勃発−1
賽銭をケチったせいか、学年が一つ上がっても、特に変わったことはなかった。
別に大きな変化を期待していたわけではなかったのだが、「別になーんにも起きなかったよん」というのはあんまりにも味気のないことだ。漫画のように、とある組織の取引を見ていたら体が縮んでいた、とか、実は祖父がかの有名な名探偵で、迫りくる難事件を次々に解いていくことに、なんてことになるとは夢にも思っていない。いや、もしかしたら、という気持ちはあるし、余暇の妄想の糧にすることがないわけではないのだが。所詮は高校生の頭の中なのだ。特に高2男子の頭の中の半分は空想で出来ている。しかし空想はファンタジーであって、現実にありえないことである。要するに何が言いたいのかというと、何かリアルの範囲内でのごく小さな変化を望んでいるのだ。
桜咲く春の良き日に、新入生が入学してきた。ついこの間まで彼らと同じく一年生だったというのに、たった一年経っただけで、少し自分たちが大人になったような気がした。気がしただけだった。「ああ、ついに最低学年である一年生から位が上がり、二年生になった。自分はまた一つ大人になったのだなあ」と思いはしても、冷静に見てみればなんてことはない、一つ歳をとった自分がいるだけなのだ。年の功による変化は別にして。例えば、背が伸びたとか。
考えてみればこれは中学二年の時にも体験したはずだ。小学二年の時も。幼稚園の時にはさすがになかったであろうが。確かに、二回はした。
「これから君たちは二年生になります。そして、一年生が入ってきます。一年生の皆さんは君たちよりも年下です。お兄さん、お姉さんらしく、優しく、見本になるような行動をしましょう」
こう言ったのは確か、小学二年の時の担任、春山先生だ。春山先生は小学一年生から二年連続の担任だった。
「えー、これから、あなたたちは、新学年を迎え、後輩たる、一年生が、入ってきます。先輩として、模倣となる、行動を、心、がけ、ましょ」
これは中学二年生の時の夏目先生の言葉だ。優しい先生だったが、喋り方に癖のあるおっさんだった。
過去の事例から、学んだはずだったのだ。年下が入って来ようとも、自分は自分、そう何か変わるわけではないのだと。
そして今、高校二年生になった。九嶺高校二年二組の教室。視界前方の教壇に両手をついてこちらを威嚇するかのように顔を上げているのが、担任の秋元先生。
「中だるみだか雪だるまだか言われるけど、ま、がんばろうね」
それが彼の言葉だった。教壇に立って話すときのポーズが威圧的なだけで、その実フランクなのがこの人物なのだ。
ホームルームが終わると、またいつものように授業が始まっていく。普段と何も変わらない、そんな日常が流れていく。自分はその流れのまま、この青春と呼ばれる時間を過ごしていく。
何もしていないわけではない。テスト前になればそれなりに勉強もするし、結果に一喜一憂したりもする。たまには友達と遊びに行ったり、楽しいこともあるし、はたまた苦しいこともある。自分なりに色々と経験してきたつもりだ。だが、それだけだ。自分にとっては色々あったなあ、と思っていても、それは他人も経験してきた色々であるのだ。つまり、普通なのだ。ああ、これは大変だったと考えたことですら、後から考えればなんてことはない、普通のことだったのだ。
俺は自分のことを普通の人間だと思っている。勉強も、スポーツも普通。これといった才能もない。普通が何かと言われれば言い表しようはないが、人並みの生活をしてきた、凡人だと思っている。と言うからにはやはり、この世の大抵の人間は普通だと思っている。しかしやはり、世の中には普通ではない人間が確かに、いる。
放課後、昇降口を出て、さて帰路につこうかという時だった。
「やあ、江田」
