それは、月に見せられた青い雨
初夏の、じめじめとした湿気のベールを羽織っているような、そんな夜。およそ一週振りの雨が身体にへばりついた不快感を拭い去った。
月明かりが大地を照らす。雨雲が空を覆っているはずだが、月光と思える青白い光は、僕を、この街を照らし続けていた。
「……寒いな」
風邪は、ひきたくない。雨粒を全身を浴びながら、少し大股で歩いた。
「ただいま」
部屋に戻ると、殺風景の中に一際目立つグランドピアノと上半身下着姿の女性が背を向けていた。
ポツリポツリと音が紡がれる。深緑の森の中をゆっくり散歩し、やがて見えてくる小さなお屋敷に密かに心踊らせる……そんな情景。
プロムナード。
彼女は何も喋らず、ただゆっくりと弾き続けた。
僕はタオルで身体を拭きながら独りで喋り始める。
「雨、気持ちよかったよ」
地面を叩く雨音がプロムナードの旋律に、情景に、僅かな霧をもたらす。
「いつかのどこかで喋ったような、書いたような気がするんだけど……雨は、天に昇った龍の涙らしい、という話があるんだ」
「あまり憶えてないんだけど、たしか雨は地上で悲しみを背負った龍の涙で、雷が泣き声だとか」
プロムナードの旋律は調を変えながらひたすら繰り返される。雨音も途絶えず、僕の声はそれらに紛れて霧散する。
嫌いではなかった。彼女のピアノも、全てをあやふやにする雨も、決して明けない夜の帳も。
僕は一つため息を吐いてペンを手にする。そして傍にあるスケッチブックを拡げ顔を上げた。
彼女は喋らないが、ずっとピアノを弾き続け、語り続ける。ならば僕はそれを絵にして、言葉を記そう。
そうして止まない雨とプロムナードは、僕たちという存在も、まるで1つの絵画のように、有耶無耶にした。
夜が明けないこの世界で、建物も記憶も、全てが風化して内も外も分からないこの街で、僕らは何時間も語り続けた。




