ネトゲは戦争に入りますか?その五
ロキとオフで出会ってから秀樹の日々は夢見な頃から狂気的な日々へと変貌した。もはや一ヶ月前のソロプレイヤーの面影は残っていない。だが秀樹その日々に疑問を持たない。黙々とパソコンの前でキーボードとマウスを動かし続ける。食事の時間にもリビングへと現れなかったので心配になって母親が見に来るほどに秀樹はひたすらに『ヨトゥン・ヘイム』に向き合う。
もし一人だけならば無理だったのかもしれない。しかし秀樹の傍にはいつもロキが居た。いや、ロキが同じような廃人プレイをしているから秀樹も付き合ったのだ。
昨日までは72時間フェンリル狩りをしていた。それから五時間くらい眠って24時間耐久巨人族PKを行った。合間に幾らもボスを狩り、仲間の育成に付き合った。気がつけば秀樹はキーボードに倒れて気を失っていたこともあった。ボトラーまで考えたが至らなかったが失禁寸前まで続けていたことさえあった。
クランメンバーは段々と増えていき、既にアクティブ人数200人を超えていた。時々しかログインしないメンバーを含めれば250人ほどだろう。驚くべく事にこのクランは全ての種族が入り混じっていた。今や日本でトップとなった『名古屋県民市民団体』は『ヨトゥン・ヘイム』以外でも知られるほどにまでになった。
狂気的な日々の果てにあるのは、秀樹がロキと出会ってから二ヶ月目のことだ。もう部屋はクーラーをかけないと暑さに負ける季節で、丁度夏休みに掛かる頃の為に接続人数が比較的に伸びる。この時期を狙って、ついに『名古屋県民市民団体』は『ヨトゥン・ヘイム』の制覇に乗り出すことにしたのである。
といっても対人で必要な砦は全て一度制圧しているし、他に適う場所がないのは既にわかっていた。アイテム関連もサーバーに一つしかないものも含めて手に入れていた。そうなるともう手を出すとなれば、もっと別の領域に他ならない。不可能だと製作者に設定された怪物を凌駕するのである。
巨人の住む国、ゲーム内にあるヨトゥン・ヘイム。そこは巨人族を選んだ際の最初の街であると共に、アースガルズに生まれた者には一番難易度の高いダンジョンだった。他の種族が脚を踏み入れればたちまちカンストしているプレイヤーレベルより高い衛兵の巨人が襲って来る。更に進むと巨人の攻撃は苛烈になり、ついに行くところまで行くとムスペル・ニヴルから最強のボスモンスター『スルト』が現れて襲って来る。そのサイズは3Dの画面を見上げても脚ばかりしか見えないほどで、ステータスも異常に高い。
同じようなステータスをしているボスには最高神オーディンがいるが、そちらは毎秒HPが全回復する設定である。スルトも同じ設定になる予定だったらしいが設定ミスにより通常ボスと同じ回復量になったことは有名だった。それでも『ヨトゥン・ヘイム』のサービスが開始されてから一度も変更なっていないのはプレイヤーに倒せる設定だと思われていなかったからだろう。
故に最強の巨人を滅ぼすことは、このゲームを制覇したことに他ならない。過去に似たようなことがアメリカのサーバーでも行われたことがあったが、結局成されることはなかった。それにはクリス=J=クリスも参加していたとロキがちらりと漏らしたことを秀樹は覚えていた。
アースガルドに住む者はヨトゥン・ヘイムに直接飛ぶことは不可能なので、ミズガルズの端から徒歩で向かうことになる。異常な人数になると想定は可能だったが、非常に強いサーバーだというのに重くなるほどであった。『名古屋県民市民団体』だけではなく、『やまちゃんと友達になろう』を初めとした幾らかの大規模なクランも参加しているからである。草原フィールドには人ばかりだった。それぞれが分子運動をする大気のようにランダムに動いたりしていたが、たった一言を待っているからなのだと秀樹は知っていた。
「とりあえず来れるのは全員着いたみたいです。残りのメンバーとヨトゥン・ヘイム組はまた後で合流しますね」
まとめ役であるネピコがクランチャットで発言した。
「アイテム忘れがある人は帰還のルーン使いますから、今のうちに確認してください。復活ならともかく戻ったら大分時間食いますからね」
花崎京二郎は確認するように言った。キャラ名に似合わず花崎は女性プレイヤーのネナベであることは周知だった。
「さて、時間ですよ、後戻りは無理だし、先にも後にもこれが最後でしょう。消耗系の神話アイテムも全部使うつもりで行きますからね」
プレッシャーを与えるつもりなのか、ロキは確認するようにVCで言った。
「分かってるよ。最初で最後だ。この一ヶ月、みんなこの日の為に様々なものを投げ出して準備してきたんだ。二度目は無い」
