事件
家に帰り、自分の部屋に直行する。荷物をほっぽりだし、制服のままベッドに突っ伏した。
なんだか今日は疲れたな。
時計を見ると、七時手前を示している。もうそろそろ夕食の時間だ。
よろよろと、立ち上がる。が、そのままベッドに腰かけてしまう。駄目だ、もうしばらく休みたい。
心の中の不純物が、ぐるぐる回っていた。自分が今何を考えているのかもわからない。とりあえず落ち着こう、読みかけだったあの漫画どこにしまったっけ、と本棚に目をやると、本棚のすぐ隣の壁に張り付く黒いものが目に入った。
よく見るとそれは異形の怪物、アシダカグモ。でかい。手のひらほどはあろうか。
背筋に寒気が走った。俺はこの世で蜘蛛が一番苦手なのだ。
本来なら関わりたくはないが、ここは自室だ。このままこいつと夜を過ごすことの方が恐ろしい。ああ、考えるだけで気持ちが悪い。
そばに置いてあった雑誌を円柱状に丸める。こいつで一撃で仕留めてやろうという算段だ。
敵は壁紙に張り付いたまま身じろぎもしない。討つなら今だ。だが、このまま潰して、壁紙に体液を染みつけられたら困るな。少し考え、フローリングの方に追い込むことにした。あそこなら拭けば簡単に取れそうだ。
恐る恐る近づく。結構近くまで寄っているのに、蜘蛛は動き出さない。それも少し困った。丸めた雑誌を威嚇するように振る。すると、蜘蛛は走り出した。
その不気味な動きに、身を引いた。その隙に蜘蛛は、脱兎のごとく走り抜け、あろうことか本棚の裏に飛び込んでしまった。
「ああ、くそ」
入り込まれてしまっては、手も雑誌も出せない。
「ええい、ままよ」
突然出てきたらと思うと恐ろしいが、背に腹は代えられまい。本棚をつかみ、少しずらして壁との間に空間を作ろう。そう思って本棚を動かす。が、少しだけ動いたところで、ガタン、と音がして、何かが落ちてきた。
心臓がキュウと締め付けられ、即座にその場から飛び退いた。
見ると、白い箱が落ちている。ああ、しまった、と思った。その箱は洲上から「お土産」としてもらった、『割れ物注意』の表記が成されている箱。中身も見ずにどこかに片づけていたのは覚えているが、よもや本棚の上に置いていたとは。当時の自分を呪ったが、そうしたところで仕方がなかった。
箱を拾い上げ、中を見る。マグカップのようだ。取り出してみれば、無事なのが分かった。
黄緑色のマグカップを暫く眺める。洲上はこれを在庫処分品と言っていた。特に悪いデザインというわけではないが、確かにこれを買おう、という気にはあまりならないほどのものだった。
「ん」
眺めていると、これはどこかで見たことがあるな、と感じた。どこでだったかは分からないのだが。入れ物となっていた白い箱をひっくり返すと、短い、俺でもわかるような英語でユーゴスラビア製を示す文言が記されていた。これもやはり輸入物らしい。ユーゴスラビアでマグカップなんてつくっているのか。
「んー」
またしばらく眺め、考える。
このマグカップのせいで、蜘蛛のことは頭からすっかり消えてしまっていた。
次の日の昼休みのことだった。四時間目が終わり、さあそろそろあいつが来る頃かな、と思っていると、案の定、教室に入ってくる影が見えた。入ってくるというよりも、飛び込むと言った方が正しいだろうか。洲上は、猛烈なスピードでこちらに向かってくる。迫真の表情だ。何事か、と感じたが、俺は聞きたいことがあったので、軽く手を挙げ、「いいところに来た、聞きたいことがあるんだが」と言いかけた。だが、その問いに被せるように洲上は言う。
「ちょっと、ちょっと来て!」
有無を言わせぬ勢いで腕を引っ張られる。
「な、なんだ、どうしたんだ」
「いいから!」
仕方なく、従う。
速足で廊下を進む彼にやっと並ぶ。
「俺もさっき聞いて、突然のことなんだけど」
「なんだ」
洲上はこちらを一瞬見て、次にあたりを見回す。廊下にはちらほらと人が出てきている。
「とりあえず、人がいないところに」
学校で人がいないところと聞いて思い浮かぶのは、ここしかなかった。
体育館裏にはやはり、人っ子一人いなかった。放課後ならともかく、昼休みにこんなところに近づく輩はいないだろう。
一息つき、彼は話し出す。
「山城のお兄さんが亡くなった」
洲上の言葉に、顔をしかめる。
「なんだと?いつのことだ」
「昨日のことらしい。あちらの家もばたばたしてて、連絡が遅くなってしまったみたいだ」
山城の兄には会ったことがある。小学生の頃はよく山城家に遊びに伺っていて、一緒に遊んでもらったことも一度や二度ではない。
優しい人だったと思う。少なくとも俺にはそう見えた。弟思いのいい兄貴、といった感じで、うちの姉貴と代わってくれないかと願ったことよくもある。
「光一は、うちの希望であり、スターだから」と言っていたのを思い出す。確か歳は三つ上だったから、この春から大学二年生だったはずだ。
「病気だったのか」
そう聞くと、洲上は、いや、と口ごもった。
「驚かないで聞いてほしいんだけど、その、自殺、なんだ」
驚くなと言われても、そうせずにはいられなかった。自殺?あの人が?
