ブリージンガンメイ特価二十万円その二
結本慶介の事務所が起動に乗り始めたのは、丁度地下アイドルがブームとマイナーの中間を行き来し始めたからだろう。そもそも地下アイドルが金になる自信はあったが、その実ライブ費用やグッズ費がプラスになるまでには大分期間が開いてしまった。故にこの三年の成果の功業績は、幾らもの犠牲と努力の結晶ともいえよう。消えていったアイドルも多いが、今では4ユニット14人が慶介のプロダクションに所属し、そして好業績を納めている。
地価の高い秋葉原に事務所を構えることが出来たのもつい最近のことである。アイドルオタクの聖地といえばという一種の拘りがあったことは認めなくてはならない。しかしそれでも拘ったことは間違いではなかったと思っている。現に事務所を借りてからの業績グラフは二次関数的なグラフを描いていた。この調子ならばもっと規模を広げることも出来るのだろう。ゆくゆくは地下アイドルだけではなく、地上波で流れ続けるようなアイドルを抱え込むのも夢ではないだろう。
あえてこの街に事務所を設けたことの不満といえば、一定の時間が過ぎた後には人の姿がめっぽう減ることだろう。この街はまさに夢の国だった。ただ噂のような閉店後の地獄が無いだけの、夢を売るレジャーランドなのである。
「ちょっと、ちょっと」
突然コートの尻尾を掴まれた慶介は驚いて振り返った。
「君は、一昨日の?」
そこにいたのは、不気味な少女である。ただ不気味だといっても大して代わりばえがあるものではない。年齢は幼いようだが日本人であるようだし、手入れをされていない髪もこの街ではむしろ自然であるかのように見える。だがその格好が不気味だった。まるで写真に写したものを縮小したかのように慶介と同じコートを羽織っていたのである。
少女は口元に人差し指を立ててシーと声を出した。不気味だか、他には変わりがないようである。右手でコートを掴んだまま少女は自分のコートのポケットに手を入れると、一枚の写真を見えた。
「な…………」
なるほどと関心する余裕は慶介にはなかった。しかし、確かに沈黙を施されなければ奇声の一つをあげたのかもしれない。
そこには慶介と交際をしている斉藤美波がマンションの一室から出るところが写っていた。交際をしていると言っても慶介には妻も子供も居る。大学時代、この事務所を立ち上げる前からの付き合いの女房で小夜と言った。その小夜に一切の言い訳が出来ないくらいの、ばっちりと写った慶介と美波とのキスシーンであった。
「これがばらされたくなかったら、こっちに着いて来るのだな」
少女は手を離すと先を急ぐように歩き出した。このまま逃げることも出来たのかもしれないが、それほどの愚策は存在しないのだろう。幼い少女にどうこうする知恵があるとは思えなかったが、つまりはその写真を渡した別の悪党がいるということなのだろう。
先に着く前に少女から情報を聞き出そうと思い慶介は先を急いだが、不思議とただ歩いているだけの少女に追いつくことが無かった。走ったが不気味にも追いつかない。その異様な光景にこの少女が自分の不安が創り出した妄想ではないかと思った。疲れているのだ。ならば不自然なコートも写真も話が通るのではないか?
しかし結論に至るよりも前に少女はまったく人の居ない場所にまでたどり着いていた。ぴたりと止まった少女と距離を置いて振り向いた。暗がりの中で、少女の白く悪霊じみた瞳だけが浮いていた。
「止まれ」
少女の幼すぎる声が響くと、従わないわけにはいかなかった。理性とは別のベクトルの本能に近いものだったのかもれない。現に立ち止まるように言われてから一歩も動こうと慶介には微塵も思えなかった。
「さて、これは幕の序章に過ぎない。私様をこけにした償いは受けてもらう。だからこそ、これだけではない。お前には、もっと暗く残酷な策略というものを見せてやろう」
そう少女は言うと、ばっとコートを脱いだ。
「な…………!?」
思わず慶介は絶句した。
少女のコートの中身は裸だった。痩せこけた輪郭が闇の中で露出していた。共に少女は、身を屈めると上目遣いに慶介を見た。そこまでは慶介にもわかった。しかし、暗がりにわかるのはそこまでである。生えているか生えてないかとか、膨らんでいるかもよくわからない。
かと思えば少女は仁王立ちをした。もう一度言うが、不自然に暗闇が支配しているので生えているか膨らんでいるかもよくわからない。見えるのは薄い輪郭と、白い瞳ばかりである。
「くくく……ふはははははははは! これでピースは揃った! 楽しみにしておけ! そしてこの私様をアイドルにしなかったことを悔やむがいい!」
