死後の世界に安息を! その七
夢から意識が戻ったとき、既に幸三郎の体は起こすことも出来なかった。意識は虚ろで、今が黄昏時であること……そればかりしか分からなかった。
自分が何を考えているかも幸三郎は把握できていない。ただ黄昏に染まった部屋が綺麗であることは理解できる。あまりに綺麗な色だ。その色が暗くなり、きっとニヴル・ヘルのような暗闇が訪れるのだろう。暗闇はきっと晴れることはない。その先の朝焼けを歩くのはこんな老人ではなく一歩を踏み出す若者達なのだ。
「お前の信仰、俺はずっと知っていたぞ。確かに見届けたぞ」
不意に幼い声が聴こえた。聴いたことも無い少女の声だ。
「大空を飛ぶ前より、お前は我々を信仰していた。空を飛んでより信仰は深くなったことを、このトールは知っているぞ。だが、あれはアースガルズの知るところではなかった。知るところではなかったのだ……」
空を飛んた、後の信仰……
虚ろな幸三郎の瞳に、先の戦争の記憶が鮮明に蘇る。
そうだ、あれは戦争が優勢から劣勢になる直前のことだった。天候が悪くなるような予想があったが幸三郎は母船より飛び立った。そのときの戦闘機の技術は敵国より優れ、絶対に自分が安全だという確信があった。
だがあの空を飛びながら、少しだけ残念だという感情が幸三朗に無いわけではなかった。自分が戦死する可能性は低い。なら、自分がヴァルハラへ旅立てる可能性は低い。なぜかそれが幸三郎には苦しかった。今考えればなんとも贅沢な悩みだったことだろう。
だが考えは黒い雲から降りてくる影に吹き飛ばされる。それは、敵軍の奇襲に他ならない。相手は完全にこちらの行動を読んでいた。理由はわからなかった。だが確実に敵機の一機は幸三郎を狙っていた。そこで落とされれば、きっとヴァルハラに行けるはずだった。
しかしその前に、突然の雷鳴が響いた。空を飛んでいるときには聴いたこともないほどの雷鳴だ。途端に幸三郎の上を飛んでいた敵機は炎をあげながらそのままくるくると回りながら落ちていった。間違いなく、突然の稲妻が敵機に直撃したのである。
それからの戦闘は詳しいことは覚えていない。天候の悪化で両軍は早めに撤退を開始したことだけは覚えている。
ただ暗い雲から逃げるように母艦へと帰るときにもう一度雷鳴を幸三郎は聞いた。その凄まじい音だけは今でも心に鳴り響いている。
あの時、幸三郎は確信したのだ。この天候は雷神トールの加護なのだと。アースガルズへの信仰はこのような形で果たされたのだと!
それが単なる偶然であることを幸三郎も知らないわけではない。だが幸三郎は、それでもトールがあの雷鳴を起こしたのだと考えていた。つまらない幻想に他ならないのかもしれない。だが戦争が終わった後も会社員として働き出した後も、それだけは信じていた。
あれからもう何十年も経っている。
幸三郎の手元には、大学時代に学んだ北欧神話の本とあの戦争の出来事しかない。他に幸三郎には何も無い。他に幸三郎の生に意味を持たせるものは何も残ってはいないのだ。
「なるほど……随分と可愛らしい、ヴァルキリーさんですね」
なんとか幸三郎は少女の姿を認識することができた。少女は、黄昏に染まりながら何かを堪えるような表情に変えた。だがまるで宣告を下す者のように硬い表情をすると、幸三郎に言った。
「そうだ。俺はヴァルキリーだ……今の言葉は、トール様より承った言葉だ……」
「そうですか……本当に、アースガルズはあるのですね」
「だから、俺の言葉はトール様の言葉だと受け止めよ。あの雷は、偶然だ。偶然を俺のせいにされるのは……迷惑だ。だから、貴様は、アースガルズに残る資格はない。貴様など、ニヴル・ヘルに落ちてしまえばいい……と……トール様は、おっしゃっていました」
「なるほど。あの坊さんも、雷神トールの、差し金なのですね」
少女は何も喋らない。だがこれ以上の肯定は無い。
「私は正しかったのですね……でしたら、良かったのです……」
「まだ、信仰を捨てるつもりは無いのか。まだ、我が宮殿に留まるつもりはないのか……と、トール様は……言っていました」
「私は、あの時も、今も、戦士なのです……もしも、今でさえ何かの為に、戦えるのなら、戦うのです……ですから……こうして生きてきたのが、私の人生の全てなのです」
「そうか……ならば、オーディンがむす……息子、トールが讃えよう。岡田幸三郎、お前の生を侮辱したことを謝罪しよう。お前はニヴル・ヘルに落ちることになるだろう。だが誇るがいい。いずれ俺も行くときは、必ずや地獄のような地でお前と杯を交わそう……と、これが、トール様の最後の通達です」
「ありがとう、可愛らしいヴァルキリーさん。もう少しで、行きますと、最高神にお伝えください……」
「案ずるな。最高神は、既にお前の行いを見ていることだろう……もういい、しばし休むがよい……」
そう言うと、幼いヴァルキリーは部屋から出ていった。
部屋にはもう濃い黄昏色の壁と、電子音しかない。
だがこれ以上に安らかな感情に満たれたことは、幸三郎には初めてだった。
もう時間は近いが、十分だ。
これからオーロラを通り、アースガルズへの長い旅に出なくてはならない。
体はもう疲れきっている。
ちゃんと行けるのか、と少しだけ幸三郎は不安になった。
だから、もう休まなければ。
幸三郎は。そうして瞳を閉じた。




