春−2
「お、俺は、お前が隠していることを知っている」
言った。言ったんだ。
「へ?」
星原がきょとんとした顔をした。
「だから、お前がみんなに隠してること、知ってしまったんだよ」
「な、何のこと」
「だから、お前と、裕子先生が、姉妹だってことを!」
星原は両手で口をふさいだ。
「あ、え、やっぱり、知って……」
冷静に考えればわかることだった。星原は今年に入って初めて会ったとき、保健室にいた。そして俺たちを見るや否や、慌てて出て行った。俺たちが昇降口で張り込みをしていたとき、散歩などといって、そこを通った理由を誤魔化した。星原はあの時、体育館側から歩いて来ていた。その途中には、保健室がある。こいつは明らかに、自分が保健室に関わっていることを察されるのを、恐れている。
そして星原が急いで保健室から出ていったときの一言。
「そ、それじゃあ、お、あ、小野先生、また今度」
このとき、こいつは純粋にとても焦っていたものだと思っていた。だが、不自然な点があることに気づいた。
この学校ではみんな、小野裕子先生のことを、裕子先生と呼んでいる。入ってきたばかりの一年生ならともかく、こいつは二年だ。きっとこいつにもそう呼ぶ習慣があるに違いない。だが、一つの可能性として、もしかしたらこいつはいつも彼女を小野先生と呼ぶのかもしれない、そう思った。その可能性を案じて、あの時、聞いた。
「星原、保健室の先生の名前は知ってるか」
そしたら星原はこう答えた。
「え、裕子先生、だよね」
これで分かった。こいつはあの時たまたま、小野先生と呼んだ。呼ばざるを得ない状況だった。こいつは一つ、ミスを犯したんだ。
それはなにか。それはこいつが家や、保健室で二人っきりの時にはいつも、裕子先生のことを、「お姉ちゃん」と呼んでいるのだろう。俺たちが来る前は二人きりだったろうから、きっとあの時もそうだったに違いない。だからあの時は焦りと、その場の癖で、ついつい「お」まで声に出してしまったんだ。「お」まで出てきて裕子先生につなげては、不自然だ。だから咄嗟に、「小野先生」と呼んだんだ。
二人の苗字の違いは、裕子先生が結婚していることで説明がつく。以上より、二人が姉妹だと、俺は推理した。
星原は、否定しなかった。
「さすがだね、凄いんだね」
凄い。その言葉が胸に刺さった。
「お前と裕子先生が姉妹だって気づいたから、ラブレター事件が解けたんだ」
「やっぱりか」
諦めを匂わせるような声だった。何となく感じてはいたのだろう。俺は頷く。
先生に姉がいるといっても、本当にその姉が洲上商事で働いているのかは確信が持てなかった。だが、星原と先生が姉妹だとわかったならば。
「洲上に、お前の姉が洲上商事で事務をしていると聞いたんだ」
星原の姉ということは、裕子先生の姉妹だ。恐らくその事務員の姉と、裕子先生の言う姉が同一人物だと予想した。まあ、結局確実性がなかったのに変わりはないが、信憑性はあがった。
「なるほどね」
参った、というような表情。
思うにこいつは、春休みにあったことを忘れていないだろう。寧ろ覚えていて、あの謎を解いた俺を警戒していたのかもしれない。自分の秘め事を解き明かすかもしれない、危険人物として。
だが、一つだけ、どうしても分からないことがある。
こめかみのあたりを一本指で掻き始めた星原に尋ねる。
「なんで、姉妹だということを隠しているんだ?」
それだけが、わからない。裕子先生はともかく、こいつは露骨に隠そうとしていた。だから俺は彼女らが姉妹であると気付いたとき、それを隠すのに陰ながら協力しようとした。
