ニーベルンゲンの指輪物語 その二
まるでムスペル・ヘイムが神々の黄昏を喜んでいるように暗い夜空を黒い雲が覆っていた。この不吉な夜が覆っている不気味な建物にロキ達は進んでいく。
幾らかの部屋には明かりがあるので人はいるようである、先に進んでいくと、目的の部屋が見えて来る。部屋の上には『総合有機合成化学研究室 助教授室』と書かれていて、更にその下のプレートには『二村 佳苗 助教授』と書かれている。
ロキとトールはその前に立つと、先に踏み出すのを躊躇った。全知全能の人間など、絶対に勝てるわけがないということもあるが、それよりもニーベルンゲンの指輪の魔力が恐ろしかったのである。あの指輪がある場所には、何かしらの悲劇が起こるに違いないのだ。
だがそれでも、もはや恐れて逃げるわけにもいかない。最高神の勅命に逆らうことは、アースガルズへの反逆と同等だからである。
「……仕方が無い。覚悟はいいか、脳筋幼女」
「貴様こそ……仮に指輪の魔力に取り憑かれたのなら、脳髄にミョルニルを振り下ろしてやるから、安心しておけ」
「自分の心配でもしていろ……いいか、行くぞ……!」
そう言うと、ついにロキ達はその扉をノックも無しに開けてしまった。
部屋の中は何か書類のようなものが所狭しと詰まれていた。いや、その書類の奥には所狭しと教科書のようなものも置かれている。他にも壁には賞状が飾られていたり、トロフィーまでが置かれていた。
その奥のテーブルの上に腰をかける女性がいた。
ミズガルズの人間で30前の女性だろうか。巨人のような暗く病的な隈をつくっている。伸びた髪はウェイブがかかっていて、シャツの上に白衣を着ているが、白衣のボタンをつけずに脚を組んでいるので、まるでマントのようにも見える。
「こんばんは、アースガルズの可愛らしい神々様方」
この一言は、ロキとトールに恐怖を与えるには十分だろう。ミズガルズではアースガルズの神々は男性だと思われている筈だからである。
「お前、その言い分では、私様のことを知っているな?」
「当然。悪神ロキ。他のことを伝える必要は?」
「いや……ならば、その指輪の危険性も知っておろうな?」
女性の左薬指には、確かに黄金の指輪が光っていた。かつてオーディンさえ魅了した呪わしく美しい指輪。
彼女は左手の指輪を見ると、うっとりとしたような視線を向けた。
「当然。もしも同じ物が社会に出回っていたとしたなら、ヘロインよりも危険な扱いになったことだろう。だがこれは同時に生産的で知識的な素晴らしいもの。例えば、こんなことさえ造作もなくしてしまう」
ふと左腕を下ろすと、さっと彼女は近くにあったクリップで挟まった髪束をロキ達の前に投げた。
「これは、何だ」
「ワープに関する物理学的観点での論文だ。これで我々は太陽系外惑星に飛ぶことも観測することもできる」
「惑星……?」
「ワープの理論には幾らかあるが、これは重力により曲がった時空を利用して高速を超える方法について書いてある。ワームホールを利用する方法は別の物理理論を提唱しないといけなくなるから、若干非効率だがこちらの理論を採用させてもらった。それにこれだ」
また別の紙束を彼女はロキに向かって投げる。
「これはカンレイボクから採取されたカンプトテシンから誘導し、10の工業的過程により出来る化合物だ。要するに、癌に対する完全特効薬だ。70%近くの症例の癌において一切の副作用無しに完治が可能だ。値段もイリノテカンより少し高い程度に収まることだろう」
「カンレイボク……?」
「他の未発表の論文も見るか? どれもこれも、世界の化学や数学、物理学、天文学、経済学……あらゆるものを過去にするような、そんなものばかりだぞ?」
目を点にしてロキはその紙を眺める。トールは前の彼女の後ろにある窓を呆然と眺めている。
何てことだ!
こんなに堂々と彼女が語っていることの一片でさえロキは理解できないではないか!
「どうした? あまりに素晴らしくて、声も出ないのか?」
「……お前は、その指輪を手にした者のどれとも違うのだろう。だが、同時になんとなくお前が一番危険であるような気がするのだ……なんというか、敵意とかそういうものがないからな……」
「危険かはわからないが……まあ、少なくとも貴方達にこの指輪を奪うことが出来ないのは確かだ」
「……ぐ、ぐだぐだうるせえ! さっさと渡しやがれ!」
文字の羅列に耐え切れなくなったかのようにトールは叫んだ。そして背中のミョルニルを両手で握った。
「こんなもので私を倒せるとでも?」
「人間だろうが巨人だろうがニヴル・ヘルの亡者だろうが、我がミョルニルに砕けないものはない!」
「……神々よ、我には決して届かない障壁がある。自慢の槌は触れる前に床に落ち、大地を揺らすこともないだろう」
「…………な…………」
これは、もしやウードガルザ・ロキの幻想と思った方が自然であるだろう。
彼女が唱えたのは厨ニ病台詞に留まらないことを二人は気がついていた。
「嘘だろ……? ミズガルズの人間が使えるものか……う、うわあああああああああ!」
あまりの恐怖にトールは半狂乱になり殴りかかる。そのハンマーは……真っ直ぐに彼女の額へと向かったではないか! 本当に当たれば、間違いなくトールは殺人者として警察に捕まり死刑を求刑されたことだろう。
だが、ミョルニルは彼女のずっと前で止まる。まるでバリアーに阻まれたかのように。そして彼女のずっと前に落ちるが、物音しない。床を少しも揺らさなかったのだ。
「ひ、ひいいいいいいいいいいいい!!!」
ついにロキは叫びをあげ、ジーンズを濡らしたではないか!
しかし、ロキがジーンズを濡らすのも当然といえるだろう。
彼女は、科学のどっぷり浸かった人間だというのに、魔法を使ったのである!
「何がそこまで怖いんだ。この指輪にしても魔法にしても、非科学的だが、理論さえ理解すればそこまで難しいものでもない。まあ、若干手間は掛かるがこの障壁だって破れないことはないだろう」
「し、ししししししししししかかかかかかかししししししししいいいいいいい!」
「まあいい。とりあえず牙だけ抜いてさっさと帰ってもらおうか。前の神々二人の持つ私に危害を加えるもの、デリンジャーとミョルニルは決して私を傷つけないと誓ってもらおう。その誓いの証拠に、全身を床へと寝かすがよい」
そう彼女が宣言すると共にロキのジーンズからするりとデリンジャーが落ち、トールの手からはミョルニルが床へと落ちた。
何てことだ! 二つの武器はアースガルズを裏切るように、彼女を傷つけないと誓いを立ててしまったのだ!
だがここまで来るとロキ達にはどうしようもない。
「もう床から離れてもいい。さて……嬢さん達はまだやるつもりなのか」
「に、逃げるぞ!! 早く逃げるぞおおおおおおおおお!」
ロキの叫びにトールは我に戻ったようだった。
「くおおおおおおおおおあああああああああああ!」
悔しさと屈辱が混ざったような雄たけびをあげてトールはミョルニルを拾いあげるとロキに続いて部屋から飛び出ていった。
「……神の癖に他愛無いないな。もっととんち合戦とか仕掛けて来ると思ったのだ」
残された彼女は、まるでつまらない問題を解き終わったかのように、小さく呟いた。




