ニーベルンゲンの指輪物語 その十一
昼を過ぎた教授室は非常に明るかった。南窓であり、外は綺麗に晴れていたからである。
佳苗がノックして入ったとき、亀下教授はデスクの上のパソコンを眺めていた。
「ああ、二村君。とりあえずソファに座りたまえ。手にしているのも下ろしなさい」
「お言葉に甘えます」
亀下の言う通り二村はテーブルに資料を置き、腰をかけた。そこにのっそりと亀下教授は対面のソファに座った。
「この資料は実験に関することらしいね。私も最近実験をしていないから、最初に見せてもらおうか」
「いいですけど、最初にご了承頂きたい。この実験は、亀下先生の研究ではありません」
「君の研究かね」
「はい。テーマは違いますが」
待ちかねたように佳苗は実験ノートと、様々な解析データの挟まったファイルを亀下の方へと向け、そしてノートの最後のページを開いた。
「別ルートで亀下先生の研究の目的物質の合成に成功しました」
途端に亀下は驚きの表情を一瞬だけ浮かべた。
だがまた冷静になったのか、研究者に相応しいような真剣な表情をした。
「……少し、見せてもらおう」
「どうぞ。時間があるかはわかりませんが」
この一ヶ月、永遠と続けた実験のノートを亀下は見ていった。時より不可解な反応などに対して佳苗は解説までした。間違いなくその合成法は、有機化学者にとってブリージンガンメイを見るような、そんな美しさがあるようなものだった。
一時間ほどして亀下はノートを見終わった。そして一度だけ驚嘆したようなため息を吐いた。
「この一ヶ月、永遠と実験をしていたようだけど、この為だったわけだね」
「はい。恐れながら、亀下先生の合成ルートよりもこっちのほうが効率もいいし、インパクトもあるからと思い実際に合成してみました」
「一度も失敗しなかったのかね」
「はい。確信を持っていました。ですけど実際に合成することが重要ですから、少し無茶をしました。証拠はデータの通りです」
「……どうやら本当のようだね。他の文献の真似ってわけじゃないだろうね」
「この経路、マイナーな論文に載っていると思いますか」
亀下は口を噤んだ。そして眉間に皺を寄せて、そしてまったく悔しそうに言った。
「間違いなく、君は天才だ。有機合成の世界を変えるくらいの」
亀下に学問で勝った、と佳苗は思った。予言はここで終わっていたが、これこそ佳苗が求めていた言葉だった。学問に従事する以上、発想や知識の優越が存在することを亀下もわかっているはずだ。そうなったとき、自分と部下である佳苗を比べて劣っているとすれば、従わないわけにはいかないだろう。
「まだこれはスケールが小さいですから、次は大量合成をしたいのですが、いいでしょうか。そこまで終わったら発表します。当然、亀下先生の研究も学生にやらせますから……」
「つまり、学生には私の研究を続けさせて、自分は自分の経路の大量合成をする……ということかね」
「そういうことです」
「別に無理することはない。君についてる学生にもさせなさい。十分論文になるのだろうし、学生の勉強にもなるだろうから」
「結構です。学生が混ざるより、自分でやったほうが早いからです」
それは本当のことだった。何だかんだと言っても学生は普通の人で、しかも素人だった。佳苗の研究を手伝っている二人の学生にやらせるのは単純なロスでしかない。ならば、指輪を持った自分がやればいいのである。
「そうか……そうだろう。君は天才だ。一人でやったほうが早いのはわかる」
「許可してもらえますね」
「いい加減にしたまえ」
突然、凛とした老人の声が部屋に響いた、
その声が亀下教授から放たれたものだと理解するのに佳苗は少しだけ時間がかかった。そして途端に、何故か学問で圧倒し、そして全知全能である筈の自分が老人を恐ろしいと思うように、血の気が引くのを感じた。
「亀下先生、どうされたのですか。私は……」
「二村君。君は、大学を何だと思っているのかね。有機合成を何だと思っているのかね」
「当然、研究機関です。有機合成は学問です」
「それだけかね」
「他に何があるというのですか。研究と学問以上に優先されることがあるのですか」
「それよりも優先されるものは無いだろう。だが同等に教育を優先しなければならない。そして協調も君は忘れすぎている」
「しかし、協調するよりも、出来るものを一人でやったほうが……」
「一人で出来る研究なんて、この研究のどこにあった」
亀下はばんと研究ノートを乱暴にデスクの上に落とした。
「二村君。確かに君の経路は画期的だし、天才だと言っても過言ではない。しかしだよ、その試薬も実験台も研究費と学費でまかなわれている。君の資金ではなく、大学の資金なのだ。その教育を疎かにするのは、研究を疎かにするのと同じなのだよ」
「教育ということなら、その、講義をしていますから。それに、研究室の学生は、あまりにも不真面目ですから、無理にやらせるのも、時間の無駄ではないですか」
「その学生がだよ、君があまりに放置することを私に苦情を言っているのだよ」
はっとして佳苗の思考は、一瞬止まった。もしかしたら信じられないという表情を隠しきれなかったのかもしれない。
だがそれが真実である証拠のように、亀下は淡々と言葉を続けた。
「確かに今の君は一人の方が効率的かもしれない。だがね、私にしてみれば研究に学生は当然必要なのだよ。現に私は研究室で実験をしていない。だが研究を進められているのはだね、学生がいるからなのだよ。それに君の研究も一人で永遠と続けられるわけではない。仮に君が私の立場になったとき、自分だけで今のペースを維持できると思っているのかね? いや、今でさえ君は大分無理をしている。こんなことがずっと続けられると思っているのかね」
妙に張り詰めた空気が教授室を包んだ。
しかし、既に優越は決まっていたのだろう。
佳苗の脳裏には指輪を伝って様々な言い返す言葉が浮んだ。どれも亀下を十分に負かせるだろう。それに様々な自分と亀下の立場を逆転させる方法も浮んでいた。
だが、どれも佳苗を満足させるものではなかった。
どの方法を取ろうが、決して学生は考えを変えないし、亀下も自分の考えを変えることはないからだ。
「この実験を進めていて君も大分張り詰めていたのだろう。何はともあれ、実験の努力と発想力は認めているよ。だがこれ以上同じことを続けたいのなら、別の研究機関に君を紹介させてもらうよ。一人でも研究を進められるような機関をね。まずは休みたまえ。今かけている実験も致命的なものでなければ全部止めてかまわないよ。君には期待しているからね」
「……すいません。二日ほど休ませていただきます」
佳苗は立ち上がると一度お辞儀をしてそのまま教授室から出ていった。
自分の実験を指輪の力で手際よく全て停止させ、そして跡片づけを終えると、佳苗は鉛が全身を駆け巡っているような重さを感じた。
綺麗な実験台を見て、研究室全体を眺めると、もう何も考えたくなくなり、指輪の力で佳苗は、体を帰路につかせさせた。




