二次元の嫁暗殺計画 その二
トールが上にコートを着ている割に短パンなのは、相当急いでいた証拠だろう。まるでヨトゥン・ヘイムを思わせるような暗くどんよりとした雲の下をトールは自慢のバイクで爆走する。緊急事態であり、交通ルールを無視することも許可されている。速度も気にすることは無い。
凄まじい速度で流れる風景には目もくれず、トールはヴァルハラの駐車場に自慢のバイク『トリプルタング』を乗り捨てるように降りると冷たい風さえ気にせず門の中へと進む。
ヴァルハラの玉座の間は妙に静かだった。そして暗い。辺りの黄金の色が薄れているようだった。しかし普段よりも神の姿は多い。テュールだけではない。バルトルやホズ、ブラギ、テュール、ヘルモーズ、ヴィーザルの姿までがある。トールが入って来ると、ヴァルキリーまでもが全員門の方を見たが、フリッグだけは玉座から視線を離そうとしなかった。
トールはコートを脱がないまま、コツコツと足音を鳴らし玉座に近づく。そしてそこに座る姿が偽者ではないかとも思いながらも、躊躇いを篭めて言った。
「母上……いえ、オーディン様。この雷神トール、はせ参じました」
玉座からは返事は無い。いや、もしやその姿を見て誰が返事を期待しようか。
オーディンは俯き、顔には凄まじいほどの影がある。服も心なしか大分年季を
経たようにも見える。右手に持つ槍『グングニール』は体を支えるばかりのようで杖にしか見えない。まったくオーディンの姿は変わったわけではない。ミズガルズならばトールより年下に見られるような少女のままであるはずだ。しかし誰もがオーディンが少女のように見えなかったはずだろう。今の彼女は、まるでミズガルズの絵画に描かれるオーディンみたいな凄まじいほど年を取った老人のようであった。
「オーディン様。皆集まっているのです。それは、今のアースガルズの変化に恐怖を抱いているからなのです。母上には我々がおります。どうか、元気になってください」
「元気になれ……とな」
オーディンは重々しく口を開いた。久々に聴いた言葉は、まさに年を重ねた神様のようだった。
「そうです。バルトルもホズもおります。テュールもブラギもヘルモーズもヴィーザルもおります。また最愛のフリッグ様もおられます。皆、オーディン様を慕っているのです」
「しかし……何故、我が『義理の』妹がおらぬのだ」
この瞬間にこの玉座の空気がぴたりと止まった。ロキのことはタブーに近い。別に誰もこの場所にロキが居ないことなどどうでもいいし、喜ばしくさえ思っていたからだ。
「あの……悪神は居ません。今では、アースガルズにはおりません」
「何故おらぬのだ……我が『義理の』妹よ……何故、ずっとミズガルズなのだ……だって、姉妹の誓いをしたではないか……いや、そんなの、お姉ちゃん許してないのに……」
ブツブツとオーディンの呟きだけが静かな空間に響く。
ダメだとトールは思った。これ以上悪神の話をするのは逆効果だ。
「オーディン様……いえ、母上。それよりも、今度皆で宴会でも開きませぬか? きっと皆で酒を交わせば、少しは気分が晴れるのではないでしょうか」
「……我が『義理の』妹と、共に出された酒以外は飲まぬと誓っている……その、義理の妹が、ミズガルズで……!」
逆効果だ、とトールは自分の言葉を後悔した。他の話題を早く提供しなければ! しかし、トールは思う。母上にどのような話をしたらよいというのか。
「……我が『義理の』妹の居ない世界など、滅びればいい……」
ぼそりと聴こえた言葉に、この場の空気が恐怖へと変わる。もしやとトールでさえ考えていなかったわけではない。ただ、実際の最高神オーディンの言葉は、凄まじく重い。いつものように感情を爆発させたいと考えながらもトールは優しく言う。
「母上。そのようなこと、おっしゃらないでください。我々はラグナロクを恐れているのです。ですから、神々の黄昏を連想させるようなお言葉は……」
「……起こればいい」
「…………」
この言葉に、トールでさえ声が出ない。想像の恐怖というものはいつも付きまとっていた。しかし、恐怖が現実味を帯びたとき、日々の鍛錬などまったくも無力だ。トールの恐れていることはどれだけ鍛錬をしたところで克服できるものではない。
混乱し震える体に鞭を打って何かを口にしようとするがどうしても口にすることが出来ない。先の言葉を、とにかく言わせたくない。だが、それでも、恐怖で体はまったく動かない。
一人を除いてこの場にいる全ての神はトールと同じだったのだろう。そしてその除かれた一人……オーディンは虚ろな瞳で、どこを見るわけでもなく、ただのぽっかりとした空間にささやくように呟いた。
「ラグナロクなど、起こればいい…………」




