アリス イン ザ ピッチ ダークネス その一
今回割りと暗い
世界が暗くなったのはいつからだろうか? ずっと昔はもっと輝かしくて、きれいで明るかったはずだ。朝日の太陽を眺めるように、先に続く光を望んでいたいはずだ。
しかし、いつからだろうか?
最初にダンサーを目指した時か? オーディションに落ちた時? 夢を同じにした友達と出会った時? 少しだけ多くアルバイトの給料が入った時?
何もかもが分からない。しかし気がついた時には真っ暗だった。
今日はある劇団のオーディションの日だったらしい。何十人もの人が受けてたったの一粒しか受からない試験。もはやアリスには関係の無い話だ。
ゴミの散乱する部屋でアリスは頭を抱えていた。
自分はオーディションに出てしまっていて、不特定多数の人に顔を知られている。知らない誰かがストーカーになっているのは確実だ。彼らはいつもアリスを見張り、見えないところからアリスを動かそうとしている。それをインターネットで流して楽しんでいるのだ。
痩せきった腕でアリスは怯える。まったく血の気の無い腕で、ぼさぼさの髪で、ただ不安になる。そうなると駄目だ、耐えることは出来ない。
アリスはごみだらけのベッドの下を漁ると、そこから見慣れた箱を取り出した。もう暫く買う余裕なんてないから最後に取っておいたクリスタルだ。彼女に勇気を与えてくれた粉は、アリスを苦しめると共に唯一の回復手段となっていた。
最後の自制心に手を震わせるが、それでもインターネット配信の恐怖に抗うことができない。ついにクリスタルを水に溶かすと、注射器に入れて、針の空気を抜いた……
「なんだこの部屋は……まるで貴様の部屋のようだ」
突然した声にアリスは叫び声をあげた。注射器のことなど吹き飛び、ついに自分を殺しに来たストーカーの姿をこれでもかと開いた目で凝視した。
その二人は恐ろしいことに、肌の色が違う二人の少女である。それはまさにアリスが世界的に追われている証拠に他ならない。
「ってかくさいな……汚物の匂いがきつい……確かに、お前の見立て通りなのかもしれぬな。だがヨトゥン・ヘイムというより、これはニヴル・ヘルではないのか」
小さな手で口を押さえているのは白人の少女だろうか。茶髪に短いジーンズのスカートにジージャン。そして背中には何かハンマーのようなものをつけている。
「だから怪しいのだ。偽装と考えるのが自然であろう。だがこの女を見ろ。まさに巨人のようではないか」
もう一人は東洋の少女のようだ。白色無地のシャツにジーンズ。長い黒髪は中国人なのかもしれないとアリスは思った。ああ、チャイニーズマフィアならば納得もできる。
「確かに巨人のようだな。ニヴル・ヘルに落ちて散々な目にあった後の巨人だが。他にいいのは居なかったのか」
「時間をかければ。しかし、日が昇るまでもう時間も無いのだ。この国にはセ〇ムがほとんど入っていないようだから他を当たっても良いが」
「まあいい。ともかくひっ捕まえてみよう。たとえそれがニヴル・ヘルの巨人であってもな」
茶髪の少女は右手に持った枝のようなものを振り上げた。途端にアリスは深い眠りに落ちていった。
陰険な森の奥からロキを含めた神々が緊急召集されたのは、つい今朝方のことである。アースガルズの小人達が運用するタクシーによりロキが神々の集会場に到着したときにはほとんどのアース神族とヴァン神族が既に集まっていた。
その奥の議会長席に座るのは、偉大なる神を束ねるオーディンに他ならない。彼女の玉座の肘掛には日が昇っているというのに大烏のフギンとムニンが並んでいる。
しかしロキが現れたことを合図にするかのようにそれぞれの神々はガヤガヤと騒ぎながら会議室の出口から出て行った。最後に残ったのは玉座のオーディンと護衛のヴァルキリーと雷神トールだけである。