エダ、聞きなれた声で自分の名前を呼ばれ、振り返る。俺の背に声をかけてきたのは、中学生の頃からのからの友であった。
「洲上」
洲上夕。去年は同じクラスだったが、今年は別になった。だが悔やむようなことではない。中肉中背、そのにやつきが張り付いたような顔を除けば、普通の男子高校生だ。いや、除くべき箇所はまだあった。
「いよいよ新学期だね。二年生だよ、二年生」
どうやら彼はワクワクしているようだ。学年が上がったことが余程嬉しいらしい。元々にやけ顔だったのが、今は一層増している。
何がそんなに嬉しいのか、と疑問に思ったし、口に出そうかとも思った。が、辞めた。どうせ聞いても理解できないのだ。
まあ、そうだな、と俺が返すと同時に、洲上は俺の隣に並んだ。先ほどまでの会話に特に意味はない。挨拶のようなものだ。俺たちは連れ立って歩き出した。
中学が同じなだけあって、通学路は概ね同じ方向だ。帰り路、とりとめのないようなことを話す。それが一緒に帰る時の常だ。とは言っても、話題を持ってくるのは大体が洲上の方。どこからそんな話を仕入れてきたのやら、と懐疑の目で見ることもあれば、その一方で感心することもある。一長一短というやつか。
今日は新学期初日だけあって、彼は面白い話を仕入れたようだ。嬉しそうに話す話す。
八組に、通称・あいうえお川、阿川と井川と宇川と江川と小川が揃ったらしい。これは奇跡か、はたまた先生方の仕組んだ悪戯だな、と彼は主張する。俺は、まさか、偶然だろ、と撥ね退けた。
「だけど、偶然にしても奇跡じゃないか。実は、顔写真をシャッフルして組み分けする、なんて噂もあるようだし」
そんなアホな。
「噂は噂だろ。それに、俺は今まで、高校で個人写真を撮られた覚えはないぞ」
そもそもランダムに決めるという噂が考え物だ。
あー、確かに。と唸った後、洲上はしばらく考え込んでいたが、突然思いついたように顔を上げた。
「名前を書いた紙でくじ引きしたんだ! 間違いない」
「勝手に言っとけ」
俺の冷ややかな突っ込みに、冗談だよ、などとひらひらと手を振っていたが、そういえば、といきなり真面目な顔を見せた。まったく忙しい奴だ。
「けっこう前からあってるニュースなんだけど、知ってるかい?」
ニュースというものがはるか昔から存在しているのは知っている。
「……何のニュースだ」
「ああ、ごめんごめん。ほら、隣町で起きた殺人事件。アパートで人が死んでたってやつ」
近くで起こった事件だし、最近は落ち着いてきたものの、一時期は朝の報道番組でそれを聞かない日はなかった。春休みはそれで飽き飽きしていたほどだし。被害者の名前は籔島幹夫、四十六歳。胸に刺し傷があり、凶器らしきものは現場にないらしく、どうやら計画的犯行らしいが、特に証拠となる物がなく、容疑者も今のところ出てこないらしい。事件から二週間が経とうとしているが、真相は謎に包まれている、らしい。
当然知っている、ということを示すために、うんうんと頷く。
「知ってるが、それがどうした」
洲上はキョロキョロと周りを窺い、近くに誰もいないことを確認すると、耳打ちしてきた。秘密の話をするときは誰しもが小声になる。こいつも、その例には漏れなかった。
「その殺された、被害者ってのがさ、父さんの会社の社員さんみたいなんだよ」
この暴露には思わず、え、と声が出た。
洲上の父親の会社というのは、洲上商事という、主に輸入雑貨を取り扱う会社らしい。前に、アメリカのお菓子だと言われて、不気味な色のペロペロキャンデーをもらったことがある。あれはすごく甘ったるく、不思議な風味がした。日本では違法な成分でも含まれているのではないかと疑ったほどである。半分ほど舐めたところで残りは捨てたのは秘密だ。