秀樹もそうだが、他の仲間も同じだった。今日の為に有給を全部使った者もいる。ロキの支給以外にも百万単位の課金した者もいる。それもたったこの一日の為に。
「じゃあ隊長さん、進軍の合図をお願いします」
「ロキさんがやらなくていいのか。一番の功労者はロキさんだけど」
「私様がさらまんどさんに合図して欲しいと言ってるんですから、黙って従ったらどうですか」
ふと笑いがVCに流れた。なるほど、ロキにそう言われたら従わない道理は無い。一度秀樹は辺りをぐるりと見渡した。辺りには良く知った名前とほとんど見たことの無いクランメンバーの名前とサーバーでは有名な名前やまったく聞いたこともないような無名の者まで入り混じっていた。
この瞬間に何を彼らに向けて言うのか秀樹はずっと考えていた。しかしどこまで考えてもベストはなく、決まらなかった。この瞬間でも何を言っていいのかわからない。だが、何はともあれ口にしないわけにはいかない。
一度空気を吸い込んで、秀樹はMAP全体にチャットへと文字を打ち込んで、エンターを押した。
「集まってくれた皆さん、ありがとうございます。さあ行きましょう、炎の巨人を倒しに」
途端にホルンの音が沢山響き渡った。ログアウトか死亡するまで続く範囲強化アイテム『ギャッラ・ホルンのレプリカ』の効果音である。更には支援系のルーンの音やエモーションの音が大量に混ざった。パソコンのスペックの弱い者ならばこれだけでクライアントが落ちたのかもしれないと思うほどだった。
「すごいな、まるでリアルラグナロクだ」
猫の太陽はVCで関心したように口笛を吹いた。
「神の方が喇叭を吹かして突っ込むんだから、逆ラグナロクのほうが正しくありません?」
鋭く花崎京二郎はつっこむ。
「あんまり気分よくないですね、それ」
変なところで気分を害することが多いロキの幼い声が不快そうに低くなるのを聴いて、秀樹は北へと歩き出した。
その後の激戦は秀樹の想像を凌駕していたと言っていいのだろう。最初は誰もがスルトの討伐を疑わず巨人の国ヨトュン・ヘイムへと脚を踏み入れたに違いない。しかし街への門を潜った先からは、ただ今の戦闘に集中しないわけにはいかなかい。
戦闘を行く秀樹達が入った途端に衛兵の巨人が襲って来る。その一撃で全身ロキ装備に固めているロキのHPさえ半分くらいまで減る。一撃でHPがゼロになった者の方が圧倒的に多い。その中で秀樹が倒れなかったのは、多量の支援と課金アイテム『不老不死のリンゴ』を多量に使用したからに他ならない。
耐久力が高くて倒しても一定数POPすることはわかっているので、人海戦術でごり押しながら前へと進んでいく。道の下調べは何度のしているのか、エフェクトと人でまったく辺りの見えないような状況でもロキは皆を巧く誘導していた。道に迷うことになればこの作戦は失敗に終わったに違いないと秀樹は振り返る。
進めば進むほど攻撃は過熱して行く。操作ミスや諦め、またはパソコンスペックや回線の問題によって幾らは既にアースガルズに戻っていた。それでも皆は引こうとはしない。ただ永遠と続くと思われるような戦闘を繰り返し、進んでいく。
すると真っ暗であった空は、突然赤みを帯びて来たことに秀樹は気がついた。まるで日の出のように思われるがヨトュン・ヘイムは夜以外には存在しない設定である。そうなれば暁の色ではない。赤の方向に皆が進むと、ついに空の色は暗い赤に染まった。
途端に巨大な脚が空から降って来たのが見えた。それに押しつぶされて十人ほどの仲間のHPがゼロになった。最初何が起きたのか秀樹には理解できなかった。画面一杯の黒い肌のポリゴンを見たとき、むしろここが世界の果てのような場所であり、バグなのではないかと思うほどだった。
「スルトだ! 現れやがった!」
驚嘆の叫びを猫の太陽はあげた。彼はスルトの巨大な足の下敷きになっていて復活さえままならない。
「殺せ、殺せ!」
ネコビはクランチャットに打ち込むと、ギャッラ・ホルンのレプリカを使用した。
その後の戦闘は省略しよう。激戦は21時から3時までの6時間繰り広げられたのだから。
戦場は乱戦に近い状況だった。スルトは巨大な脚による範囲攻撃だけではなく炎を吹いたり吹き飛ばし属性が付与されている剣を振るったりした。その一撃一撃で誰もがHPをゼロにしていった。秀樹も何度やられたのかわからない。
おまけに巨人族のギルドの一部が便乗してアースガルズ組を攻撃した。それによって余分な消費が起きたのは確かだった。もしもそれだけならばもしや秀樹達は持たなかったに違いない。
