アリス イン ザ ピッチ ダークネス その四
ここは暗い部屋だった。微かな明かりしかない静かで何も無い部屋。物音は隣でするこそこそとした少女の話し声。後はエンジン音一つない。
無性にアリスは悲しくなり、泣きたかった。汗で体がべたべたしてシャワーが浴びたかった。包帯の巻かれた手首が痛かった。それに寂しくて寒い。冷たい部屋に一人でいることが心細い。
これが長い間続かない平穏だと、アリスは知っていた。少しの間だけこうやって妄想が妄想だとわかるようになる。辺りには監視カメラもないしストーカーもいない。殺し屋だって、アリスなんかを狙うわけがない。クリスタルを使っている惨めなダンサーなど誰も見るわけがない。
ついに耐え切れなくなりアリスは涙を流した。これほどの惨めな自分が嫌になった瞬間はあるのだろうか。これほど消えて無くなりたいと思うことがあるのだろうか。もう先は見えない。闇ばかりしかない。もはや先にも暗闇しかない。アリスのダンスは決して誰にも賞賛されない。悪夢のように笑いものにさえされることはない。
コンコンというノックと共に、暗い部屋に光が差した。また明かりが灯される。
「……元気か? って、泣いているのか」
そこから現れたのは、アリスをこの部屋に連れて着た少女だ。彼女が脳筋幼女と呼ばれていることくらいにアリスは彼女のことを知らない。
「元気じゃない。元気になることはないわ。もう永遠に」
自分よりも何歳も下な少女の前で惜しげもなくアリスは涙を流す。もはや自制心のようなものはない。ただ悲しい。悲しみしかない。
「その……すまない。暴れなければ別に縛ることもないのだが……そうだな、食事を持って来た。三日間くらいお前、何も食べてないだろう。ほら、解いてやろう。ともかく食べろ」
脳筋少女の手には、フィッシュ&チップスの入れられた紙が持たれていた。脳筋少女はアリスの枕の横にそれを置くと、彼女を縛った紐を解いた。
手渡されたフィッシュ&チップスをアリスは眺めて口にするのか迷った。毒が盛られているとかそういうことではない。単純に食欲がなかった。おいしそうにも見えなかった。フィッシュ&チップスはそこまで好きではない。
いかんせん口に運んでもおいしくはない。それどころか、奥歯が酷く痛んだ。そこで初めて自分が虫歯であることにアリスは気がついた。
「だから、ほら……泣くなよ。別に悲しいことなんてないだろ」
「痛いの、奥歯が……虫歯で、痛いから涙が出るの……止まらないの……」
不味いフィッシュ&チップスを口に運びながらアリスは泣く。困ったように脳筋少女は茶髪を掻いた。
「ならば、まず治そうではないか。虫歯など、一日もあれば十分だろう」
後から入って来た黒髪の少女……確か悪神と呼ばれている少女が言った。簡単に彼女は言うが、そんなことがアリスに出来るはずがない。入った収入はもうほとんどクリスタルに消えているのだから。
「悪神よ。簡単に言うのだが、どうするのだ? まさかエイルの元へ連れて行くのか」
「アースガルズには許された者以外は踏み込めまい。大丈夫だ。闇医者ってのは結構いるものだからな。ある程度心当たりはある」
「けど……お金が……」
アリスが口を挟もうとすると、言い切る前に脳筋少女は言葉をかき消した。
「俺達が全て負担する。何も心配することは無かろう」
「私様が案内してやる。とりあえずこいつを運べ。脳筋らしい仕事で嬉しいだろ」
「ふん。造作もないな」
そると脳筋少女はアリスをお姫様だっこした。不思議なことにアリスくらい細い腕なのに少女は軽々としている。たとえアリスが酷く痩せていて持ち上げるのが楽であっても分かるほど豪腕だった。
それからアリスは歯を治療し、シャワーを浴びた。時々酷い妄想は襲って暴れることはあったが、その度に二人の少女はアリスを押さえつけてくれた。
あの暗い部屋から出ようとしなければまったく少女達はアリスに優しかった。段々とアリスは食欲が沸いて来た。体重も少しだけ増えたのかもしれない。悪夢にうなされることもあるが、それでも眠ることは出来た。
それでもクリスタルが無性に欲しい時があり、暴れたし泣いた。だが近くには二人の少女が居た。二人が必死にアリスを落ち着かせたのである。
しばらくそんな生活が続くと、二人の少女はアリスの居場所を変えた。というのはあの穴倉のような場所からイギリスでは知らぬ者が居ないくらい有名な一流のホテルへ二人がアリスを連れていったのである。豪奢なシャンデリアに絨毯が敷き詰められた部屋に、大きな液晶のテレビ。今の季節では寒くなってしまったがプールもついている。夜には夜景が綺麗であり、料理は一度も食べたことも無いものばかりだ。
それに二人の少女はアリスへ服やアクセサリーを買い与えてくれた。有名なハリウッドスターしかもっていないような煌びやかなドレスにネックレス、有名なブランドのバッグもある。
この待遇をアリスは怖がらないわけではない。それでも受け入れたのは、二人の少女の熱心さがどうしても嘘だと思えなかったからだ。
時々二人は巨人についてアリスに訊くことがあった。知らないと答えると、また高価なものをアリスへとプレセントした。逆にクリスタルが欲しいと要求したり暴れて罵ってもまったく二人の少女はアリスに与えようとしなかった。