そういい残すと、少女の姿は闇の中に消えた。いや、少女が消えるとその闇さえも霧散し、都会の光が路上を照らした。
金縛りを解かれたように慶介は少女の居た場所に立った。しかし、そこには何があるわけでもない。脱ぎ捨てたコートも無ければ写真一つ落ちていない。あるのはいつか捨てられて潰れた空き缶が一つあるだけだった。
さっと血の気が引いたのは、幽霊を見たからではない。やはり自分は悪い妄想を見たのだという核心に至ったからである。そうなれば、明日にも病院に行く必要があるのだろう。しかしそんなことが出来るのだろうか? 明日は大事なライブの打ち合わせがある。そんな大切なときに社長である自分が精神科に通院することになったら、どれほどの影響はあるというのだろうか。
「さ、さんてんいちよんいちごうきゅうにいろくよんいちごう……ここまでしか円周率はわからん……今何か見えるか? 存在しない筈の人や声が? いや、そんなものは無い……少なくとも今の自分は正常の筈だ……駄目だ、明日は休めない。大丈夫だ、休まなくても大丈夫だ。もう今日は家に帰ろう。小夜にお土産でも買って帰るか……」
翌日の打ち合わせはうまく話がまとまり、三日後の新ユニット『なないろドロップ97』はこれまでの初回動員人数記録を塗り替えた。別に妄想症のようなことは起こっていないし、調子も食欲も変わりは無い。
メイドカフェでコーヒーを飲みながら思うのは、あの出来事はむしろ良い兆候だったのではないかということだった。自らの不安が具現化したのはあの夜のことだというのなら、霧散して何処かに消えたのもあの夜のことだったからである。先にあるのは明白な自信である。思えばおかしいではないか。美波の家はストーカー対策も含めてマンションの二十五階の部屋である。外から撮影するにしてもどうやればというのか。まさかあの瞬間を狙ってカメラを屋上から落として撮影したとでも? それとも映画のように宙ぶらりんに降りて撮影したのだと?
どの考えも考えにくい。やはり現実的ではない。
きゅるんきゅるんとかわいらしい声を出すメイドの声に落ち着きを取り戻すと、2.5次元の良さを再び心に浮かべながら立ち上がり会計を済ませた。外に出ると一段と寒さがすごい。凍てつく空気に手をこすりながら事務所に戻ることを考える。その前に無性に今夜美波に会いたくなって、メールを送ろうと思った。
すると、ラインに一件の連絡が来ているのが見えた。それは家庭のグループである。十数件にも及ぶ履歴に何故気がつかなかったのは仕事中ラインの音を切っているからだ。それにしてもバイブレーションも鳴らないとは、おかしいではないか?
写った家庭グループには困惑と同時に怒りの混ざったような言葉が並んでいた。いや、それだけではない。開いたときには全てが既読になっていた。そんな記憶はない。遡っていくと、一時間ほど前に書かれたそれには、二つの写真があった。
一つは、あの美波とのキスの写真だった。見覚えのあるアングルで。そしてカメラ越しでもはっきりと写っているとわかるほどのものだった。
もう一つは、見覚えの無い写真だ。いや、だが見覚えの無いものが写っているわけではない。そこに写っている一人は、裸の少女である。あの髪がぼさぼさした少女はまるで怯えたように慶介を見ていた。だから視線の先にはコートを着た慶介が居た。違うのは写真が暗がりではなく非常に明るい場所で取られたようで、そして何よりも場所がどう見ても何処かの個室のような場所だった。ご丁寧に部屋はどこもかしこもピンクである。それがどのような場所か想像するには易い場所だった。
二つの写真は、慶介の血液を頭の上から足のつま先まで落とすには十分すぎるほどだった。いや、写真だけならばまだ何かしら言い訳の仕様があったのだろう。しかし、これは既読なのである。小夜の履歴から既に一時間も前には既読になっていたことがわかった。
もしも外がもう少し暖かかったなら、混乱した思考に任せたような言葉を送ってしまい更に話をややこしくしてしまったのかもしれない。しかし今の季節は冬の一番寒い頃で、だからこそ感情任せに打ち込んだ言葉を送信する前に止まることが出来たのかもしれない。ともかく時間が必要だった。ラインのバグで今見たことと何かのいたずらだという趣旨を送り、詳しい話を夜にしようと送り、スマートフォンをポケットへと仕舞った。