それでね、と続ける洲上。
「通夜は今夜みたいなんだけど、どうする?」
どうする?とは、行くか行かないかを聞いているのだろう。今夜何か大事な予定があるわけではない。同級生の兄貴という、決して直接的な関係ではないが、昔世話になったのも事実だ。
「行くよ」
それを聞いて、洲上は頷いた。
「俺も行くから、どこかで落ち合おうか」
俺は葬儀の場所を聞き、集合場所を決めた。
「それから、なんだけど」
洲上は言いにくそうに話す。
「なんだ」
「いや、こんなこと言うのもあれかもしれないけど」
そこで一旦言葉を切る。目が泳ぎ、周囲を警戒しているかのように見える。
「とある筋の情報で、こんなことを聞いたんだ」
「じょうほう?」
「うん、そのお兄さんなんだけど、遺言状を残してたらしいんだ。『全て俺が悪かった。ごめんなさい』って」
どこからそんな情報を手に入れるのだろうか。しかし、こいつならどこからかほいほいと情報を掘り出してくるのも容易なことなのだろう。
「全て俺が悪かった」
彼は何か悩んでいたのだろうか。自殺に踏み込むような、重い問題を。
まだ大学生で、これからまだまだ未来があったろうに。
葬儀は粛々と行われた。俺と洲上は、参列席の中ほどの席に並んで座った。参列者の中には見知った顔もいくつかあった。一つ後ろの列の端の方に、花菜の姿もあった。彼氏の兄貴の葬儀だ、来るのは当たり前か。
見ていると、目が合ってしまった。昨日のこともあって、気まずいことこの上ない。しかし、途中で帰るわけにもいかない。
後方からは、ひそひそ声が聞こえてきた。
「まだ大学生なのにねえ」
「そうよねえ、頭のいい子だったのに」
「それにしても、立て続けに身内の方が若いうちに亡くなるなんて」
「大変ですよねえ」
二人の女の人の会話だ。声からして、うちの母親よりも上の年代だろう。聞き覚えのない声だったし、振り返って、うるさいと怒鳴るほどのことでもなし、それをする勇気もなし、なわけで黙っていた。
前を向くと、一番前の向かって右側、喪家席に並ぶ中に、山城の姿があった。両手を握りしめ、力いっぱい膝に押し付けている。顔は下を向いて見えなかったが、一目で山城だと分かった。学生ズボンは、遠目からでもわかるくらいに彼の涙で濡れている。こんな形になったが、中学を卒業して以来、約一年ぶりに見る旧友の姿だった。
式後、洲上が花菜の方に向かった。やはりあいつも花菜の姿を見つけていたらしい。仕方なく、洲上についていく。
「久しぶりだね、宮田さん」
軽く洲上は挨拶をする。
花菜はちらちらとこちらを見てくる。昨日のことは彼女も意識しているのだろう。
「うん、こんなところでだけど、久し振り」
無理に笑っているように見えた。俺はついに居たたまれなくなった。
「すまない、洲上、もう帰らないといけなくてな。先に帰るよ」
そう切り出し、俺はさっさと歩き出した。
「そっか、じゃあ、また明日」
背中に洲上の声が聞こえたが、何も返さずに、俺はその場を去った。
家に帰り、ベッドに飛び込んだ。ポケットから携帯電話を布団の上に投げ出すと、メッセージを受信しているのに気づいた。
「式の後で不謹慎かもしれないけど、事件のことで急展開があったから報告するね。実は今日、被害者が二人出たんだ。五組の富田と、三組の中山。二人とも今日の放課後に靴箱を見たら、ラブレターが入ってたみたいなんだ。犯人はペースをあげてきたのかな。それともう一つ、やっぱり先週の火曜日も誰も被害に遭ってなかったようだよ」
しばらく見つめたが、やっぱり投げ出した。今はあんまり考えたくないな。
しかし気持ちとは裏腹に、考えは進んでいた。
まず希望的観測として、火曜日に予定されていた者は被害を免れるのではないかと考えていた。先週の火曜日に被害に遭う予定だった俺が、なにもされていないのだから。しかし、昨日何もなかった分、富田は次の日に被害を被った。つまり、俺だけが今のところは例外になる。もしや俺はラブレターを見落としていたのではないか、それとも相手に手違いがあったのではないか。そう考えてみても何も分からないが。
そして何より気になるのが、今日は二人が被害に遭ったということ。これには前例がない。昨日行わなかったから二人にしたのか?だが、それなら先週も同じことが起こっていないのがおかしい。突然犯人の趣向が変わったのか、それとも、予定外の何かが起きて、そのせいで洲上の言うようにペースをあげたのか。いや、二人に出したのが今日限定という可能性もある。それは今後を見ていかなければ分からないことだ。
もう眠くなってきたことだし、とりあえず、
「果報は寝て待て、だ」
グッドナイト。