声こそ出したものの、俺はただ驚いただけに過ぎなかった。なぜ驚いたのかと言われれば、「そんなに俺の近くで事件は起こっていたのか」ということに限るのである。俺と洲上は友達だが、俺自身が洲上商事と何か関係があるわけではない。つまり、他人ごとであることに変わりはないのである。
そんな俺の心境は知らず、洲上は俺が驚いたという事実に大いに喜んでいた。俺は自分が現来面倒くさがりであることを認知している。それは昔からの付き合い上こいつも承知で、俺をナマケモノやハシビロコウの類なのではないかと疑っている節がある。そんでもって、俺の感情をあまり表さないような性格を見て、感情すら表すのが面倒な生き物なのだと思っているらしい。俺としてはクールと言ってもらった方が嬉しいのだが。とにかく、そんな俺が驚いてくれたもんだから、こいつは喜んだ。喜ぶだけならよかった。だが彼は次に、風変わりなことを言った。
「誰が犯人なのか、俺たちで突き止めないかい?」
これにはさすがのハシビロコウもたまらなかった。
「は?」
思わず素っ頓狂な声が出る。
奴はやはり、にんまりと笑う。
「だから、俺たちでこの事件を解決してみようじゃないか」
なるほど、今回のこいつの好奇心は、犯人探しに向いたのか。新学期を迎えて、その厄介度合いに磨きをかけてきたらしい。
世の中には普通じゃないやつがいると言ったが、こいつはその中の一人だ。
こいつの特徴と言えば、まず勉強ができる。定期テストでは、学年でも毎回三十位以内には必ず入っている。加えて、スポーツもそこそこできる。体力テストではなかなか優秀な結果を残している。だが、勉強にしろ運動にしろ、トップは獲ったことはない。どれもできるが、飛び抜けていいものはない、要するに器用貧乏といわれるものだ。
そして、前の会話から分かる通り、こいつは男のくせに噂好きである。噂を広めたかったら洲上に話せ、というのが我が九嶺高校五十六期生に響く故事成語。さらに加えて、知りたがりだ。小学生のころ、アステカ神話の神髄が知りたいと言って夏休みにメキシコに渡り、調査結果を自由研究で発表したことがある。中学生になれば昆虫食の文化を知りたいと、虫網を片手にセミを捕まえるのにつき合わされたこともある(これはやはり途中で断念したようだが)。
兎に角彼は、度を過ぎた好奇心の持ち主なのである。
だが、相手が好奇心に取りつかれた魔物であっても、俺は屈しはしない。
「高校生の俺たちが首を突っ込んでいいものじゃない。こういうことは、警察がするもんだ。それに、俺たちが考えて分かるようなもんなら、警察がとっくに解決してるだろ」
俺の言い分をにやけ面で聞いていた洲上が、口を開く。
「だって、面白そうじゃないか。俺たちならできるよ。俺と江田なら」
「とにかく、無理なものは無理だ」
事件にまったく好奇心が湧かないわけではないが、俺たちはまだ高校生。ましてや普通の高校生だ。こいつは普通ではないが、広い目で見れば普通の範疇ではある。「こいつは好奇心からセミを食べようとしていた男なんです!」と喚いたとしても、鼻で笑われておしまい。それどころか最悪相手にもされないだろう。どう話したところで、怒られて終わるのがオチだ。
気が付けば、我が家付近の交差点に着いていた。ここから右に折れれば我が家、左に歩けば洲上家に続く。ここがいつもの別れの場所だ。要するに、話をぶった切るのに好都合なのだ。
「とにかく、断る。じゃあな」
俺は洲上に背を向け、青の光る横断歩道を渡る。後ろから声がする。
「また明日!いい返事をまってるよ」
断ると言ったろうに、まあいいか。俺は振り向かずに歩く。
そして奴はもう一つ勘違いしている。今年からクラスが別になったため、これまでのように毎日教室で顔を合わせる、なんてことはもうなくなったのだ。