先ほども申した通り、俺は先生と星原が姉妹だと分かったから、先生の姉が洲上商事で働いていると気付いた。つまり、この事実は推理のための材料の一つだったのだ。だから俺は洲上にその証拠の件について食いつかれたときは忘れたふりをしたし、「みんな近からずとも、関係者なのに間違いはないから」という裕子先生の迂闊な一言に冷や冷やしたりもした。
「星原はなんで関係者なんですか」
などと洲上が言い出せば、少々面倒だったからだ。そして最後まで、洲上が気づいてしまったりはしないかと内心ドギマギしていた。
だからこそ俺は知りたくなった。こいつの秘密の訳を。
「じゃあ、江田君はそれを確かめたくて私を呼んだんだね」
いや、それは洲上が、と言い出すこともできない。俺は頷いた。
「ああ、そういうことだ」
責めるような春風が、吹きつける。
風の向こうで、星原が口元を緩ませるのがわかった。
「いいよ、教えてあげる。でも、みんなには内緒だよ」
ああ、こう言われてしまっては、いよいよ秘密を守り通す義務ができてしまった。
「ああ」
仕方ない。どうせ乗りかかった船だ。
俺の返事を聞くと、星原は近づいてきた。その行為にドキッとしたが、彼女が俺の耳に顔を近づけ始めたので、耳打ちするためだと気づき、それはさらに高まった。
彼女は背伸びして話し始めた。ほのかに、耳に吐息が当たる。
「お姉ちゃんは背が高くてスタイルもいいけど、私はこんなちっちゃいでしょ。姉妹として比べられるのが嫌だったの」
なるほど、俺じゃあ解けなかったわけだ。
春休みから、俺は、人生はギャンブルだという人生観を推してきた。だが、それは間違いだったと思う。人を二つにバッサリと別けてしまうのがそもそも烏滸がましいことなのだ。買う側の人間、買わない側の人間、今の俺がどちらかなど、俺には判別がつかない。俺は先ほど、推理がはずれる、もしくは当たっていても、それが原因で嫌われるかもしれないというリスクを負ってまで、自分の好奇心を満たすために行動したのだ。
しかし、洲上が仕掛けた、ある一つの思惑から見事に逃げてしまったという自覚はある。だが俺は最初から言う通り、大きな変化は望んでいないのだ。この信念は変わらない。俺には小さな変化がお似合いだろう。
耳打ち終えた星原は俺から一歩離れた。そのとき、悪戯な風が吹いた。長い髪を両手で懸命に抑える星原を、俺はじっと見ていた。
こいつと出会えたのも、小さな変化だ。これからも少しずつ、小さな変化が起こることを、俺は望もう。
また、花菜の歌が聞こえた。ああ、そうだ、俺は前から分かっていたんだ。人生は宝くじなんかじゃなく、歌なんだということに。歌は、一つ一つの音が折り重なって完成する。音は、それ単体では、ただの音だ。一瞬で過ぎ去る音。思い出も一緒で、どんなものもあっという間に過ぎ去ってしまい、過去になる。それはそれでいいんだ。自分を構成する、ただの音なんだから。それをどう受け止め、どんな曲に仕上げるかは、自分次第。
人にはそれぞれの人生があり、その人だけの音を織りなした歌がある。つまり無限大にあるんだ。世の中には二通りの人間しかいないと考えるより、よっぽど夢があるじゃないか。
風がやんだ。乱された長い髪整えながら、星原は安心したように微笑む。
「今日は、水やり、しなくていいのか」
俺がそう尋ねると、星原は頷く。
「今日は当番じゃないの」
「そうか」
俺は少し考え、星原から顔を逸らして提案した。
「近くに喫茶店があるんだが、少しお茶して帰らないか」。
星原はしばらくこちらを見つめていたが、思い出したように返事をした。
「うん!」
俺の財布には、あの時姉貴からもらった五千円がそっくりそのまま残っている。こちらから誘うのに、奢らないわけにもいかないだろう、姉貴、使わせてもらうぞ。
春の陽気の中を、並んで歩く。すっかり葉桜となった緑の木々が、風に吹かれて頭を垂れる。
あらゆる憂鬱を吹き飛ばす春風が、俺たちの背中を優しく押していた。