気持ちを落ち着かせようとして震えながらもキョロキョロと辺りを見渡した。また歩き出すよりも前に、もう一度スマートフォンを手に取ると、また二つの写真を眺めた。二つ目の幼い裸体の少女の写真の瞳は、記憶の通り、酷く淀んでいた。
家に帰った時、全ての言い訳の類が無に帰ったことを察するには十分だった。言い訳とは別の可能性を指摘するものだ。なので言い逃れの余地がなくてはならない
自宅に帰った先のリビングのテーブルには、今日はオフである美波が怪訝な顔の小夜の正面に座っていた。息子の克人は二階にいるのだろう。アイドルグループ『ミックスパイ』のリーダーに相応しいと思えるほど、美波は視線を落とすことなく真っ直ぐと小夜を見ていた。
「おかえりなさい」
「ただいま……座っていいですか」
「座りなさい」
どちらにより深く謝罪を覚えているのかわからなくなり、ともかく二人から一番離れている真ん中の席へと座った。美波の横顔を見て、まさか自宅で会うことになるとはと自分を酷く皮肉った。
「詳しい話は斉藤さんに聴きました。貴方の事務所のアイドルなんですって? 結婚するときに……いや、それより前から貴方、言ってたでしょ? 『絶対にアイドルと付き合ったりなんてしない。ファンも関係者も身内も不幸にしてしまうから』って。嘘はなかったと思いたいけど、その誠実さは嘘だったの?」
「そういうわけじゃない。だが……それでも抑え切れなかったんだ」
「押さえ切れなかったですって? だから事務所の子に手を出したの?」
「それは……」
「笑っちゃいますよね。この程度にしか慶介さんを理解してあげられないなんて」
口を挟むように静かな美波の声が響いた。途端に殺意に満ちたような形相で小夜は美波を睨みつけた。
「何がわからないっていうのよ。たった数年も慶介のこと知らない癖に」
「知っていますか? どんなに長い時間勉強をしても成績が良くない人ってのはいるんですよ?」
「少し上司と仕事の付き合いをしただけで理解していると思うなんて、哀れね」
「なら、受け入れるというのですか? 慶介さんの趣味を」
何か違和感のようなものを慶介は覚えた。何かがおかしい。しかしこの状況で口を出す度量は慶介には無かった。激流に投げ込まれて運命を待つ子羊の気分とはこのようなものなのだろう。
「むしろ滑稽じゃない。貴方は代用品なのよ。単なる代用品。確かに主人の趣味を完全に把握しれていなかったし、オタク趣味と幼い子供が好きっていうのは平行する傾向にあるのだから察してあげるべきだった。けど、ただそれだけの話よ」
「その言葉、心底オタクに偏見を持ってる人の言葉ですね。慶介さんは確かにあの街でアイドルの仕事をしていてああいう業界にも詳しい人です。だからこそ、別に普通の人が私のようなアイドルを好きになってくれていることもよく知っています。だから、慶介さんはオタクだからじゃなくて、慶介さんは慶介さんだから幼い子供が好きなんです」
「ちょ、ちょっと待ってくれ」
話が酷く反れたような気がしてついに慶介は口を開いた。だが激流に暴れる子羊など、どう抗えばいい? 二人の織り成す流れは、既に手が終えないほどに進んでいるのである。
「斉藤さんでしたっけ。慶介と別れてください。今なら水に流してあげます。そうじゃないと、私は絶対に貴方を許さない」
「小夜さんこそ、慶介さんと離婚してください。貴方には幼女が好きな慶介さんを留めておくことなんて出来るとは思えません」
「何の話になっているんだ! 俺は別に、ロリコンじゃないぞ! あの写真だって、加工ってわかるものじゃないのか」
「嘘を吐く必要は無いわ。一晩の犯罪的な過ちなんて、もうどうにかなっているんだから」
「どうことだ、小夜?」
小夜はさっと一枚の紙を突き出した。それは鑑定書だ。そこには写真の細かな解説が載ってあった。
「写真にはどちらも合成の後は見られなかったらしいわ。プロの目から見ても本当らしいの。大丈夫、口が堅いところに鑑定を頼んだのだから」
「そんなわけが……」
「この写真は私立探偵の人が届けてくれたわ。二枚とも、本物であるという証明書付で。貴方の取引先の人が善意で身元調査を依頼したらしいの。それでこの二枚を取ってしまったからって、危ないから私にだけ渡して公表しないからと去っていったわ」
「そんな口約束を信じるのか」
「じゃあ疑ってどうしろって言うの! 脅されるのを待ちながら怯えろって言うの、それともその私立探偵の口を封じておけって言いたいの!」
「そういうつもりじゃなかった。すまない」
確かに他に対処が出来るとは思えない。写真が取られていたということは複製も可能だ。ならば、もはやその見ず知らずの私立探偵の善意を信用しないわけにはいかない。