「よく参ったな。我が『義理の』妹よ。他の者は全て事情を承知し、それぞれの役割を果たしに向かったぞ」
「私様が遅れたことの文句、一文字たりとも聞いたりせぬわ。糞遅いタクシー、何度道を間違えたことか」
「良い。しかし一刻を争う自体である可能性、その重要性を認識しておれば」
「……何かあったというのか」
「ラグナロクが始まろうとしておるのかもしれぬ」
オーディンの不吉な啓示に硬直せぬ者はいるのだろうか。現にこのアースガルズの悪神でさえ放心したように口を軽くあけて固まっている。
「ちょ……え、早すぎね? バルトルもぴんぴんしてるぞ、おい、え……まじ?」
「『しれぬ』というのだ。しかし、ならば我々はラグナロクに備えなければならぬ」
「本当ならそうだが……しかし、その……根拠、あるのか?」
「然り」
オーディンは立ち上がると、パチンと指を弾いた。すると部屋は暗くなり、玉座とは逆にある巨大なモニターに画像が映し出された。
「これは……」
「最近のミズガルズで流行した、または流行しないまでも公共の電波で流れた巨人関連のものと影響を受けた人間の数だ。80年代にもちらりとあったが、現在において格段に増えているのだ」
「そりゃ世界に情報が広がり易いんだから、一つの国でブームになったことも一気に広がってもおかしくないと思うんだが」
「然様。しかし、それにしても妙ではないか? この定期的な巨人のブーム。そして最近の異常な巨人ブーム。時間が経つにつれて大きくなっている」
「しかしミズガルズでの流行ってそういうものじゃないのか」
「だが同時に、ラグナロクへ向け巨人が準備を進めているとも取れるのではないか。巨人が動きやすいように、ミズガルズに巨人のブームを作り出している。ラグナロクの準備が整った後、ミズガルズの支援を受けやすいように」
「まあ、確かにゼロじゃない。だが、限りなくゼロに近くはないか。それもミズガルズを絶え間なく見聞きしているお前ならわかるのではないか」
「そうだ。限りなくゼロに近く怪しいところは見当たらない。まったく巨人も動きを見せていない」
意外にもオーディンはすんなりと肯定した。自ら過剰反応であり、単なるミズガルズ個人のブームだと確信までしているようにも思える。
「馬鹿馬鹿しくはないのか。そんなことで私様を呼んだのか。『俺と幼馴染と生徒会長がまさか異次元の勇者なんて』を切り上げて来たのだぞ? 本放送と録画は違うのだとわかっているのか」
「ゼロではない。その恐ろしさを策略家の我が『義理の』妹が知らぬというのか?」
確かにロキもゼロではない恐ろしさを知らないわけではない。ゼロだと思わせることこそ相手の意表をつく絶好の手段であることは対戦ゲームでも痛いほど思い知らせているし思い知らされている。
「我が『義理の』妹よ。ゼロでなければならぬのだ。私はアースガルズを納める者として極力根は潰さねばならぬ。故に神々を召集しこの数字をゼロとする。おかしな話ではあるまい。それとも我が『義理の』妹は、私がゼロと思った方が都合良いのか」
「……ちっ、こういう時の貴様は嫌いだ。確定させる手段はあるのだな」
「既に預言者に働かせているが、確証が得られるのは一ヵ月後となる。それまで動ける神々にラグナロクの可能性を探らせる。我が『義理の』妹、ロキよ。お前は我が娘トールとミズガルズに向かい巨人の情報を収集せよ」
「いいだろう。我が姉よ。但し、誓いは立てぬ。私様はアースガルズの神なのだからな」
「裏切るなどと考えてもおらぬわ。一ヶ月だ。必要になりえる経費は既に我が娘トールへと渡しておる。必要ならばアースガルズの口座より下ろせ」
「必要ならトールに下ろさせる。私様は、お前の施しは受けぬからな」
そう言うとロキはオーディンに背を向けて歩き出す。その後ろへと黙ってトールは続いた。




