ニーベルンゲンの指輪物語 その九
決意を固めた佳苗は、それからひたすら実験台の前にへばりついた。これまでの1.5倍程度の実験を同時に進めた。
その間、ほとんど佳苗は家に帰らなかった。食事も大量に買い込んだカロリーメ〇トとコーヒーばかりだった。食事という行為に時間をかけたくなかったからである。
学生の質問などに答えたり実験ミスの処理をしたこともあったが、さっと済ませるとまた実験に戻った。睡眠時間はこれまでの半分以下にまで削っていた。そのような状況でもまったくミスを起こさなかったのは指輪による全知全能の効果に他ならない。朦朧とした意識の中で手と思考を佳苗は酷使したのである。
研究室の学生や亀下教授は佳苗を心配して何度か声をかけたが、佳苗はあまり聞こうとしなかった。心配されたところで佳苗は手を止めようと考えることはない。
週に一時間半の講義も、無難かつ早めに終わらせ学生の質問を避けるようにさっと研究室へと戻り、実験を再開する。
ついに体に限界が来て倒れかけたこともあったが、それさえも何とか佳苗は数秒の睡眠と大量のコーヒーで耐えてしまった。
自分のことを分からない者には、この行動の意味は分からないだろうと佳苗は思った。
だが、辿りついた先に待つのは、佳苗の想像した、天才の評価される瞬間である。
だから佳苗は自分の実験を続ける。
どれだけそれが狂気的であったとしても。
カチリとピペットとナスフラスコの音が夜の実験室に響いた。この生活がこれだけ続くと、既に佳苗はほとんど何も考えていない状態に近くなっていた。それでも知識は思考を巡らせ、手は正確に動いた。ただ廻る思考を忠実に再現するような機械になったようだった。
「……貴様、死ぬつもりか」
不意に悪神ロキの声がしたが、佳苗は少しも動揺しない。既に佳苗の精神と行動は完全に分離しているようなものだからだ。
「死ぬことはない。過労死するような未来は無い。案外こういう状態に女性の体というのは強く出来ている」
ピペットとナスフラスコを見ながら佳苗は言った。
「残念だな。ネトゲ廃人のような死に方をするものだと思っていたが、案外もつものだ」
「食事も取っているし睡眠もとっている。短期的には死ぬことはない。既に行き着く先が決まっているのだから、寿命が縮まることも恐れることはない。それにこの日々も今日までだ」
「……そうか! そうだな! 指輪のせいでこのような目にあっているのだから、さっさと返すがいい!」
「今日までだ……今日で、知性の素晴らしさの証拠が出来るのだよ……」
想像をすると、佳苗はにやりと笑った。想像すればこれほど嬉しいことはない。そしてそれは、必ず皆が認識しなければならない。
「お、お前……まるでニヴル・ヘルに落ちたバルトルのような、そんな表情をしているぞ」
「そうだ。私は既にニヴル・ヘルにいるようなものだ。それでいい……私など、呪いを受ければいいのだよ……私などは……」
「な、何か落ち込むことでもあったのか? 指輪は愛を捨てた者にしか使えないが……さ、さては世界の滅亡でも願おうとしているのか? マジでその指輪は叶えそうだから、冗談じゃ済まされないぞ!」
「ラグナロクまでの限られた時間を無為に過ごす、北欧の神々には分からんだろうな……さあ、さっさと帰れ。それとも指輪の魔力を受けてみるか?」
「ひぃ! し、しかし絶対に取り返してやるからな!」
叫びと共に消える姿を佳苗は見ていない。
だが既に誰も夜の実験室に居ないのを感じると、反応の後処理を始めた。