このクリスタルへの欲求は決して消えることはないだろ。だがそれでもアリスは大分肉つきが良くなった。もうアリスを見てもクリスタルをしていたと思うものは居ないだろう。巨大で黄金の縁を持った鏡の向こうに暗い欲求の影を見ながらアリスはそう思った。
「中々吐かないな。厄介だぞ」
次のプランを考えながらトールは言った。衣食住や十分に与えた筈だ。それでも呪いが解けないとするならば、もう次はプレゼント作戦や旅行作戦だ。しかしそれも功を奏さない。他の方法が浮かぶまでは貢を継続するしかない。
「指輪と首飾りはもう渡してしまった。まだループに入るまでは間を置いた方がいい……しかし面倒だ。ゲームならば連続して渡さなければ高感度があがり、オタクならばゲームやアニメの話題で高感度を上げられるというのに……他には何だ? 男か! それとも、やはりブリージンガンメイか! 勝利の剣か!」
もう一人、ロキも必死である。この間にも時間は過ぎていく。それはラグナロクに一刻と近づいていることに他ならない。そのためには、あの巨人族の関係者に一刻も早く喋らせなければいけない。
「悪神よ。こうなれば本当に麻薬を与えるというのはどうだ。ならば本当にクリスタルが欲しくなり、耐え切れず話すかもしれぬぞ」
「その台詞、どちらが悪神かわからぬぞ。却下だ、却下。そのような力で呪いが解けるものか……どうする? どうするのだ……ともかく、次は車を買い与えるとしよう」
二人は唸った。そしてどうすればいいのかを寝る間も惜しんで考えていく。またアリスが暴れないように見張らないといけない……
するとトールのポケットで何かがヴヴヴと揺れた。
「すまない。電話のようだ」
ポケットから日本製のスマートフォンを取り出すと、トールは耳に当てた。
「俺だ。どうした? ああ、テュールか……ふむ……ああ……え? あ、いや、ならいいんだ……そうか、また母上の御前で」
少し表情を引きつらせてトールはスマートフォンを切ってポケットへと入れた。そして傷を避けて額に指を当てて俯いた。
「どうした、脳筋少女よ。まさか……間に合わなかったのか」
ロキの言葉にトールは返さない。だが突然口元を綻ばせて立ち上がると叫んだ。
「予言は白だ! 母上の思い過ごしだったのだ! これは、ラグナロクの前兆ではない!」
「……マジか、マジなのか!」
「本当だ! 誓っていい、思い過ごしだったのだ!」
「いやほおおおおおおおおおおおおおおいいいいいいい!」
二人の神は飛んで喜び抱き合ってグルグル回った。これによりホテルは大きく揺れ歴史ある建造物は一センチほど全体が沈み込んだ。
「やった! やったぞおおおおおおおおお!」
ロキは嬉しさの余り踊り出す気分というものを久々に感じた。80年代の超難易度ゲームをクリアーしたときほどの喜びの渦が黒髪の少女を襲っていた。
「うおおおおおおおおおおお! 一ヶ月の努力がここに報われたのだああああああ!」
トールも余りに喜んでアースガルズにいる母上に至上の感謝を祈った……
「……ちょっと待て、脳筋幼女。おかしいではないか」
「ん……何がおかしい」
「これは誤報だった。それはいい。しかし、ならばあの巨人族の関係者はなんなのだ」
「あ……ちょっと待て。どういうことだ……?」
二人は口を噤んだ。そしてこれまでの行動を思い出した。彼女の言動。彼女の仕草。ニヴル・ヘルの亡霊を思い浮かべるような表情……
不思議なほどのシンクロニティだったのかもしれない。二人の少女は同時に結論に達し、同時に彼女の正体に気がつき……そして同時に叫んだ。
「あいつは……単なる薬中じゃねえかああああああああああ!!!」
なんてことだ!
二人の神は、ゼロに近い可能性を模索してきたのだ! しかしゼロに近い事象のほとんどゼロなのだ! だが二人の神はゼロに近い可能性を模索するあまり、ゼロに近い数値を全て一だと思い込んでいたのだ!
「悪神よ。あの『人間』の薬中、どうするのだ」
「ただで返すわけにはいきまい。我々は一人の人間を拉致し監禁し拷問し、貢いで尋問してしまったのだ。もしも彼女を何も無く帰せば、必ずや我らはこの国の警察に捕まり、死刑を求刑されることだろう」
「しかし、それまでにアースガルズまで逃げれば良いのではないか」
「今ではアースガルズよりもミズガルズの方が調査能力は高いのだ! 必ずやそれまでに見つかり、我々は必ずや掴まることだろう。抵抗したならば、裁判を待たずに撃ち殺されるのだ! 殺しても同様だ!」
「ならば謝礼を渡すのだ! そして口止めをするのだ!」
「それも甘い! 我々は薬中に十分なものを与えてしまった! 今や生半可な贈り物では彼女を満足させることは出来ぬ! それでは人は口を滑らせる!」
「ならばどうするのだ! もはや、我らはラグナロクよりも前に命を散らすことになるのか!」
「アースの神らしい思考停止だな、トールよ。この策略家である私様に策が無いとでも思っているのか」
「……どうすれば良いのだ、ロキよ」
「物では買えぬのだよ。故に、我々は物以上の物を与えるのだ……」




