世界一安全な乗り物だから その一
どうせ今回もまったり進行
冬にしては寒すぎるように立原 美波には思えた。降りしきる厚い雪で窓の外は何も見えないほどだった。空港の内部は暖房で暖かく、落ち着いたアナウンスは不思議な安心感を彼女に与えたが、こんな猛吹雪の中を飛行機が本当に飛びたてるのか不安だった。しかし、その不安が徒労であることもよく知っていた。吹雪は連日続いていたのだというのに飛行機が落ちたという話は一度も聞いていないからである。
思い切ってイギリスに旅行へ来たのは無駄だったのかもしれない。数ヶ月分の給料を使い数週間の休暇を貰って訪れたのだというのに、暗雲はまったく取れることは無かった。確かに漫画家のアシスタントとしては破格の給料を貰っていたのは確かだった。それに取材として幾らかの名所の写真を撮るという条件で少しだけ補助も出ている。漫画家クラスでさえそれほどの待遇を得られるのは一部だろう。
しかし、それでもアシスタントはアシスタントだ。
彼女の作品は一度も日の目を見ていない。面白くないわけではないが、売れるものではないというのが編集者の評価だった。書きたい何かがあるのは確かだし、自分の絵もあるのだと思う。それでも、何か出し切れていないように感じていた。あまりにも人受けを狙っていたので、お利口過ぎたのかもしれない。人が求める物を人が求めるままに描いてしまう。そんなものに芸術性も経済性も意外性も何も無い。そんなものを誰も求めていないし、そんな漫画を自分も描きたいわけではなかった。
デジタルカメラの画像を見て、彼女は一度ため息を吐いた。この写真は無駄だった。迷った気持ちもまま一人旅行をしたって、まったく面白くもない。どんな景色を眺めたって、見えるのは自分の漫画の一コマばかりだ。
もう駄目なのだろう、と美波は思った。このような大雪でも思うのは、こんな暗い感情ばかりなのだから。
帰ったらしっかりと漫画を辞めよう。そしてもう普通の人として人生を歩んでいこう。職歴がアシスタントという自分を雇って貰えるのかはわからないが、筆を折る以外に無い。
彼女が乗り込むとき、前には二人の少女が見えた。金髪の少女と黒髪の少女である。丁度自分が漫画家を目指し始めたのは彼女達くらいの頃だったなあ、と美波は思い、少しだけ強引に口元で笑った。
「寒いぞ……何故こんなに寒いんだ……」
ジージャンと短パンのジーンズ姿のトールは寒そうに自分の体を抱きながら飛行機へと続く列に並んでいた。非常に薄い恰好ではあったが、あまりにも寒すぎる。これくらいの雪ならば裸でも平気であるはずだった。しかし、今朝から酷く寒いようにトールは感じていた。
「いい加減に風邪を引いたことを認めるのだ。少しだけイズンの林檎を食べられなかったのだから、仕方あるまい。まあ脳筋の方が案外抵抗力は低いというのはよく聴くことだ。しかし……どんな気持ちだ? 筋肉一つ無い、まったく貴様より小さな黴菌共に負けるのは?」
「ぶち殺したいな……当然貴様をだが……うう、し、しかし今は勘弁してやる……」
ぶるりとトールは一度大きく震えた。こうなるともはやトールは単なる風邪を引いた少女にしか見えないことだろう。自慢のバイクは違法レベルの改造をしていたせいで車検が通らず、現在神々の力で強引にクリアーする為に預けられていた。そのせいで飛行機に乗らなくてはならないばかりか、危険だからとミョルニルは荷物として預けていた。メギンギョルズはそのままだったが、しかしあまりにもジーンズにぴったりなベルトなので、目立つことはない。ミズガルズの人間が彼女を見たところで誰もトールだとわからないことだろう。
「ふん! こうなった脳筋幼女など、単なる足手まといだ。大体、誓いを立てない銃などミズガルズには溢れているのだろうに、つまらない心配ばかり押し付けてくる……私様は忙しいのだ!」
「アースの神が誓わない拳銃を持っているのが問題だと母上も言っていただろ……ううぅ……大体、悪神。貴様はゲームしかしていないだろうが……」
「ゲームだけではない! アニメや漫画も見ないといけないのだ! まあ、ともかくP〇V〇TAを持って来たのだから、少しだけ進められることだろうが……おっと、進み始めたか」
段々と列が進んで行くのをロキは眺め、流れに乗る様に歩き出した。ロキとトールの席はそれぞれで取っていた。これで地球の裏側である日本に着くまでお互いにイライラとする可能性は低くなるだろう。
