勉強少年の逃避行 その四
パソコンの音に彼は目を覚ます。漫画にも興味は無いし参考書も読む気力はないので彼は横になっていた。起きると少女は同じことを繰り返していた。時間はわからないが、辺りは妙に静かだった。
少女の後姿は、不思議と見た記憶があるようだったが、それが受験生の背中に似ていることにすぐ彼は気がついた。変なものだった。前の景色は別に受験や就職に関係するものではないのに、まったく同じものを彼は見ていたのである。
「あ……ファァァァァァァァァ〇ク!!!」
そして画面には、また『DEAD』の文字が浮び、すぐにキャラは街の中で立ち上がった。可笑しなものだった。確かにゲームの死と同等だと考えるのは無理があるだろう。しかし、それでも自分が覚悟を決めて行おうとした死がまったく簡単に前で繰り返されているのである。そしてひょっこりと起き上がる姿は、更にそれが非常に軽いものであるとあざ笑うかのようだった。
また少女は作業を始める。その背中を彼は眺める。そして自分にとっての勉強は、少女のゲームと同じものだったのではないかと彼は思った。彼は勉強をすることで何かしらの満足を手に入れていた。ただ、それが偶然ボタンを押し間違えたかのように、今回のセンターは失敗しただけのことなのだ。確かに人生が狂ったのは確かなのだろう。だが、不思議と死のうという覚悟が消えているのに気がついた。
突然、誰かが部屋に近づいて来る音を彼は聞いた。だが少女はヘッドホンをしていて気がつく様子はなかった。小さなノックがすると、彼は返事をした。途端に鍵の掛かっていない扉は開かれた。
そこには店員ではなく、ジージャンとジーンズの半ズボンの少女が立っていた。外人だろうか、茶色の髪であり、背中にはハンマーを背負い込んでいるのが見えた。
そこまで来て少女は誰かが入って来たのに気がついたらしい。最初は何かまったく何の変哲もないものを見ているかのようだったが、すぐに目を丸くした。
「あ……ひ、ひいいいいいいいいいい!!」
そして叫び声をあげ、腰をつけたまま後ずさりした。彼女のジーンズからは黒い染みと、マットの上に湯気の立つ液体が広がったので、思わず彼は鞄を持ち上げて廊下へと非難した。
「まったく、何て様だ。悪神よ、別に俺はフレイアファンクラブに入っていないぞ」
「な、なななななららららららばばばばばばば、き、ききききききささささささままままははははは」
「落ち着け。ただ俺は貴様に母上から言伝を預かっただけだ」
「な、何だ……?」
「我が『義理の』妹のつぶやきは消されているのを確認した。危害を加えると書き込みをした小人とドワーフは既に捕まえニヴル・ヘイムに流した。安心して戻るがいい、と。それにこの件に関して危害を加えないと誓いも立てさせた。まあこの件だけらしいがな」
「……つまり、私様はもう安全なのだな」
「貴様は好き放題フレイアを『ビッチ』だの『あば〇れ』だの小人共を『CD買い集めATM』などとツイッ〇ーで呟いた件に関してはだ……そういうことだから、さっさと戻れ。母上もそれを望まれている」
「気は乗らぬが……まあ、満喫生活は金が掛かるからな……」
ジーンズを濡らしたまま、既に彼の方など見向きもしないで少女は出口を出て外の方へ歩いていってしまった。黒髪の少女の姿を見て少しだけこちらを見ていた人達も何か危険な生物から逃げるように個室へと戻っていった。
「まったく……おい、お前。百万もあれば足りるか」
「え……?」
茶髪の少女は何の躊躇いもなく、見たことも無いような札束を彼の手に出した。受け取ると彼は少し唖然としていたが、すぐに怖くなり首を振った。
「さ、三千円もあれば十分です!」
「は? なら百万あればいいんじゃないのか?」
「そ、そうですけどこんなに受け取れません!」
「よくわからんな……ならこの中から必要なだけ持っていけ」
「は、はい」
迷わず彼は一万円札を一枚だけ取り、残りを少女へと返した。少しまったくもおかしい人間を愚弄するように鼻を鳴らすと、まったく彼にお辞儀の一つせずそのまま出口へと歩き去ってしまった。
朝焼けを見るのはどれほどぶりだろうか。小学生の頃、何度か行ったラジオ体操の時に見たきりだったのかもしれない。その頃から思えば自分は勉強ばかりしていたことを思い出し彼は笑い出しそうになった。こんなに綺麗な町並みが毎日、身近にあったなんて、と。
案外漏らしたりする人が少なくないのか、クリーニング代なども無しに一人用のリクライニングシートに彼は移動した。それっきり彼女は帰ってしまったのか、現れることはなかった。寝心地の悪い椅子で一時間ほど寝ると、彼は随分と気分が楽になるのを感じた。それからナイトパックにまだ時間が残っていたが、彼は二人分の料金を払いネカフェから出ていった。
駅のホーム、ほとんど誰もいない場所で、昨日とは別のオレンジ色を彼は見ていた。これから辺りは明るくなる。確かに始まりの色だった。
不意に彼は参考書を読みたくなり、センター対策の本を開いた。それをしばらく眺めると、まだもう少しだけ、大学とか就職とか関係もなく、この『娯楽』を楽しみたいと感じた。その前に、親に謝る必要があるのだろうが……
それから彼は一年浪人した後、有名な理系大学に進学し、更に先には研究者の一人となり大学に残った。
ゲームはまったくしなかったが、不思議とゲームの話をすると喜ぶことは学生の間で少しだけ知られたことだった。
次回未定




