勉強少年の逃避行 その三
想像以上に狭い空間が彼に割り当てられた。床にはビニールみたいな黒いテカテカのマットが敷かれていて、二人が横になれる程度の長さと広さがあるが、その三分の一ほどをパソコンが支配していて、置かれている台の下に脚を通すという形式だった。部屋の隅には丁寧にも薄い毛布が畳まれていた。
店内に入ると、これまでの警戒が嘘のように少女は堂々と歩き、フリードリンクのコーラを片手に持っていた。従うように幸次も烏龍茶を持って来た。
「さて……とりあえずここならばセ〇ムも入っているし、絶対に安全だろう。だが巨人は馬鹿だから構わず入って来ることもある。貴様も警戒を怠るな」
「はあ……」
生返事となったのは、単純に年上(?)の幼女と共にこんな狭い部屋に止まることになったからだろう。足切りが確定してホームに立つまで、少しも彼はこんなことになるとは想像もしなかった。いや……そもそも彼は今存在しないはずなのだから、想像すること事態がおかしいのだろう。
持っていた鞄を下ろし、彼は烏龍茶を一口飲んだ。冷たいそれは水で薄めてあるのか、よく冷えてはいたが味が薄いように思えた。
一方の少女は迷わずにパソコンの電源をつけた。近くで見るとぼさぼさの黒い髪や淀んだ瞳が酷くくっきりと彼に見えた。もしも彼女が本当に十八歳以上の彼好みの年齢の見かけだとしたら、不気味さと嫌悪感で彼は逃げ出すほどだったのかもしれない。だが少女の幼い匂いや姿は、むしろ彼に親戚の子供を見守らなければいけないと思うような感覚を与えていた。
彼には目もくれず、少女はパソコンのディスクトップ画面が開くと一つのアイコンをクリックした。すると画面全体に何か3Dのポリゴンが映った。ポリゴンとは言ったが、そこで動く中世ヨーロッパの鎧姿の騎士や炎を吐くドラゴンの姿などは、まるで映画のCGのように綺麗で魅了されるような迫力があった。
「くそ……今日中にレベル四十の目標は無理ではないか……まったく、私様の育成計画をぶち壊しにしやがって……ってか、何であいつら私様のツ〇ッター見てんだよ……」
ブツブツと少女は文句を口にしながらマウスとキーボードを動かすと、画面の中で弓を持った兵士がトコトコと森を歩いているのが見えた。
「ファ〇クが……ああ、私様は適当に『ドラグーンワールド』やってるから、貴様も適当にやりたいことやっていろ。だが見張りは怠るな!」
「え……やりたいこと、ですか」
「しかしパソコンは却下だ。私様が使っているし、同じ部屋でなければ護衛として微妙だからな」
沈黙に彼の脳裏に再び黄昏が広がり、眩暈を覚えた。不意に見た鞄の中には、七科目のセンター対策の参考書が入っていた。この三年、ずっと彼はたった一日のことを思って来て、そればかりを読んでいた本だった。彼にとっては趣味であったし、存在する意味のようなものだった。
「漫画でも読んどけって言っているのだ! 私様のプレイを後ろから見られていたら集中できないだろうが!」
「……それ、楽しいんですか」
「どうだろうな。まあ、暇つぶしにはなる」
「勉強は、その……受験勉強はどうでしたか」
「勉強? ミズガルズではするらしいが、私様には関係ない。勉強好きの最悪な幼女と勉強させた方がいい脳筋幼女なら知っているが」
「けど、小学校とか中学で定期テストとかあったのでは」
「は? 何故私様がミズガルズの小学や中学で定期テストなど受けねばならぬのだ。私様は十八歳以上なのだぞ? Z指定のゲームだろうがピンク色のゲームだろうが自由に出来る年齢だと貴様、分かっているのか」
「けど、過去には受けたころあるのでしょ?」
「だから十八歳以上で何故受けなければならないのだ! 貴様、馬鹿にも程度というものがあると分かっているのか!」
何か話が少女と食い違っていることに彼は何か訊かれたくないことを訊いてしまったのかと思った。だから彼は質問の内容を変えることにした。
「貴方は、勉強もしないでずっとゲームをしているんですか」
「ゲームだけではない! フィギュアも集めるし、ニ〇動を見たり生放送だってしているのだ! それにアニメも漫画も見ているし、ラノベだって喜んで読んでいるのだ!」
「けど、勉強してちゃんとした大学に入らないと、そんな遊んでばかりの生活を送る資産なんて、たまらないのでは」
「貴様もよくわからない奴だ。大学に入るのと遊びが何故繋がるのだ。ってか、大学での遊びは合コンするかパチンコではないのか。ならば私様は大学など行きたくはないわ」
不思議な衝撃が彼を襲った。
前の少女の考えがおかしいことを何となく理解はしていた。
一種彼女は勉強を投げ出したような人種であるのは確かだろう。そして大学に進学することなく苦労を重ねるような人生を送るに違いない。同じような人生を彼は歩みたいとは一切思わなかったし、そうなるのが嫌でホームに飛び込もうとしたのだ。
なのに、彼は無性に少女がうらやましかった。何も知らないからではない。一種彼は勉強を崇拝し、大学に入らなければ悲惨人生を歩まなくてはならないという宗教的な脅迫観念に襲われていた。しかし目の前の少女は一切彼の信仰する勉強や大学を放棄していた。淀んだ瞳や前で行われている非生産的な行為をしたいと彼は思わなかった。だが、それでも何かが決定的に変わったように彼には思えた。
「……それ、少しだけやらせてもらってもいいですか」
「は? 何故貴様に私様のレベル上げの時間を譲らなければならないのだ」
「少しだけでいいんです。お願いします」
「……単純作業だしやらせるか……いいだろう。しかしアイテム類には一切触れるな! 装備品を捨てる真似をしようものならマジでこの私様が貴様をニヴル・ヘルに送ってやるからな!」
そういうと少女は彼にパソコンの前を譲った。
無機質なマウスとキーボードの感触は、不思議なものだった。どちらも少し湿っていた。少女の体温も残っている。少女は彼に密着するくらいに近づきながら画面を睨みつけていた。
彼はともかく指示された通りにボタンを押した。すると前で画面のキャラが前や横に歩き出していた。左クリックすると、キャラは弓を射った。簡単に教わりながら歩き出すと、前にはさっきから現れている泥だらけの豚顔の人型モンスターが棍棒を振り下ろしていた。
「何をしている! 攻撃だ攻撃! 攻撃を避けろ! 何処をみて攻撃している! 前だ、前! F4を押せ! ポーションだ、ポーション! 早くしろ、早く! いや、マジで! やばい、やばい! 違う! 3じゃねえ! その上のF4,F4! あ……あああああああああああああああああああ!!!!」
よくわからないまま彼が歩き回ると、そのままキャラはその場に倒れてしまった。そして画面には、『DEAD』と大きな文字が描かれていた。
「何てことだ! 死んだではないか! デスペナがああああああああああああああ!!!!!」
叫び声を聴きながら彼は『DEAD』の文字を眺めていた。
おかしい感触だった。
どれだけの覚悟を持って電車に飛び込もうとしていたというのに、前には適当に彼が動かしたキャラの遺体が転がっていた。簡単に彼は死んだのである。
「もういい! 貴様に任せたのが間違いだった! 早くパソコンの前から退くがいい!」
言われるままに彼が退くと、さっと少女がパソコンの前に座り画面を操作し始めた。するとむくりとキャラは起き上がったのだった。