「まったく……ともかく、飛行機が着陸した後、空港の出口で集合だからな」
「分かっている……さっさと入って暖かくするぞ……」
そして飛行機に乗り込むと、二人はすぐ別々の方に歩き出した……
「……ちょっと待て! 何故貴様、先頭に向かっている! そっちはファーストクラスだろうが!」
「当たり前だ。ファーストクラスなのだから」
「ちょ……は? おい! 何故ファーストクラスなのだ! 高いだろ! ってか、マジで?」
「何を言っている。たった2万ドルよりも少し高い程度ではないか。お前こそ、何故エコノミーなのだ」
「何が少し高い程度だ! 少しはニートにとっての一万円の価値を学ぶがいい! くそ! もうさっさと自分の席へと向かうがいい!」
彼女達を避けるように狭い通路を横切っていく人々の流れに戻るようにロキは自分のエコノミークラスの席へと歩き出した。一万円の価値といわれてもよくわからないファーストクラスのトールは、一度ぶるりと震えると、そのまま機体前方のファーストクラスへと歩き出した。
「大体、ファーストクラスなど何が良いのだ。あんなセレブだらけのような場所ではP〇V〇TAなどやっていたら白い目で見られるではないか。その程度のことも分からぬからな……古代の貴族主義など今の時代流行らぬだろうに……」
席に座ったロキはブツブツと文句を言いながら、『ハント オブ モンスターⅤ』を起動させた。巨大なモンスターを狩るゲームだが、ミズガルズの東方で大流行したゲームだった。問題は難易度が過去最大であり、四人プレイ推奨だということだろう。必然ソロプレイヤーであるロキは、仕方なく大剣をプレイヤーに持たせた。
「ちょっとごめんなさいね」
そのロキの横に、一人の女性が立っていた。ロキのことを同属だと思ったのか、彼女は日本語で話しかけていた。ロキが足を引くと、少し強引気味に彼女はロキの前を通った。
これから飛行時間は12時間ほどになるのだろう。外は猛吹雪なので、もしかしたらもう少し遅れるのかもしれない。これだけの時間があれば十分に幾らかのクエストをクリアーすることができるだろう。でも全クリは無理だ。
『お客様に申し上げます。当機の機長のジェームス=マリオです。本日はオーディン航空ロンドン発東京行きをご利用頂きありがとうございます。到着は日本時間で午後一時を予定しています。安全快適な空の旅をお楽しみください』
「何が安全快適だ……もはや滅びしか残っていないような社名の癖に……」
ありがちな機内アナウンスに愚痴を垂れながらロキはボタンを押す。しばらくして飛行機は動き出し、猛吹雪の中移動し始めた。
それから加速する。押し付けられるようなGを感じながらも、何かに抵抗するようにロキはゲームをプレイし続けた。
浮ぶ感触は幾らも経験しているので怖くもない。そもそもアースガルズにあるような全時代的な技術による飛行の方がどれだけ恐ろしいものだろうか。
吹雪は止む気配は無いが、飛行機は問題なく飛んでいく。そして外が暗くなったと思うと、突然明るくなった。雲を抜けたのだろう。シートベルトを外してよいという指示を聞くと、ロキは真っ先に外して、それからずっとカチカチとボタンを押した。
ファーストクラスの部屋はホテルの一室というには狭いが、映画の見える巨大なテレビや綺麗なベッドまでが備え付けられていた。おまけに空調も自由に変えられるらしい。暖かな服も借りることが出来た。
それでもトールは震えていた。しかしベッドに入って休むようなことをトールはしたくなかった。イズンの林檎が無いだけで訪れるような病弱さなど信じたくもないし、そんな自分など信じたくもないのである。しかし、それでも全身は酷く寒いのである。
「ともかく……何か飲み物でも取って来るか……ともかく酒くらいはあるだろう……酒を飲めば体は温まる筈だ……」
思い体を持ち上げ、トールは歩き出した。そして酒を頼もうと乗務員を探そうと廊下へと出たとき、トールは鼻がムズムズする感覚に襲われた。そして、何も考えることはなく、いつも通り息を吸い込んだ。
「へっっっっっっっっっくしゅゅゅゅゅゅゅゅん!」
この時も着陸するまでも、トールは自分が神話に語られるような、世界を囲う大蛇を持ち上げることさえできるような怪力であることを忘れていた。証拠にメギンギョルズは彼女の腰に巻かれていた。そしてくしゃみによる一撃は、こんな鋼鉄の塊など簡単に動かしてしまうほどであることなど、考えもしなかったのである。




