正義の味方はホームレス その十
『増税促進委員会』が解散を宣言した夜、三人は土手で遅くまで焼酎を飲みお互いを讃えあった。しかし歳のせいと日々の正義の活動により疲労が溜まっていた尚武は早めに切り上げ自分の家のダンボールのある高速道路沿いを歩いた。
すると、自分のダンボールの前に一人の男が立っていることに気がついた。白褐色のコートの尚武よりも幾らも若い中年の男で、タバコを吸っていた。男は尚武に気がつくと微笑んで近づいて来た。
「どうも、こんばんは。ここの家主ですね」
「はあ……家と言うほど大層なものではありませんが……」
「いやいや、立派なものですわ」
男は尚武に近づくと、胸のポケットから手帳を取り出した。
「申し遅れました。私、刑事の亀島雅と言います。少し貴方にお話を伺いたく思いまして」
刑事、という言葉に尚武は恐怖しないわけではなかった。
「実はですね、貴方が噂の覆面ホームレスではないかという情報がありましてね。お伺いしたわけです」
家の正面にあるフェンスにもたれかかりながら刑事の亀島は言った。
「覆面ホームレス……ですか」
「聴いたことありませんか? 黒と白と灰色の覆面を被った集団で人助けをしている集団です。道案内とか、拾い物だとか、そういうのをやっている正体不明の正義の味方ですよ」
「あんまりそういのは詳しくないので……」
「まあ、案外情報が回って来ないのかもしれませんね。活動を始めたのもここ三ヶ月の間らしいですからな」
煙草を携帯用灰皿に入れると、再び新しい煙草を亀島は出し、それに新しい煙草を尚武に差し出した。それを見て尚武は首を振った。
「すいません。煙草は大分前にやめましたので」
「そうですか。まあ、それがいいんでしょうな。酒よりも立場が危うくなりますからな。それで、その正体を警察は追っているのですが、中々掴めないのですよ」
「はあ……やはり、何か法律に引っかかっていたのですか」
「いや、まったく。彼らの行動はまったく刑法にも民法にも引っかかっていません」
いよいよ尚武は首をかしげた。もしや何か賞やらを授与する為に正体を探っているのかもしれないと思った。すると、自分の正体について話してもいいのではないかと思ったが、ぐっと我慢した。
「しかし、それでは覆面ホームレスを警察が捜す意味が分かりませんが」
「本質はそこではないのです。その前に起きた事件に関わっている可能性があるのです」
「その前の、事件ですか」
刑事は煙草の煙を大きく吐いた。そして言った。
「実はですね、彼らが現れる直前に、暴力事件がありましてね。まあ、子供の喧嘩に大人が介入して、少年三人を倒して近くの交番に担ぎ込んだ事件がありましてね。その少年達はいじめに関与していたのが露呈しまして、そのまま全員引越しですわ」
「だから、それに関わっている男を捜しているのですか」
「そのうちの一人が、未だに目覚めていないのです」
その言葉を聴いて、尚武ははっとした。そして言い知れないような冷たさが胸の中に生まれた。
「それって……」
「彼は頬を打たれたのですがね、その時の脳への損傷が大きかったのでしょう。植物状態というやつです。今でも病院のベッドで眠っているんですよ」
まさか、と尚武は思い出す。確かにベルトを拾って、すぐ虐めを受けている少年を救った。そのうち一人は平手打ちを受けて崩れるように倒れた。確か長髪の少年だ。
「で、話を聴けば覆面集団の一人は怪力の持ち主だと聞きましてね。それで探しているわけです」
「……もう誰か、目星はついているのですか」
「まあ、大体は。貴方を含めて十人ほどには」
途端に尚武は血の気が落ちるのを感じた。日本の警察は無能ではない。近い将来、必ず尚武が黒覆面ホームレスであることを掴むことだろう。
「つまり、その十人を亀島さんは、今探っていうのですね」
そう尋ねると、亀島は首を横に振った。
「違いますよ。私は、少なくとも覆面ホームレス達の味方です。大体おかしいじゃないですか。こんな話を漏洩させるなんて」
「なら、どうして……」
「逆ですよ。不思議なことに警察は決定的な証拠を掴むことは出来ていません。だから、今手さえ引けば決して逮捕することはできない。だから、その警告をしに回っているのです」
「な……おかしいじゃないですか。警察に対する、裏切りではないですか」
「私は、覆面ホームレスに息子の命を救われたのです」
まったく誰かの命を救った記憶が尚武にはなかった。
亀島は煙草を指に挟んで持つと、その紫煙を眺めながら続けた。
「ある日曜日、私の子供はトラックに轢かれそうになった。だが直前、息子は灰色覆面の男に助けられた。男は代わりに轢かれてしまった。しかし、現場に到着した警察官は血痕を確認できたが遺体を発見できなかった。同じような事件が、それから何件もあったが関係無い。息子は、覆面ホームレスに救われたのです」
間違いなくそれは灰色覆面ホームレスの働きだった。彼は救世主の茨の冠の効果で死んでもすぐ復活することができるのである。
「刑事さんは、だから警告をして回っているのですか。しかし、それは警察として……」
「そうです。職務の妨害をしている。しかし、何だというのでしょうか。息子の恩を返す為なら組織や国家を裏切ることなど。悪になることくらいなど、まったく怖くもありませんよ」
「悪、ですか」
「我々の社会では、法律を破ることは悪ですからな」
少しの沈黙が生まれる。尚武の中に思考が駆け巡り、何がもうよく分からなくなるほどだった。
沈黙を破るように亀島は口を開く。
「確かに彼のしたことは悪なのでしょう。虐めを行った少年には憤りを覚えますし、ああなって当然という感情が無いわけではありません。だが、法律はそれを認めていない。そして例外を作れば必ず悪用する者が現れる。だから、覆面の行為は悪なのです」
「……だから、逮捕されることが正しいと?」
「まさか。例えどうであれ、裁かれるべきでないのが正しい。そう信じたから、私は回っているのです……まあ、貴方には関係の無い話かもしれませんがね」
もう一度煙草を吸うと、亀島は携帯用の灰皿に長く残った煙草を入れた。
「さて……夜分遅く失礼しましたな。大分飲んでおられるそうですし、そろそろ私も家に帰らせてもらいましょう」
「いえ……ご勤務、ご苦労さまです」
「勤務なんかじゃありませんよ。むしろ営業妨害なのですから……では失礼します」
そう言うと亀島はとぼとぼと歩き出してしまった。
家のダンボールに戻ると、尚武は毛布を被りすぐ横になった。何処からか車の音が聴こえる。そしてぼっと考えると、ポケットのベルトが随分重く感じた。
それから三日間、これまで通り尚武は三人それぞれで正義の活動をした。だが人を助け、食事を探して食べ終わると、思い出したように夜闇の路地へと歩き出した。初めて正義の味方として少年を助けた通路だ。
そこは真っ暗で、ほとんど明かりが見えないので携帯の光を利用して進んでいった。
その場所につくと、当たり前だが何も尚武の正義の痕跡は残っていない。
尚武はポケットに手を入れて、あのベルトに触れた。冷たい小さなベルトだ。そしてまた尚武は自分の存在について考えた。
そうだ。
自分は、正義の味方《黒覆面ホームレス》なのだ。
たとえどんな悪が前に立ちふさがろうとも、正義を果たさなければならない。
この始まりの場所において、尚武は決意を固めた。




