっ、と次の書棚を物色する。リドリーはそれについていく。


 迷宮のような広大な図書館は、構造こそ単純だが大きな書棚が人を隠して、下手をすればアリステアを見失いそうになる。リドリーは静かに歩きながら、アリステアと一定の距離を保ち続けた。


 いくつかの書棚の角を曲がり、アリステアは図書館の暗い隅っこでようやく立ち止まった。

 そしてゆっくりと其処に、腰を下ろす。膝を揃えて、リドリーにおいでおいでの仕草を見せた。


 陽の光も断たれた、暗がりの場所に、アリステアとふたり。リドリーは寄り添うように、アリステアの隣に膝を曲げた。


「ここね、あの人との逢引の場所だったんだよ」

「……」

「ここで内緒話したり、気に入った本の話を聞かせてもらったりしてた。今でも思い出せるよ。あの人、結構涙もろくてさ、人情話に弱くて、泣きながらページめくってたんだって」

「……そうか」

「うん。長いことここにはきたくなかったけど。君のおかげでまた来れてよかった。

 ありがとう、リドリー。君が番人で良かった。もう一度、僕はここに来れた」

 リドリーの黄金の目が、前髪に少しだけ隠れる。うつむきそうな顔を抑えて、笑う。

「番人としての役目を果たしたまで。それが供物の役に立てたなら、光栄だ」

「えっへへ、仕事気質だね」

 アリステアが、そっとリドリーに両手を伸ばした。首を傾げるリドリーに、アリステアは「抱っこして」と甘える。

 リドリーはアリステアを胸に抱き寄せてやった。ふんわりした茶髪がリドリーの鼻をくすぐる。胸に人の温さが伝ってきた。

「リドリーにこうしてもらうと、落ち着く。

 ……変だねえ、あの人じゃなきゃ何も感じなかったはずなのに。君でも平気になっちゃった。僕は案外誰にでも軽いのかな」

「そんなはず、ない……。お前は正常だよ、アリステア」

「ありがと、リドリー。それがたとえ嘘でも、僕にはうれしい」

「嘘じゃない」

「うん」

「俺は嘘がつけない」

「……そうだったね」

 人の足音やページを捲る音が、かすかに聞こえてくる。それ以上に、アリステアの吐息が、リドリーの耳にひどく鮮明に響いていた。


「ねえリドリー」

「なに」

「君の名前を教えてほしい」

 リドリーは言葉を詰まらせた。名前を呼んだら、たとえ自分の名前でも口に出したら禁忌に触れる。少なくとも、この寄宿舎では。

 禁忌など、罪などどうとも感じなかったのに、今になってその恐怖がリドリーをすくませた。

「……ごめん、言わなくていい。君まで供物になる必要はないよ」

「……アリス」

 リドリーはアリステアから離れた。アリステアの手をそっと取る。華奢な左手のひらを仰向けにさせる。


 リドリーは、アリステアの掌に指で文字をなぞる。柔らかい感触が、指先にこみ上げる。たった三文字。名前を言うだけの勇気すら搾り取れないリドリーには、これが限界だった。


「さ、ん、しゃ?」

 アリステアが一文字一文字を丁寧に尋ねる。リドリーは首を横にふった。

「これで、こう読む」

 リドリーが再び指で文字を書く。

「あ、えっと。……さ?

 さ、ん、さ?」

「……うん」

「――。―――――・リドリー。良い名前だね。とても」

 アリステアの舌が、リドリーの名前を転がす。にこやかに澄み切った緑眼で、微笑むアリステアは、どこか満足そうだった。

「ねえ、リドリー。……いいえ、サンサ」

「……?」

「僕の名前、呼んでくれる?」

 リドリーは、また何も言えなかった。


 アリステアはすでに供物だ。これ以上罪を犯しても、行き着く運命に変わりはない。

 だがリドリーは、番人の役目が終わればただの生徒に戻る。

 

 たった少しの言葉を、アリステアの名前を呼ぶことさえ、リドリーにはできなかった。


 ただアリステアを掻き抱いて、背中をさするしかできなかった。

「……ごめん、俺には罪を犯す勇気もなかったみたいだ」

「君のせいじゃない。君は正常だよ。

 ……最後にわがままを言ってごめんね、サンサ。でも、僕の名前は忘れないで。これだけ約束、してくれる?」

「……わかった」

「よかったぁ。これも断られたらどうしようって思った!」

「ごめん」

「良いんだよ」

「……ごめん」

「君は何も悪くないよ」

「ふがいない番人でごめん」

「ふがいなくないよ」

「最低な人間で、ごめん」

「君は最高の人間だ」

「お前を助けてやれなくて、ごめん」

「君にできないのなら、ほかの誰にもできないことさ」

 アリステアの小さな手が、リドリーの背を撫でてくれていた。


   *

 

 その日はついに来てしまった。

 アリステアが、供物として天に捧げられる日だ。


 場所は特別棟の屋上。庭園寄宿舎でもっとも広い棟。

 空は穏やかに晴れ、相変わらず刺すような冷気に満ちている。


 屋上の中央に、クリーム色の座がおかれている。柔らかい布を敷いて、その上に人ふたりくらいは座れるくらいの座。

 アリステアは亜麻色の装束に透明のヴェールを被り、ゆっくりと、その座に膝をつく。祈りをささげるように顔を伏せ、許しを乞うように祈りをささげる。これから捧げる場所によって裁かれるというのに。


 彼を囲むように、多くの先生や生徒が見守っている。彼らは制服だが、一糸として乱れていない。


 傍らに、リドリーはいた。リドリー制服の代わりに黒服を着ている。

 一番近くで、供物を見守ることができた。


 先生のひとりが、リドリーにはわからない言葉を並べている。

 抑揚のない声の語るそれは、供物への憐みか、裁きの詞か、それとも意味のないただの単語の羅列か。


 その言葉がふいに切れた。

 すると、空が急に光り出す。アリステアのちょうど頭上高く。

 まばゆい光が、真っ直ぐアリステアへと近づいていく。


 降りそそぐ光の粒子が、彼を直撃しようとする。


 アリステアが、ふと空を見上げた。祈りが終わったのだろう。

 そして、リドリーへと視線を向ける。


 無邪気な笑顔で、緑眼をきらめかせ、祈りに組んでいた手をほどいて、

 リドリーに手を振る。


 アリステアの唇が動いた。

 さ ん さ

 

 アリステアが光に塗りつぶされそうになる。

 リドリーの目がつぶれるほどの強い白光が、屋上を占めた。


 リドリーは突き動かされるように、供物へと駆けだした。

 精一杯手を伸ばした。

 あの笑顔が、あの目が、あの華奢な手が、あの優しい供物が、

 光に消されてしまう前に。



「テイカ!!」


 リドリーは供物の名を呼び――――禁忌に触れた。


 指先がアリステアの前髪に触れ。

 転げるようにアリステアを抱き寄せ。

 勢いで座からふたりなかよく転げ。

 ふたりなかよく光に呑まれ。


 番人は供物と転じ、供物は番人に抱かれた。

 最後の瞬間、サンサはテイカの輝く笑顔を目に焼き付けたような気がした。

 テイカもまた、サンサの笑顔を目に記憶した。

 



 まばゆい光が穏やかに晴れたころには、もうそこに供物ふたりはいなかった。


   

   了

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