しかし気がつけば巨人族の見知らぬクランも秀樹達に加わっていた。この数時間の間に秀樹への同盟申請の数は10を超えていた。中には巨人族最強クラン『ダークサイド・オブ・ラグナロク』も含まれている。彼らは犯罪者になり自らも暫くはヨトゥン・ヘイムの施設が使用不可能になると分かっていながら衛兵の巨人やスルトへと襲いかかり、秀樹達へ復活のルーンを唱えた。
HPの減りは見えない。スルトは巨大すぎて頭上のHPバーを見ることが不可能なのだ。吹き飛ばされる度、また踏み潰される度に減るアイテムを見ながら秀樹はこの挑戦が失敗するのではないかという心配に胸を締め付けられた。結果は一ヶ月の努力が水泡となるばかりではない。何百人もの仲間達の期待を失望へと叩き落すことになる。
いや……いずれも秀樹が恐れたことではない。
倒れる度に秀樹は辺りを見渡す。そこにいる紅い防具の女性キャラを見る。彼女はVCで叫びながらスルトへと立ち向かう。何度も彼女は倒れる。それでも立ち上がりスルトへと向かって行く。
そうだ。恐れているのは、誰でもない、彼女を失望させることだ。
この二ヶ月、ずっと秀樹は彼女と一緒だった。二人でボスを狩った。巨人プレイヤーを狩った。RMTの競に参加した。連続プレイが72時間を越えた時に隣に居たのは彼女だった。
ふと秀樹の脳裏に現実の彼女の姿が浮かぶ。暗く淀んだ瞳の少女。何百億という大金を持っていたり、短時間に何百人と人を集めた少女。ソロプレイヤーとして終える筈だった秀樹の生活を一変させた少女……!
まだ終わるわけにはいかない。だから秀樹は立ち上がる。まだ彼女はオーディンに一泡吹かせていないのだ! なのに、ここで終わるわけにはいかない!
秀樹は立ち上がり剣を振るう。仲間達もそれぞれがそれぞれの戦いを続けた。
それもあっけなく終わったのは、スルトの設定が幸いした為だろう。元々無敵のモンスターとして設計されていたためにHP減少による強化、通称『発狂モード』が備わっていなかったのである。もしも強化があれば結果はもっと変わったものになったのかもしれない。
突然秀樹の前に広がった脚は、段々と透明になって消えた。最初透明化でもしたのではと思った。辺りの皆も同じように思って、VCやチャットには混乱の声ばかりが響いた。だが誰かがスルトについてのことを発言したために勝利したのだと秀樹は気がついた。当然ではないか、最初から倒されない前提なんだから撃破時のモーションなんて用意されてないくとも。
「やった……スルトを倒したぞおおおおおおおおおおおお!」
全体チャットに秀樹が打ち込むと、途端にチャット欄は凄まじい勢いで流れ始めた。まだ衛兵の巨人が暴れているので順々に倒れていったが、そんなことはお構いなしに皆が狂ったように叫びエフェクトの激しい魔法を放ち花火までを打ち上げた。
「いいいやああああああああほおおおおおおおあああああああああ!」
緊張が爆発しかかのように花崎京二郎の聞いたこともないような雄たけびが響いた。VCには深夜にご近所迷惑だろうと思ってしまうほどの叫びと喜びの声が溢れかえった。
それからのことをほとんど秀樹は覚えていない。ただ興奮と共に協力クランへの謝礼や祝いのチャットに返信したり騒いだりしていたからだ。たった一つはっきり覚えているのは、ロキのキャラが秀樹を見ていたことである。さっさと彼女は落ちてしまったが、オフラインにしたとき浮かぶのはロキ装備に身を固めた『ロキ@ヨルムンガンド』の姿と、現実の暗く濁ったロキの瞳ばかりだった。
外は既に明るい。蝉も鳴き始めている。秀樹は眠いわけではなかったが、全身が休息を求めていることは分かった。ふらふらと秀樹は立ち上がると、敷きっぱなしの布団へと倒れこんだ。
倒れてから秀樹は天井を見上げ瞳を閉じた。しかし寝ることはどうしても出来ない。興奮状態というものだろう。秀樹は瞳を開いたり閉じたりした。辺りの音を聞きながら……
ふと秀樹の視線に自分の左側にある箪笥にかかったスーツが目に入った。途端に秀樹の胸には酷い不安と虚無感が襲って来た。
確かに秀樹は、間違いなく『ヨトゥン・ヘイム』を制覇した。きっと翌日には秀樹を英雄と称える者も多く現れるだろう。これからコンタクトを取りに来る者も居るはずだ。ネットゲームは有名になれば途端に知り合いなろうという者が現れる。芸能人と同じだ。今となっては十分に理解できる。
しかし……現実の自分はどうだ?
天井に秀樹は手を伸ばした。細くて煤けて汗でベタベタした手だった。その手を見て秀樹は酷く悲しくなった。こんな手で、俺はあの少女に触れることが許されるのだろうか。