「野蛮な考えの人ですね。別にばれたっていいじゃないですか。どうなったって、私は慶介さんと一緒のつもりですから」
「貴方はいいのかもしれない。私だってね、慶介がどんなになったって着いて行くような覚悟はあるのよ。だけど息子に言えるの? 父親は不倫して、自分くらいの幼い子供に手を出して逮捕されたって。斉藤さんの我侭は何の関係も無い子供に深い傷を負わせることになるのよ!」
「なら私がその息子さんも一緒に愛します! だから、慶介さんを私にください!」
「絶対に離婚なんてしないわ! 慶介! 私と克人の為にこの女と別れるって言って!」
まったくどうしたらいいのか慶介には分からなかった。これまで培ってきた全てのアンバランスな均衡が崩れて、私生活はメタメタになった。その原因が、私立探偵を名乗った何者かであるのは確かだった。そして確実にあの少女は私立探偵の関係者だったのだろう。
均衡の崩壊の果てにあるのは岐路となる決断である。だがここまで来て慶介はどちらを選ぶことも出来ない自分に気がついた。慶介は本気だった。本気で小夜と克人の二人を愛し、本気で美波を愛していた。二人を天秤にかけることは出来なかった。もしもどちらかが慶介を否定するような言動に出ていたというのならば、結果は変わったのだろう。しかし二人の海よりも深い自分への愛情を見たとき、そこに優越をつけるのは不可能であった。
慶介はただ黙った。子羊にはこの激流に身を任せる以外には何も無いのだから。
あの事件がたった一ヶ月前のことだと慶介にはまったく思えなかった。
彼の生活はがらりと変わった。いや、今の地位とか仕事は変わっていない。だが慶介の私生活はまったくも形を変えてしまった。
帰るような家は既に無い。離婚したわけではない。裁判を起こせば幾らもの賠償金や育児費を払って別れることは出来るのだろう。しかしそれでは誰も幸せにならないのではないかと思う。克人が成長するまではこのようなことを伏せようということになったのだ。世間体とゴシップの恐ろしさの恐怖を知らないわけではない。
美波との交際に終わりを告げてから何か変化があるわけでもない。別れた後も美波との関係が変わらないのは、美波もこのような自分のことを諦めていないからなのだろう。
真美との関係は元に戻ったのだと思う。同じ形にはならないが、同じ場所に収まったのだ。退社を押し留めたのは真美が強かったからなのかもしれない。事務である彼女は、脚光を浴びない者の重要性を知っているのだ。そんな真美を保身の為に追い立てなかった自分の弱さを慶介は呪うべきなのかを分からなかった。
一週間前の修羅場が激流を緩やかな海にまで押し流したようだ。だからこそ今では子羊は足をばたつかせて自分の流れに乗る。正直な気持ちに従い進んでいくのである。
仕事終わりのデスクの書類は片付けている。ライブの計画書にも全部目を通してある。明日はまた五時起きでまたライブ会場の調整がある。
さらりとテーブルを撫でるとノックが聴こえた。開いた扉から現れたのは、大分皺の見える女性だった。濃い化粧と脂肪を隠すことを諦め煌びやかさに視線を向けるような派手な格好だった。幼さを遠くに置き忘れたという風に彼女は大きな腰を揺らしながら慶介の前へと近づいてきた。
「何を考えていたの?」
幸代は大げさに演出するように言った。そのがさつで不自然な行動に酷く安心した。隠し切れない老いの空気が彼女にはあった。近づくと更にその色が濃くなった。粉っぽい肌が見ると、そこには塗りつぶされた吹き出物の突起が見えた。
「これからの二人のことだよ。仕事も順調で少し余裕もある。出勤には時間が掛かるのかもしれないけど、郊外にマンションとか借りて二人で暮らさないか」
「変な人ね。私になんてもう何も残ってなんてないのに。こんなおばさんには、お金の一つないのよ。残っているのは、昔の男に貰ったこの服くらい」
「いいんだよ。その君こそが綺麗で好きなんだ」
「なにそれ、まるで子供ね」
「子供は嫌いさ。特に幼い子供は」
思えば全てを変えてしまったのは、たった一人の子供だった。しかしもしや一つの変化や一つのあからさまにしてはいけない部分を露出させただけなのかもしれない。一方的な愛に耐えうれない自分を、そして自分の言葉を信じることの出来ない愛情の本質を。
「行こうか」
「いいお店があるの。少しだけするけど、どうかしら」
慶介は歩き出す。新たな一歩を踏み出すように。この五十歳を過ぎた女性と真実の愛を育もうというように……